2010年10月12日火曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101012)


  辰ちゃんは「レンズが湯気で湿っているからだ」と言う。信輔はまあこのようにぼやけている写真も悪くないだろうと思って辰ちゃんには「もう一度撮って」とは言わなかった。自分が芳郎君と写っているのがぼやけていてもよい思い出になるだろうと思った。

  湯殿を出るとその渓谷堂本舗のおかみさんが昔田舎で見かけたような綿入りの袢纏を来て椅子に腰かけている。ご主人が「うちのは脳梗塞をやって身体が不自由なんじゃ」と言う。辰ちゃんが「あ、奥さんはうちの家内に似ている!」と言う。そう言えば雰囲気が似ているので信輔も「そうだね。似ている。似ている」という。辰ちゃんはいつも自分の奥さんのことを思っていてまた「どことなく雰囲気が似ている」という。

  話が弾み、渓谷堂本舗の店のほうに足を運ぶ。芳郎君がポケットから煙草を取り出して「これ、いい?」と皆に了解を求める。「どうぞ、どうぞ」と言うと芳郎君は湯殿の方に行き傍のベンチに座ってうまそうに煙草をふかせる。信輔が「10月から煙草も値上げになったね。買い込んだの?」と聞くと、芳郎君は「いや、買い込まなかった、もうそろそろ煙草は止めようと思う」と言う。辰ちゃんがヘビースモーカーの肺臓の写真のことを話す。信輔は「俺のところの長男は医者に通って煙草をやめたよ。会社の方が社内禁煙になったらしい。」と言う。

    渓谷堂本舗の主の商売上手に引き込まれてずっしりしたきんつばの羊羹を買う。1個1000円である。辰ちゃんも買う。芳郎君は町で買えば1300円するという小豆を一袋かった。「明日、洋二郎の誕生日なので赤飯を作ろうと思う」という。売られている小豆は色つやよく大粒で揃っていて品質はなかなか良さそうである。赤飯は奥さんが炊くのであろう。

    渓谷堂本舗のおかみさんは身体は不自由であるが、おだやかな笑顔が信輔の印象に残っている。ご主人の話によれば町までの買い物は息子さんが、このお母さんを乗せて車を運転して連れて行ってくれるのだという。多分大分方面まで買い物に行くのだろう。

  平日のためか、この辺りに2軒あるという食堂は何処も休業である。昼食は辰ちゃんの家がある賀来方向に向かう途中で、何処かに立ち寄って取ることにする。210号線の沿道にラーメン屋を見つけて中に入る。3人とも1杯600円なりのてんこ盛りねぎラーメンを注文する。信輔は塩分の摂取を少なくするため、汁は吸わず具だけ丁寧にすくい上げて食べる。

  途中、鬼が瀬という無人駅に止まる。列車の時刻を見ると20分ほどで1両列車が来る予定である。辰ちゃんらに別れを告げてそのホームで列車の到着を待つ。何処からともなくキンモクセイの香りが漂ってくる。誰もいないホームで山手に向かって白居易の『村夜』という詩を吟じる。真に気持ちが良い。

  やがて列車が来た。この列車は湯布院止まりである。切符は湯の平まで往復買っていたので鬼が瀬から湯の平までの料金を湯布院に降りたとき払った。湯布院で30分ほど特急を待つ。その間駅舎の外にでて町の風景を楽しむ。観光客は左程多くない。お天気は快晴。街中を観光馬車がパカパカひずめの音をさせながら走っている。自動販売機でお茶を買って呑む。湯布院には時々来るが、いつ来てもこの街は良い。信輔は竹馬の友がいる故郷があることを幸せに思う。皆、何れの年にかよぼよぼの爺さんになり、あの世に逝く。

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