2010年10月6日水曜日

母・ともゑ (20101006)


  ともゑが戦前朝鮮半島に居住していた時、ともゑにとって東の方角は皇居がある方角であり、自分の父方の先祖が出た方角でもあった。ともゑが今際の時に東の方角を礼拝したのは突然思い付いてそうしたのではなく、ともゑの過去の習慣がそうさせに違いない。

    信輔はともゑの葬式に来ていた丹生の小父さんが翌朝四方に礼拝していたのを覚えている。信輔は子供の頃母・ともゑが東方を礼拝したことを見たことはなかった。しかし、ともゑは誰にも分らぬように毎朝東の方角に向かって手を合わせていたのではないかと思う。

  須美子は「ともゑ姉は20歳前の若い時でも、とても礼儀正しく、物事をよくわきまえていた。言葉づかいがとても丁寧だった。どう言ったらよいか、とにかく普通の人ではなかった。とてもしっかりしていたよ。」と信輔に語ってくれた。信輔の父・一臣も信輔に「お前の御母さんは、何をするにも段取りがよく、無駄がなかった。」と言ったことがある。信輔が想像するに、多分母・ともゑは昔の武家の女性のようなところがあったのであろう。

  信輔が想い出すことがある。信輔は叔母たちから「お前は言葉使いがとても良かった。」と言われたことがある。そう言われたとき既に信輔の言葉使いは大分弁という方言を使っており、朝鮮から引き揚げて来た当時のようではなくなっていた。家長制度もなくなって家庭の中の秩序も崩れかけていた。信輔自身自覚が全くなかったが、信輔はいつのまにか戦前まで身につけていた品格を失ってしまっていた。

  信輔は祖父・又四郎の家にいた時、毎朝顔を洗って仏壇にお参りした後、居間の火鉢の周りに坐していた祖父らに朝の挨拶をしていた。「お爺さんおはようございます。お婆さんお早うございます。お父さんお早うございます。直叔父さんお早うございます。」と欠かさず挨拶していた。その後、座敷を箒で掃いたり、板の間や敷居や柱などを雑巾がけしたり、庭を掃いたりしていた。それは、母・ともゑが亡くなった後のことであった。祖父たちは信輔らにそのような日課を与えることによりともゑな亡き後の子どもたちの躾をしていたに違いない。大人たちは信輔ら子どもたちが仏壇にお参りする頃、皆火鉢の周りに集まり、信輔らの挨拶を受けるようにしていたのである。

  盆や正月や村のお祭りのとき、嫁ぎ先から叔母たちが挨拶に来ていた。信輔はそのときの様子を鮮明に覚えている。叔母たちは個々にやってきたのであるが、実家に来た時先ず仏さま、つまり仏壇にお参りし、その後、居間の火鉢の周りの上座に坐している祖父・又四郎と隣に座っている祖母・シズエに作法に従って両手をつき、丁寧な挨拶をしていた。

  信輔が子供時代過ごした大分の旧鶴崎地方では未だにそのような風習が残っている家がある。残っているといっても丁寧で格式ばった形ではなく、照れくさ交じりの砕けた形になっている。それでも訪問先で先ず仏壇にお参りし、それから一応両手をついて挨拶を交わす。仏壇にお参りするとき、祭壇の前に時と場合によって百円玉とか千円札を置くのがしきたりである。仏壇は古い家ならどこでも縦横1間幅の中に納められる大きなものである。信輔は、仏壇はその位のものでないとお参りしても気持ちが落ち着かない。

0 件のコメント: