2011年5月10日火曜日

母の日(続き)(20110510)

 男は継母との電話を女房に渡した。電話の向こうで継母がまだなにかしゃべっている。女房がその母に話しかけた。「わたし、風邪をひいてしまったの。熱が出て、咳こんで二晩もよく眠れず、病院通いしていたのよ。」。電話の感度がよく、継母の声が聞こえる。

 女房はここ一週間ばかりの状況を、92歳の年寄りによく理解させるように細々と説明した後、「ごめんね。母の日の贈り物ができなかった。」と謝った。二言三言言葉を交わした後、「わたし、お母さんより先に死ぬかもしれないよ。」と言った。すると母は即座に「それは困る。あんたには私より先に死なんようにしてもらわんと。」と言っていた。

 母が毎週通っているデイサービスの老人施設では、90歳、100歳の年寄りが沢山いるという。母もこの分だと100歳以上長生きするかもしれない。母が100歳のとき、男は82歳、男の妻は78歳にもなる。しかし二人揃って生きているという保証はなない。これは二人揃って生きているという前提であるが、その頃には男と女房は何処か、O県内の老人ホームを終の棲家としてくらしていることだろう。その時には母もK町内の何処かの老人施設に入っていて貰わなければどうにもならぬ年齢になっている。

 女房は育ての親の家の大家族の中で末娘のような立場で育った。10歳年長の叔母は少し齢が離れた姉のような存在であった。ちょっと広めの家に曾祖母、祖父母、その長女である母、その下にその家の長男以下4人の弟たち、2人の妹たち、長男の嫁、そして女房が一緒に暮らしていた。女房と母は、昭和19年アメリカ軍による空襲の最中、一家の大黒柱が病死したため大阪から実家に引き揚げて帰っていた。

 女房の叔父であるその家の長男はN村の旧家から嫁を迎えたばかりであった。その母が男の家に後妻として入った後、その叔父夫婦が、4歳になった女房の親代わりとなった。女房が母の日などに贈り物をする叔母の一人は母親代わりの義理の叔母であり、もう一人は女房の10歳上の姉のような存在であった叔母である。

母親代わりの義理の叔母は大姑、姑、小姑たちのいる中でその長男の嫁は家事百般から農作業まで何もかも良くこなし、その上幼かった女房を自分の子ども同様に可愛がって育ててくれた。あれから65年以上時が過ぎ去り、皆老人になってしまった。

 女房の祖母は、自分の長女を男の家に嫁入りさせた後、幼かった女房を良く可愛がった。大家族の中で一番幼い女の子は、上の食べ盛りの男の子や女の子たちの中で、スイカなどおいしい食べ物を確保するのが遅い。そのことをその祖母はよく見ていて「これはM子のものだよ」と別にしてくれていたという。

 その祖母は婦人会の会長など幾つかの社会的活動の団体の役職についていて人望が厚かった。先に他界した祖父も町内会長や市会議員などを務め、人望が厚かった。その祖母が97歳で他界する前に女房は知らせをきいて帰郷し、死ぬ前の1週間ほどの間、その祖母を良く看とった。それまでの間、女房の義理の叔母が良く看ていた。

 女房が母の日に贈り物をする相手が3か所あるのは以上の事情によるものである。