2010年10月4日月曜日

母・ともゑ (20101004)


    その1期後輩には金錫源(キムソクウオン)大佐がいる。日本兵1千名を率いて当時の支那軍を蹴散らした。二人とも創氏改名などしてはいなかった。以下、Googleで検索した『朝鮮における護国の英雄の末路』より、金錫源将軍に関する全文を引用する。但し「です、ます」調を「である」調に変える。

  明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創氏改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめた。この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与された。

  戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻された。

    予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐である。

  勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結した。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうであるが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれた。

  米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのである。

    無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことであろう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのである。

  金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうである。(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)

  金錫源将軍の三人の息子のなかのお一人金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶されたそうである。(古野直也氏の証言)

    以上引用、参考「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社。「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社。

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