2010年10月1日金曜日

母・ともゑ (20101001)


 それは母・ともゑが別府の病院に入院する前の頃のことであった。信輔と信直は一臣に連れられて空襲で焼け野原になっていた大分の町を歩いたことがあった。街角で傷痍軍人が白い服を着て杖をついて、道行く人々に憐みを乞うていた。

  その時・36歳の一臣はともゑの入院費を工面するため、師範学校時代の級友や知人などを訪ね歩いていた。幾ばくかの金は工面できたのであろう。やがてともゑは別府の病院に入院することができた。すでにがんは進行していて手遅れの状況であった。それでもともゑはがんの摘出手術に僅かの希望をつないでいた。

  ともゑの弟・業政はソ連に抑留されていた。ともゑの妹・須美子は亡くなった母、つまり信輔の母方の祖母・まさの姉、それも既に他界してしまっている縁戚や知人の家を転々としながら教師に復職する道を探っていた。ともゑも須美子も業政がいない状況では親身になって頼れるような親族は何処にもなかった。

  ともゑが別府の内田病院に入院している間、須美子は度々その病院を訪ねてきてはともゑの身の回りの世話をしていた。須美子はその病院までは山越えをして、2時間半もの長い時間をかけて歩いて来ていた。それは須美子がまだ若かったからできたことである。須美子は姉・ともゑの、身の回りの世話をしながら、自ら教師の職探しに奔走していた。

  ともゑの乳がんは両乳房に発生していた。既に手遅れであったがともゑは片方づつがんの摘出手術を受けた。ともゑは手術後の手当てを受けるため、病室から治療室に通っていた。その時ともゑは眉にしわを寄せて胸を手で押さえながら病室に戻っていた。

    信輔の記憶ではそれはともゑががんの手術を受けて、麻酔が切れたあと自力で病死に戻っていたように思っていたが、今考えてみるとそれは無理なことで、ともゑが胸を押さえながら戻って来たのは術後の手当てのためであったに違いない。信輔はともゑがある時は左の胸を、次には右の胸を押さえながら病室に戻っていたことだけは鮮明に記憶している。

    信輔はともゑのがんの白い塊を見たことを覚えている。それは大きな塊であった。ある日、父親・一臣は信輔を連れて院長室に行ったことがあった。その時一臣は母、つまり信輔の祖母・シズエが又四郎の目を盗んで一臣に渡した野菜を抱えていた。一臣はともゑの入院費の支払いにも困っていたに違いない。院長にその野菜を渡しながら何やら言い訳のようなことを話していた。

    しばらくして院長室を出て中庭に面した廊下を行くとき、中庭の池に亀が白い塊のようなものに食いついているのを見た。信輔はそれが母・ともゑの乳房から摘出したものであったに違いないと思っていた。

    ある日ともゑは誰かに依頼して買って来て貰ったに違いない魚の刺身をお茶漬けにして信輔と信直に食べさせてくれたことがあった。それは一度きりだった。ともゑは自分の命がもう長くないことを悟り、せめて二人の息子たちに母の手作りの美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いない。白い暖かいご飯の上にその茶漬けを載せ、熱いお茶をかけてくれたものは、信輔が73歳になった今ても鮮明に思い出すことである。

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