2010年10月17日日曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101017)


  男は韓国のソウルに観光旅行したことがある。その時の現地ツアーガイドは沈(シム)さんという女性であった。彼女は自分の先祖が宮廷の女官であったという。その彼女が語ってくれたことには、韓国で一番嫌われている日本人は豊臣秀吉と伊藤博文であると言う。いずれも韓国人から見れば自国を蹂躙した日本人の頭目である。

  一方、われわれ日本人から見れば、日本がスペインやロシアから蹂躙されない予防策として、秀吉は朝鮮に出兵し、伊藤博文は大韓帝国を当時の万国公法(国際法)に基づき、条約を以って合法的に併合したものである。結果的に見れば、朝鮮半島は朝鮮民族だけのものとして守られてきた。スペインやロシアに蹂躙されることはなかった。

  男が読んでいる本『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。その本には日本の神代の歴史に似た檀君神話のことも書かれている。日本の皇統は万世一系で保たれてきたが檀君の子孫は途絶えた。朝鮮半島はシナ(明や清王朝)の柵封体制下にあり、中華思想の中、自ら小中華と称していた。その本には朝鮮半島の近代史について男がこれまで学んでいなかったことが書かれている。以下、秀吉の朝鮮出兵の経緯に関することをその本から部分的に引用して記述する。

  天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

  秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

  秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583年6月18日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

  当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。(続く)