2010年10月8日金曜日

母・ともゑ (20101008)

 
    人は、この世に生れて来るとき、それぞれある「役割」を担って生まれてくるものである。人はその「役割」を自覚することができれば、自分の人生を最も価値あるものにすることができるものである。信輔の母・ともゑは今際の時、わが子・信輔に対し、人としての「役割」について自らの身をもって教えたのである。そのことを信輔は73にもなって初めてはっきりと認識することができた。

  一口に「役割」といても、段階に応じていろいろな役割がある。人としての「役割」、国民としての「役割」、社会人としての「役割」、職業人としての「役割」、父親または母親としての「役割」、子供としての「役割」、夫または妻としての「役割」、男性または女性としての「役割」などが考えられる。ミツバチやアリの社会では、例えば「女王蜂」「働き蜂」「兵隊アリ」のような役割があり、彼らはその役割を果たして一生を終る。

  人の集合・組織体である国家についても国家としての役割がある。日本国憲法前文には、日本国家のあり方の原則が書かれている。その一文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という箇所がある。

  アンダーラインの部分は理想である。しかし現実には中国や韓国やロシアのように、我が国固有の領土である尖閣諸島や竹島や北方四島を「自国の領土」であると公然と主張する国々に「公正と信義」があるだろうか?国家の役割の第一は我が国固有の領土・領海・領空を侵犯させないことである。そのことこそ憲法前文に書かれなければならないのではないだろうか?

  それはさておき、ここで考えるのは「人としての役割」である。人は百人百様、いろいろな運命を背負ってこの世に生を享けている。五体満足、知能・性格も優れて生れてくる者もおれば、五体不満足、知的障害、精神障害をもって生まれくる者もいる。生まれて来た後の育てられ方、家庭環境、社会環境なども千差万別である。成長過程でも大人になった後でも誰も予測できないいろいろな状況が起きる。

    信輔の母・ともゑも自分の運命を予測できず、傍から見るに堪えないような苦しみの中でこの世を去った。今際の時、信輔に「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、今度はがんが転移したこぶだらけの「背中をさすっておくれ」とは言わず、「お仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言った。線香に火をつけ、東に向かって手を合わせ、「お父さんを呼んできておくれ」と言った。

  ともゑは自分の最期のとき、わが子・信輔に自らの身をもって人の生き方と死に方を教えたのである。その時子供であった信輔には母の教えを理解することはできなかったが、強烈な印象だけを信輔に与えることはできた。33歳でこの世を去るともゑは、そのようにして「人としての役割」を果たしたのである。

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