2010年1月18日月曜日

突然筆が進まなくなることがある(20100118)

これまでも時々あったが、ものを書こうとするとき急に筆が進まなくなることがある。それはものを書くことによって自分の内面をよく見つめるようになるからである。その点、ものを創るときは思うように創れないで苦しむことがあったとしても、それは自分の技術の下手が原因であることが多いだろうから何度でも挑戦しようと意欲が湧いてくる。
人は闘争心があると元気が良い。闘争心が衰えるとあれこれ心の迷いが生じる。ものを書こうとするとき筆が進まなくなるのは闘争心の対象が自分自身或いは自分自身の回りに近い対象であるからである。ものを創ろうとするとき、その創ろうとするものは自分自身の観念の表出ではあるが、創られるものは必然的に自分自身から距離が置かれるものである。例えば男は陶芸をやるが、やると言っても陶芸を始めて2年ぐらいしか経っていず大きなことを言えるほどのものでなく、言うこと自体おこがましいほどであるが、陶芸で創るものはある形であり、ある色や模様などである。それは焼き具合によって出来映えも変わるものである。焼き上がってみなければ結果がどうであるかわからないものである。従い、出来あがるものは自分自身から離れたものであり、自分自身そのものでない。
男は昨年610日以来毎日欠かさずこのブログを書き続けている。書いてみて一つ判ったことは、書こうとする題が政治や文化や歴史に関することなどは気が楽であるということである。その理由は、書こうとする内容に関することをいろいろ調べたりして自分自身の勉強にもなるし、ある意味では自分自身の精神活動の歴史のようなものであるからである。例えば政治に関することでは、自分が何年何月何日ごろこの日本国でどんな政治的問題が起きていて、それに対して自分の考え方はどうであったかというようなことが記録の形で残る。それは自分の思想を表明するものではあるが、誰かと飲食をしながら政治上のある問題になっていることなどについて議論していることである。政治上のあることについて憤慨していることでも、多少オブラートに包んで自分の考えを表明できる。
ところが、日常生活のことを書くとなると、それはあまりにも自分自身に近すぎて、第三者的に書くようにするにしても毎日書くことはできない。自分の過去半生のこと、若い時のこと、つまり自分史的なことは、ストレートには書けない。どうしてもフィクションの部分をできるだけ多くして小説的に書くことになる。(関連:12/291/7間、このブログ)
身体的に疲れていると闘争心も衰え、政治のことで憤慨することがあっても書くのを躊躇してしまう。しかし男はこのところ側近の国会議員・元秘書ら3人が政治資金規正法違反で逮捕されたことと、それに関連する幹事長・小沢一郎氏らの言動に憤慨している。
小沢一郎氏が何処から得た金かしらないが、本人が言う‘自分の金’で自分の息がかかっている140人もの国会議員を引き連れて中国に渡り、胡錦濤国家主席に会い、連れて行った国会議員たちを胡錦濤氏と会わせ、一人一人握手させ、その見返りのように来日中の習近平国家副主席を、慣例を破って天皇陛下に会見させた。男はこれはアメリカに対する威圧であり、小沢氏自身の権力の表示であり、いずれにせよ小沢氏自身の私利私欲から出た行動であると断ずる。男の近くに「日本国民は政治的にまだまだ未熟である。清濁併せ飲み小沢氏を見るべきである。」という人もいるが、それは間違った見方であると男は思う。
民主党に対する支持は指数級数的に落ちて行くだろう。しかし、自民党に対する支持も増えるわけではない。国のため党派を超えた政界の再編が緊急に行われることを期待する。

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