2011年11月25日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(85) (20111125)

 “使節団が帰国してみると、国内では西郷が中心となって征韓論(せいかんろん)が湧きおこっていた。日本は新しい政府ができたことを受けて、朝鮮と国交を開くことを考えた。これはロシアの中に備えるためであった。つまり、朝鮮がロシアの植民地になることを恐れたのである。そのためには朝鮮に開国を促し、近代化してもらうほうがよい。それが朝鮮のためにも、そして日本の国益にも合致すると考えたのである。

 そこで新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいないのである。

 その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため、朝鮮は受け取りを拒否した。これは無理のない話である。一方、日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。ただ政治体制が変わって、日本は天皇親政の国に変わったことを伝えたかっただけであった。日本は朝鮮に説明をし、文書の書き直しもしたが、朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。

 このような背景から生まれたのが「征韓論」である。当時は武士の名残(なごり)で血の気の多い者が多かったから、武力行使をしてでも朝鮮を開国させるべきだという意見が沸騰してきたのである。

 そのとき西郷は、息巻く周囲をなだめつつ、「外交文書のやりとりで埒(らち)が明かないなら、自分が特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。それで、もし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と主張した。

 そこへ使節団の一行が帰国してきた。当然のことながら、大久保利通ら朝鮮半島への武力行使に全く否定的だった。そんな余裕はどこにもない。一刻も早く商工業を興して富国強兵策を実行しなければ、日本は西洋に呑みこまれてしまうという危機感でいっぱいだったのである。しかも当時は徴兵制が施行されたばかりで(明治六年布告)、現実的に朝鮮出兵を実行できる状態にはなかった。”(渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 明治新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいない。その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため朝鮮は受け取りを拒否した。日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。日本は朝鮮に説明をし文書の書き直しもした。しかし朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。このような背景から生まれたのが「征韓論」であった。西郷は周囲を抑え、自分自ら特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。そこでもし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と言った。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にし国家の大業は成し得られぬなり」と言った西郷ならではの「征韓論」を抑える言動であった。           (続く)

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