2011年12月9日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(99) (20111209)

 “それから、日本海海戦ではなんといっても連合艦隊司令長官、東郷平八郎の沈着大胆な指揮が光った。それと同時に、陸軍の機関銃と同様、海軍にも新兵器があった。それは下瀬(しもせ)火薬という四千度もの高熱を出す新しい火薬の発明である。これが当たると、当たったところから燃えだして、船の塗装まで燃えたという。当時の軍艦の大砲は甲板の上にあったため、甲板が火事になると戦闘能力を失ってしまったのである。また伊集院五郎(いじゅういんごろう)海軍大佐が考案した伊集院信管(しんかん)という非常に鋭敏で爆発力の高い信管なども実用化されていた。これらは当時、イギリスの百科事典に出ているくらい注目を引いた新兵器であった。

 また木村駿吉(しゅんきち)が開発した無線電信機によって「敵艦ミユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。

 こうしたことを考えると、明治維新以後、急速に発展した日本の科学力が盛況なバルチック艦隊を葬ったといっても過言ではないだろう。秋山好古による陸軍での機関銃の機関銃の導入も含め、日本の軍事力は当時の世界的水準を超えていたのである。だからこそ、ヨーロッパ最強の軍隊に勝てたのである。”

 実際、日露戦争の約十年後の一九一四年に始まる第一次大戦になると、騎兵の影が薄くなり、陸上では戦車の時代になる。これは日本が騎兵に機関銃を使ったことが研究されて、もう騎兵では役に立たないとよくわかったからである。一方、海上では軍艦の造り方が変わった。つまり、大砲を甲板に置かずに塔に入れる砲塔制になる。これも日露海戦の下瀬火薬の出現によって甲板が燃えても戦闘能力が落ちないように工夫されたものであった。後進国の日本が嘉永六年(一八五三)の黒船来航からわずか六十一年という短い間で、世界中の陸上、海上の戦闘形態を変えてしまったのである。まさに世界の軍事史に残る出来事であった。

 そして、日露戦争は単に日本が大国ロシアに勝ったというだけの戦争ではなかった。この戦争の結果は、さらに重大な影響を世界中に及ぼしたのである。それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実であった。これら世界史の大きな流れから見れば、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の歴史的大事件といてもいい。世界中が目を疑うような奇跡的な出来事であったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 黒船来航からわずか61年という短い期間で、日本が当時世界最高の兵器や戦法を開発し、実用に供することができた素地は何だっただろうか?日本がシナ(当時清国)や朝鮮の国に先んじて近代化を成し遂げ、遅れとったシナから大量の留学生を受け入れ近代化の教育をし、軍隊を大陸から東南アジアまで展開させた理由は何だっただろうか?

 アメリカは日本を占領すると日本の能力の根源となるものを徹底的に取り除こうとした。天皇も廃止させようとした。しかしそのアメリカで差別や偏見の中ヨーロッパ戦線で大和魂をもって戦い、史上最強の陸軍と称賛され大統領から「諸君は差別とも戦った」という言葉を贈られて表彰された日系第442連隊の影響もあったことであろうと思うが、日本人の能力を利用することがアメリカの利益になるとアメリカは考えたに違いない。 (続く)