2010年10月3日日曜日

母・ともゑ (20101003)


    一臣は妻・ともゑが死んでその悲しみを忘れるため一生懸命に働いていた。その悲しみが薄らいできたころ、一臣は師範学校時代の先輩や同級生たちの奔走のお陰で教職に復帰することができた。しかし、初めから正教員としてではなく、助教諭という資格であった。一臣はその後、正教諭になることができ1級の免許も得ることができた。初めは玖珠郡の分校の校長を皮切りに幾つかの校長を務め、定年まで働くことができた。その陰には、信輔の継母となった八千代の内助の功があった。

    一臣は富久子が子宮外妊娠で死んだとき仏壇を買った。富久子は終戦時2歳で、朝鮮から引き揚げるときともゑの背に負われていて、小倉の駅のホームに降りるとき仰向けに転倒し、ホームに体ごと衝突したが幸い事故にはならなかった。20歳になって叔父・業政の世話で、叔父の家から通勤しながら東京都内の会社に勤めることができ、短い期間であったが幸せなOL生活を送ることができた。その後、叔父・幸雄の世話で福岡で瓦製造業を営む会社の社長の長男に嫁ぎ、妊娠し人生で最も幸せな時期を送っていた。その富久子が死んだので仏壇を買ったのである。

    一臣は生前自分の戒名を貰っていた。その戒名札は仏壇に納められていて、その脇にともゑの戒名札があった。一臣は寺の納骨堂に自分の納骨壇を持っていた。一臣が死んだ後、信輔は一臣の遺骨をその中に納めたが、そのときその納骨壇の中に「ともゑ」と書かれている紙包みを見つけた。開いてみるとそれは一個の石ころであった。その石ころはともゑの墓がまだ石積みと竹筒だけであった頃、一臣がそのともゑの墓から石を一個持って帰っていたものであった。ともゑの墓は一臣が白血病で入院中、信輔の要求で哲郎の墓とともにきちんとした墓石のある墓になった。一臣の納骨壇の中には哲郎と書かれている紙包みもあった。一臣は富久子が死んだとき仏壇を買ったが、ともゑと哲郎の墓は埋葬時と変わらぬ状態にしたままであったのである。一臣は信輔の継母となった八千代に遠慮していたのかもしれない。或いは、ともゑや哲郎のことは、自分の長男・信輔が何か言うまで放って置こうと考えていたのかもしれない。



    一臣もともゑも人生の一時期、戦前の教育体制下で国家に有用な人材の育成に携わった。当時は朝鮮籍も日本人であり、教育の面において日本籍であろうと朝鮮籍であろうと一切差別はなかった。朝鮮籍の女学生や小学生に対して日本人に接することと全く同じように接し、部下の朝鮮籍の教員に対しても、近所の朝鮮籍の住民に足しても決して偉ぶることなく接していた。信輔自身、当時同級生が朝鮮籍であったことを全く意識していなかった。

    それは陸軍士官学校でも同様であった。ただし、海軍兵学校では終始朝鮮籍の者の入校を認めていなかった。陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人で洪思翊(ホンサイウ)というお方がいる。彼は戦後マニラの軍事裁判で、戦争ならば起きうる部下による敵性国人の殺害という責任を負って死刑になった。

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