2010年1月13日水曜日

新年会などの案内状を貰って(20100113)

 毎年年が明けると男が昔関わっていた所から新年会やOB・OG会や同窓会などの案内状が来る。何年か前まではそれらの会合に出ることが左程億劫ではなかった。お付き合いという気持ちもあった。しかし今年は行くのが億劫である。それよりも今晩の食事のように女房と二人だけで、先日来客があったとき余った食材で天麩羅なべを囲み、ノンアルコールのビールもどきの飲み物を飲みながら、全く気も使わず食べるのが最高である。わざわざ会費を払って、昔の何人かの友人や知人と旧交を温め、演台で誰かが何かをやればお愛想に手を叩き、時間をつぶすのがだんだん馬鹿らしくなってきた。

 それでも淋しい人はそのような会合にいそいそと出かけるのであろう。男は明後日、千葉に住む竹馬の友と、彼が連れて来る人と横浜で会う。彼が連れて来る人は男を知っていると言うが、男の方ははて誰だっけ、と全く記憶にない。竹馬の友はその人を是非男に再会させようとわざわざ横浜までやって来る。その人は横浜に住んでいるというから面白い。そのような友と食事しながら語り合うのはとても楽しいことである。

 男が九州の田舎に帰るとき是非立ち寄ってくれ、という友人が福岡の宗像と筑紫に居る。そういう友と会うのは楽しい。しかし、72も過ぎて誘われる会合に出ても男が知らない人が多い。知人・友人たちと旧交を温めてもそれが大きな意味があるとも思えない。

 男は今日陶芸に行った。これは毎週12回行くが、陶芸には創作の喜びがある。西行も言っているように「老楽は至善を行うにある」のだ。この齢になってつまらない時間を過ごしたくはない。敢えて「義理を欠く」のも必要である。年寄りの我が儘と言えばそれまでであるが、「どうしても来て欲しい。来て後輩のため○○をして欲しい」と何か、男が意欲を感じるものがあれば、幹事がわざわざ時間をかけて案内してくれたのであるから気持ちを振るって参加することには意味があると男は思う。しかし浅学無能な男にはその○○など出来るものは何一つない。第一男は持ち上げられて喜ぶような者ではない。

 隠居・遁世は身勝手と言えば身勝手、作家や芸術家も自分の世界しか興味がないと思うが、今の男には自分の世界にしか興味がない。人生で何か不足があれば、まだまだ頑張らなければならないと思うだろうが、男も女房も何一つ不足はない。男はまだそうは思っていないが、女房は「私は何も思い残すことはない。いつ死んでも良い」と言う。しかし男には子や孫たちのためにまだやっておかなければならないことがある。それだけではなく、「在家の仙」のように、世俗のまま仏教の勉強を深めたいと思っている。

 男と女房に戒名を授けて下さるという100歳になるお方は在家のままお坊さんの資格も取られたお方である。男もそのお方の後を追って在家のお坊さんになることも念頭にある。この28日、そのお方は満100歳になられる。その日に男と女房に戒名を授けて下さるので、その日男と女房は都内に住むそのお方のお家を再訪することになっている。

 一般に家に閉じこもりがちな老人は世間が狭いため話題に乏しい。特に年老いた女は情報源として民放の娯楽番組や近所の人たちとの会話で得た噂話しかない。男のようにこの齢でコンピュータを自由に使い、インターネットにアクセスし、哲学的な書物に親しむような者はマジョリティではない。人には誰でも124時間という同じ時間がある。それをどう使うかによって人生の豊かさに差が出てくる。「知は力」である。男も女房もそれぞれ己の目標の的を絞り「知らないことを知る」ことが好きで、そのとおりにしている。