2010年10月2日土曜日

母・ともゑ (20101002)


    刺身のお茶づけは醤油、ごま、みりん、お酒、ネギなどで作る。味がしみとおった刺身を白米の暖かいご飯の上に載せ、刺身を浸けた汁も少しかけてその上に熱いお茶をたっぷりかける。そしてやや時間をおいてから食べる。

    信輔は妻・幸代がそのような茶づけを作ってくるたびに、自分が子供のころ入院中の母・ともゑが作ってくれたお茶づけのことを想い出す。当時、白米のご飯をそのようにして食べることは贅沢中の贅沢であり、入院中の母がそれを作って食べさせてくれたことは特別なことであったが、子供であった信輔には、母・ともゑが自分は食べずに信輔たちに食べさせてくれたということや、それが一度きりであったということしか覚えていない。

    白米はシズエが普段自分は食べないのに夫、つまり信輔の祖父・又四郎の目を盗んでわざわざ息子・一臣に持たせてやったものであった。当時、まだ家長制度が残っていて、食事のとき家長である又四郎だけが別の御ひつで白米のご飯を食べ、シズエ以下家族は全員麦ごはんであった。食事中一切私語は禁止で、皆黙々と食べていた。長男であり、教師として朝鮮にも渡り外の空気を吸っていた一臣は、内心そのような風習を嫌っていたに違いないが、師範学校を出て以来実家を飛び出し、日本が戦争に負けてやむなく父・又四郎の家に厄介になっている身であるので、それは仕方ないことであると思っていたに違いない。食卓では正面の又四郎の右隣に座し、左隣にシズエが座し、一臣とシズエは向かい合うかたちであった。信輔らは家族の末席に序列に従い座していた。

    一臣は教師の職に復帰することは諦めかけていた。当時の教員採用の年齢基準は35歳以下であったから、すでに37歳になっていた一臣には日本の敗戦による特殊な状況であったとはいえ、教師への復帰は不可能に近かった。一臣は、父・又四郎の家にいても、それまで長男として実家にいて父・又四郎に手伝っていたわけでもなかったので、家督は末弟・直紀に継がせる腹であった。一臣は妻・ともゑを失った後、遺された3人の子どもたち、つまり信輔と信直と富久子を養うため、全く不慣れな保険の営業の仕事に就いた。

    中古の自転車を手に入れ、さつま芋を煮てつぶしたものを詰め込んだ弁当を手にして、知人・友人・親戚の家や見ず知らずの家に飛び込んで必死に営業活動をした。しかし、所詮は武士の商法、多少の顧客は取れても頭打ちとなり、ついには自ら顧客の肩代わりをして借金を重ねてしまった。

    それを補てんするため、一臣は実家の倉庫の裏に豚小屋を造り豚を飼っていた。豚を飼うにも餌が必要である。豚を太らせるだけの餌を確保することは大変なことであったに違いない。一臣はある日その豚の餌にするため、たまたま鶏小屋の上の軒下にいて卵を狙っていた‘家主’と呼ばれる大きな青大将を見つけてそれを捕え、なたで輪切りにして与えたこともあった。

    当時ヘビはどこにもいた。田圃に水を引く水路にはカラス蛇という赤い斑点があるヘビをよく見かけたものである。山にはマムシもいたが、人々はそれを捕えて皮を剥ぎ、日干しにして貴重な栄養源にしていた。信輔もマムシの骨を焼いて食べたことがある。

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