2011年11月27日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(87) (20111127)

安政五年(一八五八)、当時の幕府はアメリカをはじめとする欧米五カ国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ)と通商条約を結んで正式な国交を持つようになった。しかし、そこで日本は決定的に不利な二つの条項を押しつけられた。

 一つは関税自主権の問題である。これは関税をかける権利だが、安政の条約では、日本が関税率を変える場合には、必ず相手国と協議しなければならないとされていた。これを自由にしないと、西洋諸国から安い商品が送り込まれ、日本の国内産業が潰される恐れがあった。

 二つ目は、治外法権(領事裁判権、extraterritoriality)の問題である。これは、日本で悪事を働いた外国人を捕まえても日本には裁く権利がなく、その権利はその国の領事館が持つというものである。つまり、日本には主権がないというわけで、これはなんとしてでも廃止しなければならなかった。

 しかし、外国はなかなか承諾しようとしなかった。当時の欧米諸国はアフリカ、インド、シナといろいろな国に行って、その国情を見ている。彼らにしてみれば、それらの‘野蛮な国の法律で自国民が裁かれるのはたまらないという心配があったのである。勝手な論理ではあるが、その心配はあたらないでもない。

 そこで、それらの国と 日本は違うということを理解させるため―――今見れば笑い話でしかないが―――外務卿(きょう)(のちの外務大臣)の井上馨(かおる)の主導によって鹿鳴館を造り、そこでダンスパーティを開いた。維新の志士がやるダンスパーティだから悲壮なものであったに違いない。「そんな西洋の猿真似をしてまで白人の歓心を得たいのか」という声があちこちで起こった。

 しかし、明治政府の人々は真剣だった。そもそも井上馨は青年時代に最も強硬に攘夷を唱えて暗殺されかかったような人物である。その井上が治外法権を撤廃するために必死で鹿鳴館外交を推し進めたという心情というのを、われわらは汲(く)み取るべきだろう。

 しかし、この二つの不平等条約が完全にてっぱいされるには時間がかかった。治外法権がなくなるのは日清戦争の直前であり、関税自主権が回復されるのは日露戦争の後の明治四十四年(一九一一)であるから、安政の条約を締結してから五十三年もかかったことになる。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 今、TPP問題で国内は揺れている。関税がゼロパーセントとなれば、従来778%という高い関税をかけて保護している日本の農業が壊滅的被害を受けると主張する学者があり、農業団体などはTPPに絶対に参加すべきではないと強硬である。TPPに参加すれば日本の関税自主権はなくなり、医療も含むあらゆる分野で日本はアメリカの属州のようになってしまう。食品の安全も保たれなくなり非常に危険である、というわけである。

 幕末に日本は欧米に先進国として認められていなかったから、日本は開国にあたって不平等条約を押しつけられた。欧米に日本がアフリカやシナと違う国であると認めさせるため、かつて攘夷派の急先鋒だった井上馨は鹿鳴館を造った。日本は幕末・明治の元勲たちの労苦を思い、進むべき道を誤らぬようにしなければならない。   (続く)   

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