2011年6月9日木曜日

明日からは新たなラベルで(20110609)

 菅首相いよいよ今月内退陣せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。多くの国民は彼の言動に不信感を持ってしまった。福島第一原発の事故は菅首相がわざわざ現地に出向いたためベントの対応が2時間半遅れたことが直接の引き金になって発生したと思う。

 菅首相が一番大事な時期に官邸を離れ現地視察を行うことを諫めた枝野幹事長を「馬鹿やろう」と罵倒した。新聞は‘いら菅’が言った実際の言葉まで事細かく報道するようになった。鳩山元首相は菅首相を「ペテン師」と言ったと報道した。それらの言葉は全世界に伝わった。多くの日本国民は呆れて言葉を無くした。

 状況は静かに進行している。枝野幹事長が「首相は公債特例法案が成立した後に退陣する」と首相に忠実な官房長官として首相の意向を伝えたが、最早事態は菅首相の思い通りには進まないであろう。菅首相は復興基本法成立後ただちに辞任する以外に道はない。

 男はこのブログでのラベル「武士道後記」の201143日日曜日の投稿記事「信なければ、民意なければ (20110403)」で、

“この国家危急のときの内閣総理大臣は、「民意あっても、信なければ」勤まらないだろう。逆に「信があっても、民意なければ」内閣総理大臣は務まらないだろう。ここでいう「信」とは、・官房長官・閣僚・官僚・補佐官・政務官等内閣総理大臣の周囲の方々が、内閣総理大臣のもと、己の心を無にして公務に専心する気持ちである。”

“もし菅総理に「私心」が見られるようであれば、菅総理に対する「信」も「民意」も一挙に無くなる。信用を築くのには時間がかかるが、信用を失うのは一瞬のことである。”

と書いた。事態はそのとおりになった。菅首相は私的諮問機関「復興会議」を初めとして、浜岡原発、1千万戸の太陽光発電などなど政権延命のためのパフォーマンスを演じたが、多くの国民はそのパフォーマンスに踊らなかった。菅首相は復興本部を立ち上げて自ら本部長に座ろうと目論んだが、その目論見は頓挫した。

菅首相は自ら立ち上げた原発事故調査・検証委員会で「私も被告」と言い、調査には全面協力すると約束した。しかし、その委員会の畑村委員長は「責任を追及しない」と明言している。首相の現地視察間、現地の吉田所長は首相に付ききりだったという。その結果ベントが2時間半遅れ、水素爆発による放射能拡散と核燃料のメルトダウンを引き起こしてしまった。このことを多くの国民は知っている。

「私も被告」というのが国民向けのパフォーマンスであってはならない。菅首相も東電幹部も吉田所長も今回の事故から今後50年後、100年後、1000年後に生きる教訓を遺すため、国民の前に自らの過ちを率直に認め、正しいことを語る責任がある。

男は最早自分の記事が強制的に削除されるようなことはないと思っている。54日に「もうこれでよかろう(20110504)」で始めたラベル「冬牡丹」の‘冬牡丹’は女房が好きな花の名前である。本日の記事をもって「冬牡丹」を終りにし、本日のような記事を書くことも終わりにし、明日以降新たなラベルで「日々是(死)支度」の後半に進もうと思う。

2011年6月8日水曜日

久しぶりの陶芸(20110608)

 男は久しぶり陶芸を楽しんだ。3週間前余った楽白の土と新たに黒泥1㎏とを使ってS先生の指導・手助けを得て白のストライプ入りの皿を作ることが出来るように予め形を作って乾かないようにビニール袋に包んで自分の棚に保管していた。それは次回適当な厚さにスライスし、形を整えればモダンな舟型の皿になるものである。

その皿を仕上げる作業は介護帰省のため1週休んで2週間後に行う予定であった。しかし横浜に戻った翌日母の入院の知らせを受けたため直ちにUターン帰省し、結局皿の形にする作業は3週間後になってしまった。男は折角作った材料が乾いてしまってスライスなど出来なくなってしまっていただろうと思っていた。ところが3週間経った後であったにもかかわらずまだ十分スライスできる柔らかさだった。

男は作ってあった材料をS先生の指導を受けながら7mmの厚さのもの3枚にスライスし、型にはめて同じ形の皿を3枚作った。出来上がった皿にそれぞれビニール袋をかぶせ、来週高台を付けて素焼きに出す予定である。素焼きが終わったら釉薬をかけて本焼きに出すことになる。男はこの皿が白のストライプ入りの黒泥土でできた皿であるので、釉は透明薬をかけるつもりである。S先生は出来上がった皿を見て「モダンな形ですね」と褒めてくれた。男はこの皿の形を揃えるためカットしたその形が気に入っている。

男は陶芸センターの傍の銀杏並木の道路の雰囲気が好きである。ここは昔本牧の海であったところが埋め立てられところに出来た施設で高架の自動車道路の傍にある。普段人通りも少なく銀杏並木と道路脇の植栽がある長い歩道が遠くまで続いている。その並木と植栽を隔てて自動車用の道路が並行して作られている。しかし車の通りも少ない。バスを降りてこの歩道を歩くと誰でも気持ちが安らぐのではないかと思う。男は母の介護などで陶芸を休むことが多いが、この気持ちの安らぎは何物にも代え難いので陶芸はずっと続けようと思っている。

陶芸センターの直ぐ傍に三渓園の裏門があり、陶芸からの帰りはその園内を散策しながら正門を出て、ちょっと歩いて大通りのバス停に行くことができる。昔は王侯貴族でないとそのような庭園を散策するという優雅な気分にはなれないが、今の時代はその気持ちさえあれば、王侯貴族のような気持ちでこの美しい庭園の中で時を過ごすことができる。

以前作っておいた底も縁も六角形にした皿が焼き上がっていた。これは赤7という土を使って型にはめ、たたらで作ったもので、辰砂という釉を掛け、縁に白萩という釉をちょっと付けたものである。持って帰って女房に見せたら「これはよく出来ている」と言ってくれたが、その後で「今度作るとき黄瀬戸がいいな」と注文がついた。このサイズの皿は使い勝手が良いので以前から作って欲しいと頼まれていたものである。

男は今度黒泥という土を使って急須を作ってみようと思う。これはロクロで作る。急須は初めてである。主婦でもありまだ子育て中のS先生はよく教えてくれる。男は田舎に帰ったりして時々休むことがあるが、この先生の教室で陶芸を続けたいと思っている。

2011年6月7日火曜日

販売員の言葉と表情(20110607)

 タクシーでKインターバス停までゆく。バス停でバスの到着を待っていると、一人の洒落た帽子をかぶっている齢格好60代の女性がやってきた。「お早うございます」と挨拶される。この地では見知らぬ人同士でも良く挨拶している。学童たちもよく言葉を出して挨拶している。田舎では人が少ないのでバス停など閉じられた空間で言葉も交わさずお互い黙っていることは心苦しい。見知らぬ人でもお互い気楽に会話を交わした方が楽しい。

その女性は福岡の天神まで行きそこで友達と落ち合うのだという。バスが天神に遅れて着くので待ち合わせに丁度よい、天神に着いたら携帯電話で連絡をとって待ち合わせるのだと言う。予定時刻ぎりぎりにもう一人の女性がやってきた。バスに間に合ったと安堵した風であった。バスの時刻表どおりバスが来ないことが話題になる。福岡から来るバスは大概遅れるが大分から来るバスはそう遅れないと初めに来た帽子姿の女性が言う。後に来た女性は、バスが遅れることが普通なのでそのつもりで23分遅れてバス停に来るとそういう時に限ってバスが時刻表どおりに来たりして1時間以上も次のバスを待たなければならなかったことがあったと笑いながら話す。女房は「そうですよね、だから私なんかはいつもバスが時刻表通り来ることを前提にしてバス停に来るんです」と相槌を打っている。

バスは15分ほど遅れて到着した。バスに乗って1時間ちょっとで博多駅交通センターに到着した。新幹線の発車時刻まで50分ほどある。その間に弁当など買う。新幹線の切符は昨夜インターネットで購入してある。座席は12号車中央窓際DE席である。自動発券機にJR東海のエキスプレスカードを差し込むと購入した座席の表示が出て、発券中「発券しています」と自動アナウンスが出る。

新幹線のぞみ1xx号臨時列車は定刻通り博多を出発した。臨時列車とういうのに客車内はがら空きである。いぶかっていると広島あたりから乗客が増え始めた。新大阪からほぼ満席になった。男も女房も「そうなんだ」と臨時列車のことを納得した。

博多から乗務した車内販売の売り子の若い女性に男はコーヒーを注文した。女房はまだコーヒーは要らないというので、男はその売り子に冗談っぽく「この人はまだコーヒーは要らないって」と言った。するとその若い売り子は表情一つ変えず「また後で戻ってきます、そのとき承ります」と言って去って行った。

女房はその様子を見て「可愛くないわねえ、あの娘からは買わない」と言う。男は「あの娘はまだ若いからだよ、社内訓練が足りないのだ」と言う。すると女房は「あれは性格だわよ、もちょっとにこっとするといいのに」と言う。男は「そうだよな、にこっと笑顔を見せてものを言えば、もっと売れるだろうにね、性格は変わらなくても行いは訓練で変えられるはずだ」と言う。と言いながらも作った笑顔では相手に通じないだろうと思う。

暫くしてその売り子が戻って来て、今度は笑顔で「コーヒー要りますか?」と言う。女房は首を横に振る。男は先ほどのコーヒーを女房に半分あげていた。それで十分だったこともあるが、その子の性格とセールスの下手さが一人の顧客を失った感じである。

2011年6月6日月曜日

真っ赤な大きな沈む太陽(20110606)

 昨日も夕方になって里山の農道を散歩した。一日たつと稲作を終えた水田が多くなった。農道の両側の田圃でしきりに蛙が鳴いている。近づくとその鳴き声はぱっと止む。確かにここで鳴いていたと思うが蛙の姿は見つけられない。女房は「お昼だと姿は分かるが夜は暗いので見つけられない」とつぶやく。

 それでも赤べこと読んでいたいもりが何匹も水の中で這いつくばっているのがわかる。ちっと離れた田圃に青鷺が4、5羽居る。彼らはいもりや蛙などを見つけて食べるのだろう。ホタルはまだ出ていない。きっとこのあたりにはホタルが生息しているはずである。

今の時代の稲作は機械で行い、薬剤を入れて稲以外の草を枯らし、農薬を散布し稲の葉を食べる害虫を殺す。男が子供の頃の稲作とは全く違う。しかし稲の田圃が一面に広がり、水量が豊富な農水路が縦横に沢山あるこの地帯は、男が子供であった頃の風景と似ている。男が子供の頃、遠くの寺や神社が見通せた田園地帯はすっかり市街化されて昔の面影は全く無くなっているが、ここにはその頃の風景がある。

 男は女房に「お前は来世ではきっと素晴らしい人生になると思うよ」と言ったら、女房は「今の人生でも素晴らしいわよ」と言う。男は「これからは此処で花を育てるとか、花を観て回るとか、花の絵を描くとか、写真を撮って後でテレビに映し出して観賞するとか、これからこの地で楽しい思い出を沢山作ろう」と女房に提案した。女房はその提案を否定しなかったが「私が撮るのは風景でなくて花の写真だよ」と男にくぎを刺した。

そう話しているうちに家々がある一角まで歩いてきた。もう8時近くになっているのに灯りが点っている家は殆どない。ある家の庭で一台の小型トラックがあり、荷台の上で女性が水で荷台を洗浄している。女房が「これからご飯をつくるのだろうか」と言う。男は「多分誰かがご飯を作っていると思うよ」と言う。農家はこの時期朝から晩まで大変忙しい。男と女房はあたかも働く人たちの目を避けるように、こうして夜道を歩いている。そのつもりではないのだが、たまたま夕方になって運動のため散歩に出かけたのである。

農水路を挟んで小さな橋がかかっているところに、「カメラスポット」と書かれた看板が立っている。女房は「何だろうか」と言う。男は「さっき大きな夕日が沈むのを見たよね、ここは多分その入り日を観る絶好の場所ではないのかな」と言う。女房は「そうだよね、きっとそれに違いない」と納得した。雨上がりのもやがかかった盆地の山に沈む太陽はこれまで見たこともないような大きいな丸い真っ赤な太陽だった。雲一つない夕空の、黒い山並みの彼方に沈む真っ赤な大きな太陽はこの地でしか見ることができないだろうと思う。

 頼山陽は『日出る処』という作詞で「日出る処、日没する処」と詠った。日出る国では今一国の太政大臣に対し「辞めろ、辞めろ」の声が日に日に高まって来ている。日没する処の国ではその様子をじっと注視していることだろう。その国の恰幅の良い大男の将軍は、日出る国の、内心腸煮えくり返る気持ちでいる兵士たちの歯ぎしりを横目で見ながら、日出る国に対して次の一手を考えているかのように見える。

2011年6月5日日曜日

NHKテレビ番組・若年アルツハイマー型認知症(20110605)

 男は母にアルツハイマー型認知症という病気について説明していた。表現はぼかして、「誰でも齢をとってくると物忘れがひどくなる。アルツハイマー型認知症と言う病気になったらそれが一層ひどくなり、泥棒にやられていなくても‘泥棒に盗られた’と言ったり、お母さんを世話している人に向かってひどいことを言ったりするようになる、そのようなことにならないようにするため昨日お医者さんから薬をもらったでしょう、その薬をきちんと飲んでおけばその病気の進行を抑えることができる、薬は毎朝忘れずにのむように」と言っていた。本当はその薬を飲んでいても病気が治るわけでなない。そう言ってしまえば希望をなくすと思うので、そのことについてははっきり言っていなかった。

 たまたま女房が新聞に出ているNHKのテレビ番組で、午後2時から若年認知症のことについて放送されることを知った。午後3人でその番組を観ることにした。これは偶然と言えば偶然である。朝、母にアルツハイマー型認知症のことについて話したばかりなのに、午後そのことにつてテレビを観ることになった。

男はこのような偶然をこれまで何度も経験している。それは偶然と言えば偶然である。しかし見方を変えれば、それはブッダによる‘必然’である。お釈迦様は、「仏はあらゆる方便をもって衆生を導く」と教えて下さっている。従い、アルツハイマーの母と母を介護する男と女房の3人でこのテレビ番組を観るということは、正にブッダのお導きである。

テレビ番組を観終えて母はアルツハイマー型認知症がどういう病気であるということを理解した。失禁をしてしまったり、歯をみがこうとペーストを付けた歯ブラシをまた元の場所に差しこんでしまい、どうしても歯を磨くことができなかったりと、介護する側が患者の心理を察していろいろ配慮してやっても、患者自身は自分がしたいと思うことが自分の思いどおりに出来なくなる。結局それが欲求不満になって介護する者に対して怒りの感情を爆発させる。それは生身の人間の本能的な表現である。男も女房もこれまで得ている知識以上の知識をこの番組で得ることができた。

男は母に自分たちが明朝横浜に帰ることを伝えた。母は男に「あんたたちに迷惑をかける、ごめんね」と泣きながら言う。男は母の肩に手をやり、「安心しな、わしらがよく看るから心配は要らん、明日一旦横浜に帰るがまたすぐ戻ってくる、自分の部屋でテレビを観ながらちょっと昼寝をしな」と言ってひとまず安心させた。

後ろ髪を引かれる思いはあるが、母がヘルパーなどの支援を得ながら独り暮らしを出来る間は、なんとか頑張ってもらわねばならぬ。女房を一旦この現場からを離れさせてリフレッシュさせないと先が続かない。昨日男は一つの部屋を男専用の部屋にするため書棚の中にあって何十年も埃をかぶっているものを撤去し分類して箱詰めにし、別の場所に移し、書棚の中をクリーニングして、老々介護‘単身赴任’時、自分が必要な本などを入れられるようにした。母の介護体制を徐々に準備しておかなければならない。次は女房の居場所を作ることである。男は寅さんの「男はつらいよ」の気持ちが分かる。

2011年6月4日土曜日

アルツハイマー型認知症の薬 (20110604)

 母はこれまでアリセプトDという薬、一錠3㎎のものを処方されて2週間毎朝一錠づつ服用した。母をタクシーでH市のU病院まで連れてゆき、診察を受けさせた。今度は5㎎のものを4週間分処方してもらった。

 この薬は学習障害意を改善するとともに認知症症状の進行を抑え、脳の活動を活発にする作用があるとされている。副作用としては食欲不振、吐き気や便が柔らかくなること、活発になりすぎることなどがあるとされている。しかし母の場合、この2週間そのような副作用は全く無かった。

 この薬は、「もの忘れ」「一度言ったことを何度も繰り返す」「意欲の低下」などの症状に効果があるとされている。この薬は老化によるもの忘れの進行と並行する形でアルツハイマー型認知症の症状の進行を抑えると考えられている。そして、もし途中でこの薬の服用を止めた場合、その症状が急に進行してしまうとされている。

 母の場合、自分の症状が進行することを恐れているので、今のところ毎朝忘れずにこの薬を飲んでくれている。母には薬の副作用のことは話さないことにしている。その理由は、もし話してしまえば母は自分の食欲が無くなったりしたとき薬のせいだとして薬を飲まなくなってしまうおそれがあるからである。しかし女房の考え方は違っている。女房は「母は食欲がなくなったとか便が柔らかくなりすぎたとしても薬の服用は絶対止めないだろう、だからまだ頭がしっかりしているうちに薬の副作用のことを話しておいた方が良い、その方が親切である」という。そうかもしれない。判断が分かれる。そこでこのことについては暫く様子をみることにした。

 男も女房も一旦横浜に戻り、母を以前のように独り暮らしさせるつもりでいるが、ご近所の方々には迷惑をかけないようにいろいろ対策を講じている。一昨年台所はIHにした。母はこれを使うことに慣れている。仏壇ではローソクの代りにローソク状のライトにした。線香は使わないようにした。ご近所にはそのことを話して安心してもらった。

 昨日いつも気にかけてくれているお巡りさんが訪れてくれたので、母のことなどについていろいろ情報を伝えておいた。そのお巡りさんはアルツハイマー型認知症の母親を抱えて苦労したという。そのお巡りさんは職業柄、母を施設に入れることをしきりに勧める。男は、母を施設にいれる時期は母の症状の進行度を判断して決めるしかないと思っている。

 薬を服用していても症状は確実に進行して行くだろう。状況の変化を把握するため、母との頻繁な電話連絡、在宅介護サービスを提供してくれている組織との密度の濃い連絡、これまで以上に頻繁な介護帰省をしなければならないと思う。

 H病院に『アリセプト手帳』が置いてあったので数冊貰って帰った。これには症状を毎日細かく観察しチェックするシートが綴じられている。エンジニアが機械のパフォーマンスチェックをするように、毎日アルツハイマー型認知症の患者である母をチェックするのが一番よいが、その体制に入るのはもうちょっと先でよいだろうと男は思っている。

2011年6月3日金曜日

黄昏時の散歩 (20110603)

 たまにこの家に帰ってくるといろいろしなければならないことが多い。風呂の水栓の鎖が駄目になったので新しい丈夫な鎖を買ってきて取りつけたり、居間の蛍光灯が駄目になったのでグローランプと一緒に新しい物と取り換えたり、台所の換気扇が駄目になったので新しい物と取り換えたり、短い滞在期間内に男は精力的に働き回っている。そんな一日を送った日の夕方、ケアマネージャーのAさん帰宅途中立ち寄ってくれた。母の介護のことで女房といろいろと話し合っている。

 夕食を終えた後女房が「散歩しよう」という。今の時期夕日が沈むのは遅い。男と女房は黄昏時に水路に沿った小道を歩いた。初めは舗装された道であったがそのうち昔ながらの自然の道になった。「蛇が出てきそう」と女房はその先に進むのを嫌がったが男は「大丈夫だよ、人が歩けば蛇の方から逃げるさ」と言って草も生えているその道を進んだ。

 道の下の幅2メートルほどの水路は勢いよく流れている。「危ないね、落ちたら流されてしまいそう」と言う。男は「大丈夫だよ、この辺の子供は慣れているさ」と言いながら自分が子供の頃そのような水路で遊んでいたことを想い出していた。男は子供の頃夕食が終って汗を流すため流れが結構早い用水路に入り流れに沿って平泳ぎで下ったものである。時々上流から蛇が首を上げてくねくねこちらに向かって泳いでくることもあった。

 水を張った田圃で蛙がしきりに鳴いている。鳴いている蛙を見つけようと傍によって見るのだが見つからない。昔男が子供の頃やったことがあったように土をこねあげて作ったあぜが出来ていて水を引く準備が出来ている田圃がある。見るとその田圃の一部に鍬を入れたあとがある。其処はこれから耕運機を入れる準備が出来ている田圃だろう。田圃の間の道をかなり歩くと家が5、6軒ある集落に着いた。まるでお城の石垣のように大きな石を積んだ高台に瓦ぶきの大きな立派な家が建っている。石垣の角は緩やかな曲線になっていてまるで史跡の石垣のようである。石には苔が生えていて如何にも古い石垣のようである。しかしその石垣には地下水を逃がす樹脂製のパイプが規則的に配置されている。このことからその石垣は古くないことが分かる。多分この家は古い旧家の資産家なのだろう。

 その石垣の下の道を通り山の方に向かう。遠くにお寺が見える。其処は男の亡父の墓がある寺である。其処まで行くと日が暮れて暗くなってしまいそうなので途中で右折し帰路につく。途中でどうも農家の人でない人が家庭農園としているらしい一角がある。トマトを2、3本、茄子を2,3本と幾つかの種類の野菜の苗を植えてある。その一角のすぐ下は幅1メートルくらいの水路で水が勢いよく流れている。男は「これは多分町営住宅などに住んでいる人が作っていると思うよ。水はつるべで汲み上げて撒くのだろう」と言うと、女房は「水の勢いで落としたつるべに引っ張られて落ちてしまいそう」と言う。男はそうかもしれないな、俺は大丈夫だが、と思った。

 赤い夕陽が山陰にまさに沈もうとしている。夕暮れの農道を歩きながら、男は「この風景は俺の原風景だ」と言ったら、女房も「私の原風景も同じよ」と言った。

2011年6月2日木曜日

行方不明になったある老女の話(20110602)

 ある町である独り暮らしの老女が散歩にでたまま行方不明になってしまってもう10日も経つという。その老女が山に向かう道を独りで歩いている姿を見かけた人がいるという。人の噂話には尾ひれがついていて、実はその老女は息子との折り合いが悪く、老女は世をはかなんで死を選び、自ら山林に入り込んでしまったのだという。

そういうこともあったかもしれない。息子は都会暮らしをし、その息子が連れ添った妻と息子の母親とは馬が合わなかったかもしれない。姑と嫁は年齢はもとより家庭環境も文化も違う。その上女同士で反発しあう。昔は姑が強く嫁は泣きながら姑に仕え、夫は勤めに出て家のことは嫁にまかせっきりで良かった時代であった。そのような時代なら息子は妻から泣かれたとしても突き上げられるようなことは無かったかもしれない。

しかし時代は変わって‘女’へんの‘家’と書く嫁はいなくなった。そもそも女は他家の者になるのではなく、夫と新たな所帯をもち、夫と力を合わせて一つの家庭を作り上げてゆくものである。そういう時代であるから息子はいくら自分の生母の老後を良く看たくても妻が同調しない状況が必然的に起きる。ところがその息子の親の世代、おおむね80歳以上の年代の女は一般的に古い考え方をする。その上自分の老い先は誰にも頼らず自分で処するという能力ももっている人は少ない。今は過渡期であろう。

 男は独り暮らしの92歳の継母がその話の老女と同じようなことにならないように、いろいろ対策を講じている。認知症の症状が進んでくると散歩に出たまま何処かとんでもないところに行ってしまうかもしれない。そのとき「ああしておけば良かった。こうしておけばよかった。」と後悔しても遅い。何でもそうであるが最悪のことを想定した事故予防対策を講じるための費用と時間を惜しんではならない。一旦事故が起きればその処理のためにその倍以上の費用と時間がかかるものである。‘想定外’は不誠実な言い訳に過ぎない。

 男は母が外出するとき押して行く車にaumimamori2というGPSで居場所がわかる携帯電話を取りつけた。これは母がこの押し車を押して外出するときは、男が横浜に居ても母の動きがわかるようになっている装置である。問題はこの電話機のバッテリーがあがってしまわないように、時々充電をする必要があることである。男はその充電を時々ヘルパーさんにお願いしようかと考えている。ヘルパーの作業指示書の中にそのようなことを書いてもらうことはできないかどうか、ケアマネージャーに相談してみようと思う。もっとも、この携帯電話機は不使用のときは電力消費を極力抑えるようになっている。電源オフという機能があって見た目には電源が切れているように見えるが位置は確認できる。

 そのうち男は74にもなって単身赴任のサラリーマンのようにこの家にちょっと長く滞在したり、女房がやってきて男と交代したり、この家で母と男と女房との3人暮らしをちょっとだけ長くしたりするような生活をしなければならなくなるだろう。その間にショートステイなど公的介護サービスをうまく利用しながら、時には男と女房の二人だけの暮らしを確保する。そのような期間はそう長くはないと思うが決してゼロにはならないだろう。

2011年6月1日水曜日

蓮華草の田圃(20110601)

 男というものは自分の子供の頃があることを別に置いて、年老いた愛する妻の子供の頃のことを想像して一層その妻のことを愛おしく思うものなのかもしれない。男は子供の頃家に農耕用の牛を飼っていたので、竹で編んだ篭を背負ってその牛の餌にする草を刈りに出かけていたものである。女房も子供の頃同じようなことをしていたという。

 昨日は快晴で温暖な日であった。男と女房は道の両脇にのどかな里山の田園が広がっている舗装された農道をゆっくり散歩した。丁度田植えの時期であり、あちこちで小型トラクターがゆっくり移動しながら水が張った田圃を耕している。男はそのような農業用の自動機械を操作した経験がないので、農家の人がトラクターに乗って田圃を耕す様子を見て農家の人たちは凄いなと思った。人生に‘もし’はないが、もし自分が若い時から農業に従事していたなら、自分もその人と同じようなことをしていることだろうと思った。

 村に入るとその道路わきに牛が10頭ぐらい飼われている牛小屋があった。牛たちがこちらを向いている。男の呼びかけに牛が応えることを若干期待しながら、男は牛に向かって「ンもー」と言ってみた。ふと原発被害に遭っている福島の農家の人たちのことを思った。避難を余儀なくされている人たちはこのような牛を見殺しにしなければならなかったのである。「本当に可哀そうだよね」と、ぽつんと女房がつぶやいた。農業の経験も無く都会暮らしをしてきた政治家たちに避難した農家の人たちの心の痛みがわかるだろうか。

 4歳の時以来男の家の後妻に入った母親と別れ、大家族の末娘っ子のように可愛がられて育った女房は「わたし学校から帰ってくると裏のCちゃんと一緒に篭にかまとみかん一つ入れて田圃に生えていた蓮華草を刈りに行っていたわ。Cちゃんは学年が二つ上だった。蓮華の花がいっぱい咲いている田圃を見つけてその中に入り、しゃがみこんで草を刈ったものよ。疲れてくると‘みかんを食べよう’と言って一緒にみかんを食べていた。あの頃、田圃の蓮華草は自然に茂っていると思っていたわ。あれは田圃の肥料にするため農家の人が種を蒔くんだって。この間叔母さんがそう言ってた」と昔の思い出を語る。その頃男の父親は教職に復帰して汽車で3時間ぐらいかかる遠方に赴任して行っていたため、家には父親も継母もいなかった。子供の頃の男と弟は祖父母に育てられていたのである。

そういうわけで男も子供の頃女房と同じようなことをしていた。蓮華草がいっぱい咲いているところでかまを水平に移動させ、刈った後が白っぽく変わるほど綺麗に刈ることを得意がっていた。田圃の持ち主から叱られたことはなかった。時には同じ村の友達とその田圃で野球ごっこをして遊んでいた。自分にもそのような頃があったことを脇において、女房が自分の子供の頃のことを語るのを聞いて「お前も苦労してきたな」と思う。男は「田圃の持ち主が何も言わなかったのは小さい女の子が二人牛の餌にする蓮華草をちょっとだけ刈り集めたとしても大した量にはならないと思っていたからさ」と女房に言った。多分一人前扱いされる中学生ともなれば「勝手に刈るな!」と怒鳴られたことだろう。

 男は女房と二人で里山の田園風景の中を散歩しながら、自分の人生を振り返っていた。

2011年5月31日火曜日

20110531アザミの花


 午後母は退院した。昨日「明日午後2時に退院だよ。」と母に言って、しばらくしてから「退院はいつ?」と聞いてみた。母はすぐ忘れていて「朝10時。」ととんちんかんな答えをしていた。今日迎えに行って「朝ごはんは何だった?」と聞いたら「ご飯とみそ汁と、・・と。」と答える。「お昼ご飯のおかずは何だった?」と聞けば幾つかの品をあげて答える。男はそれが正確な答えかどうかは実際のメニューを予め調べていなかったのでわからない。しかし母の記憶の状況は薬のせいかしっかりしているようである。

 K先生は「(母の認知症の症状は)良かったり悪かったりしますよ」と言う。まだらボケで良かったり悪かったりしながら、母のアルツハイマー性認知症は確実に進行して行くのだろうと思う。母の症状はまだ発症初期の段階である。

 昨夜テレビで森重久弥と高峰秀子が演じる『恍惚の人』が放映されているのをたまたま見た。偶然と言えば偶然である。しかしこれは男と女房がこの映画をテレビで見るべくして見た‘必然’だったのだろうと男は思う。女房は腹を抱えて笑いこけている。森重久弥演じる痴呆老人は「もし、もし」とつぶやいて相手とコミュニケーションをとっている。この老人はいろいろ問題行動を起こすが、高峰秀子演じる嫁を「お母さん」と読んで甘えている。可愛さがある。一般に男が痴呆になったら可愛さが出てくるのではないかと思う。

 母は今日午後2時に退院する。そこで男は1時間ほど前母が入っていた病室に行き、母に「2時近くになったら来るからね。それまでテレビを見ていなさい。と言って母が寝たままテレビを見ることができるようにしてやった。母はリモートコントロールの操作器のらせんコードが伸びることを理解していず、男がコードを伸ばしてやったら、母はベッドに横たわったままテレビを見ることができることを初めて知ったようだった。
 
 久しぶりに今日は天気がよい。男はK病院を出てK町の中央を流れる川の辺を散歩した。太古の昔火山が噴火したあとに出来たこの盆地の中を流れる川の風景は美しい。男はこの風景が好きである。何度見ても飽きない風景が此処にはある。25分前に母の病室に着き退院の支度をした。病室のすぐ前が看護ステーションである。看護師の女性たちに「お世話になりました。またお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と言うと、今回のようなことは度々起きているので看護師たちはにこにこ笑いながら、「はい」と言う。
 
 母を家に連れて帰ってしばらくして、女房が「散歩に行こう」と言う。二人で農道を散歩した。田圃に引く水路の水が勢いよく音を立てて流れている。小型トラクターで田を耕しているそばに何羽もの鳶が動き回っている。彼らの狙いは田を耕すと現れる小動物である。一羽が何か捕えてすぐ舞い上がった。女房は「ほら、見て!」声をあげている。

 道端の水路の脇にアザミが沢山紫色の美しい花を付けている。女房が一つ二つ手折って「綺麗!」と歓声を上げている。男は「俺が取ってやろう」と言うと、「とげがあって痛いわよ」と遠慮している。男は勢いよく4つ、5つ手折って女房に渡してやった。その花はコップに活けられて、女房が立つ台所の水道口のところに飾られていた。

2011年5月30日月曜日

老々介護の行動計画(20110530)

 男は母の介護について女房とよく語り合った。昔から常にそうであっただろうと思うが、例えば戦国時代の武将は、当時のある意味では企業経営が競争相手によって領地の存続が危機にさらされたとき、その危機の対処について子まで設けた妻との間でいろいろな苦悩があっただろうと思う。そのとき戦国武将たちは何かの決断をし、その結果起きたことについて自ら責任を負ったと思う。また妻たちもそれぞれ決断をして自らの身を処したと思う。それが語り継がれ、後世の作家たちによってドラマが作られ、人々はそれを読みまたは映画を見て何かを感じ何かを得て、それぞれその人生の糧としているのである。

 男は軍隊がある状況に直面したとき状況を判断し、状況に対処するため行動計画を策定し、状況に対処するように、自分や女房に関わる問題の解決をしようと思う。それは軍隊に比べれば針の先ほどちっぽけな状況であるが、ものの考え方は基本的に同じである。

男は母の介護計画の策定にとりかかった。状況の判断において男はフィードバックを重視した。どんなシステムでもよいアウトプットを得るためには負帰還(ネガティヴフィードバック)が重要である。女房ととことん語りあうことはその一つの方法である。

こうして男は先ず二つの方針を立てた。その一つは「人の道から外れないこと」である。母の介護のため田舎に例え一時的にせよ居を移すことが必要になる。そのため男も女房もそれぞれの何かを犠牲にしなければならない。そして何年か何年先かわからないが母がこの世を去った後、少なくとも母の弟妹たちが元気な間は、この田舎の家を守り法事などを執り行い親類づきあいをきちんと行わなければならない。自分たちが世を去った後も先祖の祭祀が継続されるようにしておかなければならない。それが人の道を踏むことである。

もう一つは夫婦が力を合わせてこれまで築きあげたものを大事にすることである。これは第一の方針と同様の重要度をもつ。二律背反にならぬように知恵を絞る必要がある。時間の経過とともに状況は変わる。常に状況を判断しながらこの二つの方針を貫く。そしてその下で行動の実施要領を決定し、それを常に見直しながら実行してゆく。

 一旦行動計画の概要が固まれば、後は実行あるのみである。二つの方針をしっかり守り、フィードバックを得ながら常に状況を判断し、実行してゆく。馬鹿な考え休むに似たり、ただ前に進むのみである。但し柔軟な思考をしながら行動あるのみである。

 男はこのようにして今後痴呆度が徐々に進んでゆく母の介護を行って行くことにした。明日、母は退院する。数日後母をH市の病院に連れて行き、その後数日間様子を見る。その間男と女房は先日母の為買ったaumimamori2によるネットワークと地域の介護システムの関係者と携帯電話によるネットワークを維持しながら、帰宅までの所要時間が数時間の範囲内のところで旅行などをし、45日間母を以前のように独り暮らしさせてみる。そして帰宅し様子を見てその後1カ月間以上独り暮らしが問題なく出来るかどうか判断し、大丈夫と判断されれば次回は8月のお盆休みまで帰って来ないようにしようと思う。

 しかし寒冷期に入る今年の晩秋時期以降は、独り暮らしは無理だろうと思っている。

2011年5月29日日曜日

雨だれの音 (20110529)

 今朝は雨である。女房はまだ眠っているが男は胃腸の調子が悪くお腹にガス溜まって張ってきて目が覚めたので5時過ぎに起き、男がインターネットに公開している吟詠の6月の吟題・嵯峨天皇の『山の夜』の解説を書いている。

軒下の出窓の屋根を叩く雨だれの音が聞こえている。この家は築40年以上経っているが、まだ天井に雨洩りはないようである。しかし雨が降ると窓際の天井をポトンポトンと叩く音があり、屋根瓦の隙間から多少の雨水が落ちているのではないかと思ったりする。

 嵯峨天皇の『山の夜』は嵯峨天皇が即位後間もないころ、谷川のほとりの山荘に居住したときお作りになった歌である。田舎に住んでこのようにして文を書きながら雨だれの音を聞くと、此処は嵯峨天皇が住んだ奥深い山荘ではなく田舎の町中であるが、嵯峨天皇が若き頃住んだ山荘の様子を想像し、1200年ほど前のイメージを重ねた感慨がある。

 ちなみに、嵯峨天皇(786824年、桓武天皇の第二皇子で第52代天皇)の御製である。嵯峨天皇は幼時から聡明で文武兼備の不出世の天子であったと言われており、漢詩人で書家でもあった。母方の先祖は後漢の霊帝の後裔で坂上田村麻呂と同族の坂上氏である。

その先祖は阿智使主を祖とする漢系渡来氏族(東漢氏)の一族である。阿智使主は後漢の霊帝の後裔と言われており、『日本書紀』応神天皇209月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」とある。何十万人とも言われる帰化人たちは後の日本の文化発展に大いに寄与し、皆日本人になっている。
『山の夜』という漢詩はつぎのとおりである。

  山夜 嵯峨天皇

移居今夜薜蘿眠 夢裏山鶏報暁天
不覺雲来衣暗濕 即知家近深渓邊

   居を移して今夜薜蘿(へいら)に眠る
夢裏(むり)の山鶏(さんけい)暁天を報ず
覚えず雲来たって衣(ころも)暗(あん)に湿う
即ち知る家は深渓(しんけい)の辺(ほとり)に近きを

薜蘿とは薜茘(まさきのかずら)と女蘿(つたかずら、さがり苔)のことである。薜茘は常緑の低木で蔓生であり、女蘿は苔の一種で地衣類である。

この詩の意味は、

   今夜は宮中から出て山荘に宿す。
辺りはまさきの葛や下がり苔が垂れ下がった深い森の中である。
ぐっすり眠っているとき、山鳥の声で目が覚める。夜が明けて来たのだ。
いつのまにか曇り空となり、着ている衣服もじめじめとしてきた感じである。
これは、この山荘が深い谷川のほとりに近いところに建っているからである。

である。

2011年5月28日土曜日

別府に遊ぶ(20110528)

 別府は昔から湯の町であり、色町であった。流川通りは現在舗装された公道になっているが、昔は文字通り川で川の両側に温泉宿が立ち並び艶っぽい風情があったそうである。昔の川は公道の下に埋められた管路の中を流れているという。

 男の生母は別府で生まれ育った。生母の祖先は江戸時代K藩の藩士として奉行職を務めていたが、明治維新後別府に移り住み宝石店を営んでいた。男自身戦前の幼少時から戦後の少年時代にかけて別府とのかかわりがあり、男は別府にある種の懐かしさを感じている。

 母が入院した知らせを受けて男と女房は急きょ母が独り暮らしをするK町の家に帰ってきた。帰って来たときは家の内外のことでいろいろすることが多く、女房は生来の優しさで老いた母が可哀そうに思い、これまで母のため精一杯尽くしてきた。

女房は母にとって実の娘ながら4歳の時以降母と一緒に暮らしてはいず、どういうわけか母自身も女房のことを自分の娘と言うよりは、自分の面倒をよく見てくれる、ある意味では自分の家の家政婦のようである。女房は高校2年のとき男の家の養女となり、戸籍上では男と兄妹の関係にあった。そのころ男は既に社会人として自立した生活をしていたので、女房と一緒に暮らすことはなかった。ある日男の父親が「お前はあれと一緒になれ」と言った。男は素直に「はい」と言って女房と夫婦になった。以来50年近くなる。

 母の前世は御姫様と思われるほどに母は炊事が苦手である。母によれば「私は小さい時から大事にされて育った。家事手伝いなど一切したことがなかった。」という。男の父親にとって母の作った料理は誰にでもできるようなものばかりで、後妻である母の料理を喜んでいた節はなかった。男の父親と母の間に60を過ぎた娘が一人いて遠くに住んでいる。

 一方男の家に来た女房は高校2年の時以来、寒い冬の日でも期末試験があったときでも炊事をさせられていた。お陰で女房は家事一般のベテランになった。女房はこの家に帰ってきたときは母のためこまごまと精一杯働き、気疲れし、体重を減らし、横浜の家に戻ったときはいっぺんにどっと疲れがでてしまうことがたびたびある。

 そこで男は雨天のため渋っていた女房を別府の温泉に連れて行った。泊った宿は別府の老舗Sホテルである。男と女房はツインベッドが二つあり和室も付いている大部屋で12階の見晴らしの良い部屋に泊った。此処は大浴場のほか眺めのよい場所に大きなたらい型の一人専用の露天風呂が45つあり、サウナもある。食事はバイキング方式がおすすめである。料理の種類や質や内容が非常に良かった。スイーツも高級なものがバイキング方式で食べることができた。女房は「お父さんと一緒の誕生祝いだね。」ととても喜んだ。

 高速バスで別府に着いた日、雨の中「うみたまご」という水族館でたっぷり遊んだ。其処は平日で雨天ということもあって入館者が少なかった。男と女房は若い女性が訓練中のゾウアザラシの動きを見て、おかしくて仕方がなく、女房は腹の底から笑っていた。

翌日は観光バスで地獄めぐりをした。この12日の小旅行は男と女房にとって最良の思い出となった。男は女房の一代記を小説にして書いておこうと考えている。

2011年5月27日金曜日

未来の大地震災害 (20110527)

 IAEAが日本政府の要請に応じて今回の福島第一原子力発電所事故について調査を始めた。メルトダウンの原因となった海水注入による炉心冷却の遅れがなぜ起きたか、そこに指揮命令系統の欠陥がなかったかどうかまで調べてくれると良いと思う。

 事故考査委員会が政府内に作られるということであるが、それはおかしい。国会内に独立した機関として作られるべきである。さもないと、今回が天災ではなく人災であることが浮き彫りにされないだろう。たとえ人災であることが明確にされたとしても、人災を起こした責任者は罰せられないだろう。誰の責任に帰するか不明確になるだろう。

 今回の巨大地震は約千年前の貞観地震の規模とほぼ同じであることが分かっている。以下2011518日付け読売新聞の記事を引用するが、西暦869年の貞観地震を挟んで、日本各地で天災が発生している。今度の巨大地震で通常の地震以外の地震が多発しているが、これは約1000年前の状況に似た天災が起きる前兆かもしれない。そうならなければようがと祈るばかりである。

オカルト的な思考を冷笑する人たちは、天皇陛下が捧げている祈りを無視するだろう。靖国神社にも参拝しようなどとは思わないだろう。しかし男は、人は大自然に対して謙虚であるべきであると思っている。男も女房も、常に‘見えざる背後’のお陰を感じ続けている。「不思議だねえ」と顔を見合わせることが良くある。

    850年     出羽(山形)地震 最上川を逆流した津波が国府に迫る
    863年     越中・越後(富山・新潟)地震 圧死者多数、海の小島が壊滅
    86466年   富士山が噴火。溶岩流で青木が原樹海できる
    864年     阿蘇山(熊本県)が噴火、3年後にも噴火
    868年     播磨(兵庫)地震 官舎や寺がことごとく倒壊。
    869年     貞観地震
    871年     鳥海山(秋田・山形県)が噴火。
    874年     開聞岳(鹿児島県)が噴火。
    878年     関東地震 相模、武蔵で大被害。平安京でも揺れを感知。
    880年     出雲(島根)地震 神社や仏閣が倒壊。
    881年     平安京(京都)地震 翌年まで余震続く。
    887年     西日本地震 平安京ほか各地で大被害、大阪湾に津波来襲。
        南海・東南海連動地震の可能性。
    888年     八ヶ岳(長野・山梨県)が噴火。

  災害は忘れた頃にやってくる。人々が大自然を恐れ、大自然に祈り、謙虚な気持ちになっておれば、大自然の恐ろしさを出来るだけ避けようと皆努力するであろう。

  一発の核ミサイルでこの国は乱れ、平安を失う。人々の平和な幸せな暮らしを失う。何事も備えあれば憂いなしである。自分以上に国の為、共同社会の為働く心が大事である。

2011年5月26日木曜日

脳梗塞(20110526)

 母が緊急入院した。緊急といっても母は自分の頭がふらふらして痛かったので、不安になって自分でかかりつけのK病院に行って診察を受けたら即入院ということになったものである。

 地域で要介護の年寄りたちの面倒をみてくれている社会福祉士Aさんが、独り暮らしの母を見守ってくれていて毎日立ち寄って様子を見てくれている。昨日夕方も立ち寄ったら不在であったので心配して病院に問い合わせたら入院したということであった。

母は着の身着のままで病院に来たので戸締りもしていなかったということを看護師さんに話したら看護師の方からAさんに連絡してくれた。Aさんは同僚の女性と二人でわが家に来てくれて戸締りをしてくれて、服用中の高血圧やアルツハイマーの治療薬など必要なものを病院に持って行ってくれた。

横浜の家に帰って来たばかりの翌日である昨日の夜Aさんから男の方に母が入院したという連絡が入り、男は急きょインターネットでJRの切符を購入し、今朝早く新横浜を発ってドアツードアで7時間半かけてこのK町のわが家に帰りついた。男と女房は中一日置いただけでトンボ帰りのようにしてこの町に舞い戻って来たのである。都会に住んでいながら田舎で独り暮らしをしている90歳を過ぎた年寄りの面倒を看るということは、このようなことが度々起きるであろうことを覚悟しなければならないということである。

お互い顔見知りが多い小さな地域社会ではこのようにして独り暮らしのお年寄りを支えてくれている。大変有り難いことである。しかし男のように要介護者の家族が1000キロ以上も離れたところに住んでいるという事例は他にないらしい。

 男と女房は母のかかりつけの医師K先生に会って母の病状について説明を受けた。K先生によれば、母の診察のときスポットライトを母の目に当てて動かしてみたが母の眼球の動きがにぶかったという。脳のCTスキャンをしたら過去に起きたと思われる脳梗塞の痕が幾つか見つかった。白い小さな斑点のようなものが何枚かの写真に写っていた。今後の治療のため、数日後母の脳の状況について精密検査を行うことになった。

 老々介護は悪いことばかりではない。介護帰省のための鉄道や航空機の利用は気分転換となってこれまた楽しいことである。今日の新幹線の旅、そして博多での乗り継ぎ時間が5分しかなかったが博多でローカル線の特急に乗り替え山間部を走る列車の旅は楽しかった。

さらに母が入院中であるので男と女房は安心して羽を伸ばせる。明日は別府のSホテルに泊まって温泉にたっぷりつかり、美味しい食事を味わうことにした。別府へは高速バスで行く。天気予報ではあいにく雨であるのでちょっと残念であるが、こういう時しか羽を伸ばせない。明日、男と女房は高原の高速道路を走るバスにのって別府に向かう。先日もこの路線をバスで行ったがバスの車窓から眺める風景は雨にけぶっていても美しいと思う。Sホテルで一泊するが天候次第では水族館見学や地獄めぐりなど市内観光をしようと思う。明日は久しぶり楽しい小旅行となることだろう。

2011年5月25日水曜日

見守り機能付き携帯電話を持たせたが・・ (20110525)

 mimamri2という子供用の携帯電話にはメール機能が付いている。90歳を超えた年寄りにはこの機能は要らない。また留守電話機能も要らない。画面表示ももっとシンプルがよい。男は母にこの携帯電話を使い慣れさせようといろいろ苦心している。そばに付いていて細々教えればそのとおりできるが、痴呆になりかけている母にこの携帯電話を使い慣れさせるのは一苦労である。

 母は男だけが帰っているときはそうでもないが、女房が一緒に帰っているときは自分でやれることでも何でも女房にやってもらえるので、女房に頼り切ってしまう。それでは、折角なんとか自立して暮らしていることが出来なくなってしまう。

女房自身もある意味では嫁の立場と全く同じようなものであるが、生来の優しさで母の面倒をよくみている。普段ヘルパーとかお互い年老いてしまったためたまにしか顔を見せない近所の人ぐらいしか会話の相手がいなくなってしまっている母は、女房がいるときは何度も聞いている話をくり返してしている。女房もそのような母が可哀そうになって、毎度同じ繰り返しの話を良く聞いてやっている。それは女房の心労を一層深めることになる。

女房は母がいずれは介護を受けることになると思って、50代のころホームヘルパーの資格をとってずっと年老いた人たちの世話をしてきた。その間放送大学で福祉関係の知識を身に付け、介護福祉士の資格もとった。その思いの心底は本人には分からない。第三者でないと深層の心理はわからない。3歳の時自分の父親を病気で失い、4歳の時今世話している母と別れて暮らしてきた女房の心の奥のことを、男は理解しているつもりである。しかしそのことは誰にも理解できないことだろうと男は思っている。

赤の他人の嫁の立場なら、女房は良い思い出の無い土地で母の面倒を看ようなどと思わないだろう。そのような原因になることが何度も女房は経験している。それでも母を一生懸命看ようと思うのは、女房が口癖のように言っている「自分が後悔しないため」である。それに80歳を過ぎた女房の実の叔父叔母から自分の姉である母のことを託されていることもある。男はこの家の長男であるという立場もある。

男は在宅介護の事業所の担当者と話して其処に一通のFAXを送った。その内容は母には何度も教えたのであるが、母がmimamri2という携帯電話を良く取り扱えないので訪問してくれた時には挨拶代わりに、「散歩や買い物で外に出るこの携帯電話を必ず首に下げて行くように」とか「この携帯電話のベルが鳴ったときは耳元にこの携帯電話を近づけるように」とかいったことを挨拶代わりに一言話して欲しいというというものである。

母が住む町でつい最近80代の女性が家をでたまま数日を過ぎても行方不明になっていて、町内防災放送などで何度もそのことが放送れていた。そのようなことに母がならないように母が出歩く時には必ずこの携帯電話を持って行って貰わねば、折角の機能が何の役にも立たないことになってしまう。横浜に戻って来た男は自分の携帯電話機で母の所在、つまりmimamri2の所在を確かめた。それがいつも同じ場所になっている。困ったものである。

2011年5月24日火曜日

60年前の中学同級生(20110524)

 男は田舎に帰って来るたびに昭和28年卒業の中学同級生たちに会っている。担任の先生は若くして他界したが音楽大学を出たばかりの美人でスタイルの良い先生であった。その先生との思い出を共有しているせいもあり、その中学校に進んだ小学校時代の同級生たちの絆が深いせいもあって、37組の同級生たちは男子女子無関係にとても仲が良い。皆今年は74歳になる。男のように5月生まれの者はすでに74歳になっている。

 そういう同級生たちの中で久大線沿線の大分に近い駅の近くに住んでいるT君(愛称Tちゃん)の家には小学校・中学校を通じて同級生であったI君がよく訪れている。男が帰ってきたというので、Tちゃんの家に同級生たち4人が集まってきた。大腸がんを患って手術後抗がん剤治療を受けているA君は、現在の状態では養生が大切なので男に会うことはできない。その代り自分が経営している養鶏農場でとれた自然卵を男のためにI君にことづけてくれた。ちなみにA君の奥さんも同級生である。彼女は男の幼馴染である。彼女の実家の先祖は男の家と同じであり、家同士同じ村の中で良く行き来していた。

 I君は愛妻に先立たれた。同級生の中には他界した者もいる。最近70代後半で他界した有名人が何人かいる。70代になると同級生たちもあと何年生きているだろうかということが話題になる。ちなみに男とI君とA君の父親同士は親子そろって同じ小学校を出た仲の良い同級生同士であった。このことが37組の同級生同士の絆を一層深くしている理由の一つである。このような例は全国的に見てもそう多くはないだろうと思う。

 同級生たちは自家用車で別府のKホテルまでバイキングのランチを食べに行った。都会に住んでいる男にとっては驚きであったが、其処のバイキングのランチは一人800円弱の安さにもかかわらず、メニューも内容もそれなりに豊富である。利用客の中には韓国人らしい人達も来ていた。駐車場の利用は無料である。同級生の一人が此処のバイキングランチのことを知っていて、皆を其処に連れて行ったのである。

 74にもなった爺さんたちがKホテルのバイキングランチを食べに行き、其処でたった800円弱を払って3時間も長居してだべっている。従業員たちはそのような爺さんたちに決して白い目を向けることなく、暖かく接してくれている。話題の中に福島原発のことがあった。皆はあれは菅総理の無能が原因の人災であると憤慨していた。

爺さんたちのすぐ隣で二十歳代の若者が一人で食事をしている。見ていると何度も何度も席を立っていろいろなものを取って来ては食べている。驚くほど大量に食べている。ちらっと横目でみるとお腹が相当膨らんでいる。爺さんたちはさすが小食である。

Tちゃんはよく別府航路を利用している。サンフラワー号に乗ったことがあったらしく、その船の姿を男に見せたくてランチからの帰りに別府港に立ち寄った。あいにくその船は入っていなかったが別の大型船が停泊していた。Tちゃんによると、1000円払って会員登録をしておけば12名の1等運賃が4000円引きとなるらしい。男は是非一度女房と一緒に大阪からその汽船に乗って帰って来たいと思った。

2011年5月23日月曜日

au携帯電話安心見守り機能(20110523)

 男は母のためにmimamori2というauの携帯電話機を購入して母に使ってもらうようにした。購入といっても充電機用アダプターだけの価格で本体は0円であった。この電話機は非常にシンプルで防水・防塵の堅牢な作りである。後で知ったのであるが、この電話機のメーカーは男の携帯電話機と同じ京セラである。直感的に行動し飛び込んだ店にあったものがこの電話機であった。それまでこの電話機のことは知らなかった。運がよいと言えばそれまでであるが、男は出会いの不思議さを常に感じている。人によっては偶然は必ずしも偶然にあらず、それは見えざる力に左右された必然であると男は思っている。

 この携帯電話機は3か所まで登録した通話相手先にしかつながらず、登録先の番号のワンタッチキーと、通話呼出しなどのためのセンターキーと、終話きーの三つのキーの操作だけで登録先と通話ができる。その他の機能としてメールとGPSがあるだけである。ゲームとかカメラとかサイト検索などの機能は省かれている。

 男は早速それを母に使わせてみた。100円ショップで買ってきたストラップを取りつけてそれを首に掛けさせ、何度か操作法を練習させた。母は初めちょっと戸惑っていたがすぐ慣れた。今後は男や女房との通話は携帯電話だけにして、母にはアルツハイマー性認知症という厄介な病気がまだ軽いうちに、この携帯電話機の使用法を体で完全に覚えこませておこうと男は思っている。何事も初期のうちに手を打って置くことに越したことはない。

この携帯電話機を使うことによる費用はどうかというと、男、女房、母三者トータルで4000円ほど固定費が増えるだけである。費用対効果を考えると決して無駄ではない。三者が皆同じau電話機を使っているので、通話料金は一切かからない。その上遠隔地にいても、母の居場所や移動経路が分かる。もし何かあって母がブザーのひもを引っ張ったときは、1回につき1万円ほどの料金でセコムから現場に急行してくれる。このような優れものの携帯電話機は他にないと男は思う。

 男は母の弟妹にあたる叔父叔母に、この携帯電話を母に持たせたことを報告しておいた。皆年老いた叔父叔母たちは、独り暮らしの姉のことを心配している。「通話料は一切かからない。」と説明したら、皆非常に驚いていた。皆は男が母の面倒を良く見ていることに感謝してくれている。

 女房は母の楽しみのためゴーヤの苗を買ってきた。男は庭の片隅にそれを植えるため、三角屋根の形をしている棚を作った。ゴーヤは毎年植えている。ゴーヤ棚の材料は、以前ホームセンターで買ったものを毎年使って作っている。去年も沢山ゴーヤの実が成った。母はぶつぶつ独りごとを言いながらその実をもいで、簡単な料理をして食べていた。今年も同じことだろう。ただ、今年からは男と女房が帰ってくる頻度が大幅に増えるだろう。

 女房は今年沖縄の特別な苗を買ってきた。そのことを携帯電話のこととともに叔父叔母に話しておいた。お互い距離は離れていてもこの携帯電話により頻繁に会話をし、母の認知症の症状の進行をできるだけ遅らせたいと男も女房も思っている。

2011年5月22日日曜日

アルツハイマー性認知症(20110522)

 女房と一緒にタクシーでH市にあるU病院に母を連れて行った。其処はK先生が紹介状を書いてくれた病院である。其処はこの家からタクシーで片道40分ぐらいかかるところにある。その病院には痴呆老人病棟もある。

 病院長U先生の診察結果、母は単なる老人性の物忘れではなくアルツハイマー性認知症であるということであった。男も女房も「ああ、やっぱりそうだったのだ」と母のここ半年近くの状況からそう納得した。まだ初期の段階であるので対応は楽である。しかしこの病気は月日の経過とともに徐々に進行する。母は非常におおらかな性格であるので、問題行動は起こさないだろう。母には幸せな晩年を送ってもらうようにしたいと思っている。

母は高血圧薬など6種類の薬をのんでいる。薬は朝、昼、晩と種類や数が違う。独り暮らしで認知症が出ているため、薬ののみ違いが起きている。今度、認知症を遅らせる薬が追加された。女房は母が薬を正しくのむように、小袋が沢山並んで配置されている壁掛け式の大きなシートを買ってきた。それは朝・昼・夜の区分と曜日が分かるようになっていて、シート1枚が1週間分である。

女房は母の脳活動を活発にさせるため、母に自分の薬をその小袋に分けて入れる作業をさせ、その様子を観察した。母はその作業を完璧にはできない。女房は別室でこのブログを書いている男のところに来て、「幼稚園児よりも悪いのよ」とため息をついて嘆いた。

それでも母はなんとか自分で自分がのむ薬の区分けができた。女房は「お母さんはこのシートをここに掛けてもらうのがいいと言っているので、ここに吊り下げるようにして」と男にその取り付けを頼んだ。男は「明日、金具を買って来て取りつけてあげよう」と答えた。この町にはやや大きいホームセンターがあって、必要なものは何でも手に入る。

母は早速その薬のシートから薬を取るのに勘違いが生じた。薬の袋に書き込む日付の関係で今日の分だけそのシートの区分けしたものは使わず、従来通りのやり方にするように予めよく説明してあったが、母は直近のことは忘れてしまっていて、曜日が今日と同じであるが日付の違うところから薬を取って既にのんでしまった。

女房はそのシートを2週間分の2枚用意してあった。薬には日付を書いてあっても母の勘違いは必ず起きるだろう。そこで1週間分の1枚だけ掛けておき、来週の分はヘルパーに頼んで出して貰うことにした。今後はヘルパーとの連絡を一層密にしなければならない。

アルツハイマー性認知症はその進行を遅らせることはできても改善することはできない。来年の今頃は母の病状はもっと悪くなっていることだろう。女房は母の脳の活動をできるだけ活発にさせて母にはこれまで通りなるべく自立した生活を続けさせようと、母と会話を多く交わしている。その様子は、女房が自分に早かれ遅かれ降りかかってくるであろう介護の苦労を、できるだけ先延ばししようともがいているかのように見える。

男は女房の負担ができるだけ少なくなるようにしようと思っている。2週間後、母をまたU病院に連れてゆかなければならない。今度は男一人で帰ってくることにした。

2011年5月21日土曜日

老人施設入所手続き(20110521)

 人口18000人、高齢化が最も進んでいる町村の一つであるK町には、3か所の特別養護老人ホーム、2か所の介護老人保険施設、5か所の高齢者共同生活事業所、1か所のデイサ―ビス事業所がある。高齢者共同生活事業所のうちNPO法人による事業所は2か所ある。

 男はもう78年前、母が一部の施設に入所できるように手続きを済ませている。しかし入所待ちの人が多いので、要介護度が3以上になってもなかなか入れない人がいるようである。まして母の要介護度は今度2に上がるかもしれないがまだ1の段階である。急に入りたくなってもそう簡単には入れない。

 母は自分がデイサービスを受けているある施設を大変気に入っている。其処は介護予防のためのプログラムが大変しっかりしている。運動器具もそろっている。母はそこに通うようになって足腰が非常に丈夫になった。この地域は地中をちょっと掘ればどこでも天然温泉が湧き出るので入浴は温泉を楽しめる。食事の内容も大変よい。

母が以前そこにショートステイしたとき個室だった。その個室は清潔で雰囲気もよい。コンパクトで機能的に出来ている。母は口癖のように「まるでホテルに泊まっているみたい。」と喜んでいた。見舞いにみてくれた母の弟妹たちも「ここは良い」と感心していた。

男は以前訪問介護サービスを提供するNPO法人の理事長を7年間勤めていた。そのとき自分もヘルパーの資格を得ておこうと講習を受け、2級の資格のほか精神障害者や視覚障害者のヘルパーの資格も得ていた。その講習のとき実習で幾つかの施設で研修を受けた。そのとき体験した老人施設よりもこの度手続きした施設は格段上等である。

そこで男は今日、母が気に行っているその施設に母が入所できるように手続きをした。合計3か所入所希望を出してあので、何か状況が変わり母が急に施設に入りたくなったときはそのうちの何処かに入れるだろう。

 勿論母は長年住み慣れたこの町で、この家で最期まで安心して暮らして行けることを望んでいる。男も女房も母のその願望を満たしてあげるように最大の努力は惜しまないつもりでいる。認知症の進行を食い止めるため、明日K先生が紹介状を書いてくれた病院に母を連れてゆく。余程のことが無い限り男も女房も将来ずっとこの家に住んでいなければならなくなった時はそのようにするつもりでいる。このように母の介護に関して、夫婦が同じ気持ちでいるということは大変幸せなことである。

 母に訪問介護サービスを提供してくれている事業所のサービス提供責任者のOさんが、男と女房に会うため夕刻帰宅途中立ち寄ってくれた。女房は認知症症状が出ている母が注意を欠いている冷蔵庫の中のことなどをOさんに説明し、今後の対応について依頼した。

 今日入所手続きをした施設には以前母のケアマネージャーをしてくれていた人がいる。その人が明日行く病院に連絡をしてくれた。人口18000人の山間の風光明美なこの町の地域の皆が母のことに関わり合ってくれている。都会地ではこのようになかなか出来ないことがこの地では出来ている。有り難いことである。