2011年6月13日月曜日

正しい認識の妨げとなる三つの壁 (20110613)

 『正法眼藏』(岩波文庫、道元著、水野弥穂子校注)に次のことが書かれている。

“おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。たゞ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば修行して産学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほいなきことをうらみよ。”

ここで、この本に訳注あり、「諸仏」とは「自己の正体の内容」、「心識」とは「心と、そのはたらき。意識作用。」、「正信の大機」とは「諸仏の境界は不可思議であると、まっすぐに信じる人が大機である。機は教えを聞いて悟る人。」、「霊山」とは「釈尊が霊山で法華経を説こうとした時、五千人の増上慢が、教えを聞くには及ばないと言って席を退いた。釈尊は、退くもまた佳と言って退くに任せた(法華経、方便品)。」とある。

なお、「正信」は「しょうしん」、「大機」は「だいき」、「霊山」は「りょうぜん」、「退亦佳矣」は「たいやくけい」とふりがながついている。

今からおよそ800年前、鎌倉時代初期の禅僧で、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は「自分自身の本質は言葉では表現できないものであり、考えても奥底を知り得ぬものである。それは意識作用が及ぶようなものではい」と説いておられる。『正法眼藏』は道元禅師が30歳ごろから53歳で没するまで生涯をかけて著した87巻(=75巻+12巻)に及ぶ大著である。74歳にもなる男は、この書物をまだちょっとかじり読みしているだけである。

道元禅師は座禅の重要性を説いておられる。しかし男は座禅などなどしたことがない。ただヨーロッパ人が「動く禅」と言っているという合気道には親しんでいた。今はそれも遠のいている。しかし合気の精神は持ち続けている。

男は座禅のことは全くわかっていない。座禅すれば自分の本質に少し近づけるのではないか思う。その自分では分からない自分の本質に何か係わりがあるのかどうかさえもわからないのであるが、男は偶然の不思議を感じることが度々ある。男はそれを自分が認識できない世界から示された、ある意味では‘必然’だと信じている。人はそれを馬鹿げたことだと一笑するかもしれない。それを「たまたま偶然の一致だ」と決めてかかるかもしれない。しかし男は素直に、疑いもせずそれを有難いと思う。男は自分の本質につながる世界に意識を及ぼさないならば、本来見えるものも見えないのではないかと思っている。

大震災からの復興は遅々として進んでいない状況下、菅総理は自主的辞任を迫られている。男は、菅総理は自分の政治の現状を正しく認識することが求められていると思う。

男は、現状の認識は己の心を無にしなければ不可能であると思っている。何故なら誰にも正しい認識を妨げる壁があるからである。それは①感情の壁、②文化の壁、③知識の壁という三つの壁である。静かに瞑目し、自分の心の深奥を覗き込むようにしても、第三者の声を聞く素直な気持ちが無ければ、それらの壁の上部の影すら見えてこないだろう。

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