2010年9月29日水曜日

母・ともゑ (20100929)


    そのような確固たる考え方もなく、日本人はA級戦犯として処刑された人たちを、その処刑された人たちによって戦地に送られ命を失った人たちと同じ処遇で靖国神社に祀ってしまった。その結果、未だに日本人はアジア、特に中国や朝鮮半島の人たちから誤解され続けている。「すまなかった」と頭を下げ続けている。

    戦前の日本に反感を持つようなことがあったため、反日的になった韓国の初代大統領・李承晩は第4代国王となった世宗の兄・譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君は李氏朝鮮の第3代国王・太宗((1397年-1450年)の長男である。この太宗は初代国王李成桂の五男で本名を李芳遠(イ・バンウォン)という。初代国王李成桂は女真族であったという。

  女真族は満州族と言われる種族で中国の清王朝を建てた。その女真族は寛仁3年(1019年)3月27日、船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島民を殺害し放火をして暴れまわっている。国司・対馬守遠晴は島から脱出し大宰府に逃れた。

  女真族の賊徒は對馬に続いて壱岐を襲撃し、老人や子供を殺害したうえ壮年の男女を船にさらい、人家を焼きはらい牛馬など家畜を食い荒らした。知らせを聞いた国司の壱岐守・藤原理忠はただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向ったが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまった。

  賊徒はその後筑前国(現在の福岡県)怡土郡に襲来し、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を散々荒らし回った。これに対して大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。

  この事件は、蒙古人の元(当時の中国)が、自ら支配していた朝鮮半島で船を造らせ、鋼線半島の人々を兵士として雇い、北九州に来襲した事件の250年ほど前の事件である。当時女真族の国は「刀伊」と呼ばれ、その事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。

  日本と中国大陸・朝鮮半島の間には古来ずっと緊張関係が続いて来ているのである。そのことを東京裁判の結果魂を抜かれた日本人は忘れてしまっている。鳩山元総理や小沢元幹事長などは、そのような歴史観もなかったため、この日本国を今危うい状況に陥れてしまっている。彼らは今この危機のとき、国の為何か一つだに役に立とうとはしていない。



    戦前戦後を通じた諸状況の推移のなか、「朝鮮」という語は韓国の人たちにとっては日韓併合を許した李氏朝鮮を想起させるものとして好まれない語となっている。1948年(昭和23年)、李承晩大統領による大韓民国樹立後は、「朝鮮人」は「韓国人」と呼ばれるようになった。従いこの書では今後「韓国」という語を用いる。

    須美子が語ってくれたことによると、須美子は日本の敗戦直後は韓国人の同僚たちから暖かい心で接して貰っていたということである。しかし帰国に際し釜山で船を待っている間の2週間、須美子ら引き揚げ者は集団でテント暮らしをしていたということである。

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