2010年1月16日土曜日

法身・報身・応身または化身(20100116)

 昨日のブログに書いたように、男は竹馬の友SSが男に会わせたNさんご夫婦に会って中華街のある店で食事をしながら歓談のひと時を持った。男はSNさんご夫婦は仏陀が化身の形で現れたものである、男自身も同様に仏陀の化身であると思った。

『仏教要語の基礎知識』(春秋社、水野弘元著)によれば、仏陀はBuddhaの省略であって 「さとった人」「覚者」の意味である。古くはブッダという音から「浮屠(ふと)」「浮図(ふと)」と書かれていた。「仏(ほとけ)」という言葉は「浮屠家」からきていると言う。釈尊はブッダとなられたシャーキャ族の聖者のことで、お釈迦様のことである。尊い師という意味で尊師(そんし)とも、世尊ともいう。仏教はこのお釈迦様がさとりを開いて弟子たちに教えられた人間としての生き方の教えである。

 仏教では過去・現在・未来にわたり、また十方の世界には無数の仏陀が現れるとされる。そして現実に我々が生きている世界、これを娑婆世界(しゃばせかい)というが、この世界では釈尊の教法が行われるとされる。娑婆はSahaaの発音を漢字で表したもので、元来は「集会」という意味だそうである。この世界は広大無辺のように大きく、三千大千世界という。この三千大千世界に仏陀である釈尊の威力が及ぶとされる。

 これはつまり人の正しい生き方は仏陀の教えに従うことであることを意味する。その仏陀は過去・現在・未来にわたる輪廻転生のことを教えておられる。仏陀が今から2500年前に現れて以来、いろいろな高僧がこの輪廻転生のことを後世に伝えている。我々凡人は仏陀やその弟子たちである高僧の教えを尊ぶべきである。それが仏法僧への帰依である。仏法僧に帰依して四苦八苦の現実世界を「一日を一生」のように思って謙虚に真剣に生きれば、来世においてその報いを得ることが必ずできると男は固く信じている。

 さて、仏陀の身はその性格によって法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)または化身により成ると言われる。法身は仏の説法としての真理を人格化した真理仏のことである。報身は菩薩として修業しその誓願が成就して、法の世界に流れ入って法そのものを体現する理想的な形となった仏陀である。阿弥陀仏や薬師如来や盧舎那仏などである。それらは仏師たちにより仏像の形で表現されている。応身は、教化する対象に応じて仮のある姿を見せる仏身である。特定の時代や特定の地域に出現する仏陀である。男はこれを我が国における仏教、チベット仏教などはそれぞれの仏陀の教えであると理解する。

 一方化身とは、種々の姿を取って衆生を救済する仏身である。普通の人々(凡夫)の姿をすることもあり、梵天、帝釈、魔王、畜生、地獄等の姿を示すこともある。男はこれを自分自身も仏陀の化身であると理解する。そのように理解するとSNさんご夫婦も仏陀の化身であると理解できる。娑婆世界で男が見るものはすべて仏陀の化身であると思う。

 そう思うと男は、SNさんご夫婦も仏陀の方便として男に何かを教えているのであると理解する。仏陀が男に何を教えているかということを知るのは男の態度や能力や学習次第である。男は常々「自分は何も知っていない、自分が何も知っていないということを自ら知らなければならない。」と自分自身に言い聞かせている。しかし実際にそのような謙虚さができるわけではなく、娑婆っ気が出てきて煩悩の世界に自分がいることが多いのであるが、少なくともそのような心がけはしたいと思う。

 ところで法は仏陀が教える真理の体系であると理解する。男は法を書物で学ぼうと思う。