2010年9月21日火曜日

母・ともゑ (20100921)


    信輔は職員室に呼ばれ、校長である父親の前に立たされ強く叱責された。何故か鎌田君は呼ばれていなかった。校長であり、柳川公立青年訓導所主事でもある信輔の父親は、建前として自分の息子が主犯であり、鎌田君は信輔に強要されたためやむを得ず従ったに過ぎないという構図を描き、主犯者に全責任があるという考え方を朝鮮人の教職員たちに示そうと考えたに違いない。その考え方を日本人の教頭・鎌田先生と予め示し合わせていたに違いない。鎌田君は家でお父さんの教頭先生からこっぴどく叱られていた筈である。

    教頭以外朝鮮人である先生方の皆の前で、父親は蠅たたきのような先の柔らかい物で信輔の頭を、「何故そのような行いをしたのか!」と言いながら一発びしりと叩き、「お前は級長だぞ、級長がそんなことをしても良いのか!」と言いながらまたばしッと叩き、「馬鹿もの!」言ってまた叩いた。信輔は初めから無言で父親である校長の為すまま、言うままにしていたが、「もう、このようなことは二度とやってはならんぞ!」と言われたとき初めて口を開き「はい」と素直に一言だけ答えた。その様子を職員室の朝鮮人の先生たちは黙って見ていた。信輔は放免された。以来、信輔は鎌田君とは遊ぶことはなく、朝鮮人の同級生たちと遊んでいた。しかし、永川の学校にいたときのような楽しいことはなく、信輔が73歳になっても懐かしく想い出す5歳年上の新井玄観のような友達はいなかった。

    校長室で叱られた日の夕方、家で校長対生徒ではなく父対子となった時、一臣は信輔に笑顔を作って「もうあんなことはもう絶対してはならんぞ」と諭した。信輔は職員室での屈辱感を思い出しながら「うん」と一言言っただけで後は何も言わなかった。ともゑも信輔の行為を許しがたいと考えていたのか、信輔は母親からもかばってもらったという記憶は全くない。もし「物事の善悪の判断の正しさ」と「屈辱感」とを天秤にかけたら、信輔にとって「屈辱感」の方が重かった。しかし、その気持ちはやがて信輔の心の深層に畳み込まれ、長年思い出すことはなかった。

    その年、昭和19年(1944年)の初冬、一臣一家は一臣の弟、つまり信輔の父方の叔父・幸雄の祝言で又四郎の家に帰った。そのときの集合写真に写っている信輔は父・一臣からも母・ともゑからも離れた端っこに独りぽつんと立って写っていて、その表情は淋しげである。子供ながら1年生の2学期の学校生活は面白くなかったのであろう。

    翌年、昭和20年(1945年)春、須美子は京城(ソウル)女子師範学校を繰り上げ卒業して教師として赴任する前に義兄・一臣と姉・ともゑの家にやって来た。須美子はそこがとても辺鄙な田舎であったことを後年信輔に語ってくれた。その時丁度春休みで信輔は2年生になろうとするときであり、信直は小学校(当時国民学校)に上がろうとするときであった。信直は4月1日生まれなので学校は信直と一級違いである。

    ある日、ともゑは妹・須美子の態度を怒って須美子を家から追い出そうとした。ともゑが須美子の旅行鞄などを庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がそれを拾って家の中に入れた。ともゑはそれをまた庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がまた拾い上げて中に入れた。

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