2010年10月14日木曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101014)


  八千代が散歩のとき会ったもう一人は、八千代の夫、つまり信輔の父・一臣が就職の世話をした女性だった。

  一臣は定年で校長を辞めた後、中学校を卒業した子供たちを愛知県内のある紡績会社に就職させる世話をしていた。当時田舎の中学校を卒業したばかりの子供たちを都会地の工場に送り込み、自立させるのは大変なことであった。しかし一臣は自分の経験を活かして子供たちに働きながら高等学校に通うことができるようにしてあげたいと考えた。それは一臣が定年後暫くの間、日田林業高校で数学の講師をしていたときに思いついたことであった。一臣の教員免許の教科は「数学」と「理科」であった。

    一臣はその紡績会社が一臣の希望に叶うものであるという確証を得、その会社の現地採用係のような仕事を請け負って玖珠郡内の中学校を回り、就職を希望する子どもたちと面接し、一臣の眼に叶う者を採用して愛知のその会社に送り込んでいた。子供たちは青春の一時期、その会社の社員寮で集団生活をし、働いて収入を得ながら高等学校に通っていた。八千代が会ったのはその中の一人であった。八千代は「あの当時、先生(一臣のこと)には本当にお世話になりました」と礼を申し述べられたと言う。

  八千代は保険の外交員をしていて借金があった一臣のもとに後妻として入った。新たな伴侶を得た一臣は間もなく教職に復帰することができた。それは昭和25年(1950年)9月30日のことであった。但し、教員中途採用の年齢制限があったため、初めの3年間は助教諭という肩書であった。赴任先は玖珠郡内の僻地の小学校であった。

    一臣は八千代と二人の間にできた1歳の子供・亮子の3人は、希望を膨らませて新任地に赴くため又四郎の家を出た。信輔ら一臣の子供3人は又四郎の家に残った。一臣は、自分の安月給ではとても信輔らを一緒に連れて行くことはできなかったし、教育環境としては子供たちが又四郎の家に残る方が格段に良いと考えたからである。信輔らは祖父・又四郎の家で八千代とは1年半ほどしか一緒に暮らしていない。信輔と信直は高校時代まで又四郎の世話になっていた。祖母・シズエが母親代わりをしてくれていた。

  新任地に赴いた一臣と八千代と亮子の家族の暮らしは非常に厳しいものであった。八千代の話によれば、おかずもなくご飯に胡麻塩を振りかけただけの食事の時もあったという。 

    一臣は戦前朝鮮慶尚北道で校長もしていたが、今や若い教諭よりも下の助教諭である。しかし一臣は八千代の内助の功もあってよく頑張り、3年後の昭和28年(1953年)8月1日、晴れて教諭となり、1年半後の昭和30年(1955年)3月1日に校長に補せられている。一臣が47歳になる10日前のことであった。其処に至るまで、大分師範学校の一臣の先輩や同級生らの働きがあったし、妻・八千代の内助の功があったことは言うまでもない。

  一臣は又四郎の長男であったが家督を継ぐことなく、100坪の土地を手に入れ、庭園付きの立派な家を建てた。仏間は親戚が訪れて来ても恥ずかしくない程度に飾り物もして仕上げ、生前に自分の戒名も貰っていて納骨堂内に自分の納骨壇までも準備していた。

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