2010年9月26日日曜日

母・ともゑ (20100926)


  ともゑは昭和13年(1936年)3月末から昭和20年(1945年)8月末までの7年間余り、後に大韓民国となる南朝鮮の慶尚北道で暮らしていた。南朝鮮に大韓民国が正式の発足したのは3年後の1948年8月15日のことである。当時南朝鮮では多くの反対を押し切って3ヶ月前の5月10日総選挙が実施され、李承晩氏を初代大統領とする大韓民国が樹立された。その萌芽は既に1919年(大正8年)、彼が上海で亡命政府・大韓民国臨時政府を設立したときに始まっている。李承晩氏は1940年その活動の拠点を重慶に移している。

  大韓民国の‘大韓’は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称、「韓」に由来している。明治28年(1895年)4月17日に山口県の赤間関市(現在の下関市)で日清戦争後の講和会議が行われた。この講話会議の結果、日清講和条約、通称下関条約(中国では馬関条約)が締結され、締結後李氏朝鮮の第26代国王・高宗(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)は清国(当時の中国)の柵封支配から離脱することができ、大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)となった。しかし大日本帝国による大韓帝国併合後、高宗は大日本帝国の王族となり、徳寿宮李太王と称されるようになった。

  李承晩が日本に反感を抱くようになった根本の原因は、日韓併合前後の諸状況の中で起きた日本と韓国との間の確執にある。李氏朝鮮時代末期の1898年(明治29年)、李承晩は李氏朝鮮の親ロシア派政権によって捕えられ、李氏朝鮮が大韓帝国になってからの1904年(明治37年)まで獄中にいた。しかし同年2月8日、日露戦争勃発により釈放された。

    日露戦争は三国干渉および北清事変後満洲を勢力圏としていたロシア帝国の朝鮮半島への南下を防ぐことを目的とした戦争であった。三国干渉とは、明治28年(1895年)の下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が明治28年(1895年)4月23日に日本に対して行った勧告のことである。

    この戦争後、当時の力関係は別として大日本帝国と大韓国帝国との間に取り交わした議定書や第1次から第3次までの協約をベースに、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が日韓の間で成立し、日本は合法的に韓国を併合している。

    日本による韓国併合の前、当時の大韓帝国の政権は日本が軍事・外交・経済総ての面で大韓帝国に浸透してゆくことに危機感を抱いた。そのため1904年(明治37年)李承晩を釈放し、アメリカに派遣し、アメリカの援助を求めようとしたのである。

    李承晩は時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出した。しかし、ルーズベルトは請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。このため李承晩は駐米韓国公使館に赴いた。

    しかしそこはすでに日本が押さえており、李承晩によるルーズベルトへの要請は失敗に終わってしまった。彼は日本が大韓帝国を併合後ハワイ滞在中、朝鮮の独立運動に携わり、上海で亡命政府を設立し、昭和20年(1945年)の日本の敗戦を契機に大韓民国を設立した。

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