2010年10月9日土曜日

母・ともゑ (20101009)


    人は、自分の「役割」を自覚することができれば、その人は幸せである。傍目にその人がどのように不幸せそうに見えても、当の本人は幸せである。信輔の母・ともゑは自分が幸せであったから苦しみ耐えることができたのである。信輔の前では決して苦痛の表情を見せることはなかったのである。

    昔、武士が切腹するとき、作法に従って淡々として自らの腹を切り、人によっては介錯さえも拒んだ。切腹する前に辞世の歌を詠み、後世に遺して逝った。その武士が自らの「役割」を自覚しているからこそ、自分の人生の最期を美しく飾ることができるのである。

    昔は「形」が重んじられていた。信輔が子供の頃、毎朝顔を洗って仏様にお参りし、居間に集まっている大人たち一人一人に対面して両手をハの字に揃えて床の上について、一人ひとりの名前を言って「お早うございます」と挨拶していた。それは祖父・又四郎の家のしきたりだった。ともゑ亡き後、又四郎が信輔の精神教育を行っていた。

    このように「形」を重要視する文化が日本にはまだ残っている。それは「道」という字がつく習い事の世界にある。武道にせよ、茶道にせよ、礼節が重んじられる。そのように「形」を重んじる文化は他国にはない。日本人は今一度昔の精神文化を見直すべきときに来ている。アメリカとの戦争に敗れ、日本人はアメリカの文化に汚染されてしまった。その結果、社会でも家庭でもいろいろな歪が生じてきている。昔の良き日本の文化を見直すことが、日本の将来のために必要である。

    信輔の母・ともゑは信輔が何か言われてそれを肯定するとき「うん」と頷くと、「‘うん’ではないでしょう?‘はい’と言いなさい」とよく叱られていたものである。信輔の母も親子の間の親近感と距離感のバランスをとるのが難しかったかもしれない。今の日本の家庭では、特に母親は自分の娘を友だちのよいにしている情景をよく見かける。その一方で親による子供への虐待が増え続けている。

 

  人は、自分の「役割」を自覚することさえできれば、他人がどう言おうと本人は幸せである。生まれた時から五体不満足であっても、「世の光」となって人々に感動と喜びを与えている人がいる。肢体不自由な詩人で画家、盲目のピアニスト、スポーツ選手など世の中で活躍している人たちは大勢いる。その一方で、五体満足で何一つ不自由でもないのに罪を犯し、牢獄につながれ、死刑になる人もいる。

  お釈迦様は「業(ごう)」と六道輪廻を説いておられる。この世は「生老病死の苦」やあらゆる苦しみがある。修行して「真理」を悟り、解脱すればそれらの苦しみは無くなると説いておられる。キリスト教でも旧約聖書の『ヨブ記』には似たようなことが書かれている。善良なヨブが言いつくせぬ苦難に遭い、見かねた友人らがヨブに神を呪うことを勧めたが、ヨブは時に自分の出生や現状を恨みながらも決して神の仕業を疑わず、総ては神の思し召しであると考え、神への帰依の心を一層強くしてゆき、最後に幸せを得ている。

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