2010年1月20日水曜日

指揮権活動に関する千葉法相などの発言や民主党議員たちの行動 (20100120)

新聞報道によれば千葉法相が「個別事件についてはコメントしない。指揮権発動は一般論としてある。捜査は公平公正に行われなければならないし、基本的にはそのような捜査が行われていると考えている。」と記者会見で述べたということである。一方、民主党内に捜査情報漏えい問題対策チームを発足させたということである。また中井国家公安委員長は「批判するつもりはないが、特捜部にも説明責任はある。」と述べたという。
男はこれらの一連の動きを異常であると思う。一般に組織ができると組織の構成員はその組織が脅かされるとその組織の防衛に力を入れるようになるものである。組織内での相互けん制システムがない限り、組織は時に誤った方向に暴走するものである。今の民主党の動きはそれに近いものがある。既に暴走しているという人も多い。
小沢氏の力によるものとは言え折角国会議員になった新人議員たちは、これまで国会議員としての活動を抑えられ、欲求不満に陥っているのではないかと男は思う。そのはけ口として「捜査情報漏えい問題対策チーム」などを発足させたり、民主党と言う組織の防衛の活動に熱心になったりするのではないかと思う。
泥棒にも一寸の理があるという。悪人は自分の所業を理由づける。人は、善きことにつけ悪しきことにつけその行いについて何か理由をつけ、自分の行いを正当化しようとする。政治には金が要る。金がないと政治活動は鈍り、自分の政治家としての理念を実現することもできない。国会議員は政治家として「国の為」という高い理念を掲げ、それを「大義」とし、その「大義」を実現する手段のためなら法律違反を犯さない範囲内で金を集めようとするだろう。「大義」の実現のためなら実際は法律違反になるのだが、法律違反にはならないような工夫を凝らしてまでして何とか金を集めようとするだろう。その工夫が看破られたとき、「大義」の実現のためならば指揮権発動は認められるべきであると考えるだろう。
多くの民主党員たちは、国会議員になって「自分たちは一般庶民より程度が高い人間だ」と思い上がり、彼らが掲げる「大義」のためなら強権発動もやむを得ない、と思っているのだろう。そもそも国会議員は国民が自分たちの代わりに国会に送り込んだ人たちである。国会議員になった途端「先生」と呼んでおだてるからいけないのだ。「○○さん」でいいではないか。思い上がり傲慢になった者は、時が経てば必ずそのしっぺ返しを喰らうだろう。
民主党は昨年の総選挙で国民の信任を得たから大量当選者をだしたのであるが、その時点では今回のような逮捕者が出るような法律違反は表面化していなかった。これが今表面化したが、それを検察が故意に捜査情報を漏えいしたため起きたことで検察が悪い、と決めてかかる。小沢氏は「何も法律違反はしていない。検察と断固戦う。」と公言し、鳩山首相は、小沢幹事長を信頼しているから小沢氏が検察と戦うことを「戦って下さい」と言って支援している。鳩山氏始め民主党の多くの議員たちは、一部の識者が「検察は政治に介入してはならない」と言ったら、「尤もだ」と考えそのような言動になったのだろう。(関連記事:「検察の事情聴取要求を拒否する小沢一郎幹事長 (20100119)」)
舛添要一元厚生労働大臣が中心となって夏の参議院選挙を念頭に新党結成の動きを見せ始めた。今の自民党では国民の期待を吸い上げる力は無い。上述のように異常な組織となりつつある民主党への支持率は急速に落ちて行くだろう。国民の期待の受け皿となる新しいい政党の誕生が期待される。

2010年1月19日火曜日

検察の事情聴取要求を拒否する小沢一郎幹事長 (20100119)

民主党幹事長小沢一郎氏が公然と検察を批判しているので、男は検察庁についてWikipediaで調べてみた。Wikipediaが必ずしも公明正大な記述をしていると男は思っていないが、指揮権について法務大臣と検事総長の意見が対立した場合の問題など大いに参考にはなる。検察批判をしている者はこれまでの新聞やテレビ報道で知る限り、検察に摘発され、或いは摘発された人の関係者や国家の権力に対し反発的な精神を持つ一部の人たちである。

よく聞く話は「検察が国の政治を左右するようなことをするべきではない。」という至極尤もな発言である。一方で「検察は政権のトップにある人でも不正があれば摘発する。さもないと民主主義は守られない。」と言う人がいる。これも至極尤もな発言である。しかし検察は国の政治を左右するようなことをするものなのか、実際にしているのか、男のような一般庶民には判らない。一般庶民は、検察は国民の信頼と期待の上に立って公明正大に、法で定められた権限を行使していると信じている。

その一般庶民の考え方を、一部のいわゆる‘有識者’や自ら‘自分は一般庶民と違い、知的レベルが高い’と、意識的にせよ無意識的にせよ、そう思っている人たちがいる。そのような人たちは、自ら実際に諸資料をよく調べ、研究し、自分の考え方をきちんと整理していないにも拘らず、例えば「小沢さんが多少ダーティな面があっても国民は彼に日本の政治構造を変えることを期待しているのだ。」とか「検察は過去に過ちを犯した。」とか、「検察がリークしているのは問題だ。」とか、男に言わせれば‘偉そうな’ことをテレビの前で言う。その発言に「そうだ。そうだ。」と相槌を打つ一般庶民もいるだろう。男に言わせれば、彼らは「実は無知なる人間であるがゆえに、無責任な者どもである。」と思う。

小沢氏にせよ、そのような‘識者’あるいは‘識者ぶる者ども’にせよ、「自らが良く判っていない。」ということを「知る」という謙虚さが足りない。「自分が何も知っていない、ということを自分は知っている。」という謙虚さが大事である。しかしそのような謙虚さがない人の発言に一般庶民は振り回されている。

男は社会的地位の高い人、社会的に影響力の大きい人ほど、謙虚であることが大切であると思う。しかしそのような謙虚さがない人は傲慢になりやすい。その傲慢さが鼻につくようになると、それまでその人に好意的であった人も、その人から距離を置くようになる。男もその一人である。男は昔小沢氏の政治理念や信念に共感を覚えていた時代があった。
男は検察が公明正大にその権限を行使しているかどうかについて、チェックをいれる仕組みがはっきりしていないのは確かであると思う。法律を専門とする大学の教授や、ジャーナリストそのような問題点を一般庶民に明らかにすべきである。そして司法制度の改善を進める役目を持つ機関を国として公式に設けるようにすべきであると思う。

男は小沢一郎氏が検察を批判し、検察と正面から戦いを挑むということは、「俺は実力者だ。俺が国のあるべき姿を決めるのだ。」というような、国民を見下したような傲慢さがあると思う。男はそういう輩に迎合する輩がまた大嫌いである。小沢一郎氏に面と向かって対抗する者がいない今の民主党の状況を情けなく思う。鳩山首相も小沢氏の繰り人形のようである。これは国家として異常な状況である。そのことを対抗する自民党が、国民の前にどこまではっきりと示し、国民の判断を促すことができるのか、男はあまり期待できないと思っている。今日からの国会の動きを男は注意深く監視してゆきたいと思う。

2010年1月18日月曜日

突然筆が進まなくなることがある(20100118)

これまでも時々あったが、ものを書こうとするとき急に筆が進まなくなることがある。それはものを書くことによって自分の内面をよく見つめるようになるからである。その点、ものを創るときは思うように創れないで苦しむことがあったとしても、それは自分の技術の下手が原因であることが多いだろうから何度でも挑戦しようと意欲が湧いてくる。
人は闘争心があると元気が良い。闘争心が衰えるとあれこれ心の迷いが生じる。ものを書こうとするとき筆が進まなくなるのは闘争心の対象が自分自身或いは自分自身の回りに近い対象であるからである。ものを創ろうとするとき、その創ろうとするものは自分自身の観念の表出ではあるが、創られるものは必然的に自分自身から距離が置かれるものである。例えば男は陶芸をやるが、やると言っても陶芸を始めて2年ぐらいしか経っていず大きなことを言えるほどのものでなく、言うこと自体おこがましいほどであるが、陶芸で創るものはある形であり、ある色や模様などである。それは焼き具合によって出来映えも変わるものである。焼き上がってみなければ結果がどうであるかわからないものである。従い、出来あがるものは自分自身から離れたものであり、自分自身そのものでない。
男は昨年610日以来毎日欠かさずこのブログを書き続けている。書いてみて一つ判ったことは、書こうとする題が政治や文化や歴史に関することなどは気が楽であるということである。その理由は、書こうとする内容に関することをいろいろ調べたりして自分自身の勉強にもなるし、ある意味では自分自身の精神活動の歴史のようなものであるからである。例えば政治に関することでは、自分が何年何月何日ごろこの日本国でどんな政治的問題が起きていて、それに対して自分の考え方はどうであったかというようなことが記録の形で残る。それは自分の思想を表明するものではあるが、誰かと飲食をしながら政治上のある問題になっていることなどについて議論していることである。政治上のあることについて憤慨していることでも、多少オブラートに包んで自分の考えを表明できる。
ところが、日常生活のことを書くとなると、それはあまりにも自分自身に近すぎて、第三者的に書くようにするにしても毎日書くことはできない。自分の過去半生のこと、若い時のこと、つまり自分史的なことは、ストレートには書けない。どうしてもフィクションの部分をできるだけ多くして小説的に書くことになる。(関連:12/291/7間、このブログ)
身体的に疲れていると闘争心も衰え、政治のことで憤慨することがあっても書くのを躊躇してしまう。しかし男はこのところ側近の国会議員・元秘書ら3人が政治資金規正法違反で逮捕されたことと、それに関連する幹事長・小沢一郎氏らの言動に憤慨している。
小沢一郎氏が何処から得た金かしらないが、本人が言う‘自分の金’で自分の息がかかっている140人もの国会議員を引き連れて中国に渡り、胡錦濤国家主席に会い、連れて行った国会議員たちを胡錦濤氏と会わせ、一人一人握手させ、その見返りのように来日中の習近平国家副主席を、慣例を破って天皇陛下に会見させた。男はこれはアメリカに対する威圧であり、小沢氏自身の権力の表示であり、いずれにせよ小沢氏自身の私利私欲から出た行動であると断ずる。男の近くに「日本国民は政治的にまだまだ未熟である。清濁併せ飲み小沢氏を見るべきである。」という人もいるが、それは間違った見方であると男は思う。
民主党に対する支持は指数級数的に落ちて行くだろう。しかし、自民党に対する支持も増えるわけではない。国のため党派を超えた政界の再編が緊急に行われることを期待する。

2010年1月17日日曜日

心遣い・気働き(20100117)

 男は田園都市線三軒茶屋駅ホームで女房に「今、三軒茶屋だ。」と電話した。女房は「そう、1時間半ぐらいかかるわね」と言う。男は「そうだね」と答えた。まもなく電車が来た。今日も気温が低い。といっても10℃近くはある。男がお正月に九州の中央の山間部にある田舎に帰っていたとき、元日外は雪で気温は零下6℃だった。さすがにその時は寒く感じた。そのとき男はかつて青森に転勤して行ったとき、冬の間味わった寒さを思い出していた。それに比べれば零下6℃など大したことはない。まして10℃近くもあれば暖かいものだ。

 今夜、男は昔の仲間が集まるある会食に参加した。三軒茶屋の銀座アスターがその会合の場所であった。この店はさすがに雰囲気は良い。鎌倉にも駅近くに銀座アスターがあり、男はそこで行われた詩吟の会のパーティに参加したことがあったが、そこも雰囲気は良かった。が三軒茶屋の銀座アスターはさらにグレードが高いと感じた。

 男は久しぶり昔の仲間に会って楽しいひとときを過ごした。集まったのは20人ほどである。個室であるので乞われるままに赤ぺらで西行の『至善』を詩文の解説を加えた上で吟じた。伴奏の楽器もなく美味しいものを十分食べお酒も回っているので思うように詠えなかったが、何とか詠えて拍手を貰った。こういう会合に誘われると男は浮き浮きした気分で参加する。女房は男が着て行く服やシャツやコートのことなどあれこれアドバイスしてくれて、アイロンがけなどいろいろ準備してくれた。

 会合が終わり女房に携帯電話で連絡し、夜の11時前に家に帰り着いた。女房は「お父さんがちょうど帰ってきたときすぐ入れるように風呂を沸かしておきましたよ」と言う。男の部屋に入るとオイルヒーターの暖房をつけてくれてあり部屋を暖めてくれている。男は風呂に入って疲れをいやし、風呂から出て女房に「ありがとうね」と感謝の気持ちを伝えた。男は「わが女房は世界一の女房である」といつも思う。

 心遣い・気働きの精神は、その人が生まれつき持っていた素質の上に、幼少のころからずっと育ってきた家庭環境により自然に身につき、他者との関わりの中で磨かれるものである。幼少のころからの習慣が無意識の形で現れるものである。一朝一夕で身につくものではない。女房は厳しい先生に師事してお茶も習ったが、その経験も心遣い・気働きの精神を一層高める。昔の良い家庭では子女にそのような精神を植え付けるため親はいろいろ習い事、稽古事をさせた。そのようにしてその子女が成人し、子供を産み、母親となれば、その子供に良しつけをするようになる。そのような伝統がどこかで崩れてしまうと後が続かない。よい家庭では代々そのような伝統が受け継がれてゆく。

 男は誰にも負けない心遣い・気働きができる女房と一緒になり、これまで幸せな人生を歩んでくることができて世界一の果報者である。こんな素晴らしいことは二度とないだろう。来世において今生と同じようにあるためには、日々の心がけ・修業を怠ってはならない。男の友人の中には日々淋しくてたまらないという人もいる。男はその友人に何もしてやることはできない。せいぜいその友人が仏教の勉強をするように、それとなく刺激することぐらいしかできない。釈尊は「自らを洲とし、他を洲とするな。自らを拠り所とし他を拠り所とするな」と教えておられる。自分の心の問題は、自分自身で解決するしかないのだ。誰もそれを解決してやることはできないのだ。そう達観して、男は自ら進んで煩わしいこことに関わるようなことはしないつもりである。

2010年1月16日土曜日

法身・報身・応身または化身(20100116)

 昨日のブログに書いたように、男は竹馬の友SSが男に会わせたNさんご夫婦に会って中華街のある店で食事をしながら歓談のひと時を持った。男はSNさんご夫婦は仏陀が化身の形で現れたものである、男自身も同様に仏陀の化身であると思った。

『仏教要語の基礎知識』(春秋社、水野弘元著)によれば、仏陀はBuddhaの省略であって 「さとった人」「覚者」の意味である。古くはブッダという音から「浮屠(ふと)」「浮図(ふと)」と書かれていた。「仏(ほとけ)」という言葉は「浮屠家」からきていると言う。釈尊はブッダとなられたシャーキャ族の聖者のことで、お釈迦様のことである。尊い師という意味で尊師(そんし)とも、世尊ともいう。仏教はこのお釈迦様がさとりを開いて弟子たちに教えられた人間としての生き方の教えである。

 仏教では過去・現在・未来にわたり、また十方の世界には無数の仏陀が現れるとされる。そして現実に我々が生きている世界、これを娑婆世界(しゃばせかい)というが、この世界では釈尊の教法が行われるとされる。娑婆はSahaaの発音を漢字で表したもので、元来は「集会」という意味だそうである。この世界は広大無辺のように大きく、三千大千世界という。この三千大千世界に仏陀である釈尊の威力が及ぶとされる。

 これはつまり人の正しい生き方は仏陀の教えに従うことであることを意味する。その仏陀は過去・現在・未来にわたる輪廻転生のことを教えておられる。仏陀が今から2500年前に現れて以来、いろいろな高僧がこの輪廻転生のことを後世に伝えている。我々凡人は仏陀やその弟子たちである高僧の教えを尊ぶべきである。それが仏法僧への帰依である。仏法僧に帰依して四苦八苦の現実世界を「一日を一生」のように思って謙虚に真剣に生きれば、来世においてその報いを得ることが必ずできると男は固く信じている。

 さて、仏陀の身はその性格によって法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)または化身により成ると言われる。法身は仏の説法としての真理を人格化した真理仏のことである。報身は菩薩として修業しその誓願が成就して、法の世界に流れ入って法そのものを体現する理想的な形となった仏陀である。阿弥陀仏や薬師如来や盧舎那仏などである。それらは仏師たちにより仏像の形で表現されている。応身は、教化する対象に応じて仮のある姿を見せる仏身である。特定の時代や特定の地域に出現する仏陀である。男はこれを我が国における仏教、チベット仏教などはそれぞれの仏陀の教えであると理解する。

 一方化身とは、種々の姿を取って衆生を救済する仏身である。普通の人々(凡夫)の姿をすることもあり、梵天、帝釈、魔王、畜生、地獄等の姿を示すこともある。男はこれを自分自身も仏陀の化身であると理解する。そのように理解するとSNさんご夫婦も仏陀の化身であると理解できる。娑婆世界で男が見るものはすべて仏陀の化身であると思う。

 そう思うと男は、SNさんご夫婦も仏陀の方便として男に何かを教えているのであると理解する。仏陀が男に何を教えているかということを知るのは男の態度や能力や学習次第である。男は常々「自分は何も知っていない、自分が何も知っていないということを自ら知らなければならない。」と自分自身に言い聞かせている。しかし実際にそのような謙虚さができるわけではなく、娑婆っ気が出てきて煩悩の世界に自分がいることが多いのであるが、少なくともそのような心がけはしたいと思う。

 ところで法は仏陀が教える真理の体系であると理解する。男は法を書物で学ぼうと思う。

2010年1月15日金曜日

竹馬の友とその友人ご夫妻に会う(20100115)

 一昨日のブログにちょっと書いたが、今日、男は小中学校時代以来の親友Sとその親友が連れて来るその親友の友人ご夫妻に会った。Nさんの奥様がよく知っている横浜の中華街のある店で美味しい料理と口当たりのよいまろやかな味の紹興酒で話がはずみ、相当長い時間その店で過ごした。男は時間制限がなく、料理も酒も美味く、リラックスできるその店を気に入り、その店の名刺とリーフレットを持ち帰った。

 Nさんは男に35年前会っていると言う。それはSが東京近郊に住む郷里大分の中学時代の級友たちを集めた席にNさんを呼んで一緒に会食した時のことであるという。その頃男は埼玉の狭山に住んでいた。思い出せばそのようなことがあったなと男は思う。Nさんはそのとき集まった級友たちの中で男が皆と違った雰囲気を持っていたので記憶していたのだと言う。確かに男はこの齢でもこのようなブログを書いて公開しているぐらいだから、皆とはちょっと変わったところがその当時からあったのであろう。男は35年後にこのような再会をSの呼びかけでできたことを「縁」として嬉しく思い、この「縁」を大事にしたいと思っている。NさんはSのこのようなある意味では押しつけがましいほどの世話焼きを非常によいことだと言う。男もそう思う。

 今日は気温が低く、4時間以上もかけた食事のあと港のエリアを散策することはしなかったが、その代わりNさんの奥さまの計らいでわざわざ千葉の市川からやってきたSに横浜の夜景を見せるため横浜駅までタクシーを利用し、途中大桟橋でみなとみらいの夜景を見、男が持っていた旧式のデジカメで写真を何枚か撮った。

 Sは高校を出て都内のある有名大学に進学した。1年生のとき大学も専攻も出身地も違うNさんという人と一緒に、どういうきっかけか男はまだ聞いていないが知り合って、都内のある下宿屋の八畳間で共同生活を始めたという。Nさんは北海道のご出身、専攻は別の有名大学の法学部であったという。Sの方は商学部であった。戦後10年過ぎた時代であったが郷里も年齢も違う見ず知らずであった人と、何かで意気投合したにせよ八畳一間で共同生活を始めるということは、今の若い人たちには考えられないことであろう。当時はそういうことはなんでもないことであったのだ。そこに人との出会いとその後の人生を豊かにするきっかけがあった。それは「縁」である。NさんもSもその縁によりそれぞれその後の人生が大きく展開し、今日に至っている。

 Nさんは神か仏か、何か人智を超えた存在によりぐっと押されて大きな仕事を達成することがある。その存在を意識しない者には成功はないとご自分の体験からそう話してくれた。男は仏教用語である「縁」や「方便」に深い関心があり、このブログで何度か取り上げている。(関連記事:「お陰さまで(20091227)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/12/20091227-2500-20090720-20090723.html
 」、
「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/07/20090720-2500-2000.html 」)

 Nさんの奥様から男がこのブログを書く理由やコメントが来ないことについて問われた。男は「このブログを読んでくれている人は家族とか一部の友人たちなどに限られている。これはある意味で遺伝子のようなもので、後の世に私の子や孫たちが私が書き遺したものから何かを感じ取ってくれることを期待している。このブログの目的は限定している。ブログの投稿に対するコメントは受け付けないように設定しているのでコメントは来ない」と答えた。このブログに対するアクセスの数は把握できないが、このブログにリンクしている男の「吟詠」ブログではアクセス数の把握ができる。そこではアクセスが結構多い。

2010年1月14日木曜日

川辺の散歩(20100114)

 川は人々の心を和ませる。午後4時前男は独りでこの川辺を太陽に向かって歩いた。西北の風がやや強く、幾分寒さを感じさせるが川辺の散歩は気持ちが良い。土手の補強工事が行われている近くで一人の男が土手に座って携帯のテレビを見ている。小さい機器なのに音声は結構大きく聞こえてくる。綱を付けていない子犬を3、4匹連れた60代位の女性が向こうから歩いてきていて、その子犬が男に愛嬌をふりまいてまとわりつこうとする。その女性は男とすれ違う時「今日は」と声をかける。男も元気よく「今日は」と返すと「すみません」と犬が男にじゃれついたことを詫びる。男は「いや、いいんですよ。」と返す。

 30分ばかり歩いたところで工事のため行き止まりになったのでひき返す。暫く歩くと鉄橋の上を電車がゴトンゴトンと走っているのが見えてくる。川と鉄橋と走る電車と両岸の建物群と樹木や葦の茂みと丘陵と空、この風景はいつ見てもとても良い。たまらなく良い。
男はこの風景を絵にしようと写真に撮ったことがあったがまだそれは実現していない。10年ほど前男はある絵の同好会に入っていて、この川にかかる橋と川の風景を絵に描き、展覧会に出したことがあった。その絵を男は自分の部屋に飾ってある。初めて書いた絵であるが絵の中に余計なものが描かれている。それは送電線の鉄塔である。男の絵を観たある画家が「これは無い方が良かった」と批評してくれた。その画家は男の友人(女性)の叔父にあたる方であるが、がんで入院中であるとのこと。その友人に見舞いの手紙でも書かねばならぬと思っているが、このところなかなかその時間がない。

 夕日を斜め後ろから受けながら歩いているとネギやパンなど買い物をして帰る途中川辺を散策しているらしい女性に追いつく。買い物袋は結構重そうである。その女性は日々の買い物には不便な場所に住んでいるのであろうか。今日は天気が良く散策しながらの帰りはそうつらくはないであろうが、そうでない日はつらかろうと男はその女性に同情する。

 暫く行くと今度はサイクリングの途中らしいヘルメットをかぶった女性に出会う。その女性は携帯電話のカメラで太った2匹の野良猫の写真を撮っている。この辺には野良猫が何匹か住んでいて、誰かがその世話をしている。川岸の茂みの陰に雨の日でも大丈夫なように傘つきの餌場が作られている。以前女房と一緒に散歩していた時これを見た女房は猫を捨てる飼い主の方を非難していたが・・。

 後ろ姿が良い女性が前を歩いている。男はゆっくり大股で歩いているのであるが追いついてすれ違う。美人である。男はふと昨年膵臓がんで死んだ女性のことを思い出した。
男は昔ある特定非営利活動法人を立ち上げ、7年間その代表をしていたことがあった。そのとき男はスペック(仕様書)を作って人材を求めたことがあった。そのときスタッフの一人がその女性を紹介してくれた。彼女は聡明で美人で仕事もよくこなした。彼女は男より一まわり下であった。彼女の夫は新幹線で4、5時間かかる遠地に単身赴任していた。彼女の悪い癖で彼女は男の自尊心を傷つけるようなことを言ってよく男を怒らせていた。しかし男は彼女を友人として愛していた。

 男は彼女が入院したということを聞いてすぐその病院に見舞いに駆け付けた。彼女は「何もかも失った。もう十分人生を楽しんだ」と男に言いながら泣いていた。男は「まだこれからではないか」と彼女を叱りつけた。別れ際彼女は男に握手を求めて来たので、男はしっかり手を握ってやった。その彼女はもうこの世にはいない。

 会うは別れの始めである。川辺の散策は男に人生のいろいろなことを考えさせてくれる。

2010年1月13日水曜日

新年会などの案内状を貰って(20100113)

 毎年年が明けると男が昔関わっていた所から新年会やOB・OG会や同窓会などの案内状が来る。何年か前まではそれらの会合に出ることが左程億劫ではなかった。お付き合いという気持ちもあった。しかし今年は行くのが億劫である。それよりも今晩の食事のように女房と二人だけで、先日来客があったとき余った食材で天麩羅なべを囲み、ノンアルコールのビールもどきの飲み物を飲みながら、全く気も使わず食べるのが最高である。わざわざ会費を払って、昔の何人かの友人や知人と旧交を温め、演台で誰かが何かをやればお愛想に手を叩き、時間をつぶすのがだんだん馬鹿らしくなってきた。

 それでも淋しい人はそのような会合にいそいそと出かけるのであろう。男は明後日、千葉に住む竹馬の友と、彼が連れて来る人と横浜で会う。彼が連れて来る人は男を知っていると言うが、男の方ははて誰だっけ、と全く記憶にない。竹馬の友はその人を是非男に再会させようとわざわざ横浜までやって来る。その人は横浜に住んでいるというから面白い。そのような友と食事しながら語り合うのはとても楽しいことである。

 男が九州の田舎に帰るとき是非立ち寄ってくれ、という友人が福岡の宗像と筑紫に居る。そういう友と会うのは楽しい。しかし、72も過ぎて誘われる会合に出ても男が知らない人が多い。知人・友人たちと旧交を温めてもそれが大きな意味があるとも思えない。

 男は今日陶芸に行った。これは毎週12回行くが、陶芸には創作の喜びがある。西行も言っているように「老楽は至善を行うにある」のだ。この齢になってつまらない時間を過ごしたくはない。敢えて「義理を欠く」のも必要である。年寄りの我が儘と言えばそれまでであるが、「どうしても来て欲しい。来て後輩のため○○をして欲しい」と何か、男が意欲を感じるものがあれば、幹事がわざわざ時間をかけて案内してくれたのであるから気持ちを振るって参加することには意味があると男は思う。しかし浅学無能な男にはその○○など出来るものは何一つない。第一男は持ち上げられて喜ぶような者ではない。

 隠居・遁世は身勝手と言えば身勝手、作家や芸術家も自分の世界しか興味がないと思うが、今の男には自分の世界にしか興味がない。人生で何か不足があれば、まだまだ頑張らなければならないと思うだろうが、男も女房も何一つ不足はない。男はまだそうは思っていないが、女房は「私は何も思い残すことはない。いつ死んでも良い」と言う。しかし男には子や孫たちのためにまだやっておかなければならないことがある。それだけではなく、「在家の仙」のように、世俗のまま仏教の勉強を深めたいと思っている。

 男と女房に戒名を授けて下さるという100歳になるお方は在家のままお坊さんの資格も取られたお方である。男もそのお方の後を追って在家のお坊さんになることも念頭にある。この28日、そのお方は満100歳になられる。その日に男と女房に戒名を授けて下さるので、その日男と女房は都内に住むそのお方のお家を再訪することになっている。

 一般に家に閉じこもりがちな老人は世間が狭いため話題に乏しい。特に年老いた女は情報源として民放の娯楽番組や近所の人たちとの会話で得た噂話しかない。男のようにこの齢でコンピュータを自由に使い、インターネットにアクセスし、哲学的な書物に親しむような者はマジョリティではない。人には誰でも124時間という同じ時間がある。それをどう使うかによって人生の豊かさに差が出てくる。「知は力」である。男も女房もそれぞれ己の目標の的を絞り「知らないことを知る」ことが好きで、そのとおりにしている。

2010年1月12日火曜日

大伴家持の歌に寄せてこの国の行く末を案ず(20100112)

  万葉集は主として大伴家持によって編纂され、天平宝字3年(759年)以降成立した日本に現存する最古の歌集である。万葉集には天皇、貴族から下級官人、防人など様々な身分の人間が詠んだ歌が4516首収められている。この万葉集の4516番目の歌は大伴家持が作った歌で「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け(しけ) 吉事(よごと)」という歌である。我々は古代のこのような素晴らしい遺産をもつ日本国民であるのだ。

 今日は曇天で寒い。男と女房は殆ど家の中で過ごしている。録画していたNHKの『日めくり万葉集』を再生して観賞した。万葉集について篠田正浩は「大伴家持は権力の痛切な裏切り、自分たちが奉仕しても受け入れられない権力の非情さに対するアンチテーゼとして万葉集を作ったのではないか」と言う。浅田次郎は「(万葉集は)歌集ではなく歴史を背景とした壮大な叙事詩である」と言う。サンパウロ大学元教授でポルトガル語で万葉集を紹介した初めての本をブラジルで出版したジェニ・カワサキは「万葉集は限られた階級の歌集ではなく、国民全体の歌だというところに興味を持った」と言う。

 大伴家持の氏である大伴氏は、その大伴氏から別れた佐伯氏とともに古来代々天皇の警護のため奉仕してきた氏族である。聖武天皇の御代、奈良の大仏建立に必要な金が陸奥の国から出たという知らせを聞いて、大伴家持は『陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌』(別名、『賀陸奥国出金詔書歌』)というものを作った。その金は663年の朝鮮・白村江の戦いで日本軍が大敗したため日本に帰化した百済王族の子孫・百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)が陸奥国司として陸奥に派遣されていたときに発見した金である。

 その『賀陸奥国出金詔書歌』の中に「大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て 人の子は祖の名絶たず 大君にまつろふものと 言ひ継げる言の官ぞ 梓弓手に取り持ちて 剣大刀腰に取り佩き 朝守り夕の守りに 大君の御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て思ひし増さる 大君の御言のさきの聞けば貴み(現代語訳: 大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊く有り難い)」という一節と、「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」という歌がある。この歌は戦前、兵士を奮い立たせる歌として悪用された。この金産出の詔書を賀す歌の悪用のことを多くの日本人は知らない。

 大伴家持は時の実力者・藤原仲麻呂が権勢を振るう様を観て天皇が治めるこの国の有り様に不安を持ったのか時の権力に立ち向かったが、結局は志成らず滅ぼされてしまった。男はこの史実からふと外国人参政権を推進しようとする今の時代の危うさを思った。

 古代の大伴・佐伯両氏のように代々天皇を支え天皇を守ろうとする特定の勢力は今の時代には存在しない。大伴・佐伯両氏退場の後、藤原北家の藤原氏が代々天皇を支え続けてきたが、平安時代の終わりとともに天皇は時の権力者に利用され続けた。太平洋戦争も然り、今時、また慣例を破る形で小沢一郎氏により利用された。

 男には小沢氏がこれまでずっと私利私欲のため行動してきたとしか思えない。この国の行く末は彼に忠節を誓う者、彼を恐れる者たちにより危うい状況にあるように見える。

2010年1月11日月曜日

来客(20100111)

 今日もよき天気、まるで春のようである。男が「もう春だ」と言ったら女房が「あなた、まだこれから寒くなるのですよ。大寒はもうすぐだけど」と言う。暦をみると120日が大寒である。寒中見舞いはそれまでに出さなければ意味がない。男は先日考えた今年から年賀状は失礼するための寒中見舞いを早くしなければならないと思った。(関連記事:「良い日和(20100108)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2010/01/20100108-22-2010-29-8-cool-japan-50-30.html

 今日は我が家に久しぶり来客があり、女房は朝から張りきって客を迎える準備をしている。その一つは天麩羅の食材の準備であり、もう一つはマグロの茶漬けの仕込みである。天麩羅は皆で電気式天麩羅なべを囲んで各個に串と食材をとり、食材を串に刺して天麩羅なべで揚げながら食べるものである。揚げた天麩羅はおつゆにおろし大根を加えたものやお茶で使う抹茶と天塩などで食べる。食材には季節もののタラの芽も加え、ホタテ、えび、かぼちゃ、いんげんまめなど山海の珍味を揃える。マグロの茶漬けは新鮮なマグロのの刺身を醤油にごまや刻みネギや日本酒などを加えたものの中に漬しておいて味が染みたもの熱いご飯の上にかけてそのまま、またはお茶漬けにして食べるものである。女房は皆が満腹する以上のものを準備しているので、皆遠慮なく沢山食べた。

 お茶漬けと言えば男には忘れられない思い出がある。男が10歳のとき男の母は乳がんで入院していた。戦後の食糧難の時代、入院中の母が男と男の弟のため白米のご飯を炊き、どこからかマグロの刺身を仕入れてきてお茶漬けを作り食べさせてくれた。当時母は病院の個室に入っていたように思う。お茶漬けはその部屋で食べさせてくれた。米は祖母が秘かに届けてくれたものらしい。男はその時母もお茶漬けを食べたかどうか覚えていない。そのとき母は自分の病気がもう治る見込みがないと思っていたらしい。だから遠路わざわざ訪ねて来た幼い兄弟に母親として精一杯の愛を示したのだと思う。男は女房がお茶漬けを作るたびにその思い出を女房に話してしまう。今日は来客があったので話題はそちらの方に向いていた。だからその思い出の話はしなかったが・・。

 客人とは男の長男一家である。働き盛りの長男は海外出張が多く、昨年は37回も出張したという。その長男から男と女房はお年玉を貰った。昔男と女房は子供たちにお年玉を上げていた。今、逆に子供たちからお年玉を貰っている。嬉しいことである。男と女房はその子供の子供(孫娘)がこの春修学旅行でフランスとイギリスに行くというので、その孫娘に餞別を上げた。家族内で経済が回っている。わが家族内の経済はプラス成長である。

 その孫娘はイギリスでそのまま2週間ホームステイすることになっている。そこで男はその孫娘に「東京もパリもロンドンも現代の都会の雰囲気はあまり違いがないだろう。しかしフランスに行ったらフランス人の生活や文化、イギリスに行ったらイギリス人の生活や文化が日本とどう違うかという点に着目して観察するように」と言った。女房は「いろいろ見て来たことをおばあちゃんに話して聞かせてね」と言った。同じ旅行でも何かテーマを持って旅行する方が得るものも多いであろう。

 孫娘は日本が開発して作った超大型もぐら穴掘り機を使って完成したドーバー海峡のトンネル内を走る列車に乗ってフランスからイギリスに渡るらしい。日本はイギリスと違って山地が多く平野部は少ない。そのため地下の利用は世界に例を見ないほど発達している。地下ターミナル駅は複数の路線と連結している。日本は世界に冠たるシステム大国である。

2010年1月10日日曜日

反捕鯨団体シーシェパード(20100110)

 南極海で我が国の捕鯨船団がオーストラリアやニュージーランドやオランダなどの政府から表向きは「暴力行為を非難する」としながらも暗に支援されている反捕鯨団体シーシェパードの活動船と放水などの手段で対抗している。今度は彼らが誇る最新鋭の活動船が我が国の捕鯨船第2照南丸の進路を勝手に妨害し、第2照南丸に衝突して大破し、乗組員1名が怪我をした。彼らは自分たちの不法行為を棚に上げオランダの司法当局に第2照南丸の船長と船員を告訴した。男は言語道断であると怒る。

 そもそも動物の肉を食べることについて、何故牛や豚なら良くて鯨はいけないのか?彼らの論理には矛盾がある。鯨は人間に近いほど知能が発達していて牛や豚はそれほどでもないと言うのか?鯨を殺すよりは牛や豚を殺すことのほうがもっと残酷ではないのか?ただ食文化の違いだけで鯨の肉を食べる国の国際法に従った行為を非難するのは矛盾がある。

 もっとも男も捕鯨には反対である。大海原を鯨の親子の一団が泳いでいる姿はほほえましく、それを観る人の心を癒す。彼らは何千キロも旅をする。人は彼らに教えられることが多い。牛や豚は食料として牧場で飼育し、機械仕掛けで屠殺し、肉片となってあちこちで売られているが、鯨はそのようにポピュラーではない。男も女房も鯨の肉は食べない。牛や豚の肉は、心の中では彼らに可哀そうだがこれを食べなければ生きて行くために十分な栄養を摂取できない、「牛さん、豚さん、ありがとう!」と思いながらも「美味しい!」と感じて食べる。男も男の女房も鯨を出されてもちっとも美味しいとは思わない。

 しかし、一方で日本人は昔から鯨を捕り、食べ、骨も皮も歯も何もかも捨てるところは無くすべてを加工し、利用してきた。その文化は根強く残っている。鯨の捕獲数を限定した調査捕鯨で持ち帰った鯨の肉などは一部の限られた人たちに喜ばれている。多くの日本人は反捕鯨国の人々のように感情的にはならず、逆に彼らに強い反発を覚える。彼らが自国の軍隊の出動まで希望し、日本の捕鯨船団を閉めだそうとすることに強い怒りを覚える。

 最新の科学でこの地球上の人類は皆共通の祖先を持っていることが判って来ている。人類は皆兄弟姉妹なのだ。世界の国々で同じようなことを言った人はいるかどうか男はまだ調べていないが、明治天皇は「四方の国 皆同胞と思う世に なぞ波風の立ち騒ぐらむ」と詠われた。「同胞」とは「同じ母親の子供」という意味である。大阪箕面市の生まれで平成7年(1998年)に死去した政治運動家・実業家・社会奉仕活動貢献者・笹川良一氏は「世界は一家 皆我が友」と財団法人吟剣詩舞道振興会の会詩の中で言っている。

 余談であるがヨーロッパ連合の生みの親であるリヒアルト・クーデンホウフ・カレルギーの母親は日本人・光子(骨董商青山喜八の娘)である。「世界は一家」の思想は日本人が無意識に持っているものかもしれない。我々日本人自身が意識していないことであるが、多くの欧米人が日本の文化に惹かれている。自然と一体となった幽玄の美の世界、閑寂な風趣である‘侘(わび)’やこれが洗練されて純芸術化された‘寂(さび)’の世界、日本刀や小寺の屋根の傾斜の微妙な曲線に見られる美の極致の世界は、日本独自のものである。

 文化の違い、習慣の違いが誤解を生む。男は日本政府はシーシェパードの連中を無償で日本に招待し、23ヶ月間の滞在費も観光費も負担して日本の文化や習慣に触れさせたら良いと思う。そのコストは安いものだ。感情的になって捕鯨船団の警護能力を高めるための装備などを強化するよりも結果的にプラスとなって戻ってくるだろう。

2010年1月9日土曜日

「至善」に生きる(20100109)

街を歩いていると「○○経営事務所」とか「△△経営研究所」とかの看板を掲げている家を見かけることがある。男はこの人たちは何の経営について事務を行ったり、研究したりしているのだろかと疑問に思う。おそらく株の取引をしたり、一定の金を払って手に入れた名簿をもとに株や金などの取引について話を持ちかけたりしているのだろう。ある日、その看板を掲げている家から70近くの一人の男が出て来た。見ると青白い顔をしている。家の中にばかり閉じこもってばかりいて陽にやけていないためだろうと思う。
男もこのところ田舎に帰っていて外歩きをしていなかった。田舎に帰る前ごろから鼻風邪に罹っていて、多少健康を害していた。その中女房も風邪を引いた。大晦日に男は「小青龍湯」という漢方薬を飲んで鼻水を抑えていた。元日には雪が降り、日中気温は零下6度にも下がっていた。あまり太陽に当たらずにいた。鏡をみると青白い顔に見える。女房も元気がない。体温は微熱であるからインフルエンザではない。
太陽に当たり、晴耕雨読の日々をおくるならば健康的であるだろうが、老老介護のように70前後の夫婦が90代の婆さんの世話をするため盆・正月に田舎に帰るのは健康的ではない。女房は昨年の盆に帰省以後体調が芳しくない。男もアップロードした自分の吟声を聞いてみると昨年の盆ごろからの声には、気のせいか張りがないように感じる。
これではいかんと、今日もお天気が良いので体調回復の自主トレを始めた。昨日も家の近くの川の土手を一周したが今日も同じことをした。今日はさらに川べりの葦の茂みの中を分け入り、後ろの道をウオーキングする人から見えないように奥の川面の傍に出て、そこで発声練習をし、西行の『至善』などの吟詠をしてみた。
初めの頃は高音域になると声量が低下し声音が響かない。しかし徐々に良くなった。何日も大きな声を出さずにいると発声に必要ないろいろな筋肉が衰えてくることはこれまで経験的に判っていた。しかし、この2週間以上、田舎に帰っていたこともあり声を出すことを憚っていた。しかし今日は川に向かって大きな声を出した。葦の茂みに遮られている道を歩く人達には男の声は良く聞こえている筈であるが、男の姿は見えない。誰が声を出しているのかとわざわざ覗きに来る人も居なかった。川の向こう岸ではアオサギが1羽じっと川の面を見つめている。野良猫が1匹、そばで小魚でも捕ろうとしているのか体を低くして川面を睨んでいる。それを見つめながら男は吟声を出して詠った。
新聞には小沢氏が4億円の出所について検察から事情を聴取されることになりそうであると書かれている。前にもこのブログに書いたが検察がきちんと公正に調べれば、小沢氏は失脚することになるだろう。(関連記事:「鳩山首相の緊急記者会見(20091226)」)
男は政局に関心を持ちながらも加齢とともに日々余計な時間を費やしたくない。ひたすら自らを拠り所として仏の教えを学んでゆきたいと思う。そう思って書棚から筑摩書房刊、中村元編『原始仏典』など仏教関係の蔵書を毎日少しずつ読んでゆこうと思う。釈尊は「自らを洲(しま)とし、自らを拠り所として、他を拠り所とせず、法を拠り所として、他のものを拠り所としない」(『大パリニッパーナ経』二・二六)(NHK市民大学『釈迦とその弟子』1988年より)という。今年からは、男は西行の『至善』のように「一日を一生として」生きることの素晴らしさをじっくり味わってゆきたいと思う。(関連記事:「詠って元気になる「至善」(20091225)」)

2010年1月8日金曜日

良い日和(20100108)

 今日、平成22年(西暦2010年)木曜日はお天気がよく温暖な日和である。昨年暮れ29日から昨日まで男はこのブログで二つの小説(まがいのもの)を発表した。何れも中身の8割以上がフィクションである。フィクションであっても男の家族とか友人達とか、男を知る者たちには、登場人物の誰某が誰某であると大方想像はつく。タイトルに‘恋’の文字があるので男は初め女房には中身をよく話していなかったが、ある友人から「奥さんに話したか?」と詰問されたこともあり、その二つの小説(まがいのもの)をプリントアウトしたものを見せた。女房の感想はまだ聞いていない。

 テレビ番組で「Cool Japan」というものがある。在日外国人が「夫婦」という題で街ゆく老若二人づれにインタヴューしていた。「来世にまた一緒になりたいか?」という質問にある男性は「50%以下」その連れ合いは「30%」と答えていた。男はどうかというと、100%また今の女房と一緒になりたい、と答えるだろう。

 しかし男は女房に対しても罪があり、一方女房の方は男に対して全く罪がない。男は小さい時から動物に対しても幾つかの罪があるが女房には全くない。男には大きなやさしさはあるかもしれないが、女房のようにやさしくなく、こまやかな気働きも心遣いもできない。花が大好きだということもない。女房があの世に行くときにはそれこそピンク色や白や黄色の美しい花々と金色の光と妙なる音楽に導かれ、あの世では至福の暮らしをするであろうが、男は多分今よりは少し増しなだけの人間界に生まれる程度である。男が幾らあの世でまた今の女房と一緒になりたいと願っていても、そのようにはならないだろうと思う。

 今年男は年賀状を出す相手先を絞り込んだ。毎年沢山年賀状を出していて、沢山年賀状を貰っていたが、今年は100枚以下に絞った。男から年賀状が来なかった人たちは「なにかあったかな」と思うかもしれない。そこで男は寒中見舞いで「古の頃は時間がゆっくり流れていた。現代では時の経つのが早い。関わる事も繁多でその分自らを省みる時間も少なくなっている。そういう日々を送りながら年末近くともなれば毎年そのお方のお顔を思い浮かべつつ年賀状を書き、年が改まれば年賀状を下さった方のことを思い浮かべつつ年賀状を読む。それは楽しいことである。

 しかし今後は在家のまま仏の教えを学ぶ時間をより多く確保したいと思う。そこで今年から年賀状を頂くことを嬉しく思う気持ちは変わらずとも、甚だ身勝手ながら自分からは年賀状を出すことは失礼させて頂こうと思う。此の事をお赦し頂きたい。下記URLのとおり随筆、吟詠、詩吟、陶芸のブログが可能な限り続ける所存。」という趣旨のことを書いて送ろうと思う。

 男がもしこの年で社会的諸関係が非常に深かければ、そんな勝手なことはできない。社会的諸関係の深い人たちは‘私’よりも‘公’の部分が多い。誰にも同じ24時間でも、その人たちは‘公’のためその24時間の多くを割かなければならない。そのような人たちは‘公’のため貢献した度合によって、国家から顕彰されなければならない。

 男は今生の名誉や地位や金に無縁でありたいと思う。吾只足るを知る生き方をしたい、煩悩から解き放たれたいと思う。その思いは女房との幸せな日々のお陰でかなえられている。もし、男にそのような幸せが無ければ、遁世を好む気持ちには到底なれないだろう。さもなくば、必死の思いで仏の慈悲にすがろうとするだろう。上記のことは甚だ贅沢な願いである。しかしそれが出来る幸せがある。仏縁に感謝しなければならぬ。

2010年1月7日木曜日

小説『18のときの恋』(20100107)

 
  昭和2112月の暮れ、いよいよ死期を知ったともゑは信夫にいつものように「起こしておくれ。」と言った。その時は「背中をさすっておくれ。」とは言わず今度は「東を向けておくれ。」と言った。信夫はやせ細ったともゑが何故そう言ったのか理解できぬままともゑの言うとおりにしてやった。すると「お仏壇からお線香を持ってきておくれ。」という。ともゑの言うとおりにしてやるとともゑは「お父さんを呼んできておくれ。」と言って東に向いて両手を合わせた。

  信夫の父親は家の裏の山に、当時おくどや風呂の焚きつけ時の燃料にするための落ち松葉を掻き集めるため行っていた。信夫が父親を探して戻ってきたとき既にともゑはこと切れていた。死床の周りに祖父母や近所の人たちが集まっていた。父親は自分が無力で苦しむ妻に何もしてやれなかった悔しさに耐えかねて、ともゑの傍であたりかまわず号泣した。人生には自分の能力と努力でなんとかできることと、それだけではどうにもならないこととがある。天命に従い、事にあたり己の最善を尽くし、わが事において後悔しない精神を常に持ち続けることが人のあるべき生き方であり、死に方である。

  そのような精神を身につけている千代のお陰で信夫は念願の東京建築大学に入学することができた。同級生たちは皆年下であったが信夫は一心に勉学に励みその大学を首席で卒業し、1級建築士の国家資格も取得することができた。その努力が実を結び信夫は都内にある世界的に有名な飛鳥建築設計事務所に就職することができた。

  信夫はその会社で良い上司に恵まれた。信夫の上司は信夫より年下であったが以前から信夫のことをよく知っているかのようであった。否、その上司ばかりではなく社長以下全員が信夫の家族のようであった。信夫はその会社で15年間修業を積み、その会社の関連会社として新しい会社を興し、グループ企業の一翼を担うようになった。

  チームワークという言葉がある。真のチームワークは個々のチームメンバーがそれぞれの役割を果たすネットワークである。社長もチームのメンバーの一人であり、社長という役割を担っているにすぎない。社長が社員よりエライわけではない。チームワークはタテの関係のワークではなく、ヨコの関係のワークでもなく、ネットワークである。その要要にリーダー、サブリーダーなどの役割を担うメンバーがいるワークである。そのようにして全体の和が重んぜられるワークである。そのワークは古来日本人が自然に身につけて来たワークである。例えば人々が飢饉で苦しんでいる時、領主も共に苦しみ、困難を乗り切るため領主も領民も一丸となって頑張る。そのような文化を古来から日本人は大切にしてきたのである。その根底には‘お陰さま’がある。近年その日本でそのような文化が廃れてきた感がある。

  信夫の今の幸せは一重に千代のお陰で得られているものであると信夫は思っている。信夫と千代の三人の子供たちもそれぞれ幸せなよい人生を送っている。すべて‘お陰さま’のお陰である。信夫がもし千賀子と結婚していたと仮定した場合、今の幸せが得られたかどうかは判らない。しかし信夫が18の時の千賀子との間も友達以上恋人以下の関係も‘お陰さま’のお陰である。仏さまの方便である。千賀子も信夫から忘れられたというショックを乗り越えて幸せな結婚をし、よい家庭を築いた。人生で起きるすべての物事には、仏様から見れば意味のないことは何一つないのである。(終)

(関連記事:「お陰さまで(20091227)」、「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)」)

2010年1月6日水曜日

小説『18のときの恋』(20100106)

 
  ある日千代は「信夫さん、貴方がいつも言っているように人生は投資だと思います。貴方にはこれまで内緒にしてきましたが、私は貴方が貴方の人生に投資するためのお金を十分準備できています。一緒に上京して大学に通いませんか?」と突然言った。信夫はその時信夫が10歳のとき33歳で死んだ母親・ともゑのことについて、当時40前であった父親が信夫に語った言葉を思い出した。

  その頃信夫の父親は自分の甲斐性なさのため、苦労を共にしてきた妻をむざむざ死に追いやってしまったと悔いていた。信夫に「死のうと思ったがお前たちのことが可哀そうで死ねなかった。」と話したことがあった。そのとき「お前たちのお母さんはとてもしっかりしていたぞ。お母さんは先の先のことまでよく考えていた。お母さんは何をするにも順番を良く考えて行っていた。決して無駄が無かった。」というようなことを信夫に話していた。

  千代はとてもしっかりしている女性である。人の性格は子供の時に既に形成されている。千代が小学校5年のときに学級の生徒全員が写っている写真がある。千代は前列の中央にいる。信夫はパソコンでその全体写真の中から千代だけを切り取って拡大し印刷したものを作ってみた。11歳のときの千代の顔つきにはすでに何かの覚悟ができているようである。信夫はその写真を見て、千代は信夫に尽くすためこの世に送り込まれたのだと思った。

  千代は信夫に尽くすという役割を自覚しているわけではないが、結果的にそのような形になっている。千代は信夫のキャリアアップのため必要な資金を信夫には気付かれないようにして計画的に準備してきたのである。信夫は母親がもし生きていたら同じようなことをしたであろうとふと思った。

  信夫の母親・ともゑの胸には朝鮮から引き揚げた20年夏、既にがんのしこりができていた。その年の10月父親が引き揚げてきたが、何も彼も失って引き揚げてきた父親には直ぐには為す術もなかった。いろいろ金の工面をし、つてを頼って翌年早々ともゑを別府の病院に入院させた。ともゑはその病院でがんに侵された左右両方の乳房を間をおいて順番に切除する手術を受けたが既に手遅れであった。

  信夫は別府のその病院で母親のがんの塊を見たことがある。その頃の病院は荒っぽかったのかもしれないが、病院の中庭の池に飼われていた亀にそのがんの白い塊を餌として与えていたのを見た。信夫は父親に連れられて病院長の家に行く途中の廊下の窓からその塊を見た。病院長の家には祖母からことづけけられた大根やカボチャなどを入院代替わりに贈るため行ったのであった。

  今のように抗がん剤が揃っているわけでもなく、乳がんの治療法は限られたものであった。ともゑは結局それ以上の手の打ちようもなく病院から見放された。そして信夫の父親の家に身を寄せ死の床に臥していた。母親の背中にはがんが転移し沢山の小さながんのこぶができていた。「信夫、起こして、また背中をさすっておくれ。」と言うたびに10歳の信夫は母親を寝床から起こして上げ、背中をさすってやっていた。今思えば全身に転移したがんはともゑに相当な苦痛を与えていた筈である。しかしともゑは信夫にその苦痛の顔を少しも見せることはなかった。誇り高い士族の孫娘として息子に身をもって生き方と死に方を教えようとしたのであった。しかしその時の信夫は自分の母親が既に死の床にあることを知らなかったし、母親の信夫に対する思いも理解していなかった。(続く)

2010年1月5日火曜日

小説『18のときの恋』(20100105)


  しかし当の信夫の方は千賀子がそれほどまで信夫のことを想っていたとは知らずじまいであった。50歳のときの同級会で千賀子は「あなたがどんな女性と結婚したのか知りたくて、市役所に行き貴方と奥さんのことを調べたのよ。」と淡々として話した。級友たちは千賀子の話を黙って聞いていた。信夫は千賀子に悪いことをしてしまったな、と自分の無知を悔やんだ。しかし千賀子が信夫を別に怨んでいる様子も見せなかったし、東京でスタイリストをしている娘の写真も皆に見せながら長い齢月の間にいろいろあったことなどを語ってくれたので、信夫は救われた気持ちになることができた。

  信夫に結婚話が持ち上がったのは、信夫が下士官になって艦隊勤務から離れ江田島にある海上自衛隊の術科学校で教官をしていたときのことである。そのまま順調に行けば部内出身の士官候補生になる道もあった。しかし信夫は自分の人生の目標をはっきり決めていた。それは建築家になることであった。信夫は上司の熱心な勧めを有り難く思いながらも士官候補生になるための勉強はせず、玉川大学の通信教育を受け数学の勉強をしていた。建築設計技術者として生きてゆくためには数学の素養は必要であると考え玉川大学の通信教育を受けたのである。建築設計技術者になり将来は独立して事務所を持ちたいという信夫の希望は、信夫の父親を通じて千代の父親にも伝わっていた。

  信夫と結婚した千代は医師の資格を生かして江田島の海上自衛隊病院の非常勤医師を務めながら信夫の自尊心を傷つけずに信夫の長年の夢を実現させるため心配り、気働きを忘れることはなかった。医師でもあるのでその知識を活かして自分自身のことは元より信夫の健康維持にも気を配った。信夫は千代のそのようなやさしさを嬉しく思い、いつも心の中で「ありがとう」と手を合わせていた。

  千代は信夫の勉学のためにと秘かに貯金をしていた。千代は信夫と結婚する時父親から「千代、これは父さんがお前のために毎月少しずつ貯金してきたものだ。将来きっと役立つときがある。そのときまで大事に持っておくように。」と1冊の郵便貯金通帳を渡されていた。そのお金と合わせると信夫が4、5年間は働かなくても暮らして行けるだけの十分な金額になっていた。千代はそのお金を使うべき時がきたと思った。

  二人の間に二人の男の子が授かり、平和で暖かな家庭生活が続いていた。家庭の暖かさは千代の人柄が作りだすものである。千代には生来のおおらかさと明るさとやさしさがある。家事は人一倍良くこなす。花が大好きで家の内外は花や観葉植物で一杯である。

  信夫は千代に口癖のように「男の子は体が丈夫で意志が強ければ生きて行くことができる。子供を立派に育て上げ、社会に送り出すことが人生の大事な事業である。経験は学習の一つである。」とよく口にし、実際そのとおりに実行していた。二人の息子たちを子供時代よく山野海岸に連れて行き、少年時代にはスポーツ少年団に入団させ、高校・大学時代にはそれぞれ1年間の海外留学もさせた。

  千代は子供たちへのしつけは厳しいが本当にやさしい母親である。赤子におっぱいを含ませるとき、赤子の顔を見つめながら語りかけ、すこし大きくなれば膝の上に載せて両手を引いたり押したたりしながら語りかけ、成長した後も食卓での母子の会話は絶えなかった。子供たちは学校でのできごと、会社でのできごとなど何でも千代に話した。信夫はそばで母子の会話に相槌を打ちながら耳を傾けていることが多かった。(続く)

2010年1月4日月曜日

小説『18のときの恋』(20100104)


  写っている女性は信夫が10歳の時に他界した信夫の母親に良く似ていた。信夫の母親は終戦の翌年、昭和21年の暮れ、乳がんで逝った。信夫の父親は乳がんを患った自分の女房をよく看てやることもできず死なせてしまったことを終生悔やみ続けていた。信夫の父親は大野郡の田舎で間借り生活するという極貧の暮らしを陰に日向に支えてくれた信夫の今の母と再婚したが、後妻に内緒で死んだ前妻の墓石の欠片を秘かに所持していた。そのことがその父親の死後明らかになった。母は「隠さなくっても良かったのに。」と嘆いていた。

  信夫は父親が「お前はこのひと(女性)と一緒になれ。」と半ば命じるように言った。信夫自身かつて「結婚しよう」とまでいった同級の女性がいたことを父親には話していなかった。それに千賀子との付き合いはお互い手も握ったこともなく、今でいう「友達以上、恋人以下」の純愛を貫いていた、というよりは信夫は男女の関係については晩熟であった。

  信夫の父親はそういう息子に自分の死んだ女房、信夫の生母に良く似た女性を信夫に勧めたのである。信夫の生母は幕末の熊本藩士で船舶・港湾の行政を担うお船奉行の孫娘であった。豊臣秀吉の政策で今の大分県である豊後国は幾つかの藩に分割され、参勤交代の時の出入りの港があった鶴崎地方は熊本藩の所轄であった。信夫の父親が大野郡で教師をしていた頃、視学(今の県教育長)が信夫の父親を見込んでその熊本藩士の孫娘を妻合わせたのである。当時信夫の母親は父母とも死別し幼い妹を養いながら国東で教師をしていた。 

  信夫の父親が「お前はこの女性と一緒になれ。」と言った女性は信夫の父親の親友で教師をしていた人の娘であった。その親友は信夫の父親に「お前の息子なら俺の娘の千代を嫁にやってもよいぞ。千代は医者の免許も取ったので何かの役に立つだろう。」と言ったという。

  人物の判断は表面的なものだけで判断するよりも、表には見えないものを直感で判断する方が万事うまくゆくことがある。その直感の奥底にあるものは人智を超えた、ある意味では過去世、今生、来世を通じた永遠的な絶対的なものに委ねられているものである。そのような直感は生まれつき持っていた素質と生後親や周囲の人たちによる教育と本人の真摯な努力により身につくものである。千代の父親は信夫の父親から信夫のことをよく聞かされていたが、ある日信夫に初めて会って二言三言言葉を交わしただけで信夫の人物を見抜き、自分の親友がその父親にしてその子あり、と納得したのである。

  信夫の父親と同じ明治生まれのその人は「この男に自分の娘を合わすことは天命である。娘がこの男に尽くし、男子を産み、良く育てて世に送り出すことが娘の人生の役目である。」と直感したのである。歴史上そのような判断をした例は幾つかある。‘お役目’という言葉は、ただ単に現実世界の組織の中での職務を指す言葉ではなく、判りやすく言えば ‘特定の目上の人に仕え、そのお方が為すべき事業が成就するようにと常に心を配り、気働きをし、真心をもってお仕えする立場’であるということである。今時そのような古風な考え方をする女性は殆どいない。否皆無と言ってもよい。しかし千代はそれが自然にできる女性であった。

  信夫は余り迷うことなく「判りました」と返事した。見合い結婚話はトントン拍子に進み、信夫が25歳のとき、4つ年下の今の女房との結婚式を挙げた。千賀子は風の便りに音信のない信夫が結婚したことを知り、大変ショックを受けた。(続く)

2010年1月3日日曜日

小説『18のときの恋』(20100103)


    70を超えた信夫は自分自身の実践はともかくとして、政治の動きや社会の動向について相手のことにおかまおいなしに友人たちとあれこれ議論するのが好きである。友人たちの中で女性たちは信夫がしゃべりだすと「またか」とあからさまにうんざりする顔をする。

  高校を卒業直前のある日信夫は千賀子と『荒城の月』で有名な豊後竹田城を日帰りで訪れたことがあった。周囲のうるさい目を逃れて親にも誰にも内緒で、初めて遠出のデートをした。そのときのムードに惑わされたのか、信夫は千賀子に「将来時期が来たら」という言葉を省略して、いきなり「結婚しよう」と言ってしまった。千賀子は信夫の急な話に驚いた。年を重ねて人生経験を積んだ今から考えると、千賀子は信夫からの愛の告白を本当は嬉しく思っていたはずである。しかし「まだ18ですよ!」と信夫は千賀子にたしなめられてしまった。信夫と千賀子の交際は豊後竹田への日帰り小旅行を最後に途絶えた。


  信夫と千賀子の交際が途切れた大きな理由がある。信夫は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊し厳しい新隊員教育を受けた。そして護衛艦の砲雷科に配置となり艦が居住する場所となった。艦とともに日本国内だけではなく幹部(士官)候補生たちを乗せた遠洋航海や砲術訓練などで海外にも出るなどして各地を訪れた。艦隊勤務が毎日楽しくて仕方かった。初めの頃は海上自衛隊で海曹(下士官)になり所帯を持てるだけの自信がついたら千賀子に改めて結婚を申し込もうと思っていた。しかしそんなことは忘れてしまっていた。自分には千賀子以外の自分にふさわしい伴侶が必ず現れるはずだと確信するようになっていた。今思えば信夫は千賀子に恋焦がれるほどに千賀子を愛してはいなかったのである。

  信夫は後で知ったことであるが、かつて信夫が高校生のころ千賀子との交際の噂が広まって、千賀子の母親が信夫の家を訪れ、応対に出た信夫の叔父の嫁に「うちの子と交際させないで欲しい」と申し入れられていたことがあった。信夫の母親は信夫が10歳のとき乳がんで他界してしまっていたので、信夫の母親代わりを祖母や同居している信夫の叔父の嫁が務めてくれていた。その嫁は「若い日の時の思い出として胸にしまっておきなさい。そして千賀子さんとは手を切った方が貴方の幸せになる。」と信夫を諭した。

  当時信夫の父親はかつて朝鮮で羽ぶりのよい校長職までしていたが、戦後米1升が教員の月給とほぼ同額であった時代であったので生きて行くために長く教職を離れ、保険の外交員などしていた。しかし教職への夢は忘れられず師範学校時代の級友の助力を得て、42歳にもなって初めは助教という資格で教師として再出発し、その後正教員に復帰することができて、大野郡の田舎の小学校の校長として頑張っていた。しかし安月給のため信夫を養育してくえている信夫の祖父母に信夫や信夫の弟妹たちのための仕送りはできずにいた。ともかく信夫は祖父母や叔父夫婦の援助で高校を無事卒業することができた。

  信夫がある日父親に「大学には将来働きながら進学する。先ずは独りで生きてゆける自衛隊に入る」と言ったら、父親は信夫に「済まぬ」と一言言って「自衛隊でまじめに精一杯頑張るんだぞ」と言った。信夫は陸海空どこに入るか考えた末、視野を広めるため海上自衛隊の入隊試験を受けた。無事合格し、海上自衛隊での人生が始まった。新隊員教育を受けたのち護衛艦きたかぜの砲雷科に配属され信夫の艦隊勤務が始まった。信夫は勤務成績が極めて優秀で昇任試験に合格してトントン拍子に昇進し、最短期間で下士官に昇進した。信夫が24歳になったある日父親から見合い写真が送られてきた。(続く)

2010年1月2日土曜日

小説『18のときの恋』(20100102)


  一方芳郎は父親から相続した家と広い屋敷の管理で忙しい日々を送っている。寛政年間に建てられたと伝わる重厚な建物は管理が行き届いていないので傷みが激しい。雨漏りもしている。2階の天井裏には錆びついた刀や槍などの武具があり、そのまま放置しておくのは勿体ないと考えなんとか建物とともに文化財として後世に遺すことができないかと奔走している。その一方で自分の祖先のことを詳しく知りたくて、郷土歴史研究会というサークルで活動している。信夫はその研究会の研究成果をまとめた資料を芳郎から貰っている。

  信夫や坂田が帰郷する時、二人は必ず辰ちゃんと芳郎君に連絡している。今年の盆休みのとき信夫は2年ぶりに帰郷をした。帰郷前辰ちゃんに帰る日を伝えたら辰ちゃんは「おい藤君、今度の盆休みに江藤千賀子を呼んで一緒に食事しようと思うんだがどうだろうか」と突然言う。江藤千賀子の名字である江藤は旧姓で、今の名前は緒方千賀子である。
千賀子は結婚して福岡に住んでいる。福岡と言っても久大線沿線の浮羽町で信夫の郷里の日田に近い。級友たちが集まる場所として日田は好都合である。

  辰ちゃんがなぜ千賀子のことを持ち出すかと言うと信夫と千賀子の間に恋物語があったのを彼らが知っているからである。そのことは皆が50になったとき学級担任の阿部先生などを呼んで集まった同級会で千賀子が信夫に話していたことを聞いているからである。

  信夫はあのとき千賀子から初めて聞いたのであるが、千賀子は「結婚しよう」とまで言った信夫のことが忘れられず245歳にもなって風の便りに信夫には既に婚約者がいることを知り、悔しくてその女性がどんな人であるかということを知りたくて市役所に行き、いろいろ調べたというのである。千賀子はそのことを同級生の皆の前で暴露したのである。その時はお互いそれぞれ結婚生活も長く、千賀子には東京でスタイリストをしている娘さんもおり幸せな暮らしをしていたので、深刻な状況にならずに済んだのであった。しかし辰ちゃんたちはそのことが信夫をからかう格好の材料にしているのである。

  辰ちゃんが信夫が帰郷するたびに「江藤千賀子を呼ぼうか」と言う。信夫は「いやいやそれはいいよ。彼女も迷惑だよ。」と言うと、「いや、そうでもなさそうだよ。この間同級生名簿を作るため彼女に電話し、今度の盆に‘藤倉君が帰ってくるのだが出て来ない?’と言ったら、‘都合がつけば行くわ、日が決まったら知らせて’と言っていたよ。」と言う。

  信夫は高校時代千賀子と交際していた。当時高校生の分際でアベックでいることが人の目にとまればたちまち大きな噂になった。信夫と千賀子はそんなことを気にせず日田の日隈川や亀山公園などでデートを重ねていた。しかし信夫は千賀子の手さえ握ることもなかった。

  信夫は古本屋に売ってしまい今は手元にないが、千賀子から『千夜一夜物語』をプレゼントされたことがあった。千賀子は女であるから思春期は男よりませている。信夫があれほど千賀子とデートを重ねながら‘その気’が全く感じられないことに千賀子は多少苛立っていたのかもしれない。信夫は千賀子に何もプレゼントしたことがなかった。

  ある日千賀子は信夫の将来を占って信夫に「藤倉さんは将来評論家か技術者が向いている」と言ったことがある。その占いは当たっている。信夫は1級建築士として評判もよく、確かに千賀子の言った通り建築設計技術者である。もう一つ評論家についても当たらずとも遠からずと言ったところである。(続く)

2010年1月1日金曜日

小説『18のときの恋』(20100101)


  坂田も大概2位か3位で時には信夫を抜き1位になることも何度かあった。信夫と坂田は小学校時代から仲が良く、喧嘩もし、ライバル関係にあった。だから70を過ぎた今でもお互い相手の名前を呼び捨てにしているのである。坂田は3男坊であるから、芳郎と信夫のように父親同士は同じ年ではない。坂田の父親は信夫や芳郎の父親より年長であった。

  信夫は坂田のことを‘坂田’と呼ぶのであるが、他の級友たちは坂田のことを敬意をこめて‘泰さん(やっさん)’と呼んでいる。そう呼んでいるのは、彼が中学時代野球選手として活躍し、チームのリーダー的存在であったからでもある。野球仲間で後輩が‘やっさん’と呼ぶようになり、それが皆に広まったのである。しかし信夫だけは坂田と呼んでいる。辰ちゃんや芳郎君と話すときは「‘坂田’に聞いた」などと言い、坂田と話すときは‘坂田’と呼び捨てにしている。坂田も同様に信夫のことを‘藤倉’ と呼び捨てにしている。

  信夫、芳郎、泰治らが中学校に上がったとき町村合併があり、二隈地区が山鹿地区と同じ行政区になった。そのとき旧二隈地区にあった西中から梶山辰夫や中村志乃や江藤千賀子らが移ってきた。先生たちが故意にそうしたのかどうか知らないが、中学合併後も信夫と芳郎と泰治は同じクラスであり、担任の先生は美人で独身で音楽を担当する阿部桃子先生であった。そのクラスに西中からきた千賀子もいた。

  千賀子は色白ではないが目鼻立ちのはっきりしたちょっとおませで利発な女の子であった。あるとき先生が「皆さん、新聞を読んでいますか?」と皆を見まわしながら質問したことがあった。そのころ信夫は先生が何故そのような質問を中学生にしたのか未だに判らない。がしかし信夫が印象に残っているのは、その時千賀子が「はいっ!」と手を挙げて「大分合同新聞を読んでいます」と答え、先生が続けて「何処を読みますか?」と問うたとき「社説です」と答えていたことである。信夫は社説などに目を通したこともなかったので、そのとき「へえっ?」と思ったものである。先生はまじまじと千賀子を見つめながら感心していた。信夫もクラスの皆も千賀子に注目していた。

  坂田も信夫同様東京近郊に住んでおり、郷里にはたまにしか帰らない。坂田は当時山鹿地区で手広く林業を営む旧家の3男坊であった。高校卒業後東京の野田塾政経大学を出て船舶機械輸出を業とする商社日東に入社し、大学時代の後輩と結婚し、海外生活も送っていたが40歳のとき自分で輸出入経営コンサルタント会社を興し、千葉の船橋に豪奢な邸宅を構え、すっかり千葉の住人になっている。奥さんは宮崎県の延岡の出身である。

  辰ちゃんは高校卒業後大阪電機大学を出て東京に本社がある東京電業という大手の電気部品メーカーに勤め、名古屋支店の支店長で定年を迎えた。管理職になって札幌や福岡など転勤が多かった。入社後間もなく建てた田無の住宅を人に貸したままの状態が続き、その家に落ち着いて住む期間は殆ど無い状態であった。そこで辰ちゃんは定年後は郷里で落ち着いた暮らしがしたいという思いが非常に強かった。奥さんを説得して田無の住宅を処分し、大分県山浦郡八田の丘陵地に家を新築した。其処は辰ちゃんの小学校・中学時代の級友、つまり辰ちゃんの竹馬の友・梶原信行がその丘陵地の南面傾斜地で豊後牛の大規模な牧場を経営している土地である。辰ちゃんは企業年金も沢山貰っているので働かなくても食べて行けるのであるが、生産を全くしない暮らしが嫌で自然環境の中で家庭菜園程度の農業と牧場の手伝いで余生を送ることにしたのである。(続く)