2011年6月16日木曜日

今後10年前後の間に起きるかもしれない関東大震災への備え(20110616)

 今朝の読売新聞に『平安大震災5』と題して次の記事があった。ここにその一部を引用する。なお、これに関連して男は次のタイトルの記事を2011527日金曜日付け投稿で公開している。タイトル:『未来の大地震災害 (20110527)』。
     http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2011/05/20110527-iaea-2011-5-18-869-1000-850.html

“東北を襲った貞観(じょうかん)地震から9年後の元慶(がんぎょう)2年(878年)929日、今度は関東に大地震が起きた。

 特に相模国(神奈川)と武蔵国(埼玉、東京)の被害が大きかった。正史「日本三代実録」によれば、5~6日余震が続き、官舎も民間の建物も一つとして無事なものはなかった。地面は陥没し、街道は不通になり、多数が圧死した。相模国分寺(神奈川県海老名市)は本尊や脇寺(きょうじ)が倒壊。地震後に火災があった。

 震源などは不明だが、活断層による直下型の可能性が指摘されている。

 相模国分寺は奈良時代の8世紀半ばに創建された寺院で、これまで塔、講堂、金堂、僧坊の跡などが発掘調査されている。”

 “関東では60年前の弘仁(こうじん)9年(818年)7月にも大地震が発生している。相模、武蔵、下総、常陸、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)など関東全域で、山は崩れ、谷は埋まり、数え切れない民衆が死んだ、と「類聚(るいじゅ)国史」は伝えている。

 埼玉県北部の利根川中流域では、砂の詰まった亀裂(噴砂)など、当時の液状化現象の痕跡が広い範囲で確認されている。”

 昔の大震災の歴史を見ると、869年に起きた貞観大震災の51年前の818年と、9年後の878年の二度、関東で大震災が起きている。878年の大地震では平安京でも揺れを感知している。818年の大地震では熊谷以北の利根川流域でも液状化現象が起きている。男はこの史実に照らして、関東地方で今後起きる可能性のある大災害について考えた。

東日本大震災が起きた今年、2011年の89年前の192391日に関東大震災が起きている。平安時代に起きた地震のことを考えると、今後10年前後の間に再び関東大震災級の直下型地震が起きる可能性は十分あるであろう。その時、利根川、荒川、多摩川、鶴見川、相模川などの関東の河川の流域で液状化現象も起きる可能性もある。

国や地方自治体は最悪の事態に備えた防災努力をする必要がある。同時に火事場泥棒のようにわが国周辺の離島、特に尖閣、沖縄の南西諸島が侵略されないように、防衛努力も怠ってはならない。今の時代の‘武士’である国会議員や官僚、公務員、裁判官、自衛官・警察官・海上保安官・税関検査官・消防官など「官」が付く公務員、大学教授、小中高教師、消防団員、公共の運輸・交通・通信・放送(NHK)、電気・水道・ガス・介護福祉など事業体の職員・社員の方々には、その‘武士’身分に相応しい自覚と怠りない勤めが求められている。その一方で一般国民も自己責任と自助の努力が求められる。

男は母の介護のこともあり自分の先祖の祭祀のこともあり、郷里への移住を考えたいと思っている。それは上記のような関東大震災が起きないうちに実現させたいと思っている。

2011年6月15日水曜日

今度はトイレの水騒ぎ(20110615)

介護帰省の蓄積疲労あり、梅雨のすっきりしない気候あり、74歳の男も70歳の女房も今一つ元気が出ない。ある店に所用あり二人でその店まで川沿いの堤防の上を歩いて行ったのであるが、いつもなら女房の方がさっさと先に進み男の方は大股でついて行くような形であるのに、今回女房は遅れ気味である。「お父さん、早いわね」と言う。男は女房が追いついて来るのを待って、女房の早さに合わせてゆっくり歩いた。女房はこの早さでも息を上げている。男はこれは尋常ではないと思った。女房にはストレスがたまっている。

女房は今朝絶食して近くのかかりつけの内科クリニックで血液検査をしてもらった。女房はコレステロール値が少し高いことを気にして、そのクリニックでコレステロールを下げる薬を処方して貰っており、時々血液検査を受けている。今日の検査結果は1週間後でないと出て来ないが、その結果が出れば女房の体調不良について何か判るかもしれない。

女房は介護帰省する前までは近くのカーブスという女性専用の運動施設に通っていた。そこでは一カ月ごとに体重や筋肉量など計測され、運動の成果がわかるようになっている。女房は田舎に帰る前までは非常に体調が良かった。一週間前九州から帰って来て2、3日通わなかったが最近また通い初めた。途中トンボ帰りがあったが僅か半月余りの介護帰省でこれほど疲れがたまると言うのはやはり齢のせいであると思う。

母がアルツハイマー型認知症を発症していることが分かって以来、男は毎日母に電話を入れて状況を確認している。毎朝アリセプトD錠5mg一錠は必ず飲んで貰わねばならぬ。電話の第一目的は、遠く離れていてもしょっちゅう電話で繋がっているという安心感を母に与えることである。そのため女房も電話したり、母から電話がかかってきたりでこのところ日に何度も電話で話している。

今夜は夜8時過ぎに母から電話があり、女房が電話に出た。「トイレの水が流れない」と言う。女房は母が何か勘違いしていると直感した。男は隣家のTさんに電話を入れた。Tさんは15年ぐらい前奥さんをがんで亡くし、独り暮らしのお年寄りである。しかしまだ大変達者で独り暮らしを楽しんでおられる。「Tさん、Aです。夜分真に申し訳ありません。実は母が、トイレの水が流れないと言うんです」と言ったらTさんは二の返事で直ぐ母のところに駆け付けてくれた。母には女房から夜間人が来ても驚かないようにTさんが来てくれることを伝えた。隣り近所の方はいつも母が居る居間の縁側の方から来てくれる。

すぐTさんから電話があった。「トイレの水は流れます。お母さんは水が溜まっていることを勘違いし、レバーを引いても水が残っているので流れないと思ったようです」と笑いながら言う。傍で母が何か言いわけしている声が聞こえる。男はTさんに大変申し訳なく、何度もお礼の言葉を述べた。過去に母の電話がずっと話中だったとき、Tさんに頼んで電話機の様子を調べてもらったことがある。今回はこのトイレの水騒ぎである。

独り暮らしの母のため、女房も男も隣り近所の方々とは常日頃から緊密な関係を保ち続けている。そのお陰で今回もまた助けられた。これからも何か起きることだろう。

2011年6月14日火曜日

父の日のプレゼントを貰って (20110614)

 思いがけず父の日のプレゼントが送られてきた。毎年誕生日や母の日や父の日に子たちから何か贈られてくるが、男はこの時期そのことを忘れていた。このブログで‘男’というのはそろそろ止めて、一時期呼称していたように‘老人’にしなければならないと思うが、この齢になってもまだ色気を失っていないのでまだ‘男’と称することにしよう。

男が今年の父の日に贈られたものは、日本製のAIGLEのポロシャツである。これはエーグルの生地で作られたもので、汗を透湿させ容易に蒸発させるものである能書きがある。男はデザインとともにその能書きが大いに気に入っている。添えられた手紙には男が母の介護で九州に行ったり来たりして疲れたことを気遣ってくれる言葉とともに、その品物は嫁が中3の孫娘と一緒に品物を選んだことが書かれている。贈り主の名前は息子である。一家皆で真心をこめて男に父の日の贈り物をしてくれたのである。

小包の中にその孫娘が修学旅行で買った土産の長野の蕎麦も添えられていた。女房は今夕の食事をその蕎麦にしてくれた。その蕎麦は蕎麦粉100%の味がして美味しかった。孫娘はその蕎麦を食べたわけではなかったが、店の人に「きっと美味しいと言うだろう」と勧められて土産に買ったという。

 男はお礼かたがた久しぶりその嫁と、孫娘と長電話で語り合った。初めに女房が電話を入れ話した後代わって話した。男の部屋の壁には所狭しと写真パネルが何枚も掲げられているが、その一つのパネルにその孫娘が1歳のとき長野の佐久で嫁に抱かれて写っている写真がある。その写真は男が60歳の還暦を子たちが祝ってくれるため男の家族全員、当時8名が軽井沢に集合したとき、男が建設委員長として関わったある建物の前で男の友人がシャッターを押して撮ってくれた家族の集合写真の中にあるものである。

 あれから14年の月日が経ち、その孫娘は15歳になった。来年高校の受験を控えている節目の齢である。孫娘に聞いてみて初めて知ったが、修学旅行の同級生はおよそ320名で8クラスあるという。同級生の多くは小学校時代から一緒であるという。男は自分が中学生のとき同級生が377名いて7学級であったこと、小学校時代からの同級生も多数いたこと、小中学校一緒だった竹馬の友がいてそれがこの齢になってとても幸せに感じていることなどをその孫娘に話した。その時は、男は先ほどテレビで見た大津波で母親を喪ったある娘さんのことについて、全く念頭にはなかった。

 3ヶ月前起きた巨大地震よる大津波で非常に多くの人たちが親や子や兄弟姉妹を喪っている。そればかりではなく人生の記録である家族の写真さえも失った人も非常に多い。その悲しみはいかばかりであろうか。テレビや新聞などで報じられるたびに男も胸を痛める。

 仏はいろいろな方便で人々を教え導くとお経には書かれているが、それはなんと惨い方便であろうかと男は思う。心に深い傷を負った人々があまりにも多すぎると思う。しかし写真やその方の娘さんの話から、その人は女房のような人柄だと思う母親を喪ったその娘さんは、甥っ子を抱いて笑顔を見せていた。それも仏の方便の一つなのだろうと男は思う。

2011年6月13日月曜日

正しい認識の妨げとなる三つの壁 (20110613)

 『正法眼藏』(岩波文庫、道元著、水野弥穂子校注)に次のことが書かれている。

“おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。たゞ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば修行して産学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほいなきことをうらみよ。”

ここで、この本に訳注あり、「諸仏」とは「自己の正体の内容」、「心識」とは「心と、そのはたらき。意識作用。」、「正信の大機」とは「諸仏の境界は不可思議であると、まっすぐに信じる人が大機である。機は教えを聞いて悟る人。」、「霊山」とは「釈尊が霊山で法華経を説こうとした時、五千人の増上慢が、教えを聞くには及ばないと言って席を退いた。釈尊は、退くもまた佳と言って退くに任せた(法華経、方便品)。」とある。

なお、「正信」は「しょうしん」、「大機」は「だいき」、「霊山」は「りょうぜん」、「退亦佳矣」は「たいやくけい」とふりがながついている。

今からおよそ800年前、鎌倉時代初期の禅僧で、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は「自分自身の本質は言葉では表現できないものであり、考えても奥底を知り得ぬものである。それは意識作用が及ぶようなものではい」と説いておられる。『正法眼藏』は道元禅師が30歳ごろから53歳で没するまで生涯をかけて著した87巻(=75巻+12巻)に及ぶ大著である。74歳にもなる男は、この書物をまだちょっとかじり読みしているだけである。

道元禅師は座禅の重要性を説いておられる。しかし男は座禅などなどしたことがない。ただヨーロッパ人が「動く禅」と言っているという合気道には親しんでいた。今はそれも遠のいている。しかし合気の精神は持ち続けている。

男は座禅のことは全くわかっていない。座禅すれば自分の本質に少し近づけるのではないか思う。その自分では分からない自分の本質に何か係わりがあるのかどうかさえもわからないのであるが、男は偶然の不思議を感じることが度々ある。男はそれを自分が認識できない世界から示された、ある意味では‘必然’だと信じている。人はそれを馬鹿げたことだと一笑するかもしれない。それを「たまたま偶然の一致だ」と決めてかかるかもしれない。しかし男は素直に、疑いもせずそれを有難いと思う。男は自分の本質につながる世界に意識を及ぼさないならば、本来見えるものも見えないのではないかと思っている。

大震災からの復興は遅々として進んでいない状況下、菅総理は自主的辞任を迫られている。男は、菅総理は自分の政治の現状を正しく認識することが求められていると思う。

男は、現状の認識は己の心を無にしなければ不可能であると思っている。何故なら誰にも正しい認識を妨げる壁があるからである。それは①感情の壁、②文化の壁、③知識の壁という三つの壁である。静かに瞑目し、自分の心の深奥を覗き込むようにしても、第三者の声を聞く素直な気持ちが無ければ、それらの壁の上部の影すら見えてこないだろう。

2011年6月12日日曜日

自分は何をして貰い、何をしたか、すべきか?(20110612)

 男は運動を兼ねてちょっと遠方の大型店Tまで行った。その帰り道、みちゆく主婦ら人々に目をやりながら考えた。男はこれまでの人生で女房や女房の実母である母に何をして貰い、何をし、何をすべきか、ということに思いを致した。

 昨日竹馬の友I君から贈られて来た『O市今昔写真帖』に女房の小学生の頃の姿が写っている。その頃女房の母親は男の父親の後妻に入り、その父親の赴任先である僻地で貧乏暮しに耐えていた。男の父親はその時自分の母校・O師範学校の後輩よりも低い地位で、助教諭であった。母は陰でその父親を支えていた。

男の父親はかつて、今の韓国慶尚北道で小学校の校長や兼務で青年特別錬成所長をしていたが日本の敗戦と共に状況は一変した。日本への引き揚げ後は教職に就けず農業を営む祖父を手伝いながら先のことを模索していた。そういう状況にあるときO師範学校の同級生らの奔走により教員普通免許を得、教職に復帰することができた。しかし最初は助教諭という資格であった。ようやく正教諭に復帰できたのは数年後のことであった。

母は再婚後それまで経験したことがないような貧乏暮しを経験した。母が女房の実父である夫と死別したのは終戦1年前の昭和19年のことであった。母は会社員の夫とともに大阪で暮らしていた。夫の実家は裕福な家で戦時下大阪に米などの食料を送ってきていて大阪での暮らしは楽だった。その夫が糖尿病で亡くなり、母は幼い女房を連れて空襲の合間を縫って母の実家に戻った。そして戦後間もなくある人の世話で男の父親と再婚した。

男の母親は引き揚げの翌年昭和2112月に乳がんで他界していた。33年の短い人生だった。それは男が10歳の時であった。母親は遺してゆく子供たちに、とくに長男である男に身をもって武士道の精神を教えた。男の母親は背中全体が転移したがんのこぶだらけになっていて相当苦痛があったに違いないが、死ぬその瞬間まで自分の苦痛を見せず、死ぬ時は当時10歳の少年であった男に仏壇から線香を持ってこさせ、裏山に落ち松葉を集める作業に行っていた父を呼びやった。その言葉はしっかりしていた。

今の母は戦後生活が苦しかった時代、男の父親を陰で支え続けた。そのお陰で男の父親は幾つかの小学校の校長として歴任することができ、名声を上げることができた。その父親も70歳のとき白血病で他界し、母は再び寡婦となった。

その母と幼少時以降成長するまで一緒に暮らすことが無かった母の娘が男の女房となり、立派な子供をもうけて世に送り出し、この齢になるまで男を支え続けてくれている。母娘二代にわたって、母と女房は男の家系に貢献してくれている。

これはすべて前世からの約束事のように感じられる。母と女房は傾きかけた男の家系の建て直しのため前世から送られてきたと男は思う。母娘だけではなく、その親族までも何かと直接的・間接的に男を支えてくれている。静かにそのことに思いを致すと、これは全てそれぞれ先祖の御霊の導きであることを自覚するに至る。

人は、合理的思考をする一方で、非合理的なことにも謙虚な気持ちであるべきである。

2011年6月11日土曜日

竹馬の友から贈られた今昔写真帖(20110611)

 小学校時代からの竹馬の友I君から『O市今昔写真帖』という分厚い本が筆者に贈られてきた。I君は郷土の歴史研究会のメンバーであることもあって、その写真帖の編集のため自分が撮った写真を提供したという。しかし実際にはI君の写真は採用されなかった。提供した写真も返却されなかった。その本はそのお詫びとしてI君に2冊贈られたものの一つである。I君は自分のものは1万何某かのお金を払って買い、お詫びとして贈られた2冊を男とTちゃんというもう一人の竹馬の友に贈ったのである。

男が介護で帰省したときは機会を作ってI君とTちゃんに会っている。Tちゃんは同級生の女の子、といっても皆74の婆さんであるが、その子に声を掛け、男のために一緒に食事をする楽しみを作ってくれている。幾つになっても竹馬の友は良いものである。

 その写真帖をめくってみると子供時代のいろいろなことが思い出された。I君の採用されなかった写真の一つに、子供時代の見渡す限りの広い田園風景とそれが市街地に変貌してしまった現在の風景を対比させたものがある。I君はそれを手紙とともに写真に挟んで送ってきた。その写真を見ると、男の子供の頃の原風景が蘇ってくる。男は子供の頃、家で飼っていた牛に犂を引かせて手綱と鞭を上手く使って田圃を耕し、水を引き、掻きならして水田にし、稲の苗を植えて育て、田の草取りや水やり、ばったなどの虫払いをし、収穫をし、精米したその全ての工程に関わっていた。そのような風景は今では里山でしか見ることはできない。男の継母が独り暮らししているK町には、その風景が残っている。

ちなみにばったは手で捕って一升瓶に詰め、家に持ち帰って金属製の網に入れて火に炙り、赤く焼けたものをおやつにして食べていた。これはカルシウムとタンパク質が詰まっている栄養食であった。田圃に農薬を散布するようになって、ばったは居なくなった。それまでは無農薬でばったなどの害虫にとってツバメなど野鳥が外敵であった。夏には虫送りと称して大人が作った火をつけた松明を子供たちが手に持って田圃の周りを巡り、火に虫を飛びこませて虫を駆除していた。それは子供たちにとって楽しい行事であった。

 写真には男の女房が小学校時代の頃の制服姿も写っている。あの頃女房の同級生の多くは制服を着ていなかった。皆貧しくて親が買い与えなかったのだと思う。女房は比較的裕福な大家族の家で末娘のように可愛がられていたし、通っていた小学校でも常に優等生であったし、祖母が婦人会の会長をしてこともあって先生からも特別に可愛がられていた。

その親の世代の人たちが子供の頃や大人になった戦後の頃の姿もその写真帖に収められている。時の流れとともに人は老い、やがて死んでゆく。その写真に収められている写真の人の多くは既に故人となっていると思う。男も齢既に74、あの頃から60年経った。I君ら竹馬の友だち皆いい爺さんになった。Tちゃんは自分が物忘れになったのではないかと心配し、わざわざ精神病院に行って相談したという。後で分かったのであるが最初の挨拶の時から会話を通じてチェックされ、診断結果は「異状なし」であったという。

人は皆老いる。寿命前に病気で死ぬ人も多い。人生とはそういうものである。

2011年6月10日金曜日

巨大津波の被災者のことに思う(20110610)

 巨大津波で両親を失った60歳代のある男性は、毎日のように遺骨安置所や遺留品保管場所を巡り、また流されて跡形もなくなっている自分たちが住んでいた場所を訪ねながら、何としてでもその両親の形見を探し出そうとしている。

保管されている遺骨の壺にはただ番号がふってあるだけである。多分その壺の中には番号とともに発見された場所などより詳しい情報が書き込まれたものが、簡単には取り出せないようにして保管されているのだろうと思う。もしそうでないと、何かの事情により保管されている遺骨と、書きこまれた情報とがばらばらになってしまったときその遺骨と遺族の関係を特定することが一層困難になってしまうだろう。

その男性は自分のDNA情報を警察に提供済みである。遺骨のDNA情報と遺族の関係を特定するまで3カ月ぐらいかかるそうである。DNAの鑑定作業は全国の警察に分散して行っているが、それでもそれくらい日数がかかるそうである。その男性は「父母はとても仲がよかった、早く父母の骨を探し出して一緒の墓に入れてやりたい、最後の望みはDNAだけです」と涙ぐみながら語っていた。かつて同じ屋根の下で家族そろって楽しく暮らしていた日々が巨大津波により一瞬のうちに失われてしまった。その男性は心が折れてしまいそうな毎日を送りながら、DNAの鑑定結果に一縷の望みを託している。

被災地にはその男性のような人々、男性に限らず女性や子供や親が沢山いる。悲しみが一杯ある。テレビカメラの前では笑顔を見せていても何かの拍子に一瞬顔を雲らせる。皆心に深い傷を負いながらじっと耐えて日々を送っているのである。

何故そのような苦しみや悲しみを持つ人々がいるのだろうか?仏典には「仏はいろいろな方便で人々を教え導く」というような趣旨のことが書かれている。その仏典とは妙法蓮華経というお経や、勝鬘師子吼一乗大方便方広経というお経である。(参考、『新訳仏教聖典』大法輪閣版)

仏典によれば、そのような苦しみや悲しみの渦中にある人々にも仏の救いがある。その教えに気付き、その教えを学ぼうと志す人々は救われる。事実、被災された非常に多くの方々は、意識的にせよ無意識的にせよ既にその教えに気付いておられると思う。だからテレビカメラの前で笑顔を見せるのだと思う。

仏典にはそのような苦しみや悲しみがその人の前世の行いによるが、そのように一方的に決めてはならないし、かといってそれを否定してはならない、というような趣旨のことが書かれている。一方、後の世における現象は、前世において出家者に供養することを好み他者を妬まずという行いをしたかどうかによるというような趣旨のことも書かれている。

仏典によれば、あらゆる苦も楽も不苦も不楽も全て因縁によって生ずるのである。その因縁とは何かというと、無明と愛によって老死があり、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悶えが生ずるというものである。それは増一阿含経というお経に書かれている。(参考、同上)

 仏教は人々が幸せになる道を教えている。男はこの道について今後考え続けたいと思う。

2011年6月9日木曜日

明日からは新たなラベルで(20110609)

 菅首相いよいよ今月内退陣せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。多くの国民は彼の言動に不信感を持ってしまった。福島第一原発の事故は菅首相がわざわざ現地に出向いたためベントの対応が2時間半遅れたことが直接の引き金になって発生したと思う。

 菅首相が一番大事な時期に官邸を離れ現地視察を行うことを諫めた枝野幹事長を「馬鹿やろう」と罵倒した。新聞は‘いら菅’が言った実際の言葉まで事細かく報道するようになった。鳩山元首相は菅首相を「ペテン師」と言ったと報道した。それらの言葉は全世界に伝わった。多くの日本国民は呆れて言葉を無くした。

 状況は静かに進行している。枝野幹事長が「首相は公債特例法案が成立した後に退陣する」と首相に忠実な官房長官として首相の意向を伝えたが、最早事態は菅首相の思い通りには進まないであろう。菅首相は復興基本法成立後ただちに辞任する以外に道はない。

 男はこのブログでのラベル「武士道後記」の201143日日曜日の投稿記事「信なければ、民意なければ (20110403)」で、

“この国家危急のときの内閣総理大臣は、「民意あっても、信なければ」勤まらないだろう。逆に「信があっても、民意なければ」内閣総理大臣は務まらないだろう。ここでいう「信」とは、・官房長官・閣僚・官僚・補佐官・政務官等内閣総理大臣の周囲の方々が、内閣総理大臣のもと、己の心を無にして公務に専心する気持ちである。”

“もし菅総理に「私心」が見られるようであれば、菅総理に対する「信」も「民意」も一挙に無くなる。信用を築くのには時間がかかるが、信用を失うのは一瞬のことである。”

と書いた。事態はそのとおりになった。菅首相は私的諮問機関「復興会議」を初めとして、浜岡原発、1千万戸の太陽光発電などなど政権延命のためのパフォーマンスを演じたが、多くの国民はそのパフォーマンスに踊らなかった。菅首相は復興本部を立ち上げて自ら本部長に座ろうと目論んだが、その目論見は頓挫した。

菅首相は自ら立ち上げた原発事故調査・検証委員会で「私も被告」と言い、調査には全面協力すると約束した。しかし、その委員会の畑村委員長は「責任を追及しない」と明言している。首相の現地視察間、現地の吉田所長は首相に付ききりだったという。その結果ベントが2時間半遅れ、水素爆発による放射能拡散と核燃料のメルトダウンを引き起こしてしまった。このことを多くの国民は知っている。

「私も被告」というのが国民向けのパフォーマンスであってはならない。菅首相も東電幹部も吉田所長も今回の事故から今後50年後、100年後、1000年後に生きる教訓を遺すため、国民の前に自らの過ちを率直に認め、正しいことを語る責任がある。

男は最早自分の記事が強制的に削除されるようなことはないと思っている。54日に「もうこれでよかろう(20110504)」で始めたラベル「冬牡丹」の‘冬牡丹’は女房が好きな花の名前である。本日の記事をもって「冬牡丹」を終りにし、本日のような記事を書くことも終わりにし、明日以降新たなラベルで「日々是(死)支度」の後半に進もうと思う。

2011年6月8日水曜日

久しぶりの陶芸(20110608)

 男は久しぶり陶芸を楽しんだ。3週間前余った楽白の土と新たに黒泥1㎏とを使ってS先生の指導・手助けを得て白のストライプ入りの皿を作ることが出来るように予め形を作って乾かないようにビニール袋に包んで自分の棚に保管していた。それは次回適当な厚さにスライスし、形を整えればモダンな舟型の皿になるものである。

その皿を仕上げる作業は介護帰省のため1週休んで2週間後に行う予定であった。しかし横浜に戻った翌日母の入院の知らせを受けたため直ちにUターン帰省し、結局皿の形にする作業は3週間後になってしまった。男は折角作った材料が乾いてしまってスライスなど出来なくなってしまっていただろうと思っていた。ところが3週間経った後であったにもかかわらずまだ十分スライスできる柔らかさだった。

男は作ってあった材料をS先生の指導を受けながら7mmの厚さのもの3枚にスライスし、型にはめて同じ形の皿を3枚作った。出来上がった皿にそれぞれビニール袋をかぶせ、来週高台を付けて素焼きに出す予定である。素焼きが終わったら釉薬をかけて本焼きに出すことになる。男はこの皿が白のストライプ入りの黒泥土でできた皿であるので、釉は透明薬をかけるつもりである。S先生は出来上がった皿を見て「モダンな形ですね」と褒めてくれた。男はこの皿の形を揃えるためカットしたその形が気に入っている。

男は陶芸センターの傍の銀杏並木の道路の雰囲気が好きである。ここは昔本牧の海であったところが埋め立てられところに出来た施設で高架の自動車道路の傍にある。普段人通りも少なく銀杏並木と道路脇の植栽がある長い歩道が遠くまで続いている。その並木と植栽を隔てて自動車用の道路が並行して作られている。しかし車の通りも少ない。バスを降りてこの歩道を歩くと誰でも気持ちが安らぐのではないかと思う。男は母の介護などで陶芸を休むことが多いが、この気持ちの安らぎは何物にも代え難いので陶芸はずっと続けようと思っている。

陶芸センターの直ぐ傍に三渓園の裏門があり、陶芸からの帰りはその園内を散策しながら正門を出て、ちょっと歩いて大通りのバス停に行くことができる。昔は王侯貴族でないとそのような庭園を散策するという優雅な気分にはなれないが、今の時代はその気持ちさえあれば、王侯貴族のような気持ちでこの美しい庭園の中で時を過ごすことができる。

以前作っておいた底も縁も六角形にした皿が焼き上がっていた。これは赤7という土を使って型にはめ、たたらで作ったもので、辰砂という釉を掛け、縁に白萩という釉をちょっと付けたものである。持って帰って女房に見せたら「これはよく出来ている」と言ってくれたが、その後で「今度作るとき黄瀬戸がいいな」と注文がついた。このサイズの皿は使い勝手が良いので以前から作って欲しいと頼まれていたものである。

男は今度黒泥という土を使って急須を作ってみようと思う。これはロクロで作る。急須は初めてである。主婦でもありまだ子育て中のS先生はよく教えてくれる。男は田舎に帰ったりして時々休むことがあるが、この先生の教室で陶芸を続けたいと思っている。

2011年6月7日火曜日

販売員の言葉と表情(20110607)

 タクシーでKインターバス停までゆく。バス停でバスの到着を待っていると、一人の洒落た帽子をかぶっている齢格好60代の女性がやってきた。「お早うございます」と挨拶される。この地では見知らぬ人同士でも良く挨拶している。学童たちもよく言葉を出して挨拶している。田舎では人が少ないのでバス停など閉じられた空間で言葉も交わさずお互い黙っていることは心苦しい。見知らぬ人でもお互い気楽に会話を交わした方が楽しい。

その女性は福岡の天神まで行きそこで友達と落ち合うのだという。バスが天神に遅れて着くので待ち合わせに丁度よい、天神に着いたら携帯電話で連絡をとって待ち合わせるのだと言う。予定時刻ぎりぎりにもう一人の女性がやってきた。バスに間に合ったと安堵した風であった。バスの時刻表どおりバスが来ないことが話題になる。福岡から来るバスは大概遅れるが大分から来るバスはそう遅れないと初めに来た帽子姿の女性が言う。後に来た女性は、バスが遅れることが普通なのでそのつもりで23分遅れてバス停に来るとそういう時に限ってバスが時刻表どおりに来たりして1時間以上も次のバスを待たなければならなかったことがあったと笑いながら話す。女房は「そうですよね、だから私なんかはいつもバスが時刻表通り来ることを前提にしてバス停に来るんです」と相槌を打っている。

バスは15分ほど遅れて到着した。バスに乗って1時間ちょっとで博多駅交通センターに到着した。新幹線の発車時刻まで50分ほどある。その間に弁当など買う。新幹線の切符は昨夜インターネットで購入してある。座席は12号車中央窓際DE席である。自動発券機にJR東海のエキスプレスカードを差し込むと購入した座席の表示が出て、発券中「発券しています」と自動アナウンスが出る。

新幹線のぞみ1xx号臨時列車は定刻通り博多を出発した。臨時列車とういうのに客車内はがら空きである。いぶかっていると広島あたりから乗客が増え始めた。新大阪からほぼ満席になった。男も女房も「そうなんだ」と臨時列車のことを納得した。

博多から乗務した車内販売の売り子の若い女性に男はコーヒーを注文した。女房はまだコーヒーは要らないというので、男はその売り子に冗談っぽく「この人はまだコーヒーは要らないって」と言った。するとその若い売り子は表情一つ変えず「また後で戻ってきます、そのとき承ります」と言って去って行った。

女房はその様子を見て「可愛くないわねえ、あの娘からは買わない」と言う。男は「あの娘はまだ若いからだよ、社内訓練が足りないのだ」と言う。すると女房は「あれは性格だわよ、もちょっとにこっとするといいのに」と言う。男は「そうだよな、にこっと笑顔を見せてものを言えば、もっと売れるだろうにね、性格は変わらなくても行いは訓練で変えられるはずだ」と言う。と言いながらも作った笑顔では相手に通じないだろうと思う。

暫くしてその売り子が戻って来て、今度は笑顔で「コーヒー要りますか?」と言う。女房は首を横に振る。男は先ほどのコーヒーを女房に半分あげていた。それで十分だったこともあるが、その子の性格とセールスの下手さが一人の顧客を失った感じである。

2011年6月6日月曜日

真っ赤な大きな沈む太陽(20110606)

 昨日も夕方になって里山の農道を散歩した。一日たつと稲作を終えた水田が多くなった。農道の両側の田圃でしきりに蛙が鳴いている。近づくとその鳴き声はぱっと止む。確かにここで鳴いていたと思うが蛙の姿は見つけられない。女房は「お昼だと姿は分かるが夜は暗いので見つけられない」とつぶやく。

 それでも赤べこと読んでいたいもりが何匹も水の中で這いつくばっているのがわかる。ちっと離れた田圃に青鷺が4、5羽居る。彼らはいもりや蛙などを見つけて食べるのだろう。ホタルはまだ出ていない。きっとこのあたりにはホタルが生息しているはずである。

今の時代の稲作は機械で行い、薬剤を入れて稲以外の草を枯らし、農薬を散布し稲の葉を食べる害虫を殺す。男が子供の頃の稲作とは全く違う。しかし稲の田圃が一面に広がり、水量が豊富な農水路が縦横に沢山あるこの地帯は、男が子供であった頃の風景と似ている。男が子供の頃、遠くの寺や神社が見通せた田園地帯はすっかり市街化されて昔の面影は全く無くなっているが、ここにはその頃の風景がある。

 男は女房に「お前は来世ではきっと素晴らしい人生になると思うよ」と言ったら、女房は「今の人生でも素晴らしいわよ」と言う。男は「これからは此処で花を育てるとか、花を観て回るとか、花の絵を描くとか、写真を撮って後でテレビに映し出して観賞するとか、これからこの地で楽しい思い出を沢山作ろう」と女房に提案した。女房はその提案を否定しなかったが「私が撮るのは風景でなくて花の写真だよ」と男にくぎを刺した。

そう話しているうちに家々がある一角まで歩いてきた。もう8時近くになっているのに灯りが点っている家は殆どない。ある家の庭で一台の小型トラックがあり、荷台の上で女性が水で荷台を洗浄している。女房が「これからご飯をつくるのだろうか」と言う。男は「多分誰かがご飯を作っていると思うよ」と言う。農家はこの時期朝から晩まで大変忙しい。男と女房はあたかも働く人たちの目を避けるように、こうして夜道を歩いている。そのつもりではないのだが、たまたま夕方になって運動のため散歩に出かけたのである。

農水路を挟んで小さな橋がかかっているところに、「カメラスポット」と書かれた看板が立っている。女房は「何だろうか」と言う。男は「さっき大きな夕日が沈むのを見たよね、ここは多分その入り日を観る絶好の場所ではないのかな」と言う。女房は「そうだよね、きっとそれに違いない」と納得した。雨上がりのもやがかかった盆地の山に沈む太陽はこれまで見たこともないような大きいな丸い真っ赤な太陽だった。雲一つない夕空の、黒い山並みの彼方に沈む真っ赤な大きな太陽はこの地でしか見ることができないだろうと思う。

 頼山陽は『日出る処』という作詞で「日出る処、日没する処」と詠った。日出る国では今一国の太政大臣に対し「辞めろ、辞めろ」の声が日に日に高まって来ている。日没する処の国ではその様子をじっと注視していることだろう。その国の恰幅の良い大男の将軍は、日出る国の、内心腸煮えくり返る気持ちでいる兵士たちの歯ぎしりを横目で見ながら、日出る国に対して次の一手を考えているかのように見える。

2011年6月5日日曜日

NHKテレビ番組・若年アルツハイマー型認知症(20110605)

 男は母にアルツハイマー型認知症という病気について説明していた。表現はぼかして、「誰でも齢をとってくると物忘れがひどくなる。アルツハイマー型認知症と言う病気になったらそれが一層ひどくなり、泥棒にやられていなくても‘泥棒に盗られた’と言ったり、お母さんを世話している人に向かってひどいことを言ったりするようになる、そのようなことにならないようにするため昨日お医者さんから薬をもらったでしょう、その薬をきちんと飲んでおけばその病気の進行を抑えることができる、薬は毎朝忘れずにのむように」と言っていた。本当はその薬を飲んでいても病気が治るわけでなない。そう言ってしまえば希望をなくすと思うので、そのことについてははっきり言っていなかった。

 たまたま女房が新聞に出ているNHKのテレビ番組で、午後2時から若年認知症のことについて放送されることを知った。午後3人でその番組を観ることにした。これは偶然と言えば偶然である。朝、母にアルツハイマー型認知症のことについて話したばかりなのに、午後そのことにつてテレビを観ることになった。

男はこのような偶然をこれまで何度も経験している。それは偶然と言えば偶然である。しかし見方を変えれば、それはブッダによる‘必然’である。お釈迦様は、「仏はあらゆる方便をもって衆生を導く」と教えて下さっている。従い、アルツハイマーの母と母を介護する男と女房の3人でこのテレビ番組を観るということは、正にブッダのお導きである。

テレビ番組を観終えて母はアルツハイマー型認知症がどういう病気であるということを理解した。失禁をしてしまったり、歯をみがこうとペーストを付けた歯ブラシをまた元の場所に差しこんでしまい、どうしても歯を磨くことができなかったりと、介護する側が患者の心理を察していろいろ配慮してやっても、患者自身は自分がしたいと思うことが自分の思いどおりに出来なくなる。結局それが欲求不満になって介護する者に対して怒りの感情を爆発させる。それは生身の人間の本能的な表現である。男も女房もこれまで得ている知識以上の知識をこの番組で得ることができた。

男は母に自分たちが明朝横浜に帰ることを伝えた。母は男に「あんたたちに迷惑をかける、ごめんね」と泣きながら言う。男は母の肩に手をやり、「安心しな、わしらがよく看るから心配は要らん、明日一旦横浜に帰るがまたすぐ戻ってくる、自分の部屋でテレビを観ながらちょっと昼寝をしな」と言ってひとまず安心させた。

後ろ髪を引かれる思いはあるが、母がヘルパーなどの支援を得ながら独り暮らしを出来る間は、なんとか頑張ってもらわねばならぬ。女房を一旦この現場からを離れさせてリフレッシュさせないと先が続かない。昨日男は一つの部屋を男専用の部屋にするため書棚の中にあって何十年も埃をかぶっているものを撤去し分類して箱詰めにし、別の場所に移し、書棚の中をクリーニングして、老々介護‘単身赴任’時、自分が必要な本などを入れられるようにした。母の介護体制を徐々に準備しておかなければならない。次は女房の居場所を作ることである。男は寅さんの「男はつらいよ」の気持ちが分かる。

2011年6月4日土曜日

アルツハイマー型認知症の薬 (20110604)

 母はこれまでアリセプトDという薬、一錠3㎎のものを処方されて2週間毎朝一錠づつ服用した。母をタクシーでH市のU病院まで連れてゆき、診察を受けさせた。今度は5㎎のものを4週間分処方してもらった。

 この薬は学習障害意を改善するとともに認知症症状の進行を抑え、脳の活動を活発にする作用があるとされている。副作用としては食欲不振、吐き気や便が柔らかくなること、活発になりすぎることなどがあるとされている。しかし母の場合、この2週間そのような副作用は全く無かった。

 この薬は、「もの忘れ」「一度言ったことを何度も繰り返す」「意欲の低下」などの症状に効果があるとされている。この薬は老化によるもの忘れの進行と並行する形でアルツハイマー型認知症の症状の進行を抑えると考えられている。そして、もし途中でこの薬の服用を止めた場合、その症状が急に進行してしまうとされている。

 母の場合、自分の症状が進行することを恐れているので、今のところ毎朝忘れずにこの薬を飲んでくれている。母には薬の副作用のことは話さないことにしている。その理由は、もし話してしまえば母は自分の食欲が無くなったりしたとき薬のせいだとして薬を飲まなくなってしまうおそれがあるからである。しかし女房の考え方は違っている。女房は「母は食欲がなくなったとか便が柔らかくなりすぎたとしても薬の服用は絶対止めないだろう、だからまだ頭がしっかりしているうちに薬の副作用のことを話しておいた方が良い、その方が親切である」という。そうかもしれない。判断が分かれる。そこでこのことについては暫く様子をみることにした。

 男も女房も一旦横浜に戻り、母を以前のように独り暮らしさせるつもりでいるが、ご近所の方々には迷惑をかけないようにいろいろ対策を講じている。一昨年台所はIHにした。母はこれを使うことに慣れている。仏壇ではローソクの代りにローソク状のライトにした。線香は使わないようにした。ご近所にはそのことを話して安心してもらった。

 昨日いつも気にかけてくれているお巡りさんが訪れてくれたので、母のことなどについていろいろ情報を伝えておいた。そのお巡りさんはアルツハイマー型認知症の母親を抱えて苦労したという。そのお巡りさんは職業柄、母を施設に入れることをしきりに勧める。男は、母を施設にいれる時期は母の症状の進行度を判断して決めるしかないと思っている。

 薬を服用していても症状は確実に進行して行くだろう。状況の変化を把握するため、母との頻繁な電話連絡、在宅介護サービスを提供してくれている組織との密度の濃い連絡、これまで以上に頻繁な介護帰省をしなければならないと思う。

 H病院に『アリセプト手帳』が置いてあったので数冊貰って帰った。これには症状を毎日細かく観察しチェックするシートが綴じられている。エンジニアが機械のパフォーマンスチェックをするように、毎日アルツハイマー型認知症の患者である母をチェックするのが一番よいが、その体制に入るのはもうちょっと先でよいだろうと男は思っている。

2011年6月3日金曜日

黄昏時の散歩 (20110603)

 たまにこの家に帰ってくるといろいろしなければならないことが多い。風呂の水栓の鎖が駄目になったので新しい丈夫な鎖を買ってきて取りつけたり、居間の蛍光灯が駄目になったのでグローランプと一緒に新しい物と取り換えたり、台所の換気扇が駄目になったので新しい物と取り換えたり、短い滞在期間内に男は精力的に働き回っている。そんな一日を送った日の夕方、ケアマネージャーのAさん帰宅途中立ち寄ってくれた。母の介護のことで女房といろいろと話し合っている。

 夕食を終えた後女房が「散歩しよう」という。今の時期夕日が沈むのは遅い。男と女房は黄昏時に水路に沿った小道を歩いた。初めは舗装された道であったがそのうち昔ながらの自然の道になった。「蛇が出てきそう」と女房はその先に進むのを嫌がったが男は「大丈夫だよ、人が歩けば蛇の方から逃げるさ」と言って草も生えているその道を進んだ。

 道の下の幅2メートルほどの水路は勢いよく流れている。「危ないね、落ちたら流されてしまいそう」と言う。男は「大丈夫だよ、この辺の子供は慣れているさ」と言いながら自分が子供の頃そのような水路で遊んでいたことを想い出していた。男は子供の頃夕食が終って汗を流すため流れが結構早い用水路に入り流れに沿って平泳ぎで下ったものである。時々上流から蛇が首を上げてくねくねこちらに向かって泳いでくることもあった。

 水を張った田圃で蛙がしきりに鳴いている。鳴いている蛙を見つけようと傍によって見るのだが見つからない。昔男が子供の頃やったことがあったように土をこねあげて作ったあぜが出来ていて水を引く準備が出来ている田圃がある。見るとその田圃の一部に鍬を入れたあとがある。其処はこれから耕運機を入れる準備が出来ている田圃だろう。田圃の間の道をかなり歩くと家が5、6軒ある集落に着いた。まるでお城の石垣のように大きな石を積んだ高台に瓦ぶきの大きな立派な家が建っている。石垣の角は緩やかな曲線になっていてまるで史跡の石垣のようである。石には苔が生えていて如何にも古い石垣のようである。しかしその石垣には地下水を逃がす樹脂製のパイプが規則的に配置されている。このことからその石垣は古くないことが分かる。多分この家は古い旧家の資産家なのだろう。

 その石垣の下の道を通り山の方に向かう。遠くにお寺が見える。其処は男の亡父の墓がある寺である。其処まで行くと日が暮れて暗くなってしまいそうなので途中で右折し帰路につく。途中でどうも農家の人でない人が家庭農園としているらしい一角がある。トマトを2、3本、茄子を2,3本と幾つかの種類の野菜の苗を植えてある。その一角のすぐ下は幅1メートルくらいの水路で水が勢いよく流れている。男は「これは多分町営住宅などに住んでいる人が作っていると思うよ。水はつるべで汲み上げて撒くのだろう」と言うと、女房は「水の勢いで落としたつるべに引っ張られて落ちてしまいそう」と言う。男はそうかもしれないな、俺は大丈夫だが、と思った。

 赤い夕陽が山陰にまさに沈もうとしている。夕暮れの農道を歩きながら、男は「この風景は俺の原風景だ」と言ったら、女房も「私の原風景も同じよ」と言った。

2011年6月2日木曜日

行方不明になったある老女の話(20110602)

 ある町である独り暮らしの老女が散歩にでたまま行方不明になってしまってもう10日も経つという。その老女が山に向かう道を独りで歩いている姿を見かけた人がいるという。人の噂話には尾ひれがついていて、実はその老女は息子との折り合いが悪く、老女は世をはかなんで死を選び、自ら山林に入り込んでしまったのだという。

そういうこともあったかもしれない。息子は都会暮らしをし、その息子が連れ添った妻と息子の母親とは馬が合わなかったかもしれない。姑と嫁は年齢はもとより家庭環境も文化も違う。その上女同士で反発しあう。昔は姑が強く嫁は泣きながら姑に仕え、夫は勤めに出て家のことは嫁にまかせっきりで良かった時代であった。そのような時代なら息子は妻から泣かれたとしても突き上げられるようなことは無かったかもしれない。

しかし時代は変わって‘女’へんの‘家’と書く嫁はいなくなった。そもそも女は他家の者になるのではなく、夫と新たな所帯をもち、夫と力を合わせて一つの家庭を作り上げてゆくものである。そういう時代であるから息子はいくら自分の生母の老後を良く看たくても妻が同調しない状況が必然的に起きる。ところがその息子の親の世代、おおむね80歳以上の年代の女は一般的に古い考え方をする。その上自分の老い先は誰にも頼らず自分で処するという能力ももっている人は少ない。今は過渡期であろう。

 男は独り暮らしの92歳の継母がその話の老女と同じようなことにならないように、いろいろ対策を講じている。認知症の症状が進んでくると散歩に出たまま何処かとんでもないところに行ってしまうかもしれない。そのとき「ああしておけば良かった。こうしておけばよかった。」と後悔しても遅い。何でもそうであるが最悪のことを想定した事故予防対策を講じるための費用と時間を惜しんではならない。一旦事故が起きればその処理のためにその倍以上の費用と時間がかかるものである。‘想定外’は不誠実な言い訳に過ぎない。

 男は母が外出するとき押して行く車にaumimamori2というGPSで居場所がわかる携帯電話を取りつけた。これは母がこの押し車を押して外出するときは、男が横浜に居ても母の動きがわかるようになっている装置である。問題はこの電話機のバッテリーがあがってしまわないように、時々充電をする必要があることである。男はその充電を時々ヘルパーさんにお願いしようかと考えている。ヘルパーの作業指示書の中にそのようなことを書いてもらうことはできないかどうか、ケアマネージャーに相談してみようと思う。もっとも、この携帯電話機は不使用のときは電力消費を極力抑えるようになっている。電源オフという機能があって見た目には電源が切れているように見えるが位置は確認できる。

 そのうち男は74にもなって単身赴任のサラリーマンのようにこの家にちょっと長く滞在したり、女房がやってきて男と交代したり、この家で母と男と女房との3人暮らしをちょっとだけ長くしたりするような生活をしなければならなくなるだろう。その間にショートステイなど公的介護サービスをうまく利用しながら、時には男と女房の二人だけの暮らしを確保する。そのような期間はそう長くはないと思うが決してゼロにはならないだろう。

2011年6月1日水曜日

蓮華草の田圃(20110601)

 男というものは自分の子供の頃があることを別に置いて、年老いた愛する妻の子供の頃のことを想像して一層その妻のことを愛おしく思うものなのかもしれない。男は子供の頃家に農耕用の牛を飼っていたので、竹で編んだ篭を背負ってその牛の餌にする草を刈りに出かけていたものである。女房も子供の頃同じようなことをしていたという。

 昨日は快晴で温暖な日であった。男と女房は道の両脇にのどかな里山の田園が広がっている舗装された農道をゆっくり散歩した。丁度田植えの時期であり、あちこちで小型トラクターがゆっくり移動しながら水が張った田圃を耕している。男はそのような農業用の自動機械を操作した経験がないので、農家の人がトラクターに乗って田圃を耕す様子を見て農家の人たちは凄いなと思った。人生に‘もし’はないが、もし自分が若い時から農業に従事していたなら、自分もその人と同じようなことをしていることだろうと思った。

 村に入るとその道路わきに牛が10頭ぐらい飼われている牛小屋があった。牛たちがこちらを向いている。男の呼びかけに牛が応えることを若干期待しながら、男は牛に向かって「ンもー」と言ってみた。ふと原発被害に遭っている福島の農家の人たちのことを思った。避難を余儀なくされている人たちはこのような牛を見殺しにしなければならなかったのである。「本当に可哀そうだよね」と、ぽつんと女房がつぶやいた。農業の経験も無く都会暮らしをしてきた政治家たちに避難した農家の人たちの心の痛みがわかるだろうか。

 4歳の時以来男の家の後妻に入った母親と別れ、大家族の末娘っ子のように可愛がられて育った女房は「わたし学校から帰ってくると裏のCちゃんと一緒に篭にかまとみかん一つ入れて田圃に生えていた蓮華草を刈りに行っていたわ。Cちゃんは学年が二つ上だった。蓮華の花がいっぱい咲いている田圃を見つけてその中に入り、しゃがみこんで草を刈ったものよ。疲れてくると‘みかんを食べよう’と言って一緒にみかんを食べていた。あの頃、田圃の蓮華草は自然に茂っていると思っていたわ。あれは田圃の肥料にするため農家の人が種を蒔くんだって。この間叔母さんがそう言ってた」と昔の思い出を語る。その頃男の父親は教職に復帰して汽車で3時間ぐらいかかる遠方に赴任して行っていたため、家には父親も継母もいなかった。子供の頃の男と弟は祖父母に育てられていたのである。

そういうわけで男も子供の頃女房と同じようなことをしていた。蓮華草がいっぱい咲いているところでかまを水平に移動させ、刈った後が白っぽく変わるほど綺麗に刈ることを得意がっていた。田圃の持ち主から叱られたことはなかった。時には同じ村の友達とその田圃で野球ごっこをして遊んでいた。自分にもそのような頃があったことを脇において、女房が自分の子供の頃のことを語るのを聞いて「お前も苦労してきたな」と思う。男は「田圃の持ち主が何も言わなかったのは小さい女の子が二人牛の餌にする蓮華草をちょっとだけ刈り集めたとしても大した量にはならないと思っていたからさ」と女房に言った。多分一人前扱いされる中学生ともなれば「勝手に刈るな!」と怒鳴られたことだろう。

 男は女房と二人で里山の田園風景の中を散歩しながら、自分の人生を振り返っていた。

2011年5月31日火曜日

20110531アザミの花


 午後母は退院した。昨日「明日午後2時に退院だよ。」と母に言って、しばらくしてから「退院はいつ?」と聞いてみた。母はすぐ忘れていて「朝10時。」ととんちんかんな答えをしていた。今日迎えに行って「朝ごはんは何だった?」と聞いたら「ご飯とみそ汁と、・・と。」と答える。「お昼ご飯のおかずは何だった?」と聞けば幾つかの品をあげて答える。男はそれが正確な答えかどうかは実際のメニューを予め調べていなかったのでわからない。しかし母の記憶の状況は薬のせいかしっかりしているようである。

 K先生は「(母の認知症の症状は)良かったり悪かったりしますよ」と言う。まだらボケで良かったり悪かったりしながら、母のアルツハイマー性認知症は確実に進行して行くのだろうと思う。母の症状はまだ発症初期の段階である。

 昨夜テレビで森重久弥と高峰秀子が演じる『恍惚の人』が放映されているのをたまたま見た。偶然と言えば偶然である。しかしこれは男と女房がこの映画をテレビで見るべくして見た‘必然’だったのだろうと男は思う。女房は腹を抱えて笑いこけている。森重久弥演じる痴呆老人は「もし、もし」とつぶやいて相手とコミュニケーションをとっている。この老人はいろいろ問題行動を起こすが、高峰秀子演じる嫁を「お母さん」と読んで甘えている。可愛さがある。一般に男が痴呆になったら可愛さが出てくるのではないかと思う。

 母は今日午後2時に退院する。そこで男は1時間ほど前母が入っていた病室に行き、母に「2時近くになったら来るからね。それまでテレビを見ていなさい。と言って母が寝たままテレビを見ることができるようにしてやった。母はリモートコントロールの操作器のらせんコードが伸びることを理解していず、男がコードを伸ばしてやったら、母はベッドに横たわったままテレビを見ることができることを初めて知ったようだった。
 
 久しぶりに今日は天気がよい。男はK病院を出てK町の中央を流れる川の辺を散歩した。太古の昔火山が噴火したあとに出来たこの盆地の中を流れる川の風景は美しい。男はこの風景が好きである。何度見ても飽きない風景が此処にはある。25分前に母の病室に着き退院の支度をした。病室のすぐ前が看護ステーションである。看護師の女性たちに「お世話になりました。またお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と言うと、今回のようなことは度々起きているので看護師たちはにこにこ笑いながら、「はい」と言う。
 
 母を家に連れて帰ってしばらくして、女房が「散歩に行こう」と言う。二人で農道を散歩した。田圃に引く水路の水が勢いよく音を立てて流れている。小型トラクターで田を耕しているそばに何羽もの鳶が動き回っている。彼らの狙いは田を耕すと現れる小動物である。一羽が何か捕えてすぐ舞い上がった。女房は「ほら、見て!」声をあげている。

 道端の水路の脇にアザミが沢山紫色の美しい花を付けている。女房が一つ二つ手折って「綺麗!」と歓声を上げている。男は「俺が取ってやろう」と言うと、「とげがあって痛いわよ」と遠慮している。男は勢いよく4つ、5つ手折って女房に渡してやった。その花はコップに活けられて、女房が立つ台所の水道口のところに飾られていた。

2011年5月30日月曜日

老々介護の行動計画(20110530)

 男は母の介護について女房とよく語り合った。昔から常にそうであっただろうと思うが、例えば戦国時代の武将は、当時のある意味では企業経営が競争相手によって領地の存続が危機にさらされたとき、その危機の対処について子まで設けた妻との間でいろいろな苦悩があっただろうと思う。そのとき戦国武将たちは何かの決断をし、その結果起きたことについて自ら責任を負ったと思う。また妻たちもそれぞれ決断をして自らの身を処したと思う。それが語り継がれ、後世の作家たちによってドラマが作られ、人々はそれを読みまたは映画を見て何かを感じ何かを得て、それぞれその人生の糧としているのである。

 男は軍隊がある状況に直面したとき状況を判断し、状況に対処するため行動計画を策定し、状況に対処するように、自分や女房に関わる問題の解決をしようと思う。それは軍隊に比べれば針の先ほどちっぽけな状況であるが、ものの考え方は基本的に同じである。

男は母の介護計画の策定にとりかかった。状況の判断において男はフィードバックを重視した。どんなシステムでもよいアウトプットを得るためには負帰還(ネガティヴフィードバック)が重要である。女房ととことん語りあうことはその一つの方法である。

こうして男は先ず二つの方針を立てた。その一つは「人の道から外れないこと」である。母の介護のため田舎に例え一時的にせよ居を移すことが必要になる。そのため男も女房もそれぞれの何かを犠牲にしなければならない。そして何年か何年先かわからないが母がこの世を去った後、少なくとも母の弟妹たちが元気な間は、この田舎の家を守り法事などを執り行い親類づきあいをきちんと行わなければならない。自分たちが世を去った後も先祖の祭祀が継続されるようにしておかなければならない。それが人の道を踏むことである。

もう一つは夫婦が力を合わせてこれまで築きあげたものを大事にすることである。これは第一の方針と同様の重要度をもつ。二律背反にならぬように知恵を絞る必要がある。時間の経過とともに状況は変わる。常に状況を判断しながらこの二つの方針を貫く。そしてその下で行動の実施要領を決定し、それを常に見直しながら実行してゆく。

 一旦行動計画の概要が固まれば、後は実行あるのみである。二つの方針をしっかり守り、フィードバックを得ながら常に状況を判断し、実行してゆく。馬鹿な考え休むに似たり、ただ前に進むのみである。但し柔軟な思考をしながら行動あるのみである。

 男はこのようにして今後痴呆度が徐々に進んでゆく母の介護を行って行くことにした。明日、母は退院する。数日後母をH市の病院に連れて行き、その後数日間様子を見る。その間男と女房は先日母の為買ったaumimamori2によるネットワークと地域の介護システムの関係者と携帯電話によるネットワークを維持しながら、帰宅までの所要時間が数時間の範囲内のところで旅行などをし、45日間母を以前のように独り暮らしさせてみる。そして帰宅し様子を見てその後1カ月間以上独り暮らしが問題なく出来るかどうか判断し、大丈夫と判断されれば次回は8月のお盆休みまで帰って来ないようにしようと思う。

 しかし寒冷期に入る今年の晩秋時期以降は、独り暮らしは無理だろうと思っている。

2011年5月29日日曜日

雨だれの音 (20110529)

 今朝は雨である。女房はまだ眠っているが男は胃腸の調子が悪くお腹にガス溜まって張ってきて目が覚めたので5時過ぎに起き、男がインターネットに公開している吟詠の6月の吟題・嵯峨天皇の『山の夜』の解説を書いている。

軒下の出窓の屋根を叩く雨だれの音が聞こえている。この家は築40年以上経っているが、まだ天井に雨洩りはないようである。しかし雨が降ると窓際の天井をポトンポトンと叩く音があり、屋根瓦の隙間から多少の雨水が落ちているのではないかと思ったりする。

 嵯峨天皇の『山の夜』は嵯峨天皇が即位後間もないころ、谷川のほとりの山荘に居住したときお作りになった歌である。田舎に住んでこのようにして文を書きながら雨だれの音を聞くと、此処は嵯峨天皇が住んだ奥深い山荘ではなく田舎の町中であるが、嵯峨天皇が若き頃住んだ山荘の様子を想像し、1200年ほど前のイメージを重ねた感慨がある。

 ちなみに、嵯峨天皇(786824年、桓武天皇の第二皇子で第52代天皇)の御製である。嵯峨天皇は幼時から聡明で文武兼備の不出世の天子であったと言われており、漢詩人で書家でもあった。母方の先祖は後漢の霊帝の後裔で坂上田村麻呂と同族の坂上氏である。

その先祖は阿智使主を祖とする漢系渡来氏族(東漢氏)の一族である。阿智使主は後漢の霊帝の後裔と言われており、『日本書紀』応神天皇209月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」とある。何十万人とも言われる帰化人たちは後の日本の文化発展に大いに寄与し、皆日本人になっている。
『山の夜』という漢詩はつぎのとおりである。

  山夜 嵯峨天皇

移居今夜薜蘿眠 夢裏山鶏報暁天
不覺雲来衣暗濕 即知家近深渓邊

   居を移して今夜薜蘿(へいら)に眠る
夢裏(むり)の山鶏(さんけい)暁天を報ず
覚えず雲来たって衣(ころも)暗(あん)に湿う
即ち知る家は深渓(しんけい)の辺(ほとり)に近きを

薜蘿とは薜茘(まさきのかずら)と女蘿(つたかずら、さがり苔)のことである。薜茘は常緑の低木で蔓生であり、女蘿は苔の一種で地衣類である。

この詩の意味は、

   今夜は宮中から出て山荘に宿す。
辺りはまさきの葛や下がり苔が垂れ下がった深い森の中である。
ぐっすり眠っているとき、山鳥の声で目が覚める。夜が明けて来たのだ。
いつのまにか曇り空となり、着ている衣服もじめじめとしてきた感じである。
これは、この山荘が深い谷川のほとりに近いところに建っているからである。

である。

2011年5月28日土曜日

別府に遊ぶ(20110528)

 別府は昔から湯の町であり、色町であった。流川通りは現在舗装された公道になっているが、昔は文字通り川で川の両側に温泉宿が立ち並び艶っぽい風情があったそうである。昔の川は公道の下に埋められた管路の中を流れているという。

 男の生母は別府で生まれ育った。生母の祖先は江戸時代K藩の藩士として奉行職を務めていたが、明治維新後別府に移り住み宝石店を営んでいた。男自身戦前の幼少時から戦後の少年時代にかけて別府とのかかわりがあり、男は別府にある種の懐かしさを感じている。

 母が入院した知らせを受けて男と女房は急きょ母が独り暮らしをするK町の家に帰ってきた。帰って来たときは家の内外のことでいろいろすることが多く、女房は生来の優しさで老いた母が可哀そうに思い、これまで母のため精一杯尽くしてきた。

女房は母にとって実の娘ながら4歳の時以降母と一緒に暮らしてはいず、どういうわけか母自身も女房のことを自分の娘と言うよりは、自分の面倒をよく見てくれる、ある意味では自分の家の家政婦のようである。女房は高校2年のとき男の家の養女となり、戸籍上では男と兄妹の関係にあった。そのころ男は既に社会人として自立した生活をしていたので、女房と一緒に暮らすことはなかった。ある日男の父親が「お前はあれと一緒になれ」と言った。男は素直に「はい」と言って女房と夫婦になった。以来50年近くなる。

 母の前世は御姫様と思われるほどに母は炊事が苦手である。母によれば「私は小さい時から大事にされて育った。家事手伝いなど一切したことがなかった。」という。男の父親にとって母の作った料理は誰にでもできるようなものばかりで、後妻である母の料理を喜んでいた節はなかった。男の父親と母の間に60を過ぎた娘が一人いて遠くに住んでいる。

 一方男の家に来た女房は高校2年の時以来、寒い冬の日でも期末試験があったときでも炊事をさせられていた。お陰で女房は家事一般のベテランになった。女房はこの家に帰ってきたときは母のためこまごまと精一杯働き、気疲れし、体重を減らし、横浜の家に戻ったときはいっぺんにどっと疲れがでてしまうことがたびたびある。

 そこで男は雨天のため渋っていた女房を別府の温泉に連れて行った。泊った宿は別府の老舗Sホテルである。男と女房はツインベッドが二つあり和室も付いている大部屋で12階の見晴らしの良い部屋に泊った。此処は大浴場のほか眺めのよい場所に大きなたらい型の一人専用の露天風呂が45つあり、サウナもある。食事はバイキング方式がおすすめである。料理の種類や質や内容が非常に良かった。スイーツも高級なものがバイキング方式で食べることができた。女房は「お父さんと一緒の誕生祝いだね。」ととても喜んだ。

 高速バスで別府に着いた日、雨の中「うみたまご」という水族館でたっぷり遊んだ。其処は平日で雨天ということもあって入館者が少なかった。男と女房は若い女性が訓練中のゾウアザラシの動きを見て、おかしくて仕方がなく、女房は腹の底から笑っていた。

翌日は観光バスで地獄めぐりをした。この12日の小旅行は男と女房にとって最良の思い出となった。男は女房の一代記を小説にして書いておこうと考えている。