2011年11月23日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(83) (20111123)

 “明治政府ができたときに、非常に注目されたのが西郷隆盛の地位である。西郷隆盛は唯一の陸軍大将であって、当時の武士たちから最も尊敬されていた人物である。しかし、その西郷には自分たちが天下を取った時に、これからの日本をどうするかというビジョンがなかったように考えられる。これはひとり西郷のみならず、ほかの人にもなかったのではないかと思うのである。

 それで具体的にどうしようかとなった。そのとき、幕末の頃に長州藩の留学生としてイギリスに渡った伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)の存在が大きくものを言った。自分の目で西洋の凄(すご)さを見ている彼らは、いくら書物で勉強したところで現物を見るには到底及ばないことを知っていたはずである。これは想像だが、使節団の話が出たとき、伊藤と井上は大久保たちに「ヨーロッパ文明は、幾ら本を読んでも絶対にわからない。政策を立てようと思うのならば、西洋を一度見てくるべきだ」と繰り返し助言したのではないだろうか。

 それにまた条約もきちんと結び直さなくてはならないし、ということで、条約改正も含めて、明治四年(一八七一)から六年(一八七三)にかけて岩倉具視(いわくらともみ)を団長にした岩倉使節団が欧米の視察に出ることになった。この使節団には、長州の実力者木戸孝允(きどたかよし)、それに付き添って伊藤博文、そして薩摩の大久保利通という大物が参加した。一方、留守番も必要なので、これは西郷隆盛が中心になることにした。

 これも明治維新が革命でなかったという一つの論拠となるかもしれない。例えば、ロシア革命をやったレーニンが、革命が終わった数年後に、留守は仲間に任せて自分は二、三年ロンドンに行ってくるというわけにはいかなかったはずだ。毛沢東(もうたくとう)でも同じである。

 岩倉使節団の一行は欧米で何を見たのか。見るべきものはちゃんと見たのである。それは驚くべき日本と先進国の格差である。それは「もう士農工商ではどうにもならん」という危機感であり、さらに言えば「これからは工と商の時代だ」という実感であったはずである。これは耳で聞いてもわからなかった話である。こうした驚きは、岩倉使節団の十一年前に咸臨丸(かんりんまる)で渡来した福沢諭吉も受けたものである。・・(以下略)”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 時事新書『航海日記』という本がある。これに万延元年(一八六〇)正月18日から同年928日までのことを使節団副村垣淡路守範正(48歳)が書き記したものである。正使新見豊前守正興(40歳)以下77名は、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗りハワイを経てサンフランシスコに入港。随伴した勝海舟艦長の咸臨丸はサンフランシスコから帰国。ポーハタン号はサンフランシスコを出てパナに入港。一行は汽車でパナマ地峡横断、アスピンウオールから軍艦ロアノーク号でニューヨークへ。フィラデルフィア号に移乗してポトマック河を遡りワシントンに到着。ビュカナン大統領に謁見、将軍の親書を呈上している。帰路はナイアガラ号でアフリカの喜望峰を経て帰国している。その間安政の大獄が進行。一行帰国の翌年アメリカでは南北戦争が勃発した。              (続く)

0 件のコメント: