2010年9月24日金曜日

母・ともゑ (20100924)


    便所の戸が開かれ誰かが外の様子を窺っていた。やがて静かになった。暫く経ってから一家も客人も家の中に戻った。信輔はその時本当に暴徒がわが家に来たと思っていた。後年その時のことを思い出して、あれは多分、暴徒に備えた訓練ではなかったかと思った。信輔は、あの時の客人は緊急避難訓練の状況を観察し、評価するための役目をもった警察官ではなかったか、それも朝鮮人ではなかったかと思っている。

    日本が戦争に負けたときの状況を信輔は全く覚えていない。覚えていないということは、日本が戦争に負けても醴泉の片田舎ではきっと普段と変わらなかったに違いなく、信輔の印象に残るようなことは起きていなかったということである。もし、信輔の父親や母親が信輔に戦争に負けたときのことを何か語っていれば、信輔はその時のことを例え一時的に忘れていても信輔の頭脳の中で再構成され、記憶としてしっかり残っている筈である。

    信輔が覚えているのは引き揚げの船の中の出来事以降のことである。あれは釜山と博多の間の連絡船であっただろう。船の中は真ん中の通路を挟んで畳敷きのような広い船室があり、乗客で混に合っていた。船はゆっくり大きくローリングしていた。信輔はその通路が誰かの嘔吐で汚れたままになっていたことを記憶している。

    その船の中であったのか、博多に着いた後のことであったのか、信輔は定かに覚えてはいないが、皆に弁当が配られたことを覚えている。弁当は赤い色がしているご飯であった。沢庵か昆布かなにかが添えられていた。赤い色はコーリャンというものであった。それが美味しかったかどうか信輔は覚えていない。多分、それは美味しくもなく、美味しくなくもなかったのであろう。つまり信輔にとってそれはコーリャン弁当という以外、特に印象はなかったのである。コーリャン弁当という言葉はその時誰からか聞いていたのであろう。

  一臣は朝鮮に残ったまま、先ずともゑ母子4人が引き揚げた。母子は博多から汽車に乗り、小倉で汽車を乗り換え別府に向かった。小倉の駅に降りるとき、一人の小父さんがいて、ともゑに「私も小倉で降ります。荷物を持って上げましょう」と言った。2歳の富久子を背負い、大きな旅行鞄を二つ抱え、9歳と7歳の男の子二人を連れて引き揚げて来たともゑにとって、その男の親切な言葉は嬉しかったに違いない。

  駅のホームには先ず信輔が降り、信直がそれに続き、ともゑが旅行鞄を一つ持って降りた。その時ともゑは後ろのめりに転倒してしまった。信輔は背中に富久子をおんぶしたまま仰向けに転倒してしまった母をなじった。その様子を後ろで見ていた男はホームに降りることなく、ともゑから預かっていた旅行鞄を持ったまま何処かに消えてしまった。ともゑはその親切そうな男に騙されてしまったのである。その上ホームで転倒し、信輔になじられ、悲しかったに違いない。ともゑは傷心のまま子供たちを連れて別府に向かった。

  別府に向かう汽車の中は混み合ってはいなかった。客車の進行方向右側の座席に、信輔は窓側、信直は通路側に座っていた。ともゑは信直の隣り、通路を挟んだ席で座っていた。向かいの席に進行方向を背にして女学生が二人座っていた。女学生たちは弁当を広げた。弁当は白いご飯のお握りだった。信輔たちはそれをじっと見つめていた。

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