2010年1月12日火曜日

大伴家持の歌に寄せてこの国の行く末を案ず(20100112)

  万葉集は主として大伴家持によって編纂され、天平宝字3年(759年)以降成立した日本に現存する最古の歌集である。万葉集には天皇、貴族から下級官人、防人など様々な身分の人間が詠んだ歌が4516首収められている。この万葉集の4516番目の歌は大伴家持が作った歌で「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け(しけ) 吉事(よごと)」という歌である。我々は古代のこのような素晴らしい遺産をもつ日本国民であるのだ。

 今日は曇天で寒い。男と女房は殆ど家の中で過ごしている。録画していたNHKの『日めくり万葉集』を再生して観賞した。万葉集について篠田正浩は「大伴家持は権力の痛切な裏切り、自分たちが奉仕しても受け入れられない権力の非情さに対するアンチテーゼとして万葉集を作ったのではないか」と言う。浅田次郎は「(万葉集は)歌集ではなく歴史を背景とした壮大な叙事詩である」と言う。サンパウロ大学元教授でポルトガル語で万葉集を紹介した初めての本をブラジルで出版したジェニ・カワサキは「万葉集は限られた階級の歌集ではなく、国民全体の歌だというところに興味を持った」と言う。

 大伴家持の氏である大伴氏は、その大伴氏から別れた佐伯氏とともに古来代々天皇の警護のため奉仕してきた氏族である。聖武天皇の御代、奈良の大仏建立に必要な金が陸奥の国から出たという知らせを聞いて、大伴家持は『陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌』(別名、『賀陸奥国出金詔書歌』)というものを作った。その金は663年の朝鮮・白村江の戦いで日本軍が大敗したため日本に帰化した百済王族の子孫・百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)が陸奥国司として陸奥に派遣されていたときに発見した金である。

 その『賀陸奥国出金詔書歌』の中に「大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て 人の子は祖の名絶たず 大君にまつろふものと 言ひ継げる言の官ぞ 梓弓手に取り持ちて 剣大刀腰に取り佩き 朝守り夕の守りに 大君の御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て思ひし増さる 大君の御言のさきの聞けば貴み(現代語訳: 大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊く有り難い)」という一節と、「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」という歌がある。この歌は戦前、兵士を奮い立たせる歌として悪用された。この金産出の詔書を賀す歌の悪用のことを多くの日本人は知らない。

 大伴家持は時の実力者・藤原仲麻呂が権勢を振るう様を観て天皇が治めるこの国の有り様に不安を持ったのか時の権力に立ち向かったが、結局は志成らず滅ぼされてしまった。男はこの史実からふと外国人参政権を推進しようとする今の時代の危うさを思った。

 古代の大伴・佐伯両氏のように代々天皇を支え天皇を守ろうとする特定の勢力は今の時代には存在しない。大伴・佐伯両氏退場の後、藤原北家の藤原氏が代々天皇を支え続けてきたが、平安時代の終わりとともに天皇は時の権力者に利用され続けた。太平洋戦争も然り、今時、また慣例を破る形で小沢一郎氏により利用された。

 男には小沢氏がこれまでずっと私利私欲のため行動してきたとしか思えない。この国の行く末は彼に忠節を誓う者、彼を恐れる者たちにより危うい状況にあるように見える。