2010年9月23日木曜日

母・ともゑ (20100923)


    それは昭和20年(1945年)春、須美子が京城(ソウル)女子師範学校を出て大邱(テグ)の国民学校に教師として赴任する前、慶尚北道醴泉郡のど田舎にあった柳川国民学校の校長官舎に住む義兄・一臣の一家を訪れた時のことであった。校長官舎は校門に近く、校庭の隅に周囲が塀で囲われた中にあった。まだその国民学校では3学期は終わっていなかった。ともゑは3学期から音楽の代用教員を務めていた。


    3学期、その国民学校では日本人は信輔だけであった。鎌田君は父親が転勤したため日本人の生徒は信輔一人だけとなっていた。ともゑは信輔がいる1年生の教室で生徒たちにオルガンを弾きながら日本の唱歌を教えていた。須美子は姉・ともゑの教えぶりを真似ようと教室の後ろでともゑの授業をじっと観察していた。ともゑは「出た出た 月が丸い丸い まん丸い盆のような 月が・・・」という歌を教えていた。須美子はそのときの様子を信輔に語ってくれたことがある。


    須美子は「あのときね、のぶちゃんはとても上手に歌っていたよ。でも、朝鮮人の子供たちは‘盆のような’のところでどうしても上手く歌えなかった。あそこのところは子供たちにとって難しかったのね。」と言い、自分が子供たちに同じ歌を教えるときの参考にしたようである。信輔が詩吟をやっていると言ったとき、須美子は「のぶちゃんには小さい時から音楽の素質があったのよ。」と感心していた。


  須美子が柳川の田舎にいたとき、ともゑが何かのことで須美子に腹を立て、「大邱に帰りなさい!」と須美子の追い出しにかかったが、信輔と信直は須美子の側に立って母・ともゑに反抗していた。結局ともゑが須美子の旅行鞄を庭に投げ戻さなくなったことにより、その騒ぎは収まった。数日後須美子は大邱の自分の宿舎に戻り、新学期から教壇に立った。信輔は2年生になり、信直は柳川国民学校の1年生になった。その学校の日本人の先生は信輔たちの両親だけとなっていた。ともゑは音楽を教える臨時の代用教員であった。


  日本の敗戦の色が濃くなり、世情は不安定になってきつつあった。その時期その片田舎の国民学校でも空襲に備えた避難訓練などが行われていた。その国民学校の校長であり、その地域の青年訓導所の主事でもあった一臣は、日本人は自分たち一家しか住んでいない慶尚北道醴泉郡柳川邑の片田舎で日本の国の方針を一身に背負って頑張っていた。


  その頃一臣は警察からかピストルを一丁渡されていた。何事にも興味津津な性格がある信輔は食卓の上に無造作に置かれていたそのピストルを手にし、引き金に指をかけたことがあった。そのとき実弾は入っていなかったかどうかは分からないが、父親・一臣は血相を変えて信輔を叱りつけた。


    そのような時期、ある日の夜一人の日本人の来客があった。一臣とその客人は町で暴動が起きているという話をしていた。突然何か不穏な状況が起きた。その一臣一家はその客人の手助けで便所の側から塀の外に逃れた。最後に客人が塀によじ登り終わった時、突然家の中に人が入って来て怒声と物音がした。その客人は塀の上に這いつくばったまま息を殺していた。塀の外の一臣達も息を潜めてじっとしていた。

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