2011年6月12日日曜日

自分は何をして貰い、何をしたか、すべきか?(20110612)

 男は運動を兼ねてちょっと遠方の大型店Tまで行った。その帰り道、みちゆく主婦ら人々に目をやりながら考えた。男はこれまでの人生で女房や女房の実母である母に何をして貰い、何をし、何をすべきか、ということに思いを致した。

 昨日竹馬の友I君から贈られて来た『O市今昔写真帖』に女房の小学生の頃の姿が写っている。その頃女房の母親は男の父親の後妻に入り、その父親の赴任先である僻地で貧乏暮しに耐えていた。男の父親はその時自分の母校・O師範学校の後輩よりも低い地位で、助教諭であった。母は陰でその父親を支えていた。

男の父親はかつて、今の韓国慶尚北道で小学校の校長や兼務で青年特別錬成所長をしていたが日本の敗戦と共に状況は一変した。日本への引き揚げ後は教職に就けず農業を営む祖父を手伝いながら先のことを模索していた。そういう状況にあるときO師範学校の同級生らの奔走により教員普通免許を得、教職に復帰することができた。しかし最初は助教諭という資格であった。ようやく正教諭に復帰できたのは数年後のことであった。

母は再婚後それまで経験したことがないような貧乏暮しを経験した。母が女房の実父である夫と死別したのは終戦1年前の昭和19年のことであった。母は会社員の夫とともに大阪で暮らしていた。夫の実家は裕福な家で戦時下大阪に米などの食料を送ってきていて大阪での暮らしは楽だった。その夫が糖尿病で亡くなり、母は幼い女房を連れて空襲の合間を縫って母の実家に戻った。そして戦後間もなくある人の世話で男の父親と再婚した。

男の母親は引き揚げの翌年昭和2112月に乳がんで他界していた。33年の短い人生だった。それは男が10歳の時であった。母親は遺してゆく子供たちに、とくに長男である男に身をもって武士道の精神を教えた。男の母親は背中全体が転移したがんのこぶだらけになっていて相当苦痛があったに違いないが、死ぬその瞬間まで自分の苦痛を見せず、死ぬ時は当時10歳の少年であった男に仏壇から線香を持ってこさせ、裏山に落ち松葉を集める作業に行っていた父を呼びやった。その言葉はしっかりしていた。

今の母は戦後生活が苦しかった時代、男の父親を陰で支え続けた。そのお陰で男の父親は幾つかの小学校の校長として歴任することができ、名声を上げることができた。その父親も70歳のとき白血病で他界し、母は再び寡婦となった。

その母と幼少時以降成長するまで一緒に暮らすことが無かった母の娘が男の女房となり、立派な子供をもうけて世に送り出し、この齢になるまで男を支え続けてくれている。母娘二代にわたって、母と女房は男の家系に貢献してくれている。

これはすべて前世からの約束事のように感じられる。母と女房は傾きかけた男の家系の建て直しのため前世から送られてきたと男は思う。母娘だけではなく、その親族までも何かと直接的・間接的に男を支えてくれている。静かにそのことに思いを致すと、これは全てそれぞれ先祖の御霊の導きであることを自覚するに至る。

人は、合理的思考をする一方で、非合理的なことにも謙虚な気持ちであるべきである。

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