2010年10月19日火曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101019)


   秀吉がフィリッピン総督に送った書状は「今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・」というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。


  前掲の本には秀吉のことを英雄と呼び、日本の戦後の歴史観、自虐的歴史観が間違っていると書いてある。男はこれまで秀吉のことをここまで詳しくは知らなかった。信長や秀吉や家康はそれぞれの時代でわが日本国、万世一系、男系の皇統がある世界に稀な国・日本を守って来たからこそ、今日の日本があるのである。

  ナチスドイツ指導者並みの罪を着せられて処刑された東条首相は「戦争に負けたが戦争の目的を達成した」偉人として認められなければならない、と男は思う。ただ、彼ら指導者には何百万人もの同胞や数多くの東亜の人々を戦争で死なせたという責任はある。

    東京裁判に臨んだ東條首相のメモに「東亜ノ安定ヲ確保シ、世界平和ニ寄与スルコトハ自存自衛ヲ確保セントスルコト」「今日迄ノ帝国ノ大東亜地域大東亜諸民族ヲ理導(道)セル処置ハ之皆此ノ道義ニ依ル行為ニ外ナラズ、而シテ例ヘ戦局ノ波爛ニ依リ其ノ植エツケタル種ハ百年千年ノ後ニ必ズヤ此ノ正道ハ将来ニ芽(苗)ヲ出ス機会ヲ生ズヘク帝国ノ大東亜諸民族ニ及ボセル大徳ノ発スル時アルヘシ」というものがある。

    東條首相はアメリカとの戦争は何としてでも避けたかった。しかしアメリカのルーズベルト大統領は日米交渉を行いながらも一方で日本の海外資産の凍結や石油禁輸などを行って日本を窮地に追いやった。

    東條首相は開戦の責任を一身に負い、キーナン検事が「戦争を行わなければならないというのは、裕仁(ひろひと)天皇のご意思でしたか」という質問に対して、「天皇陛下は最後の一瞬にいたるまで平和へのご希望を持っておられました。12月8日の開戦の詔書に陛下のご希望によって、開戦は【朕(ちん)の意思にあらざるなり】というお言葉が入れられました」と答えている。(講談社『東条英機 天皇を守り通した男』福富健一著より引用)

    大東亜の解放戦争に敗れた日本は、結果的に19世紀に欧米やロシアが蹂躙しようとしていた中国や朝鮮を彼らの野望から守り、20世紀に欧米が植民地にしていたアジア諸国を解放したのである。日本は決して侵略国ではなかった。東京裁判において欧米・ソ連・中国によって日本は侵略国家とされてしまったのである。日本は戦争に負け、「力は正義なり」という論理によって侵略国家とされ、国民は洗脳されてしまったのである。

    日本は戦争に敗れはしたが、戦争の目的は達成した。その戦いで国の為尊い命を捧げた英霊たち(男の叔母の夫もその一人)は靖国神社に祀られている。この英霊たちに報いるため、今後日本国民が為すべきことは、皇統を守り、領土・領海・領空を守り、伝統・文化を守り、武力を持ち、科学・技術力を高め、国の富を高めることである。