2010年10月20日水曜日

尖閣諸島問題に関する日本共産党の見解(20101020)


   日本共産党は、先週月曜日(2010年10月4日)に、インターネットで『尖閣諸島問題 日本の領有は歴史的にも国際法上も正当――日本政府は堂々とその大義を主張すべき――』という見解を発表している。

  老人はこれを読んで大変嬉しくなった。老人はかつて日本共産党は嫌いであった。老人は近年の日本共産党の政治姿勢には、他の政党に見られない一貫性があると評価している。もし将来同党が政権与党となった場合には、必ず正規の国軍を創設するだろう。ただし天皇制は廃止の方向だろうと思う。しかしそれは困る。

    しかし、もし同党が尖閣諸島はもとより、北方四島、竹島も我が国固有の領土であるとして、領土・領海・領空法など法律を定めて世界に向けてアッピールし、万世一系の男系の皇統を維持し、憲法を改正して国軍を創設し、日本の伝統や文化を守り、科学・技術の一層の向上を図り、国の富を増やす姿勢であるならば、同党は既存のどの政党よりも今の日本にとって最も期待される政党となることであろう。

    外務省はホームページで中国語でも尖閣諸島のことを説明しているが、まだまだ弱い。かつてのように軍人が政府の中枢にいない我が国の官僚たちは‘ふにゃふにゃ’腰、腰ぬけである。今からでも遅くは無い。政治家や中央官庁の官僚たちは、外交の手段としての軍事力の重要性について猛勉強して貰いたいと老人は願う。日本人は、東京裁判で毒された精神、自虐史観の精神から立ち直るべき時が来ている。

    岡田大臣は「日中両国ともこの問題には冷静に対処しなければならぬ」と言っている。しかし冷静ではないのは中国政府の方である。孫子の兵法に「遠交近攻」というのがある。日本の外務省は遅きに失しているがようやく世界に向けて尖閣諸島問題について積極的に説明を始めた。正しいことは遠くの国々に良く説明するがよい。日本人は平和ボケから目ざめて国土防衛に必要な最低限の軍事力を整備すべきである。

    国の軍事力は、個人に置き換えて考えれば日本刀とそれを腰に刺した武士のようなものである。その武士の鋭い眼光と鍛え抜かれた体つきと、磨きに磨きをかけた刀使いの技と、物おじせぬ物言いと、肝が据わった態度と、知性と徳性と高い教養と、自制心と、仁愛の精神と、事に臨んでは最愛の者すら顧みることなく己の役割を遂行する冷徹さなどである。

    18日(月)参議院決算委員会で丸山和也議員が仙石官房長官と予め示し合わせていたようなやりとりを行っていた。丸山議員は西郷南洲遺訓の第17項にある「正道を踏み国を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん」をボードに提示し、中国に対する政府の対応を批判していた。自民党政権は中国に向き合う政府の対応よりも専ら経済活動の振興に力を入れ、防衛予算を年々減らしてきた。

    軍隊(自衛隊)の経験者がいない政府は軍事力に対するアレルギーをもっている。一方の中国の政府は9割も軍隊経験者や軍人で占めている。日本人よ、目を覚ませ!

2010年10月19日火曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101019)


   秀吉がフィリッピン総督に送った書状は「今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・」というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。


  前掲の本には秀吉のことを英雄と呼び、日本の戦後の歴史観、自虐的歴史観が間違っていると書いてある。男はこれまで秀吉のことをここまで詳しくは知らなかった。信長や秀吉や家康はそれぞれの時代でわが日本国、万世一系、男系の皇統がある世界に稀な国・日本を守って来たからこそ、今日の日本があるのである。

  ナチスドイツ指導者並みの罪を着せられて処刑された東条首相は「戦争に負けたが戦争の目的を達成した」偉人として認められなければならない、と男は思う。ただ、彼ら指導者には何百万人もの同胞や数多くの東亜の人々を戦争で死なせたという責任はある。

    東京裁判に臨んだ東條首相のメモに「東亜ノ安定ヲ確保シ、世界平和ニ寄与スルコトハ自存自衛ヲ確保セントスルコト」「今日迄ノ帝国ノ大東亜地域大東亜諸民族ヲ理導(道)セル処置ハ之皆此ノ道義ニ依ル行為ニ外ナラズ、而シテ例ヘ戦局ノ波爛ニ依リ其ノ植エツケタル種ハ百年千年ノ後ニ必ズヤ此ノ正道ハ将来ニ芽(苗)ヲ出ス機会ヲ生ズヘク帝国ノ大東亜諸民族ニ及ボセル大徳ノ発スル時アルヘシ」というものがある。

    東條首相はアメリカとの戦争は何としてでも避けたかった。しかしアメリカのルーズベルト大統領は日米交渉を行いながらも一方で日本の海外資産の凍結や石油禁輸などを行って日本を窮地に追いやった。

    東條首相は開戦の責任を一身に負い、キーナン検事が「戦争を行わなければならないというのは、裕仁(ひろひと)天皇のご意思でしたか」という質問に対して、「天皇陛下は最後の一瞬にいたるまで平和へのご希望を持っておられました。12月8日の開戦の詔書に陛下のご希望によって、開戦は【朕(ちん)の意思にあらざるなり】というお言葉が入れられました」と答えている。(講談社『東条英機 天皇を守り通した男』福富健一著より引用)

    大東亜の解放戦争に敗れた日本は、結果的に19世紀に欧米やロシアが蹂躙しようとしていた中国や朝鮮を彼らの野望から守り、20世紀に欧米が植民地にしていたアジア諸国を解放したのである。日本は決して侵略国ではなかった。東京裁判において欧米・ソ連・中国によって日本は侵略国家とされてしまったのである。日本は戦争に負け、「力は正義なり」という論理によって侵略国家とされ、国民は洗脳されてしまったのである。

    日本は戦争に敗れはしたが、戦争の目的は達成した。その戦いで国の為尊い命を捧げた英霊たち(男の叔母の夫もその一人)は靖国神社に祀られている。この英霊たちに報いるため、今後日本国民が為すべきことは、皇統を守り、領土・領海・領空を守り、伝統・文化を守り、武力を持ち、科学・技術力を高め、国の富を高めることである。

2010年10月18日月曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101018)


  14日、男は48年間連れ添った女房と一緒に参議院予算委員会の様子をテレビで観た。女房は放送大学を2回卒業していて、それぞれ学位記を取っている。しかも今もなお別の専攻で勉強している。福祉や教育関係はもとより、社会や政治問題にも関心が深い。今日は自民党の山本一太議員が質問するというのでその状況を観るのを楽しみにしていたのである。山本議員は菅総理や官邸の危機管理意識について追及していた。

  中国の漁船による尖閣諸島問題が起きていた矢先にベルギーで開かれたASEMの最終日の行事が終わり会場を出たとき‘たまたま廊下で顔を合わせた’という温家宝中国首相と菅総理が、廊下にあったソファーに座って‘口をきいた’ということについて、山本議員は菅総理や仙石官房長官に鋭く迫っていた。ASEMとは、ASEAN10か国に、日・中・韓・インド・モンゴル・パキスタンとASEAN事務局及びEU27か国と欧州委員会が参加するアジア欧州会合(ASEM)のことである。

  中国側はそのときの‘口利き’談義を‘会談’と言わず、‘交談’とし、しかも、温家宝首相は「钓鱼岛是中国固有领土」と言ったと報道した。中国の言う钓鱼岛は尖閣諸島のことである。彼らはその辺りに石油資源が埋蔵されていることを知り、1970年からそこを自国の領土であると公然と主張し始めたのである。

    中国の実務官僚は元軍人が多いと言う。もともと愛国心の強い人たちである。彼らは軍という組織体が持っている一貫不変の戦略的原則のもと、日本側の憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し云々」など無視して、「相手が弱い」と観れば「愛国的」に国際社会に向かって公然と紛争を仕掛けてくるのである。

    温家宝首相は英語通訳のほか日本語通訳も同行していた。それに対して菅総理は英語通訳しか同行させていなかった。我が国の官僚は軍隊経験(自衛隊経験)が全くない連中ばかりである。危機管理がまったくできていない。老人はこのことを嘆き続けている。

    戦国時代を経て誕生した豊臣政権は、秀吉自らも含めて当時の‘軍人’たちが政権の中枢にいた。秀吉はスペインの謀略を直ちに見抜き迅速に対処した。それはスペインがシナを征服することになれば、そのシナの柵封下にある朝鮮も征服される。ならば、自ら朝鮮を征服し、この日本を守ろうと考えたのである。(以下、前掲の本から引用)

    コエリョは1585年3月3日付のフィリピン・イエズス会布教長宛て手紙で「もしも国王陛下の援助で日本66ヵ国全てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層容易にシナを征服することができるであろう」と書いている。 

    秀吉はコエリョが秀吉に明(当時のシナ(今の中国)の王朝の国)への軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日、コエリョに対して逆に自らの明征服計画を披歴し、ポルトガルの軍艦2隻を所望した。当時、ポルトガルはスペインの支配下にあった。

    秀吉は朝鮮出兵前年の天正19年(1591年)、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて、コエリョを恫喝している。

2010年10月17日日曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101017)


  男は韓国のソウルに観光旅行したことがある。その時の現地ツアーガイドは沈(シム)さんという女性であった。彼女は自分の先祖が宮廷の女官であったという。その彼女が語ってくれたことには、韓国で一番嫌われている日本人は豊臣秀吉と伊藤博文であると言う。いずれも韓国人から見れば自国を蹂躙した日本人の頭目である。

  一方、われわれ日本人から見れば、日本がスペインやロシアから蹂躙されない予防策として、秀吉は朝鮮に出兵し、伊藤博文は大韓帝国を当時の万国公法(国際法)に基づき、条約を以って合法的に併合したものである。結果的に見れば、朝鮮半島は朝鮮民族だけのものとして守られてきた。スペインやロシアに蹂躙されることはなかった。

  男が読んでいる本『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。その本には日本の神代の歴史に似た檀君神話のことも書かれている。日本の皇統は万世一系で保たれてきたが檀君の子孫は途絶えた。朝鮮半島はシナ(明や清王朝)の柵封体制下にあり、中華思想の中、自ら小中華と称していた。その本には朝鮮半島の近代史について男がこれまで学んでいなかったことが書かれている。以下、秀吉の朝鮮出兵の経緯に関することをその本から部分的に引用して記述する。

  天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

  秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

  秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583年6月18日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

  当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。(続く)

2010年10月16日土曜日

負けるが勝ち(20101016)


  老人は「‘教えざる’ことは卑怯である」と常々思っている。ジャスコという大型小売店の脇の道を歩いているとき二人の警察官に出会った。一人の若い警察官が帽子をあみだに被っているのが気になった。それを見ながら通り過ぎてしばらく歩いたがそのことが気になった。引き返したらもう一台のパトカーがやって来て警察官4人で何やらしゃべりながら川の土手の方に向かって歩いて行っている。老人は近づいて後ろから「何かあったのですか?」と聞いた。すると帽子をあみだに被っている若い警察官が「お婆ちゃんが迷子になったのです」と言う。老人は「事件でもないのに4人も集まってきて・・、暇なんだろうな」と思いながら「ああそうですか」と言った。そしてその警察官の肩をそっと叩いて「帽子はきちんと被って」と言った。その若い警察官は照れ笑いしながら「すみません」と言って帽子を被り直した。老人はすがすがしい気分になった。

  昨日書店で『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)上・下巻2冊を買った。合計4000円だった。その本の裏表紙に「[オランダ]アムステルダム市長の挨拶」という記事が二見ヶ浦の夫婦岩の向こうから朝日が昇っている写真の下に書かれている。その写真のタイトルは「光は東方より」である。

  その挨拶は平成3年、日本傷痍軍人会代表団が、首都アムステルダム市長(サンティン氏)主催の親善パーティに招待された時のものである。その中に「あなた方日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。 (途中略)今、オランダは日本の九州と同じ広さの本国だけとなりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。 (途中略)本当は、私ども白人が悪いのです。100年も300年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。 (途中略)本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の開放は実現しました。(途中略)日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。

  老人は生れて初めて心の眼が覚めた。この本を読むうちに秀吉が何故朝鮮に出兵したのか分かった。キリシタン弾圧が何故起きたのか分かった。秀吉はポルトガル人が日本人を奴隷(ニグロ)の奴隷にしようとしていた事態に対処したのである。西欧人はキリスト教布教を表に出して裏で東亜の人民を次々支配下に置いて行った。しかし日本の指導者は断じてそれを許さなかった。秀吉の朝鮮出兵の目的はスペインの明(当時の中国)征服計画の阻止にあったのである。

  日本は戦争に敗れたが、結果的に戦争の目的を達成し、今やアジア諸国や欧米諸国から畏敬される国となっている。これは靖国神社に祀られている英霊のお陰である。(合掌)

2010年10月15日金曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101015)

  そのような家に八千代は独りで暮らし、介護を受けながら家を守っている。信輔は八千代の介護のため頻繁に帰郷し、そのたびに一臣が生きたこの風光明媚な土地でピースフルな気持ちになることができている。‘ピースフル(peaceful)’は日本語では完全に表現できないような「穏やかな、平和的な、人々が和やかな、田園的な」イメージである。信輔の友人であるスエーデン系アメリカ人の女性が良く使っていた言葉である。信輔はこの土地から離れることができない継母を大事にして上げなければならないと思っている。

    その母も近頃物忘れがひどくなってきている。信輔は母が汚した衣類を洗濯機に入れる前に粗洗いするため、たらいとゴム手袋を用意した。自分が訪問介護ヘルパーのように他人として一人の老いた女性を介護するという気持ちなると、どんなことでもやれるとう自信と気概を持つことができる。

    信輔自身、会社定年後暫くボランティア団体に所属していた縁で、ホームヘルプサービスを提供しているある女性ばかりの団体に関わるようになり、その団体をNPO法人化し、7年間自ら理事長をし、その間2級ホームヘルパーの資格も得ている。その間実際にホームヘルプ活動をしたことがあるが、そのときの相手は男性であった。今度は自分の継母である。継母も信輔を非常に頼りに思っている。これは信輔の人生の「役割」の一つである。

    この仕事が「役割」であると思うと信輔は何の苦労も感じない。むしろときどき竹馬の友に会ったり、先祖の祭祀のことを考え、準備することが出来たりして楽しいことである。信輔は先祖以下祖父母の墓と父・一臣や生母・ともゑの墓が別々の場所にある状況を自分の代で解決し、信輔の子孫や一族が同じ場所で先祖の祭祀を行うことができるようにしなければならないと考えている。

    信輔のように家系や先祖の祭祀を大事に考える者は近年そう多くはないであろう。まして女性はそのことに余り関心をもたないだろう。昔、女性は‘女’へんに‘家’と書いて嫁と言うように、女性は家を出たら他家に従属する存在であった。今時の女性は男女別姓に賛成する者も少なくない。しかし‘家’は古来日本人にとって大変重要な文化的シンボルである。日本が英米等との戦争に負けた結果、そのような‘家’の秩序を軽んじるようになってしまった。その結果、昨今いろいろな社会問題が生じている。

    天皇家は日本人にとって各家の宗家のような存在である。ともゑが今際の時「東を向けておくれ」と言ったのは意味があった。ともゑは信輔に‘家’の秩序を身を以って示したのである。ともゑには戦争に負けた日本の今日の姿を見とおせたのかもしれない。

    八千代は一臣を支え、自ら育てることは出来なかったが自分の娘・幸代により一臣の孫、つまり信輔の息子たちをわが‘家’にもたらし、わが‘家’に貢献した。そして91歳になり、そう遠くない日に自分の人生を終えようとしている。73歳にもなったとは言え長男である信輔は継母・八千代を良く看なければならないという責任と義務がある。地縁血縁が濃い田舎の地域社会で果たさなければならない義理が、長男・信輔にはあるのである。

2010年10月14日木曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101014)


  八千代が散歩のとき会ったもう一人は、八千代の夫、つまり信輔の父・一臣が就職の世話をした女性だった。

  一臣は定年で校長を辞めた後、中学校を卒業した子供たちを愛知県内のある紡績会社に就職させる世話をしていた。当時田舎の中学校を卒業したばかりの子供たちを都会地の工場に送り込み、自立させるのは大変なことであった。しかし一臣は自分の経験を活かして子供たちに働きながら高等学校に通うことができるようにしてあげたいと考えた。それは一臣が定年後暫くの間、日田林業高校で数学の講師をしていたときに思いついたことであった。一臣の教員免許の教科は「数学」と「理科」であった。

    一臣はその紡績会社が一臣の希望に叶うものであるという確証を得、その会社の現地採用係のような仕事を請け負って玖珠郡内の中学校を回り、就職を希望する子どもたちと面接し、一臣の眼に叶う者を採用して愛知のその会社に送り込んでいた。子供たちは青春の一時期、その会社の社員寮で集団生活をし、働いて収入を得ながら高等学校に通っていた。八千代が会ったのはその中の一人であった。八千代は「あの当時、先生(一臣のこと)には本当にお世話になりました」と礼を申し述べられたと言う。

  八千代は保険の外交員をしていて借金があった一臣のもとに後妻として入った。新たな伴侶を得た一臣は間もなく教職に復帰することができた。それは昭和25年(1950年)9月30日のことであった。但し、教員中途採用の年齢制限があったため、初めの3年間は助教諭という肩書であった。赴任先は玖珠郡内の僻地の小学校であった。

    一臣は八千代と二人の間にできた1歳の子供・亮子の3人は、希望を膨らませて新任地に赴くため又四郎の家を出た。信輔ら一臣の子供3人は又四郎の家に残った。一臣は、自分の安月給ではとても信輔らを一緒に連れて行くことはできなかったし、教育環境としては子供たちが又四郎の家に残る方が格段に良いと考えたからである。信輔らは祖父・又四郎の家で八千代とは1年半ほどしか一緒に暮らしていない。信輔と信直は高校時代まで又四郎の世話になっていた。祖母・シズエが母親代わりをしてくれていた。

  新任地に赴いた一臣と八千代と亮子の家族の暮らしは非常に厳しいものであった。八千代の話によれば、おかずもなくご飯に胡麻塩を振りかけただけの食事の時もあったという。 

    一臣は戦前朝鮮慶尚北道で校長もしていたが、今や若い教諭よりも下の助教諭である。しかし一臣は八千代の内助の功もあってよく頑張り、3年後の昭和28年(1953年)8月1日、晴れて教諭となり、1年半後の昭和30年(1955年)3月1日に校長に補せられている。一臣が47歳になる10日前のことであった。其処に至るまで、大分師範学校の一臣の先輩や同級生らの働きがあったし、妻・八千代の内助の功があったことは言うまでもない。

  一臣は又四郎の長男であったが家督を継ぐことなく、100坪の土地を手に入れ、庭園付きの立派な家を建てた。仏間は親戚が訪れて来ても恥ずかしくない程度に飾り物もして仕上げ、生前に自分の戒名も貰っていて納骨堂内に自分の納骨壇までも準備していた。

2010年10月13日水曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101013)


  信輔が湯の平で友達に会って家に戻った翌日、信輔の父・一臣と継母・八千代の間に出来た娘で、信輔にとっては腹違いの妹・亮子が母のことを心配して帰ってきた。亮子自身、夫の実母が入院して寝たきりの生活を送りながら人工透析を受けているため、そちらの方の介護もしている。寝たきりの生活になるまでの間、亮子は義母の介護で大変苦労していた。このたび信輔からの連絡を受け、夫や義母の勧めもあって丁度連休もあるので帰ってきたのである。

  その日はお天気がよく、八千代は退院後の自分の体調回復の為その辺りを散歩したいと思った。午後、いつものように押し車を押して国道に沿った歩道を歩いて行った。八千代はこれまで国道に沿って大分方向に行ったことはなかったが、信輔からある話を聞かされて自分で進んで外出し、そちらの方向に行ったらしい。

    ある話とは、八千代の母・シモが96歳で没する1ヵ月前まで乳母車を押して出掛け、その頃、信輔の妻・幸代と同じほどの年齢であった嫁にはあまり負担をかけていなかったという話である。60歳を過ぎていた信輔が八千代の実家を訪れていたときシモ婆さんは信輔に優しい笑顔を見せながら出かけていた。シモ婆さんは96歳という高齢にもかかわらず婦人会の名誉会長をしていたこともあって、出かければ隣り近所何処でも歓迎されていた。

    八千代がまだ70歳代の頃までは八千代より年上のお仲間が八千代の周囲にはいた。八千代は最年少であったということもあって、当時はお仲間の世話役をしていた。しかし皆既に鬼籍に入ってしまっており、八千代の実母であったシモ婆さんのように出かけて行っては気楽に語り合える相手が八千代の周囲には居なくなっている。居ても足が悪くて簡単には出て来れなくなっている。

    いつもなら八千代は押し車を押し、国道に沿って日田方向に散歩し、スーパーなどの店に入って何か買って帰ってきていたが、そのスーパーも閉店してしまったので初めて反対方向に行ったという。いつもなら30分ほどで戻ってくるのに今度は1時間経っても戻ってこない。信輔が様子を見てこようと出かけるとき丁度亮子が帰ってきた。

    亮子は「お母さんは?お母さん元気なの?」と言う。「お母さんは元気だよ。今押し車を押して散歩に出かけているところだよ。ちょっと様子を見てこようと思う」と信輔が言うと、「私も行くわ」と亮子は自分の荷物を玄関に置いたまま信輔についてきた。信輔は、八千代が今日はいつもと違う方向に行っているだろうと予感していたので、亮子と一緒に大分方向に歩いて行った。すると向こうの方で小さな物がこちらに向かって来ている。「あ、あれはお母さんだよ。押し車を押してこちらに向かって来ている」と信輔が言うと、亮子はそちらをじっと見つめている。亮子は加齢に伴い視力が落ちていて直ぐにはそれが何であるか視認できなかったが、ようやくその小さな物が押し車を押してこちらに向かっている八千代であることが分かった。八千代は今度初めてそちらの方向に出かけて幾人かの人に会い、長話をしていたため帰りが遅くなったのである。その話相手の一人は信輔と幸代が先日初めて会って知己を得ていた新しい民生委員である。信輔と同年輩の婦人である。

2010年10月12日火曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101012)


  辰ちゃんは「レンズが湯気で湿っているからだ」と言う。信輔はまあこのようにぼやけている写真も悪くないだろうと思って辰ちゃんには「もう一度撮って」とは言わなかった。自分が芳郎君と写っているのがぼやけていてもよい思い出になるだろうと思った。

  湯殿を出るとその渓谷堂本舗のおかみさんが昔田舎で見かけたような綿入りの袢纏を来て椅子に腰かけている。ご主人が「うちのは脳梗塞をやって身体が不自由なんじゃ」と言う。辰ちゃんが「あ、奥さんはうちの家内に似ている!」と言う。そう言えば雰囲気が似ているので信輔も「そうだね。似ている。似ている」という。辰ちゃんはいつも自分の奥さんのことを思っていてまた「どことなく雰囲気が似ている」という。

  話が弾み、渓谷堂本舗の店のほうに足を運ぶ。芳郎君がポケットから煙草を取り出して「これ、いい?」と皆に了解を求める。「どうぞ、どうぞ」と言うと芳郎君は湯殿の方に行き傍のベンチに座ってうまそうに煙草をふかせる。信輔が「10月から煙草も値上げになったね。買い込んだの?」と聞くと、芳郎君は「いや、買い込まなかった、もうそろそろ煙草は止めようと思う」と言う。辰ちゃんがヘビースモーカーの肺臓の写真のことを話す。信輔は「俺のところの長男は医者に通って煙草をやめたよ。会社の方が社内禁煙になったらしい。」と言う。

    渓谷堂本舗の主の商売上手に引き込まれてずっしりしたきんつばの羊羹を買う。1個1000円である。辰ちゃんも買う。芳郎君は町で買えば1300円するという小豆を一袋かった。「明日、洋二郎の誕生日なので赤飯を作ろうと思う」という。売られている小豆は色つやよく大粒で揃っていて品質はなかなか良さそうである。赤飯は奥さんが炊くのであろう。

    渓谷堂本舗のおかみさんは身体は不自由であるが、おだやかな笑顔が信輔の印象に残っている。ご主人の話によれば町までの買い物は息子さんが、このお母さんを乗せて車を運転して連れて行ってくれるのだという。多分大分方面まで買い物に行くのだろう。

  平日のためか、この辺りに2軒あるという食堂は何処も休業である。昼食は辰ちゃんの家がある賀来方向に向かう途中で、何処かに立ち寄って取ることにする。210号線の沿道にラーメン屋を見つけて中に入る。3人とも1杯600円なりのてんこ盛りねぎラーメンを注文する。信輔は塩分の摂取を少なくするため、汁は吸わず具だけ丁寧にすくい上げて食べる。

  途中、鬼が瀬という無人駅に止まる。列車の時刻を見ると20分ほどで1両列車が来る予定である。辰ちゃんらに別れを告げてそのホームで列車の到着を待つ。何処からともなくキンモクセイの香りが漂ってくる。誰もいないホームで山手に向かって白居易の『村夜』という詩を吟じる。真に気持ちが良い。

  やがて列車が来た。この列車は湯布院止まりである。切符は湯の平まで往復買っていたので鬼が瀬から湯の平までの料金を湯布院に降りたとき払った。湯布院で30分ほど特急を待つ。その間駅舎の外にでて町の風景を楽しむ。観光客は左程多くない。お天気は快晴。街中を観光馬車がパカパカひずめの音をさせながら走っている。自動販売機でお茶を買って呑む。湯布院には時々来るが、いつ来てもこの街は良い。信輔は竹馬の友がいる故郷があることを幸せに思う。皆、何れの年にかよぼよぼの爺さんになり、あの世に逝く。

2010年10月11日月曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101011)


    平成22年10月6日、今日は快晴で気温も23度、信輔が乗った「特急ゆふ」号はおおむね玖珠川に沿って通り、湯布院近くの分水嶺を通り過ぎると大分川に沿って「湯の平」に向かってゆく。列車が駅を通過するホームの脇などにコスモスなどの花が咲き乱れている。久大線は美しい風景の山間部の景色を満喫することができる。豊後森などの駅のホームに出て線路の先を見ると、上り線も下り線のその線路が見えなくなる先までの風景が何とも言えない郷愁を感じるような美しさである。


    信輔は久しぶり竹馬の友・辰ちゃんと芳郎君に会った。二人は「湯の平」駅で待ってくれている。待ち合わせ場所が「湯の平」に決まったのは、信輔が其処に行ったことがなかったし、二人とも「湯の平」に久しぶり行ってみたかったからである。

    特急は定刻通り、10時10分過ぎに「湯の平」に到着した。列車到着を待つ間、辰ちゃんと芳郎君は片言交じりの英語で新婚旅行らしい韓国人のカップルと語り合っていた。信輔が下車してホームに降りるのと入れ替わりに、その韓国人カップルが列車に乗り込んだ。列車が走りだすと辰ちゃんらが手を振って見送っている。先方の二人も車内から手を振って応えている。

    温泉地・湯の平は群馬の伊香保に似た感じの坂道を登るところに温泉宿がある。昔は入湯客で賑わっていたらしいが、近年あちこちで温泉が出るようになって客は減ったらしい。今日は水曜日ということもあって石畳の坂道を歩く人は数える程しかいない。それでも土日は多少賑わっていたらしい。件の韓国人のカップルは昨夜この温泉地のどこかの宿に泊っていたのだろう。

    入湯料200円で入れる温泉が通りに沿って2、3か所ある。それが造られてからあまり年数が経っていないと思われる温泉を見つけ、そこに入る。そこは温泉旅館組合が共同で経営しているところという。その温泉は渓谷堂本舗の隣にある。渓谷堂本舗の御主人が出てきて辰ちゃんと掛け合い漫才のような会話を交わす。

    御主人は齢の頃80歳ぐらいであるが、声に張り合いがあり立ち振る舞いも元気である。昔は男女別々になっていたが狭いので改装し、二つの湯船を一つにして更衣室も広くしたという。信輔が「ここはかけ流しですか?」と聞くと、御主人は「かけ流しですよ。お湯が溢れているので竹の樋で捨てていますよ。」と言う。一人200円づつ払って中に入る。窓の外に森が見え、下に大分川の源流となる谷川が威勢よく流れ下っているのが見える。

  3人以外の入湯客はいない。3人いろいろ語り合いながらゆっくりといした時間を過ごす。信輔が記念にと携帯電話のカメラで写真を撮る。「辰ちゃんと芳郎君、其処に並んで。下の方は写さないからな。」「写ってもいいよ。」「写すよ!」再生してみると下の方も黒く写っている。信輔はこれ再生して送ってやろうと内心ニヤリとする。「携帯は水に浸かると一発で駄目になる」と言いながら携帯を辰ちゃんに渡す。今度は芳郎君と信輔が並んで写る。再生してみるとレンズが湿っていてぼやけている。

2010年10月10日日曜日

母・ともゑ (20101010)


  信輔は母・ともゑのことを物語にした。物語の登場人物は実名もあるが偽名もある。事実が不明なことは想像して肉付けしている。そういう意味でこれは小説的であるとともに物語に近い小説である。信輔は1か月かけて毎日その小説を書き続けるうちに、この齢・73になるまでずっと胸につかえ続けきていたものが消えたことに気付いた。

    この小説を書き始めるとき、信輔はその目的を次の三つに絞っていた。一つは信輔が10歳のとき33歳の若さで死んだ生母への追善供養、二つ目は信輔の自分史、三つ目は信輔の子や孫たちに自分たちの祖父母、曾祖父母たちがどんな人たちであったか、その時代の状況はどんなであったについて知ってもらうことである。

  信輔は継母・八千代の介護のため毎月のように帰郷している。1週間前、横浜の信輔のところに突然電話が入った。「ヘルパーの山内です。お母様がちょっと熱を出していて、血圧も高いです」と報告してきた。信輔は妻と一緒に急きょ帰郷するためインターネットで飛行機の切符の手配をし、土曜日であったがいつもお世話になっているかかりつけの病院に電話を入れて入院させたいと先生に伝えてくれるように依頼し、いつも使っているタクシー会社に電話を入れて八千代を迎えに行って病院に連れて行ってくれるように頼んだ。

    91歳の継母・八千代は入院して点滴を受け、白血球数が初め1600まで下がっていたのが入院1週間後1900まで回復し、赤血球数も正常に近い値に戻った。八千代は6年前大腸にリンパ腫が発生し、治療を受けているので造血能力が落ちている。白血球を増やす薬も使えない。免疫力が低下しているのでちょっとしたことで体調を崩しやすい。もし信輔の生母・ともゑが生きているとすればともゑは97歳である。その場合、ともゑは今の信輔にとってどのような母親であろうかとふと思うことがある。

  それはともかくとして、信輔は八千代の介護のため毎月のように帰郷し、その度に在郷の小学校・中学校時代の同級生たちに会っている。この度も信輔の帰りを楽しみしている芳郎が辰夫と一緒に湯平温泉で会って、昼食と入浴をして夕方までそこで遊ぶことにしている。湯平には千葉に住む同級生の洋介が帰郷の度に泊っている宿がある。

    3人の話題によく登場するのがその洋介と神奈川の座間に住んでいる貞行のことである。洋介も年に1、2度帰郷しているが貞行は郷里を出て以来殆ど帰郷したことがない。今年の4月の同級会のとき何10年ぶりかに帰郷しただけである。皆60年前同じ鶴崎中学校に入った同級生たちである。60年前13歳だった男たちの話題には信輔が小説に書いた女子の同級生のことも上がる。そのような竹馬の友だちがいるからこそ、信輔は継母の介護のため帰郷することが楽しみになっている。

    それもそう長くは続かないだろう。人生はそのようなものである。私小説を書くということは自分が生きてきた証を遺すためでもある。母・ともゑのことについて書いて遺す。それが信輔の「役割」の一つになっている。信輔にはまだ他に幾つかの「役割」があるが、すべての「役割」を終えようとするとき信輔は微笑んで「あの世」に逝くことだろう。

2010年10月9日土曜日

母・ともゑ (20101009)


    人は、自分の「役割」を自覚することができれば、その人は幸せである。傍目にその人がどのように不幸せそうに見えても、当の本人は幸せである。信輔の母・ともゑは自分が幸せであったから苦しみ耐えることができたのである。信輔の前では決して苦痛の表情を見せることはなかったのである。

    昔、武士が切腹するとき、作法に従って淡々として自らの腹を切り、人によっては介錯さえも拒んだ。切腹する前に辞世の歌を詠み、後世に遺して逝った。その武士が自らの「役割」を自覚しているからこそ、自分の人生の最期を美しく飾ることができるのである。

    昔は「形」が重んじられていた。信輔が子供の頃、毎朝顔を洗って仏様にお参りし、居間に集まっている大人たち一人一人に対面して両手をハの字に揃えて床の上について、一人ひとりの名前を言って「お早うございます」と挨拶していた。それは祖父・又四郎の家のしきたりだった。ともゑ亡き後、又四郎が信輔の精神教育を行っていた。

    このように「形」を重要視する文化が日本にはまだ残っている。それは「道」という字がつく習い事の世界にある。武道にせよ、茶道にせよ、礼節が重んじられる。そのように「形」を重んじる文化は他国にはない。日本人は今一度昔の精神文化を見直すべきときに来ている。アメリカとの戦争に敗れ、日本人はアメリカの文化に汚染されてしまった。その結果、社会でも家庭でもいろいろな歪が生じてきている。昔の良き日本の文化を見直すことが、日本の将来のために必要である。

    信輔の母・ともゑは信輔が何か言われてそれを肯定するとき「うん」と頷くと、「‘うん’ではないでしょう?‘はい’と言いなさい」とよく叱られていたものである。信輔の母も親子の間の親近感と距離感のバランスをとるのが難しかったかもしれない。今の日本の家庭では、特に母親は自分の娘を友だちのよいにしている情景をよく見かける。その一方で親による子供への虐待が増え続けている。

 

  人は、自分の「役割」を自覚することさえできれば、他人がどう言おうと本人は幸せである。生まれた時から五体不満足であっても、「世の光」となって人々に感動と喜びを与えている人がいる。肢体不自由な詩人で画家、盲目のピアニスト、スポーツ選手など世の中で活躍している人たちは大勢いる。その一方で、五体満足で何一つ不自由でもないのに罪を犯し、牢獄につながれ、死刑になる人もいる。

  お釈迦様は「業(ごう)」と六道輪廻を説いておられる。この世は「生老病死の苦」やあらゆる苦しみがある。修行して「真理」を悟り、解脱すればそれらの苦しみは無くなると説いておられる。キリスト教でも旧約聖書の『ヨブ記』には似たようなことが書かれている。善良なヨブが言いつくせぬ苦難に遭い、見かねた友人らがヨブに神を呪うことを勧めたが、ヨブは時に自分の出生や現状を恨みながらも決して神の仕業を疑わず、総ては神の思し召しであると考え、神への帰依の心を一層強くしてゆき、最後に幸せを得ている。

2010年10月8日金曜日

母・ともゑ (20101008)

 
    人は、この世に生れて来るとき、それぞれある「役割」を担って生まれてくるものである。人はその「役割」を自覚することができれば、自分の人生を最も価値あるものにすることができるものである。信輔の母・ともゑは今際の時、わが子・信輔に対し、人としての「役割」について自らの身をもって教えたのである。そのことを信輔は73にもなって初めてはっきりと認識することができた。

  一口に「役割」といても、段階に応じていろいろな役割がある。人としての「役割」、国民としての「役割」、社会人としての「役割」、職業人としての「役割」、父親または母親としての「役割」、子供としての「役割」、夫または妻としての「役割」、男性または女性としての「役割」などが考えられる。ミツバチやアリの社会では、例えば「女王蜂」「働き蜂」「兵隊アリ」のような役割があり、彼らはその役割を果たして一生を終る。

  人の集合・組織体である国家についても国家としての役割がある。日本国憲法前文には、日本国家のあり方の原則が書かれている。その一文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という箇所がある。

  アンダーラインの部分は理想である。しかし現実には中国や韓国やロシアのように、我が国固有の領土である尖閣諸島や竹島や北方四島を「自国の領土」であると公然と主張する国々に「公正と信義」があるだろうか?国家の役割の第一は我が国固有の領土・領海・領空を侵犯させないことである。そのことこそ憲法前文に書かれなければならないのではないだろうか?

  それはさておき、ここで考えるのは「人としての役割」である。人は百人百様、いろいろな運命を背負ってこの世に生を享けている。五体満足、知能・性格も優れて生れてくる者もおれば、五体不満足、知的障害、精神障害をもって生まれくる者もいる。生まれて来た後の育てられ方、家庭環境、社会環境なども千差万別である。成長過程でも大人になった後でも誰も予測できないいろいろな状況が起きる。

    信輔の母・ともゑも自分の運命を予測できず、傍から見るに堪えないような苦しみの中でこの世を去った。今際の時、信輔に「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、今度はがんが転移したこぶだらけの「背中をさすっておくれ」とは言わず、「お仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言った。線香に火をつけ、東に向かって手を合わせ、「お父さんを呼んできておくれ」と言った。

  ともゑは自分の最期のとき、わが子・信輔に自らの身をもって人の生き方と死に方を教えたのである。その時子供であった信輔には母の教えを理解することはできなかったが、強烈な印象だけを信輔に与えることはできた。33歳でこの世を去るともゑは、そのようにして「人としての役割」を果たしたのである。

2010年10月7日木曜日

母・ともゑ (20101007)


  戦後65年も経つ間に日本人は戦前自分たちの父祖が命がけで築こうとしたことに目を背け、父祖たちが悪いことをしたという自虐的史観を植えつけられて今日まできた。その間、共産党一党独裁の国々では一貫した戦略で自国の国民を愛国的になるように強力に指導し、自国を富ませ、自国を誇りに思うようにさせるためあらゆる方策を実行してきている。

    一方わが国では国民に愛国心を持たせ、国に誇りを持たせる教育をおろそかにし、経済活動を最優先させてきている。日本人は隣国を観るにあたり、その国の指導層と一般国民を分けて観るということをせず、個々に触れ合う人々の考え方や態度、ある意味では市民生活全般の文化の面だけを観てその国の国家としての考え方や態度を推し量り、親近感を抱こうとする。相手の国の(指導層)は始終一貫した原則と戦略で我が国に対処しているのに対し、我が国の政府にはそのような原則や戦略を持たずに今日まで来ている。

    わが国の政府がそのようにあるだけではなく、一部の日本人は隣国の政府のそのような原則や戦略に沿った行動をし、その国の反日・愛国教育に肩入れしている。先の国会での尖閣諸島問題に関する集中審議で明らかにされたが、井上清という歴史学者は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表し、日本の尖閣諸島領有は国際法的に無効であると主張した。

    彼は既に没しているが昭和13年(1938年)生まれで信輔と同年輩である。70歳前後の日本人たちが自分たちの父祖たちの事跡を否定し、父祖たちがアジアで悪いことをしたと思い込み、或いは思い込まされ、この日本の指導的立場にあった。次の時代を担う子孫たちにとってこれは不幸なことであった。

    戦前派の人で元日本社会党委員長であった田邊誠は、南京大虐殺紀念館(中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)の建設に貢献した。彼は1980年代に南京市を訪れ、その記念館の建設を自ら求め、当時の総評から3000万円の資金を調達して南京市に寄付した。その記念館の設計は日本人が行っている。始終一貫した原則と戦略をもって行動する中国の指導層・共産党政府はその記念館を最大限に活用し、近代史教育と称して若い世代に反日感情を植えつけている。その延長線上に今回の尖閣諸島問題が起きている。

    国家が国民に対して愛国心の教育を積極的に行うことは決して非難されるべきことではない。むしろ奨励されるべきことである。古来歴史が示すとおり日本は常に中国・朝鮮半島・ロシアとは緊張関係にあった。それは今後も続くだろう。戦後の日本の指導層が自虐的史観に陥り、日本国民に対する愛国心高揚の施策・教育を怠ってきた結果、竹島や尖閣諸島や北方四島の問題となって起きているのである。

    国家が国民に対して愛国心教育を行うことは良い。しかし中国がその記念館に旧日本軍の行為について事実に反することを展示することは日本人として不愉快である。そもそも日本は侵略国家ではない。東京裁判の結果、侵略国家とされてしまったのである。

  
 信輔は父・一臣と母・ともゑが人生の一時期、朝鮮で教育に従事したことを誇りに思っている。信輔はこの父母の追善のため自分の残りの人生を捧げたいと思う。

2010年10月6日水曜日

母・ともゑ (20101006)


  ともゑが戦前朝鮮半島に居住していた時、ともゑにとって東の方角は皇居がある方角であり、自分の父方の先祖が出た方角でもあった。ともゑが今際の時に東の方角を礼拝したのは突然思い付いてそうしたのではなく、ともゑの過去の習慣がそうさせに違いない。

    信輔はともゑの葬式に来ていた丹生の小父さんが翌朝四方に礼拝していたのを覚えている。信輔は子供の頃母・ともゑが東方を礼拝したことを見たことはなかった。しかし、ともゑは誰にも分らぬように毎朝東の方角に向かって手を合わせていたのではないかと思う。

  須美子は「ともゑ姉は20歳前の若い時でも、とても礼儀正しく、物事をよくわきまえていた。言葉づかいがとても丁寧だった。どう言ったらよいか、とにかく普通の人ではなかった。とてもしっかりしていたよ。」と信輔に語ってくれた。信輔の父・一臣も信輔に「お前の御母さんは、何をするにも段取りがよく、無駄がなかった。」と言ったことがある。信輔が想像するに、多分母・ともゑは昔の武家の女性のようなところがあったのであろう。

  信輔が想い出すことがある。信輔は叔母たちから「お前は言葉使いがとても良かった。」と言われたことがある。そう言われたとき既に信輔の言葉使いは大分弁という方言を使っており、朝鮮から引き揚げて来た当時のようではなくなっていた。家長制度もなくなって家庭の中の秩序も崩れかけていた。信輔自身自覚が全くなかったが、信輔はいつのまにか戦前まで身につけていた品格を失ってしまっていた。

  信輔は祖父・又四郎の家にいた時、毎朝顔を洗って仏壇にお参りした後、居間の火鉢の周りに坐していた祖父らに朝の挨拶をしていた。「お爺さんおはようございます。お婆さんお早うございます。お父さんお早うございます。直叔父さんお早うございます。」と欠かさず挨拶していた。その後、座敷を箒で掃いたり、板の間や敷居や柱などを雑巾がけしたり、庭を掃いたりしていた。それは、母・ともゑが亡くなった後のことであった。祖父たちは信輔らにそのような日課を与えることによりともゑな亡き後の子どもたちの躾をしていたに違いない。大人たちは信輔ら子どもたちが仏壇にお参りする頃、皆火鉢の周りに集まり、信輔らの挨拶を受けるようにしていたのである。

  盆や正月や村のお祭りのとき、嫁ぎ先から叔母たちが挨拶に来ていた。信輔はそのときの様子を鮮明に覚えている。叔母たちは個々にやってきたのであるが、実家に来た時先ず仏さま、つまり仏壇にお参りし、その後、居間の火鉢の周りの上座に坐している祖父・又四郎と隣に座っている祖母・シズエに作法に従って両手をつき、丁寧な挨拶をしていた。

  信輔が子供時代過ごした大分の旧鶴崎地方では未だにそのような風習が残っている家がある。残っているといっても丁寧で格式ばった形ではなく、照れくさ交じりの砕けた形になっている。それでも訪問先で先ず仏壇にお参りし、それから一応両手をついて挨拶を交わす。仏壇にお参りするとき、祭壇の前に時と場合によって百円玉とか千円札を置くのがしきたりである。仏壇は古い家ならどこでも縦横1間幅の中に納められる大きなものである。信輔は、仏壇はその位のものでないとお参りしても気持ちが落ち着かない。

2010年10月5日火曜日

母・ともゑ (20101005)


  そのほか、同じタイトルの記事から以下のとおり同様に引用する。この記事が書かれた時点では防衛庁(現在の防衛省)及び陸上自衛隊駐屯地は市ヶ谷にあった。

  金貞烈将軍、日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。

  李亨根将軍、日本陸軍士官学校(五十六期)、韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛庁)に桂の木が植えられている。その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。

    表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」、裏面「韓国陸軍大将」、側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」。そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」

  李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出している。同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれている。その中のおひとりに崔貞根少佐がおられる。

  崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華した。二階級特進にて少佐、崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中、同期生のひとりに「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」と、その心情を吐露したという。(同期生追悼録「礎」より)

  同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」と答えたそうである。

 

  日韓併合など近代の歴史について、信輔はこれまで殆ど学んで来なかった。今70歳前後以降の日本人は東京裁判の結果植えつけられた自虐的歴史観により、自分たちの父祖が悪いことをしてきたと思い込んでいる人たちが多い。信輔自身は自分の子供時代の体験から、そのような立場に対して常に批判的であった。

  母・ともゑが今際の時、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」「東を向けておくれ」と言った意味を、信輔はこの齢・73歳になって初めて理解している。ともゑはなぜ「東を向けておくれ」といったのか。その方向は極楽の世界があるとされる西方浄土の方向ではない。その真反対である。地理的には皇居がある東の京の方向である。ともゑは今際の時、遺してゆく信輔に対して意図的に自分をその方角に向けよと指示したのである。

2010年10月4日月曜日

母・ともゑ (20101004)


    その1期後輩には金錫源(キムソクウオン)大佐がいる。日本兵1千名を率いて当時の支那軍を蹴散らした。二人とも創氏改名などしてはいなかった。以下、Googleで検索した『朝鮮における護国の英雄の末路』より、金錫源将軍に関する全文を引用する。但し「です、ます」調を「である」調に変える。

  明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創氏改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめた。この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与された。

  戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻された。

    予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐である。

  勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結した。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうであるが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれた。

  米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのである。

    無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことであろう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのである。

  金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうである。(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)

  金錫源将軍の三人の息子のなかのお一人金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶されたそうである。(古野直也氏の証言)

    以上引用、参考「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社。「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社。

2010年10月3日日曜日

母・ともゑ (20101003)


    一臣は妻・ともゑが死んでその悲しみを忘れるため一生懸命に働いていた。その悲しみが薄らいできたころ、一臣は師範学校時代の先輩や同級生たちの奔走のお陰で教職に復帰することができた。しかし、初めから正教員としてではなく、助教諭という資格であった。一臣はその後、正教諭になることができ1級の免許も得ることができた。初めは玖珠郡の分校の校長を皮切りに幾つかの校長を務め、定年まで働くことができた。その陰には、信輔の継母となった八千代の内助の功があった。

    一臣は富久子が子宮外妊娠で死んだとき仏壇を買った。富久子は終戦時2歳で、朝鮮から引き揚げるときともゑの背に負われていて、小倉の駅のホームに降りるとき仰向けに転倒し、ホームに体ごと衝突したが幸い事故にはならなかった。20歳になって叔父・業政の世話で、叔父の家から通勤しながら東京都内の会社に勤めることができ、短い期間であったが幸せなOL生活を送ることができた。その後、叔父・幸雄の世話で福岡で瓦製造業を営む会社の社長の長男に嫁ぎ、妊娠し人生で最も幸せな時期を送っていた。その富久子が死んだので仏壇を買ったのである。

    一臣は生前自分の戒名を貰っていた。その戒名札は仏壇に納められていて、その脇にともゑの戒名札があった。一臣は寺の納骨堂に自分の納骨壇を持っていた。一臣が死んだ後、信輔は一臣の遺骨をその中に納めたが、そのときその納骨壇の中に「ともゑ」と書かれている紙包みを見つけた。開いてみるとそれは一個の石ころであった。その石ころはともゑの墓がまだ石積みと竹筒だけであった頃、一臣がそのともゑの墓から石を一個持って帰っていたものであった。ともゑの墓は一臣が白血病で入院中、信輔の要求で哲郎の墓とともにきちんとした墓石のある墓になった。一臣の納骨壇の中には哲郎と書かれている紙包みもあった。一臣は富久子が死んだとき仏壇を買ったが、ともゑと哲郎の墓は埋葬時と変わらぬ状態にしたままであったのである。一臣は信輔の継母となった八千代に遠慮していたのかもしれない。或いは、ともゑや哲郎のことは、自分の長男・信輔が何か言うまで放って置こうと考えていたのかもしれない。



    一臣もともゑも人生の一時期、戦前の教育体制下で国家に有用な人材の育成に携わった。当時は朝鮮籍も日本人であり、教育の面において日本籍であろうと朝鮮籍であろうと一切差別はなかった。朝鮮籍の女学生や小学生に対して日本人に接することと全く同じように接し、部下の朝鮮籍の教員に対しても、近所の朝鮮籍の住民に足しても決して偉ぶることなく接していた。信輔自身、当時同級生が朝鮮籍であったことを全く意識していなかった。

    それは陸軍士官学校でも同様であった。ただし、海軍兵学校では終始朝鮮籍の者の入校を認めていなかった。陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人で洪思翊(ホンサイウ)というお方がいる。彼は戦後マニラの軍事裁判で、戦争ならば起きうる部下による敵性国人の殺害という責任を負って死刑になった。

2010年10月2日土曜日

母・ともゑ (20101002)


    刺身のお茶づけは醤油、ごま、みりん、お酒、ネギなどで作る。味がしみとおった刺身を白米の暖かいご飯の上に載せ、刺身を浸けた汁も少しかけてその上に熱いお茶をたっぷりかける。そしてやや時間をおいてから食べる。

    信輔は妻・幸代がそのような茶づけを作ってくるたびに、自分が子供のころ入院中の母・ともゑが作ってくれたお茶づけのことを想い出す。当時、白米のご飯をそのようにして食べることは贅沢中の贅沢であり、入院中の母がそれを作って食べさせてくれたことは特別なことであったが、子供であった信輔には、母・ともゑが自分は食べずに信輔たちに食べさせてくれたということや、それが一度きりであったということしか覚えていない。

    白米はシズエが普段自分は食べないのに夫、つまり信輔の祖父・又四郎の目を盗んでわざわざ息子・一臣に持たせてやったものであった。当時、まだ家長制度が残っていて、食事のとき家長である又四郎だけが別の御ひつで白米のご飯を食べ、シズエ以下家族は全員麦ごはんであった。食事中一切私語は禁止で、皆黙々と食べていた。長男であり、教師として朝鮮にも渡り外の空気を吸っていた一臣は、内心そのような風習を嫌っていたに違いないが、師範学校を出て以来実家を飛び出し、日本が戦争に負けてやむなく父・又四郎の家に厄介になっている身であるので、それは仕方ないことであると思っていたに違いない。食卓では正面の又四郎の右隣に座し、左隣にシズエが座し、一臣とシズエは向かい合うかたちであった。信輔らは家族の末席に序列に従い座していた。

    一臣は教師の職に復帰することは諦めかけていた。当時の教員採用の年齢基準は35歳以下であったから、すでに37歳になっていた一臣には日本の敗戦による特殊な状況であったとはいえ、教師への復帰は不可能に近かった。一臣は、父・又四郎の家にいても、それまで長男として実家にいて父・又四郎に手伝っていたわけでもなかったので、家督は末弟・直紀に継がせる腹であった。一臣は妻・ともゑを失った後、遺された3人の子どもたち、つまり信輔と信直と富久子を養うため、全く不慣れな保険の営業の仕事に就いた。

    中古の自転車を手に入れ、さつま芋を煮てつぶしたものを詰め込んだ弁当を手にして、知人・友人・親戚の家や見ず知らずの家に飛び込んで必死に営業活動をした。しかし、所詮は武士の商法、多少の顧客は取れても頭打ちとなり、ついには自ら顧客の肩代わりをして借金を重ねてしまった。

    それを補てんするため、一臣は実家の倉庫の裏に豚小屋を造り豚を飼っていた。豚を飼うにも餌が必要である。豚を太らせるだけの餌を確保することは大変なことであったに違いない。一臣はある日その豚の餌にするため、たまたま鶏小屋の上の軒下にいて卵を狙っていた‘家主’と呼ばれる大きな青大将を見つけてそれを捕え、なたで輪切りにして与えたこともあった。

    当時ヘビはどこにもいた。田圃に水を引く水路にはカラス蛇という赤い斑点があるヘビをよく見かけたものである。山にはマムシもいたが、人々はそれを捕えて皮を剥ぎ、日干しにして貴重な栄養源にしていた。信輔もマムシの骨を焼いて食べたことがある。

2010年10月1日金曜日

母・ともゑ (20101001)


 それは母・ともゑが別府の病院に入院する前の頃のことであった。信輔と信直は一臣に連れられて空襲で焼け野原になっていた大分の町を歩いたことがあった。街角で傷痍軍人が白い服を着て杖をついて、道行く人々に憐みを乞うていた。

  その時・36歳の一臣はともゑの入院費を工面するため、師範学校時代の級友や知人などを訪ね歩いていた。幾ばくかの金は工面できたのであろう。やがてともゑは別府の病院に入院することができた。すでにがんは進行していて手遅れの状況であった。それでもともゑはがんの摘出手術に僅かの希望をつないでいた。

  ともゑの弟・業政はソ連に抑留されていた。ともゑの妹・須美子は亡くなった母、つまり信輔の母方の祖母・まさの姉、それも既に他界してしまっている縁戚や知人の家を転々としながら教師に復職する道を探っていた。ともゑも須美子も業政がいない状況では親身になって頼れるような親族は何処にもなかった。

  ともゑが別府の内田病院に入院している間、須美子は度々その病院を訪ねてきてはともゑの身の回りの世話をしていた。須美子はその病院までは山越えをして、2時間半もの長い時間をかけて歩いて来ていた。それは須美子がまだ若かったからできたことである。須美子は姉・ともゑの、身の回りの世話をしながら、自ら教師の職探しに奔走していた。

  ともゑの乳がんは両乳房に発生していた。既に手遅れであったがともゑは片方づつがんの摘出手術を受けた。ともゑは手術後の手当てを受けるため、病室から治療室に通っていた。その時ともゑは眉にしわを寄せて胸を手で押さえながら病室に戻っていた。

    信輔の記憶ではそれはともゑががんの手術を受けて、麻酔が切れたあと自力で病死に戻っていたように思っていたが、今考えてみるとそれは無理なことで、ともゑが胸を押さえながら戻って来たのは術後の手当てのためであったに違いない。信輔はともゑがある時は左の胸を、次には右の胸を押さえながら病室に戻っていたことだけは鮮明に記憶している。

    信輔はともゑのがんの白い塊を見たことを覚えている。それは大きな塊であった。ある日、父親・一臣は信輔を連れて院長室に行ったことがあった。その時一臣は母、つまり信輔の祖母・シズエが又四郎の目を盗んで一臣に渡した野菜を抱えていた。一臣はともゑの入院費の支払いにも困っていたに違いない。院長にその野菜を渡しながら何やら言い訳のようなことを話していた。

    しばらくして院長室を出て中庭に面した廊下を行くとき、中庭の池に亀が白い塊のようなものに食いついているのを見た。信輔はそれが母・ともゑの乳房から摘出したものであったに違いないと思っていた。

    ある日ともゑは誰かに依頼して買って来て貰ったに違いない魚の刺身をお茶漬けにして信輔と信直に食べさせてくれたことがあった。それは一度きりだった。ともゑは自分の命がもう長くないことを悟り、せめて二人の息子たちに母の手作りの美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いない。白い暖かいご飯の上にその茶漬けを載せ、熱いお茶をかけてくれたものは、信輔が73歳になった今ても鮮明に思い出すことである。