2010年9月22日水曜日

母・ともゑ (20100922)


    話は前後するが、2学期になる前の夏休みに信輔は母親から鍛えられたことがあった。その鍛え方は、学校の校庭の隅にあった井戸端で母親がバケツに汲んだ水を信輔に浴びせ、信輔がグラウンドを走って一周し、戻って来るとまたバケツの水を浴びせ、信輔がまたグラウンドを走って一周して来るというやり方であった。それは信輔が母・ともゑから強制されて行った運動ではなく、母と子の遊びのようなものであった。信輔の母親は転校してきたわが子が、日本人の生徒が鎌田君とわが子しかいない学校で淋しくないようにと遊ばせていたのである。井戸端には大人の女性が一人いてともゑと話をしていた。

    その女性は日本人ではなかったかもしれない。信輔の記憶ではその女性は鎌田君のお母さんではなかったように思う。ある日、母・ともゑとその女性が井戸端で鶏を処理していた。信輔はその女性が騒ぎ立てる鶏を抑えて刃物で首を刎ねたら、その鶏が首のないまま1、2メートル突っ走りバタンと倒れたのを見たことがある。鶏はその晩の夕食のおかずになったに違いないが、信輔はその晩のおかずが何であったかは覚えていない。

    信輔の父・一臣は田舎の学校の校長としてまた青年訓導所の主事として、地域の状況を把握しようと考え、信輔を連れて何軒かの朝鮮人の家を訪問したことがあった。それは信輔が柳川の公立国民学校に転校する前のことであった。その日は信輔も永川の学校に通う必要がなかった休校日であった。

    家庭訪問の道で丸い小山の脇を通ったとき、その小山に穴があった。一臣は「これは狐の巣だ」と信輔に言った。山間の谷間に家が点々とあった。一臣はその中の一軒の家を訪れた。子供であった信輔は父親がその家の主人と何を話したのか、関心もなかったから覚えていない。ただ、その家で出された菓子のことを覚えている。それは白く長方形の形をしていて噛めば形が崩れ落ちるようなサクサクとした歯触りの菓子であった。米で作った菓子であったのだろう。帰路一臣は信輔に正露丸を2錠与えて呑みこませ、自分も呑んだ。

    冬に入る前、ともゑは庭に埋め込んだ壺に朝鮮漬けを仕込んだ。ともゑは朝鮮の人から朝鮮漬けの作り方を習っていて、そのとおりに漬けた。食卓には朝鮮漬けがあったに違いないが信輔は覚えていない。日常のおかずが何であったかということは全く記憶がない。

    しかし非常に印象的であったことだけは覚えている。それは小さい心に興味が深かったことだけである。例えば、ある日信輔は一臣が庭でミツバチを飼ってハチに唇を刺され、唇が腫れあがっていたことや、炭焼きをして木炭を造っていたことや、寒い冬の日に妹・富久子の足の土踏みの部分に霜焼けができて腫れていたとき、一臣は其処に針を刺して血を出して治療したことなどを覚えている。幼い富久子は痛がったに違いない。うっ血した個所に針を刺して血を出し霜焼けを治す方法を、一臣は朝鮮の人に教わって実施したに違いない。針は火に炙り、朝鮮の焼酎か何かで消毒していたことであろう。

   気候が穏やかな日、朝食は一家5人揃って官舎の脇の屋外でテーブルを囲んで食べた。ともゑは子供のおやつにするため砂糖で紅白の模様が付いた飴を作ったりしていた。それは日本が戦争に敗れる3ヶ月ほど前の、朝鮮の片田舎に住む日本人の家の暮らしの一コマであった。

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