2010年9月30日木曜日

母・ともゑ (20100930)


  日本が戦争に敗れた時から、朝鮮にいた日本人と韓国人の立場が変わった。朝鮮にいた日本人の教師たちはそれぞれ朝鮮での勤務履歴を証明する書類を貰い、日本に引き揚げた。信輔の父・一臣は9月末、帆船で引き揚げてきた。引き揚げの船を待つ間、引き揚げ者達は須美子が語ってくれたように、釜山に造られたテントによる臨時の収容施設で暮らしていたのであろう。信輔は父・一臣から帆船で引き揚げてきたということ以外、何も聞いていない。しかし当時36歳であった一臣は、他に引き揚げ者が多かったので汽船には乗ることはできなかったらしい。元気な者は帆船などで引き揚げてきたのだと想像する。

  信輔は息子が韓国に事務所がある会社に勤めていたとき、妻・幸代とともに韓国旅行をしたことがある。そのとき、信輔は終戦前まで住んでいた醴泉に行き、当時の醴泉国民学校を訪れてみたいと思った。信輔と幸代は息子が韓国人の同僚と一緒に案内してくれて醴泉まで行くことができた。しかしその時当時の国民学校が何処にあったのかよく調べていなかったし、柳川という名前が付いている小学校であるということも事前に調べてもいなかったので、当時の柳川国民学校を見つけることはできなかった。しかしそれらしい小学校を見つけることはできた。それは当時の柳川国民学校に良く似ていた。その小学校は門を入って左側に住宅があり、校庭の左手に台地があった。台地には果樹は植えられてなかったが、小さな樹が並んで植えられていた。右側は山地であった。住宅は日本風の建物ではなかった。何か倉庫のような形をしていた。

    その小学校ではたまたまその日は休日であったに関わらず何か催し物の準備が行われていて、校長先生も教頭先生もおられた。信輔たちはその小学校の戦前の古い写真集を見ることができた。集合写真の中央にいる人は日本人の校長であるに違いない。写っている子供たちも戦前の日本の子どもたちと全く変わらない。坊主頭で皆しっかりした引き締まった顔つきをしている。韓国人先生方も含まれていたに違いないが、皆同様の顔つきである。

    校長室に案内されて、校長が歴代の校長の名前が書かれている掲示板を示してくれた。それは校長室の壁に掲げられていた。歴代校長は昭和20年9月まで、伊地知某などの日本人の名前が書かれていた。10月からはハングル文字の名前が書かれていた。日本人の名前の中に信輔の父の名前はなかった。旧柳川国民学校はもうなくなっているのかもしれない。

    終戦後9月まで、信輔の父親もその学校に残っていたのかどうかは今となっては確かめようもない。いずれにせよ、信輔の父・一臣は終戦後すぐには引き揚げることができなくて、9月末になって引き揚げてきているのである。

 

  戦後、小学校の教員の給与は米1升分程度だったらしい。一臣は父親、つまり信輔の祖父・又四郎の家に居候していた。妻、つまり信輔の母・ともゑが乳がんを患ったこともあったし、すぐには教職に復帰することもできなかったのであろう、一臣は又四郎に対して肩身の狭い思いをしながら実家の農業を手伝ったり飼っていた牛の世話をしたりしていた。

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