2011年11月28日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(88) (20111128)

 “一人前の国家になるためには治外法権を撤廃しなければならない。その下ごしらえとして明治憲法が必要だった。日本が諸外国から近代的な法治国家とみなされるためには、やはり法体系の根幹となるべき法律を制定する必要があったのである。

 その役割を引き受けたのが伊藤博文である。伊藤博文は若い頃にイギリスに行っているから、議会制民主主義が根付き、王室の安定しているイギリスのあり方が最も日本に向いているのはないかとわかっていた。しかしイギリスには憲法がないので、真似するにも真似できない。では幕府と親しかったフランスはどうかといえば、憲法はあるものの共和制だから参考にならない。アメリカもそのような理由で駄目である。

 どうしたらいいかと思い悩みながらも、伊藤はオーストリアに行く。当時のオーストリアはハプスブルグ家の時代で皇帝が存在する。そこで彼はシュタインという憲法学者に会って、立憲君主制というものを教えられるのである。それによって彼は元気を取り戻したといわれている。

 次に伊藤はドイツへ行く。当時のドイツはビスマルクの時代で日の出の勢いにあった。ビスマルクは伊藤にグナイストというドイツ第一の憲法学者を紹介した。この人はイギリスを含め世界で最初に『イギリス憲政史』というイギリスの憲法の歴史を書いている。しかもローマ法の専門家で、実務経験もあった。

 グナイストは伊藤から話を聞いてみて、日本にはドイツ帝国の憲法は当てはまらないだろうと考えた。というのも、ドイツ帝国はバイエルンやプロシアなど、いろいろな小国家を統一した連合国家で、日本とは成り立ちが違う。むしろ日本は昔のプロイセンに似ているから。旧プロイセン憲法を手本にしてはどうかと助言するのである。これはまさに慧眼(けいがん)というしかなく、当時伊藤に対して行ったグナイストの講義を筆記した資料を読むと、明治憲法の肝心のところはプロイセン憲法そのままといってよい。プロイセン憲法に日本的な部分をつけ加えたのが明治憲法となっているのである。

 今から考えるとおかしいのは、明治憲法には「首相」という言葉も「総理大臣」という言葉もでてこないことである。それどころか、「内閣」という文字すら見あたらない。明治十八年(一八八五)にすでに内閣制度ができて、大宝律令、養老律令といった昔の律令が廃止され、太政大臣もなくなり内閣総理大臣の制度ができていたのに、明治二十二年(一八八九)に発布された憲法には何も書かれていないのである。・・(以下略)・・”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 幕末まで昔の律令背度が適用されていたが、明治維新後その律令を準用して明治4年(1871年)7月に、正院、左院、右院の3院と外務省以下8省からなる太政官が設置された。正院は天皇を直接補佐する政府の最高機関であり、その長官は太政大臣であった。明治18年(1885年)1222日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。
 シナや朝鮮は近代化が遅れ、李王朝が廃止され大韓帝国が発足したのは明治30年(1897年)10月のことであり、シナが清王朝から中華民国になったのは大正元年11日のことである。なお清王朝末期、日本にはシナから2万人の留学生が来ている。  (続く) 

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