2010年9月25日土曜日

母・ともゑ (20100925)


  女学生たちが持っているお握りはそれぞれ2個づつであった。女学生たちはお握りを食べ始めた。そのときちらっと信輔の様子を見た女学生の一人が、お握りを1個信輔に分け与えてくれた。するともう一人の女学生が1個信直に与えてくれた。信輔たちは頭を下げ、女学生たちに顔を向けて丁寧な言葉で「有難うございます」と礼を言った。女学生たちはにこっと微笑んだ。その様子を傍で見ていたともゑは、「御親切に、有難うございます」と礼を言い、信輔たちに「よかったね。このご親切を決して忘れないようにね」と言った。信輔たちは頂いたお握りを両手で持ち、母親の顔を見ながら「うん」と頷いた。

  信輔たちは美味しそうにお握りを食べていた。ともゑはその様子をじっと見ていた。先ほどまで憂鬱であった気持ちも晴れて、手提げ鞄の中からビスケットを取り出し、富久子に与えながら自分も口にした。

  汽車は別府に到着した。ともゑ母子は別府にある借家に向かった。その借家は前々から確保されていたもので、昨年、昭和19年の初冬、幸雄の祝言の時帰ってきたときにも使っていた家である。一臣は大分師範学校を出て以降、長男の身でありながら実家に帰った時でもそこに泊ることは数回しかなかった。ともゑと結婚した後も実家から離れて暮らしていた。そのため何処に居ても別府に自分たちの家が必要であったのである。

  一臣は日本の敗戦前、慶尚北道公立国民学校長を兼ね、柳川国民学校長の補せられ柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託されていた身であったので、直ぐ引き揚げて帰国するわけには行かなかった。一臣の帰国は9月末のことであった。

  ちなみに、昭和20年(1945年)、日本の敗戦直前の8月8日 、ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻している。8月15日、大日本帝国による朝鮮半島の統治は終了し、北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することになった。

    同年、1945年9月8日、アメリカ軍第24軍団第一陣が仁川に上陸し、翌9日、日本の朝鮮総督府が降伏文書に調印している。それまで一臣はアメリカ軍政下、学校の業務などを朝鮮側に引き継ぐ仕事が残っていたのである。

  同年9月11日、アメリカは在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布している。アメリカ陸軍司令部軍政庁は10月に朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も承認を拒否している。その後、北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立された。同年12月には、モスクワで朝鮮半島の信託統治について話し合うためアメリカ、ソ連、イギリスによる三者会談が行われた。南朝鮮はアメリカと統治下に置かれた。

    その翌年、昭和21年(1946年)10月1日に慶尚北道の大邱(テグ)でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺した事件が起きた。これに端を発して、南朝鮮全土で230万人が蜂起し、136名が犠牲となっている。日本の敗戦直後はまだ左程混乱はなかったが、その後時を経るにつれて朝鮮半島は戦乱の渦に巻き込まれることになったのである。

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