2010年1月19日火曜日

検察の事情聴取要求を拒否する小沢一郎幹事長 (20100119)

民主党幹事長小沢一郎氏が公然と検察を批判しているので、男は検察庁についてWikipediaで調べてみた。Wikipediaが必ずしも公明正大な記述をしていると男は思っていないが、指揮権について法務大臣と検事総長の意見が対立した場合の問題など大いに参考にはなる。検察批判をしている者はこれまでの新聞やテレビ報道で知る限り、検察に摘発され、或いは摘発された人の関係者や国家の権力に対し反発的な精神を持つ一部の人たちである。

よく聞く話は「検察が国の政治を左右するようなことをするべきではない。」という至極尤もな発言である。一方で「検察は政権のトップにある人でも不正があれば摘発する。さもないと民主主義は守られない。」と言う人がいる。これも至極尤もな発言である。しかし検察は国の政治を左右するようなことをするものなのか、実際にしているのか、男のような一般庶民には判らない。一般庶民は、検察は国民の信頼と期待の上に立って公明正大に、法で定められた権限を行使していると信じている。

その一般庶民の考え方を、一部のいわゆる‘有識者’や自ら‘自分は一般庶民と違い、知的レベルが高い’と、意識的にせよ無意識的にせよ、そう思っている人たちがいる。そのような人たちは、自ら実際に諸資料をよく調べ、研究し、自分の考え方をきちんと整理していないにも拘らず、例えば「小沢さんが多少ダーティな面があっても国民は彼に日本の政治構造を変えることを期待しているのだ。」とか「検察は過去に過ちを犯した。」とか、「検察がリークしているのは問題だ。」とか、男に言わせれば‘偉そうな’ことをテレビの前で言う。その発言に「そうだ。そうだ。」と相槌を打つ一般庶民もいるだろう。男に言わせれば、彼らは「実は無知なる人間であるがゆえに、無責任な者どもである。」と思う。

小沢氏にせよ、そのような‘識者’あるいは‘識者ぶる者ども’にせよ、「自らが良く判っていない。」ということを「知る」という謙虚さが足りない。「自分が何も知っていない、ということを自分は知っている。」という謙虚さが大事である。しかしそのような謙虚さがない人の発言に一般庶民は振り回されている。

男は社会的地位の高い人、社会的に影響力の大きい人ほど、謙虚であることが大切であると思う。しかしそのような謙虚さがない人は傲慢になりやすい。その傲慢さが鼻につくようになると、それまでその人に好意的であった人も、その人から距離を置くようになる。男もその一人である。男は昔小沢氏の政治理念や信念に共感を覚えていた時代があった。
男は検察が公明正大にその権限を行使しているかどうかについて、チェックをいれる仕組みがはっきりしていないのは確かであると思う。法律を専門とする大学の教授や、ジャーナリストそのような問題点を一般庶民に明らかにすべきである。そして司法制度の改善を進める役目を持つ機関を国として公式に設けるようにすべきであると思う。

男は小沢一郎氏が検察を批判し、検察と正面から戦いを挑むということは、「俺は実力者だ。俺が国のあるべき姿を決めるのだ。」というような、国民を見下したような傲慢さがあると思う。男はそういう輩に迎合する輩がまた大嫌いである。小沢一郎氏に面と向かって対抗する者がいない今の民主党の状況を情けなく思う。鳩山首相も小沢氏の繰り人形のようである。これは国家として異常な状況である。そのことを対抗する自民党が、国民の前にどこまではっきりと示し、国民の判断を促すことができるのか、男はあまり期待できないと思っている。今日からの国会の動きを男は注意深く監視してゆきたいと思う。