2010年10月31日日曜日

台風接近(20101031)

    今年は寒気の進出の出っ張りが例年より後ろに引いているので、この時期、台風は日本に接近しやすいのだと言う。台風14号は今夜関東に最も接近または千葉県南部に上陸する可能性がある。その後熱帯低気圧になると言う。

    男は今夜は詩吟を教える日なので、女房が台風の中出かけることが危ないと心配する。テレビで報道される天気図を見ると台風は幾つもの輪の中心にあり、その輪の範囲が大きいので如何にも危なそうである。しかし、男が行く先はその輪の範囲からすれすれ外れる場所であり、風雨は多少強いと思われるが瞬間風速15メートルにもなる可能性は低いと思う。それも詩吟が終わって帰る頃、台風は関東に最接近する予定なので、左程心配することはない。しかし、一応、ビニールの雨合羽を携行しようと思う。

    明日、日曜日の朝から、近所の方がわが家の玄関の下駄箱を修理・改装して下さることになっている。材料費は廃材利用なのでタダで工賃のみかかる。ご近所の方が自分の仕事の合間にやって下さる工事である。有難いことである。

    わが家では玄関の下駄箱の上に水槽を置いて大きな金魚(最初の頃は小さかったが成長して大きくなった)を2匹飼っている。玄関に金魚を飼っていると縁起がいいらしいのだが、下駄箱の修理・改装のため一端水槽を移動させなければならない。移動先は空いている和室である。今日は朝からその作業を行った。

    金魚の水槽の中に「水工作」というフィルターを入れている。このフィルターは別にモーターで動かすものではなく、エアーポンプからの送気だけで糞や餌の食べカスなど水槽内の汚物を除去してくれる。しかし、2週間もすればフィルターが汚れてくる。フィルターの部品は1、2度汚れを除去して再使用しているが、今回新品を付けて以来初めての清掃なので、面倒であったが念入りに行った。

    作業が終わる頃、女房が田舎から送ってきた金時のようなさつま芋を専用の器具で焼いて出してくれた。牛乳と一緒に頂く。「美味しいね」と言いながらテレビのスイッチを入れたら昨夜、突如中止された日中首脳会談のことがコメンテーターを交えて議論されていた。

    1978年、中国の鄧小平中国副首相は、尖閣諸島の問題を棚上げにすると言った。鄧小平氏はこの問題は次の世代に委ねる、と言った。そして、1990年代の初頭、鄧小平氏は「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)ということを言った。

    その熟語の意味が誤訳されて、「能力を隠して再起を待つ」とか「野心を隠して爪を研ぐ」と取られていると言う。しかし鄧小平氏が言った「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)という真意はともかくとして、男は今の中国の軍事力増強の状況を見れば、実際は「野心を隠して爪を研ぐ」という意味にしか取れない。おそらく大多数の日本人はそう感じていると思う。

    人も、人の集合体である国も、その根っこに動物の本能がある。動物のオスは他のオスと縄張りを争う。強いものが勝つ。日本は価値観を共有する諸国と手を組んで、集団の力で中国に対処しなければならない。核武装も視野に入れる必要がある。

2010年10月30日土曜日

風邪を引かない方法(20101030)


  徐々に気温が下がって来ている。男は昨年101歳になられたあるお方に東洋医学の健康法を教わった。それを極力実行している。お陰で体調は良い。時々「100回噛む」ことを忘れ、時々「口が卑しくて食べすぎたり」して胃を壊すことがある。しかしそれで懲りて最近はそんなことが無いように心がけている。起床時の日課はもう何か月も継続している。食事と運動は体調維持の基本である。それも3カ月ぐらい継続しないと効果が出ない。

  男は起床時ベッドの中で次の運動をしている。この運動のため勿論寝具は足の方にずらして運動をしやすくしている。その運動のやり方は次のとおりである。

  先ず爪を揉む。但し薬指の爪だけは揉まない。101歳のお方からはそのことは教えられなかったが、老人はインターネットである医者が、薬指は交感神経に関係があるので揉まない、と書いてあったのでその通りにしているだけである。本当は薬指を揉んでも構わないのであろうが、男は副交感神経だけを刺激することにしている。

  揉み方は爪の両端を挟んで「イチ、ニイ、サン」と3回揉む。合計8本の爪の両端をそのように拍子をとりながら揉む。次に両手の指先を真っ直ぐ平行に合わせ、同様に「イチ、ニイ、サーン」と強く押す。その間、呼吸を整える。

  次に額から息を吸い、足の裏で吐くことを意識しながら、実際は鼻で息を吸い、吸った息が気道を通って肺に貯まることを意識する。肺にちょっとの時間息を貯め、次に肺から脚、つま先へと貯めた息が流れることを意識しながら、出来るだけ細く、長く吐き続ける。脚はベッドから10センチぐらい浮かす。そのとき足のつま先や足の裏から吐くように神経を集中させる。吐いて吐いて吐きまくると足先が温まる感じがしてくる。息も上がる。

    そこで次に爪もみをしながら呼吸を整える。両足の裏を合わせて脚を開き、膝をぺたっとベッドに付ける。次に腰を浮かし、お尻の穴を絞り、息を吸い脚を閉じながら陰部を上に突き出すように上げ、次に息を吐き脚を開きながら下げる。その動作を3度ぐらい行う。これで精力が漲る感じがしてくる。そして再び額から吸い、足で吐く動作を行う。この一連の動作を3回繰り返す。

  次に左腕を伸ばし、右腕でそれを抑え、左足を伸ばした右足の上にくの字に組み、首を左に向けて身体を捻る。次に逆側を同様に行う。これを3回繰り返す。

  その動作を終えた後四つん這いになる。先ず右手と左足を伸ばし、十分伸ばして背中や腰の筋肉を鍛える。次に逆側を同様に行う。この動作を3回くり返す。次に腕立て伏せを10回行う。これは早く、深く行う。たまにゆっくり、緊張を持続させながら行う。

  最後に起き上って運動具を使い腕、腹筋、背筋などを無理のない程度に簡単に鍛える。握力を鍛える道具で10回ほど握力も鍛える。これで起床時の運動は終わる。次に水をコップ1杯飲む。シャワーを浴びて背中や胸の皮脂を洗い流し、洗顔する。

    つま先や足の裏から「気」が出るイメージを持つことや、上記のことは男が独自に編み出した方法である。101歳のお方は爪揉みと額で吸って足で吐くことだけ教えてくれた。後は自己流である。しかしこれが非常に良い。体温が上がり、免疫力が上がり、風邪を引かず、気温が低くても薄着で過ごせる。男の妻も自分なりに適度に行ってくれている。

2010年10月29日金曜日

特攻(20101029)


  本屋に立ち寄り何かいい本がないかと物色した。本屋の入り口の台上に『図説特攻』という本が目についた。その本は森山康平という人が著したもので河出書房新社が出版したものである。裏表紙にまだ10代と思われる特攻隊員が出撃前子犬と人形を抱いて微笑んでいる写真がある。これから死ぬというのに悲壮感がまったくない表情である。

 どんな内容の本かと思い立ち読みしてページをめくった。値段は1600円である。ついこの間、この本やで『大東亜解放戦争』という上下2巻の本を4000円も出して買ったばかりである。この本を買おうかどうか躊躇したが、結局買うことにした。このような本は今後出ないだろう。蔵書にしておけば男があの世に逝った後、孫がいい齢になった頃手にして読んでくれるかもしれない。そう思って思いきって買った。

 先の大戦で、特攻隊慰霊顕彰会という組織が編纂した『特別攻撃隊』(平成2年・非売品)には特攻戦死者の全氏名が掲載されているという。それによれば海軍が4156人、陸軍が1689人、合計5845人の方々が先の大戦で散っていったという。

 航空特攻の中心はフィリッピン近海における特攻と沖縄近海にものが大部分であるという。フィリピン航空特攻の戦死者は695人(海軍419人、陸軍276人)、沖縄航空特攻の戦死者は2610人(海軍1590人、陸軍1020人)となっているという。航空特攻では沖縄近海における戦死者が圧倒的に多い。必死で沖縄への米軍の侵攻を阻止しようとしたのだ。

 関行夫大尉が神風特別攻撃隊の隊長を命じられ、その任務を引き受け、出撃直前、同盟記者の小野田政にたいして「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」と語り、さらに「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のために行くんじゃない。最愛のKA(ケイエイ)(海軍隠語でKAKA、つぃまり奥さんのこと)のために行くんだ。命令とあらばやむを得ない。KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」と言ったという。関大尉はその年の春結婚したばかりだったという。

 特攻隊員の戦死者は多かったが無駄死にではなかった。護衛空母セント・ロー、護衛空母オーマニ・ベイを沈めた他、戦車揚陸船LST-472 など5隻の戦車揚陸船を沈め、その他駆逐艦、歩兵揚陸船など多数の船を沈めた他、多数の空母その他の艦船に被害を与え、戦闘能力を失わせている。九州沖では正規空母フランクリンに海軍特攻機が急降下攻撃を行い、爆弾2個を投下し、空母は10度以上傾き戦闘不能に陥った。

    同空母で戦死者800名ほど、戦傷者不詳という被害を与えている。アメリカ側では「太平洋戦争中最も悲惨な被害だった」と言っているという。この海軍急降下爆撃機は敵弾を受け空中分解して海中に落ちたという。

    男は若いころまだ小学生だった二男を連れ靖国神社に詣でたとき、そこで特攻隊員の遺書を読んだことがある。隊員たちは皆20代前後の若さであった。読んでいて涙が出た。今の日本があるのは、彼らの犠牲の賜物である。日本人は決して忘れてはならないのだ。

2010年10月28日木曜日

沖縄の問題(20101028)


  沖縄が日本に復帰した時、沖縄の人たちはもとより日本中の人々は大いに喜んだ。沖縄は復帰したが、沖縄には依然として強大なアメリカ軍の部隊が駐留したままである。今日まで多小縮小されたが、依然として極東の要として、沖縄にはアメリカ軍が駐留し続けている。そればかりではなく、イラク戦争でもそうであったが、沖縄に駐留している海兵隊の部隊は、沖縄から世界中どこへでも迅速に移動し、戦っている。

  老人が若かった頃、航空自衛隊の2等空尉(老人は、‘日本国防軍空軍中尉’と言いたい!)であったとき、沖縄に出張したことがあった。その時、アメリカ軍の将校と一緒に昼食をとったことがあった。その将校は「自分はドイツ系です」と誇らしげに語っていたことを覚えている。その将校の階級は中尉だったと思う。そのレストランには日米の‘将校’が利用することができた。食事代を彼が負担したのか自分が負担したのか覚えていない。

  その出張のとき泊った宿舎はアメリカ海兵隊が使っていたものであった。出張した時期は夏であったが、その宿舎には一切冷房はなく、おまけにロッカー内は電気ヒーターで常時温められていた。それはロッカー内の湿気を飛ばすためであったのだろう。その時老人は「アメリカの海兵隊員は熱帯のジャングルの中でも任務を果たすことができるように、常に即応の体制にあるのだ」と思ったものである。

  「有事即応」の体制、これが軍隊のあるべき形・姿である。近頃、日本人の間には自衛隊の有事即応体制のことが少し判ってきているようであるが、まだまだ不十分である。沖縄を含む日本列島全域を航空自衛隊のレーダーサイトで24時間途絶えることなく防空警戒監視を続けており、防空識別圏内を飛行する国籍不明機に対しては各地の航空基地に待機している戦闘機が緊急発進してこれを追跡・監視している。その回数は尋常ではない。

  わが国土の地形上、国土防衛のためには北方、西方、南西方向への自衛隊(老人はこの言葉が嫌いである。‘国防軍’とすべきである。)に十分な対応能力がある陸海空軍の精鋭部隊の配備が是非必要である。現状では国土防衛はおぼつかないのではないか?

  核兵器は最良の防衛兵器でもある。相手がミサイルの矛先をわが国土に向けている以上、わが方も相手に核ミサイルを相手に向けていつでも発射できるようにしておかなければならない。「核を持ち込ませない」、という考え方は現実的対応として絶対間違っている。

  日本人は自国のそのような防衛体制を日米安保があるから大丈夫だと思っている。アメリカの軍隊が我が国に駐留し、特に沖縄には日本有事の際戦地に真っ先に向かい日本防衛のために血を流す覚悟ができている海兵隊が駐留しているのに、わが自衛隊はその同盟軍の部隊を守ることすらできない。日本人はこの事実に真正面から目を向けるべきである。

  沖縄以外に住んでいる日本人は、沖縄にそのようなアメリカの実戦部隊が配備されていることを真正面から評価していない。沖縄の人たちにしてみれば、沖縄にそのような部隊があるという現状は、沖縄返還以前と今もちっとも変っていないので悲しいことであろう。

  国会議員や中央官庁の官僚たちが東京裁判の結果植え付けられた自虐的史観に囚われてきたことが、沖縄の問題を大きくした最大の原因である。このことは絶対間違いない。

2010年10月27日水曜日

小6女の子の自殺(20101027)

  小学校6年生の女の子が母から贈られたマフラーで首つり自殺した。その母親は外国人である。その女の子は学校でいじめを受け、孤独であった。新聞に載った写真を見て、男は胸詰まされる思いである。無口でおとなしそうな女の子である。家庭の中でその女の子は幸せであったのだろうか、とふと思った。

  学校側はその女の子が給食時間にいつも独りぼっちであったことは認めているが、いじめられていたことは認識していなかったという。男はそのようなことを平気で言う今の学校の態度に怒りを覚える。

  いじめにはいろいろあるだろう。「無視(ネグレクト)」もいじめである。独りぼっちであったということは、陰湿ないじめに遭っていたということである。子供に教育を行っている立場の者にそのくらいのことが分からなかったとすれば問題である。

  文部科学省はいじめの形態について指導を行うという。政府からそのような指導を受けなければ現場は改まらないのだろうか?それほど今の教師たちは程度が悪いのだろうか?

  仕方ないだろう。先日男は新幹線の陸橋の壁に向かってボール投げしている60歳代の男に注意した。そのような男の子供の世代が30代の教師たちの世代である。親が駄目なら子も駄目である。その30代の世代の親たちの子供たちも親からよい教育を受けないだろう。

  先日警察が万引きした子供の母親を呼んで注意したところ「万引きぐらいで」と言ったという。そのような母親は全体の数パーセント以下だと男は思いたい。

  それにしても向こう三軒両隣のような近所づきあいが希薄になった今の時代、何か打つ手はないのだろうか?物事には常に2面性がある。近所づきあいが希薄であっても、インターネット上で何か出来る筈である。先日ギャルママたちのネットワーク活動のことをテレビで観た。今の時代、全国どこに住んでいても、日本中の人々に呼びかけができる。

  そのような呼びかけを積極的に手助けするようなサイトはあると思う。ま、このように男がぼやかなくても、世の中はうまくゆくようになっているのだろう、と思いたい。

  ところでかく言う男は非常に優れた女房のお陰もあって向こう三軒両隣の付き合いがうまく行っている。ときにその日釣ったばかりのカンパチを頂いたり、旅行の土産を頂いたり、女房は女房で田舎から宅急便で送ってきた新鮮な野菜をおすそわけしたり、ご近所と頻繁にコミュニケーションが出来ている。

  先日、見かけない近所の子供が中学校に通う時すれ違った。男は「お早う」と言ったが気づかなかったらしくそのまま通り過ぎた。そこでその子供の背中を軽くたたき「お早う」とまた言った。その子はびっくりしたような表情で「お早うございます」と返してきた。

    ある日、こちらから声を掛けたのに黙ったままの青年がいた。「返事ぐらいしなさいよ、礼儀だよ」と言ってやった。先日の中学生の子もその青年も、男からそのようにして声を掛けられたことを幾つになっても覚えていることだろう。

  人様々であるが、男はご近所のどんな相手にもこちらから先に、気軽に、にこやかに、挨拶し、言葉を交わしている。これは男の習慣である。

 

 

2010年10月26日火曜日

90年世代(20101026)


 90年世代とは、中国内陸部の各都市で反日デモを行っている若者たちのことである。彼らは子供の頃、反日的な愛国心教育を受けている。日本人が全額金を出し、設計した南京大虐殺記念館もその教育に利用されている。

 彼らは「沖縄も尖閣諸島も中国の領土である。」「日本人はこの地球上から消え失せろ。」と叫んでいる。中国政府はデモの鎮圧に力を入れているようであるが、一部の‘ガス抜き’のためデモを容認している。沖縄の一部の人たちはそのデモをどう観ているであろうか?

 日本ではそのようなデモを行う若者はごく一部の学生たちであって、大部分の中国人は反日ではないと観ようとしている。デモは本当は中国政府に向けられているのであって、或いは、江沢民氏の一派が習近平氏を次期国家主席にするための権力闘争として行われているのであって、その旗印に「反日」を掲げているのであると、理解しようとしている。

 勿論、日本人は感情的になることは慎まなければならない。しかし、デモを行っている世代が将来中国の指導層(=官僚)になったときのことを日本は考えておかなければならない。15年後、日本と中国の関係は今より良くなっているであろうか?

 一昨日、前の官房長官だった平野氏が、中国との付き合い方について歴史を観れば分かる、というようなことを語っていた。男は、衆議員安全保障委員会の委員長である彼は、奈良・平安の昔から日本が当時の大国・先進国中国と付き合ってきたその付き合い方にヒントを得ているのだろうか?

 当時の日本は中国大陸から見ればはるかに遠い国であり、攻めてゆくのに相当のエネルギーを必要とした。今では簡単に核ミサイルが飛んで来かねない。第33代推古天皇の御代、聖徳太子が小野妹子を大唐(実は随の国)に派遣し、隋の皇帝煬帝に日本の国書を手渡した。その国書に「日出ヅル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子ニ致ス。恙無キヤ」とあった、これを見て隋の皇帝煬帝は喜ばなかったと、当時の中国の歴史書『随書』に出ている。

 当時中国(シナ)の歴代の皇帝は、シナこそ中華の国であって周辺の国々はケモノの国、民は東夷(とうい)・西戎(せいじゅ)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)という野蛮人である。シナの皇帝だけが天子なのであって、東夷の倭の天皇が自ら「天子」と称するのはけしからんと考えてきた。日本のことを「倭国」と言い続けてきた。シナが日本を正式に「日本」とよぶようになったのは、北狄のモンゴル人が皇帝になってからである。

 その元の皇帝も天皇を「天皇」とは言わず「日本国王」と言った。神奈川県立金沢文庫に北条氏関連の古文書が展示されているが、その中に元の皇帝が日本国の天皇に宛てた文書の写しがあった。これには、自らを「大元皇帝」とし、天皇を「日本国王」としている。ただし文末は「不宣」とあり、手紙の末尾につける挨拶の言葉を付けて、ある意味で中国の皇帝と天皇とは対等という友情を表している。皇帝は漢族ではなくても、実務官僚である漢族の官僚たちが公文書上「天皇」とさせなかったのであろう。

 一部の人たちの対日蔑視には根深いものがある。シナの皇帝の柵封下小中華の国であった朝鮮も同様である。その日本が大国であることが彼の国の人たちには憎らしいのである。

2010年10月25日月曜日

沖縄県知事選(20101025)


  今日(22日)付け「読売新聞」の記事に、前宜野湾市長伊波洋一氏(58歳)が読売新聞のインタヴューに答えて、沖縄県知事に当選しても普天間飛行場の移設問題について政府と協議しないと言ったという。

  伊波氏は次のように言っている。男は、彼は沖縄の独立と中国との朝貢関係復活を考えているのではないかと思った。とんでもないことである。

① 日米安保条約は時代錯誤であり、日本は同盟深化より日米平和友好条約を締結すべきである。

② 尖閣諸島近海の平和的漁業の実現のため中国と平和的友好関係を作りたい。

③ 沖縄は明治時代日本に併合されるまで、中国との朝貢関係にあった。中国はとても身近に感じる。

④ 先島諸島への自衛隊配備には反対である。

⑤ 米軍基地撤去を武器にして中国と対話を進めるべきである。

  伊波氏がこのようなことを堂々と発言する背景が分かった。男は昨日本屋で『歴史通』11月号を買った。この本はワック出版という会社「WiLL」が発行している月刊誌である。そこに沖縄県コザ市生まれ、78年防衛大学校卒業、82年2等海尉で退職後、琉球銀行等を経て現在拓殖大学客員教授である恵隆之介氏と前航空幕僚長田母神俊雄氏との対談記事が出ている。恵氏はその中で次のように言っている。

① 実は、いま尖閣の領有権どころか沖縄の領有権すら危機を迎えつつある。

② 中国は「戦後体制において、沖縄諸島は戦勝国である中国に返還すべきであった」と主張している。

③ 沖縄には琉球王国神話があって県民意識の中に、日本より中国が沖縄を厚遇したという神話が現在も生きている。

④ 沖縄には現在も中国帰化人の子孫が多数いる。県内でもこの中国帰化人の子孫であることは一種のステイタスなのである。

⑤ 仲井間知事やその前任者の稲嶺恵一氏も選挙の際はそれぞれファミリーネームを誇示していた。仲井間氏は蔡家、稲嶺氏は毛家である。

⑥ 琉球の支配体制下、農民は土地の私有を禁止されていて農奴のような生活を強いられていた。沖縄にとって廃藩置県はそのような原始共産主義体制からの解放であった。

⑦ 似非学者によって「日本政府による琉球王国征服」という被害者史観的教育が沖縄の小中学校で行われている。

  昨日、BSフジテレビ番組で国家情報機関設立の必要性が語られていた。現在は各省庁から出向してきた官僚により情報が取り扱われている。アメリカのCIAは一端そのCIA職員になったら定年までそこで働く仕組みになっているという。男は、一日も早く日本版CIAを作り、沖縄の現状を危機と捉え、対処しなければ取り返しのつかないことになると思う。

2010年10月24日日曜日

羽田新国際線ターミナル開業(20101024)


  今日(21日)羽田の新国際線ターミナルが開業した。ハブ空港としてインチョン空港やシンガポールのチャンギ空港に対抗して国際競争力を高めて行こうというものである。ただ着陸料がこれらの空港の4倍ほどでちょっと高すぎるのが難点である。

  男はテレビの報道で、同ターミナルの開業に向けて5年も前から準備して来た各関係会社の様子を見て、現役世代の人たちが頑張っていることにある種の感動を覚えた。「日本も捨てたものではない」と思った。男の息子たちはそれぞれの会社で、男が自分の人生で出来なかったことをやってくれている。男の往時の願望や欲求が息子たちによって満たされているような感じである。そのようなことがあるのは大変幸せなことである。

  かつて自分が現役のころそうであったように、人間は「自己実現」を目指して行動し、また一方で「使命感」とか「道徳的信条」を満たすように行動する。「使命感」や「道徳的信条」が「自己実現」と重なる場合もあろうし、重ならない場合もあるだろう。重なっている方が本人にとって幸せであると男は思う。

  人間を「企業体」や「社会」や「国家」という人間の組織的集合体に置き換えて考える。そのような集合的組織体でも、先ずは生存・存続のために最低限の何かを求めるだろう。次に「安全」を求めるだろう。次に「連携」とか「同盟」とかいうようなものを求めるだろう。次に自らを他のものに認めさせようとするだろう。最後に、国家という集合組織体ならば「世界に冠たる大国」になりたいと願うだろう。

  男の女房が興味があって一緒に観たのであるが、BSフジテレビの番組で平野元官房長官と森本敏氏が日本の安全保障問題について語っていた。両氏とも日本の国家情報機関(平野氏は「情報分析力を高めるような制度設計」という表現)の設立の必要性を訴えていた。

  中国はかつての王朝時代のような大国になりたいと願望し、それこそ自国が世界の中心であると言う思想・中華思想で自国の「自己実現」を達成したいと考えているに違いないと男は思う。平野氏ははっきり言わなかったが「歴史を見れば分かる」と言って、日本が中国と付き合ってゆくためには、日本から中国に公式的な政治的団体、例えば小沢氏の国会議員団体が訪問することにより中国の人々と仲良くなり、その一方で、日本の主権はきちんと守るようにすることが最良であると考えているようである。

  中国の要人も、例え国家主席でなくても天皇に拝謁(彼らは「拝謁」とは言わないだろう)し、中華の下の国と仲良くする、それが日本として彼の国と付き合う最良の方法だと、平野氏は考えているのかもしれない。それも一つの考え方であると男は思う。

  日本人のルーツには古代、戦乱を逃れ、或いは戦乱の結果の人々の移動で、長江(揚子江)中流域から陸伝いで北周りや、長江下流から東シナ海を渡ってやって来た人々(渡来系弥生人)もいる。勿論何千年の間原日本人(縄文人)との混血で現在の日本人になっている。漢族中心の中国人(シナ人)は、秀吉の時代でもスペイン人・マニラ司教ラサールから見て「日本人がシナ人のこの上なき仇敵」と評価されていた。その中国がそう遠くない将来、アメリカを押しのけて世界を席巻するような超大国になろうとしている。

2010年10月23日土曜日

生き残る(20101023)


  NHKテレビでお握り用とかおすし用とか目的別のブレンド米や米粉を使ったパスタや饅頭などを紹介していた。政府による後押しがあって日本のお米文化を再興させようという試みの一環であろうか?お米生産農家や農協がお米の消費拡大のため動き始めた。

    少人数の家族では、買うお米の値段が1、2割高くても自分たちの要求に合うものが手に入るのならば財布の紐を緩める。勿論、世の中にはそのようなゆとりがない家庭も数多いが、日本の経済の活性化のためには消費のあらゆる面で「多様性」をキーワードにして知恵を振り絞り、アイデアを出し合って消費者が求めるものを創り出すことが是非必要である。民間では当たり前のことが、政府が関わって何らかの規制をしている分野ではなかなかそのような発想が生まれてこない。

  日本は世界有数の農業国でありながら多くの食料を輸入し、世界有数の森林国でありながら多くの木材を輸入している。また日本は豊かな資源がある海洋に囲まれた国でありながら多くの魚介類を輸入し、また希少金属を輸入している。

  従来経済最優先で自給自足や安全保障の面をおろそかにしてきた。中国によるレアアースの輸出制限や発展途上国からの生物資源の採取制限により、日本は資源調達先の多様化など世界の中で‘生き残る’ための考え方を抜本的に見直さなければならなくなってきている。戦前、英・米・フランス・オランダによる包囲網の中、日本は自らの‘生き残り’をかけて戦った。そのとき植物から燃料を確保したり、国民が所有している金属加工物を供出させたりして、血眼になって資源の確保に努めた。知恵を出せばどのような困難でも切り抜けられる。これからの日本は世界の中で‘生き抜き’‘生き残る’ためにどうすべきか、真剣に考えなければならない。

  日本が国際的な生存競争の中で勝ち続けるためには、全日本人が危機感をもって団結し、知恵を振り絞って攻撃的に戦うことである。攻撃は最大の防御である。国の指導者が先頭に立って‘前に、前に’と国民を導いて行かない限り、この国は生存競争に負ける。

    軍人や元軍人が官僚の大部分を占めており、日本の国会に相当する全人代表会議は軍の施設内で行う中国は、国際社会の中で必死に生存競争を戦い、世界各地で摩擦を引き起こしている。日本が‘生きる戦い’をせず、鷹揚に構えていればいつの間にかこの国は中国に蝕まれてしまうだろう。

    政府は「日本と中国とは一衣帯水の国同士であり、戦略的互恵関係を発展させることが重要である」と言うが、その理念を掲げる前に、‘自給自存’を決して軽視ないという終始一貫した思想がなくてはならない。今、日本は政治家や官僚の資質が問われているのだ。

  尖閣諸島問題で多くの日本人は‘平和の眠り’から目覚めつつある。中国は‘寝た子’を起こしてしまったのである。しかし、まだ多くの日本人は太平の眠りから覚めていない。今こそ政府の指導力、実行力が問われ、試されているときである。男は、菅総理や前原外務大臣や北沢防衛大臣らの言動に深い関心をもっている。

2010年10月22日金曜日

偶感(20101022)

  男は今日(10月19日)都立大学のパーシモンホールまで、ある女性がその会のメンバーになっているある朗読の会の発表会を聞きに行った。行く途中川の土手の上で60歳代と思われる黒メガネをかけた男性が新幹線の高架の壁面に向かってボール投げをしている。新幹線の列車が取り抜けるときちょっと止めていたが、まだ列車が通り過ぎていないのにボール投げを再開した。壁面には沢山ボールが当たった跡が付いている。老人はその男性に声をかけた。「それはしない方がいいですよ」と。

  するとその男性は怪訝な顔をして「えッ、どうして?」と言って首をかしげ、ボール投げを続けている。「公共の物ですから」と男は言ったがそれ以上のことは言わずに駅へと急いだ。男は‘公共の物’とは言わずに「子どもが真似すると危険ですから」と言えば良かったと後で思った。それにしてもそのような場所では走行中の新幹線に向かって何か危険な物が投げられたり、銃などの発射装置で発射されたら大きな事故になりかねない。男はJR東海道にインターネットで注意を喚起しようと考えながら会場に向かった。

  その男性はおそらく大学を出て60歳を過ぎて定年となり、男と同じように‘毎日が日曜日’のような生活を送っているのであろうか。その子供は30歳代だろう。お天気も良いし他に何かすることもないので、運動も兼ねてそのようなボール投げ遊びをしているのであろう。奥さんはまだパートか何かで働いているのかもしれない。

  法律に書かれていない世の中のルールがある。世の中の暗黙のルールが守られていれば社会問題の発生も少ないだろう。世の中の暗黙のルールが今壊れているように男は思う。その男性の子供の年代の大人、つまり30歳代の男女のゼロコンマゼロ何パーセントかの者が何か社会的問題を起こすだけで、世の中は暗さを増す。30歳代の夫婦は親から教えられていないこと自分の子供に教えることは難しい。暗黙のルールが壊れると社会は暗くなる。

  朗読会では作家の作品の一部分を朗読して聴衆に聞かせる。男は発表者が朗読を始めると精神を集中さえるため、ロダンの考える人のような格好をして目をつぶって聞く。うかつにもある女性の朗読のとき途中で寝入ってしまい、朗読が終わる頃目が覚めて拍手をした。このことはその女性には話せない。しかし聴いているときなかなか良い朗読であると思った。男は普段あまり文学小説に親しんでいないので、朗読を聞きながらその文学作品における作家の表現の仕方や朗読者の朗読の技量などにチェックポイントを置き、自分なりに評価したり感心したりしていた。

  ある女性の朗読が終わり休憩時間となったので、男はアンケートに記入して会場を出、家路を急いだ。女房が「どうでしたか?」と聞く。「なかなか良かったよ。たまにああいうのを聞くのもいいね」と言いながら女房が用意したおやつを頂く。おやつは以前田舎から送られてきていた寒餅を冷凍庫から出して、焼いてくれたものである。砂糖醤油につけて食べる。お茶と一緒に頂きながら午後のひと時を過ごす。かくして時が過ぎて行く。もう10月も後半、光陰矢のごとく時は過ぎてゆき、男も女房もいずれあの世に逝くことになる。

2010年10月21日木曜日

箱根日帰り旅行(20101021)

  17日(日曜日)、男は女房と二人で7時半過ぎに家を出て箱根に向かった。千石原のすすき野を観にゆくためである。前夜、インターネットでJR東海道本線、小田急線、箱根のバスなどの時刻表を手に入れ、二人ともそれぞれリュックサックに必要な物を詰め、着て行く衣類なども準備していた。

  横浜からJR東海道線のアクティの2階席を利用した。特急券は予め駅のホームの発券機で手に入れ、2階席に行く。天井のセンサーにPASMOをタッチすると赤いランプが緑色に変わる。そのようにすれば列車内で特急券を買うよりは安い。社内での検札も省略される。タッチする場所は飛行機の中のランプやエアコン噴き出し口のようなユーティリティ・パネルの手前になっている。これは前の席用のタッチ場所と間違えやすい。奥の方にすれば上に手を伸ばすとき頭を無理に後方に傾けなくてもすむのに、手前になっている。これは設計ミスであると思う。

  小田原で弁当を買ってJR改札口を出て小田急ホームに向かう。小田急のホームに出ると丁度湯本行きの小田急ロマンスカーが到着したので、係員に特急料金200円を払って飛び乗る。小田原から湯本までは幾らも距離が離れていないので、ここは普通列車でも構わないのであるが、先を急いだのでそれに乗った。

  湯本で登山電車を待つ。一番前で待っている間に登山電車に乗る人が増えて混み合う。車内に入って座席に座ったがみるみる中に満員ぎゅー詰めの状態になった。10年ぶりかの箱根である。スイッチバックの登山電車から見える景色はよい。紅葉の時期はさぞ素晴らしいかろうと思う。

  強羅から施設巡りバスに乗る。片道490円。これも紅葉の時期に乗ればさぞ素晴らしいことだろうと思う。マイカーならそのような楽しみは味わえず、逆に時には渋滞で顔をしかめることになるだろう。行楽地はマイカーで行くべきではない。

  湿生花園ですすき野巡りのバスに乗る。わざわざそのバスを利用せずとも歩いて1キロほどのところにすすき野がある。駐車場のベンチに腰掛けて弁当を食べる。「小田原駅開業90周年記念わっぱ」という弁当はとても美味しかった。これは1個900円であった。持ってきたコーヒーも美味い。デザートにリンゴやみかんも食べる。昨夜ご近所の方から頂いた水戸のジャンボどら焼きも美味かった。行楽には十分な飲料や菓子も持って行くに限る。

  すすき野は今年は日照りの関係で背が低いと言う。それでも一面のすすきの野原はそれなりに見ごたえがある。しかし、ここは一度来るだけで十分である。

  湿生花園で老妻共々シニアの料金を払って中に入る。ここは皇族方もお出ましになられるようで、記念の標柱が建てられている。皇族方は生物学にご興味がお有りである。男もたまに「顕微鏡が欲しい」と言うと、女房から「何を観るの?」と笑われることがある。雉の姿を近くで観察することもできた。雉の泣き声は独特で、恐竜の声のようである。

  小田原でちょっと時間を過ごし、気風の良い兄ちゃんからとろろ昆布など買い、老妻も温泉饅頭を買い、夕食をとって帰路につく。負荷をかけて歩いた総歩数1万3千歩。

2010年10月20日水曜日

尖閣諸島問題に関する日本共産党の見解(20101020)


   日本共産党は、先週月曜日(2010年10月4日)に、インターネットで『尖閣諸島問題 日本の領有は歴史的にも国際法上も正当――日本政府は堂々とその大義を主張すべき――』という見解を発表している。

  老人はこれを読んで大変嬉しくなった。老人はかつて日本共産党は嫌いであった。老人は近年の日本共産党の政治姿勢には、他の政党に見られない一貫性があると評価している。もし将来同党が政権与党となった場合には、必ず正規の国軍を創設するだろう。ただし天皇制は廃止の方向だろうと思う。しかしそれは困る。

    しかし、もし同党が尖閣諸島はもとより、北方四島、竹島も我が国固有の領土であるとして、領土・領海・領空法など法律を定めて世界に向けてアッピールし、万世一系の男系の皇統を維持し、憲法を改正して国軍を創設し、日本の伝統や文化を守り、科学・技術の一層の向上を図り、国の富を増やす姿勢であるならば、同党は既存のどの政党よりも今の日本にとって最も期待される政党となることであろう。

    外務省はホームページで中国語でも尖閣諸島のことを説明しているが、まだまだ弱い。かつてのように軍人が政府の中枢にいない我が国の官僚たちは‘ふにゃふにゃ’腰、腰ぬけである。今からでも遅くは無い。政治家や中央官庁の官僚たちは、外交の手段としての軍事力の重要性について猛勉強して貰いたいと老人は願う。日本人は、東京裁判で毒された精神、自虐史観の精神から立ち直るべき時が来ている。

    岡田大臣は「日中両国ともこの問題には冷静に対処しなければならぬ」と言っている。しかし冷静ではないのは中国政府の方である。孫子の兵法に「遠交近攻」というのがある。日本の外務省は遅きに失しているがようやく世界に向けて尖閣諸島問題について積極的に説明を始めた。正しいことは遠くの国々に良く説明するがよい。日本人は平和ボケから目ざめて国土防衛に必要な最低限の軍事力を整備すべきである。

    国の軍事力は、個人に置き換えて考えれば日本刀とそれを腰に刺した武士のようなものである。その武士の鋭い眼光と鍛え抜かれた体つきと、磨きに磨きをかけた刀使いの技と、物おじせぬ物言いと、肝が据わった態度と、知性と徳性と高い教養と、自制心と、仁愛の精神と、事に臨んでは最愛の者すら顧みることなく己の役割を遂行する冷徹さなどである。

    18日(月)参議院決算委員会で丸山和也議員が仙石官房長官と予め示し合わせていたようなやりとりを行っていた。丸山議員は西郷南洲遺訓の第17項にある「正道を踏み国を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん」をボードに提示し、中国に対する政府の対応を批判していた。自民党政権は中国に向き合う政府の対応よりも専ら経済活動の振興に力を入れ、防衛予算を年々減らしてきた。

    軍隊(自衛隊)の経験者がいない政府は軍事力に対するアレルギーをもっている。一方の中国の政府は9割も軍隊経験者や軍人で占めている。日本人よ、目を覚ませ!

2010年10月19日火曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101019)


   秀吉がフィリッピン総督に送った書状は「今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・」というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。


  前掲の本には秀吉のことを英雄と呼び、日本の戦後の歴史観、自虐的歴史観が間違っていると書いてある。男はこれまで秀吉のことをここまで詳しくは知らなかった。信長や秀吉や家康はそれぞれの時代でわが日本国、万世一系、男系の皇統がある世界に稀な国・日本を守って来たからこそ、今日の日本があるのである。

  ナチスドイツ指導者並みの罪を着せられて処刑された東条首相は「戦争に負けたが戦争の目的を達成した」偉人として認められなければならない、と男は思う。ただ、彼ら指導者には何百万人もの同胞や数多くの東亜の人々を戦争で死なせたという責任はある。

    東京裁判に臨んだ東條首相のメモに「東亜ノ安定ヲ確保シ、世界平和ニ寄与スルコトハ自存自衛ヲ確保セントスルコト」「今日迄ノ帝国ノ大東亜地域大東亜諸民族ヲ理導(道)セル処置ハ之皆此ノ道義ニ依ル行為ニ外ナラズ、而シテ例ヘ戦局ノ波爛ニ依リ其ノ植エツケタル種ハ百年千年ノ後ニ必ズヤ此ノ正道ハ将来ニ芽(苗)ヲ出ス機会ヲ生ズヘク帝国ノ大東亜諸民族ニ及ボセル大徳ノ発スル時アルヘシ」というものがある。

    東條首相はアメリカとの戦争は何としてでも避けたかった。しかしアメリカのルーズベルト大統領は日米交渉を行いながらも一方で日本の海外資産の凍結や石油禁輸などを行って日本を窮地に追いやった。

    東條首相は開戦の責任を一身に負い、キーナン検事が「戦争を行わなければならないというのは、裕仁(ひろひと)天皇のご意思でしたか」という質問に対して、「天皇陛下は最後の一瞬にいたるまで平和へのご希望を持っておられました。12月8日の開戦の詔書に陛下のご希望によって、開戦は【朕(ちん)の意思にあらざるなり】というお言葉が入れられました」と答えている。(講談社『東条英機 天皇を守り通した男』福富健一著より引用)

    大東亜の解放戦争に敗れた日本は、結果的に19世紀に欧米やロシアが蹂躙しようとしていた中国や朝鮮を彼らの野望から守り、20世紀に欧米が植民地にしていたアジア諸国を解放したのである。日本は決して侵略国ではなかった。東京裁判において欧米・ソ連・中国によって日本は侵略国家とされてしまったのである。日本は戦争に負け、「力は正義なり」という論理によって侵略国家とされ、国民は洗脳されてしまったのである。

    日本は戦争に敗れはしたが、戦争の目的は達成した。その戦いで国の為尊い命を捧げた英霊たち(男の叔母の夫もその一人)は靖国神社に祀られている。この英霊たちに報いるため、今後日本国民が為すべきことは、皇統を守り、領土・領海・領空を守り、伝統・文化を守り、武力を持ち、科学・技術力を高め、国の富を高めることである。

2010年10月18日月曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101018)


  14日、男は48年間連れ添った女房と一緒に参議院予算委員会の様子をテレビで観た。女房は放送大学を2回卒業していて、それぞれ学位記を取っている。しかも今もなお別の専攻で勉強している。福祉や教育関係はもとより、社会や政治問題にも関心が深い。今日は自民党の山本一太議員が質問するというのでその状況を観るのを楽しみにしていたのである。山本議員は菅総理や官邸の危機管理意識について追及していた。

  中国の漁船による尖閣諸島問題が起きていた矢先にベルギーで開かれたASEMの最終日の行事が終わり会場を出たとき‘たまたま廊下で顔を合わせた’という温家宝中国首相と菅総理が、廊下にあったソファーに座って‘口をきいた’ということについて、山本議員は菅総理や仙石官房長官に鋭く迫っていた。ASEMとは、ASEAN10か国に、日・中・韓・インド・モンゴル・パキスタンとASEAN事務局及びEU27か国と欧州委員会が参加するアジア欧州会合(ASEM)のことである。

  中国側はそのときの‘口利き’談義を‘会談’と言わず、‘交談’とし、しかも、温家宝首相は「钓鱼岛是中国固有领土」と言ったと報道した。中国の言う钓鱼岛は尖閣諸島のことである。彼らはその辺りに石油資源が埋蔵されていることを知り、1970年からそこを自国の領土であると公然と主張し始めたのである。

    中国の実務官僚は元軍人が多いと言う。もともと愛国心の強い人たちである。彼らは軍という組織体が持っている一貫不変の戦略的原則のもと、日本側の憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し云々」など無視して、「相手が弱い」と観れば「愛国的」に国際社会に向かって公然と紛争を仕掛けてくるのである。

    温家宝首相は英語通訳のほか日本語通訳も同行していた。それに対して菅総理は英語通訳しか同行させていなかった。我が国の官僚は軍隊経験(自衛隊経験)が全くない連中ばかりである。危機管理がまったくできていない。老人はこのことを嘆き続けている。

    戦国時代を経て誕生した豊臣政権は、秀吉自らも含めて当時の‘軍人’たちが政権の中枢にいた。秀吉はスペインの謀略を直ちに見抜き迅速に対処した。それはスペインがシナを征服することになれば、そのシナの柵封下にある朝鮮も征服される。ならば、自ら朝鮮を征服し、この日本を守ろうと考えたのである。(以下、前掲の本から引用)

    コエリョは1585年3月3日付のフィリピン・イエズス会布教長宛て手紙で「もしも国王陛下の援助で日本66ヵ国全てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層容易にシナを征服することができるであろう」と書いている。 

    秀吉はコエリョが秀吉に明(当時のシナ(今の中国)の王朝の国)への軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日、コエリョに対して逆に自らの明征服計画を披歴し、ポルトガルの軍艦2隻を所望した。当時、ポルトガルはスペインの支配下にあった。

    秀吉は朝鮮出兵前年の天正19年(1591年)、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて、コエリョを恫喝している。

2010年10月17日日曜日

秀吉の朝鮮出兵(20101017)


  男は韓国のソウルに観光旅行したことがある。その時の現地ツアーガイドは沈(シム)さんという女性であった。彼女は自分の先祖が宮廷の女官であったという。その彼女が語ってくれたことには、韓国で一番嫌われている日本人は豊臣秀吉と伊藤博文であると言う。いずれも韓国人から見れば自国を蹂躙した日本人の頭目である。

  一方、われわれ日本人から見れば、日本がスペインやロシアから蹂躙されない予防策として、秀吉は朝鮮に出兵し、伊藤博文は大韓帝国を当時の万国公法(国際法)に基づき、条約を以って合法的に併合したものである。結果的に見れば、朝鮮半島は朝鮮民族だけのものとして守られてきた。スペインやロシアに蹂躙されることはなかった。

  男が読んでいる本『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。その本には日本の神代の歴史に似た檀君神話のことも書かれている。日本の皇統は万世一系で保たれてきたが檀君の子孫は途絶えた。朝鮮半島はシナ(明や清王朝)の柵封体制下にあり、中華思想の中、自ら小中華と称していた。その本には朝鮮半島の近代史について男がこれまで学んでいなかったことが書かれている。以下、秀吉の朝鮮出兵の経緯に関することをその本から部分的に引用して記述する。

  天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

  秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

  秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583年6月18日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

  当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。(続く)

2010年10月16日土曜日

負けるが勝ち(20101016)


  老人は「‘教えざる’ことは卑怯である」と常々思っている。ジャスコという大型小売店の脇の道を歩いているとき二人の警察官に出会った。一人の若い警察官が帽子をあみだに被っているのが気になった。それを見ながら通り過ぎてしばらく歩いたがそのことが気になった。引き返したらもう一台のパトカーがやって来て警察官4人で何やらしゃべりながら川の土手の方に向かって歩いて行っている。老人は近づいて後ろから「何かあったのですか?」と聞いた。すると帽子をあみだに被っている若い警察官が「お婆ちゃんが迷子になったのです」と言う。老人は「事件でもないのに4人も集まってきて・・、暇なんだろうな」と思いながら「ああそうですか」と言った。そしてその警察官の肩をそっと叩いて「帽子はきちんと被って」と言った。その若い警察官は照れ笑いしながら「すみません」と言って帽子を被り直した。老人はすがすがしい気分になった。

  昨日書店で『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)上・下巻2冊を買った。合計4000円だった。その本の裏表紙に「[オランダ]アムステルダム市長の挨拶」という記事が二見ヶ浦の夫婦岩の向こうから朝日が昇っている写真の下に書かれている。その写真のタイトルは「光は東方より」である。

  その挨拶は平成3年、日本傷痍軍人会代表団が、首都アムステルダム市長(サンティン氏)主催の親善パーティに招待された時のものである。その中に「あなた方日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。 (途中略)今、オランダは日本の九州と同じ広さの本国だけとなりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。 (途中略)本当は、私ども白人が悪いのです。100年も300年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。 (途中略)本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の開放は実現しました。(途中略)日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。」

  老人は生れて初めて心の眼が覚めた。この本を読むうちに秀吉が何故朝鮮に出兵したのか分かった。キリシタン弾圧が何故起きたのか分かった。秀吉はポルトガル人が日本人を奴隷(ニグロ)の奴隷にしようとしていた事態に対処したのである。西欧人はキリスト教布教を表に出して裏で東亜の人民を次々支配下に置いて行った。しかし日本の指導者は断じてそれを許さなかった。秀吉の朝鮮出兵の目的はスペインの明(当時の中国)征服計画の阻止にあったのである。

  日本は戦争に敗れたが、結果的に戦争の目的を達成し、今やアジア諸国や欧米諸国から畏敬される国となっている。これは靖国神社に祀られている英霊のお陰である。(合掌)

2010年10月15日金曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101015)

  そのような家に八千代は独りで暮らし、介護を受けながら家を守っている。信輔は八千代の介護のため頻繁に帰郷し、そのたびに一臣が生きたこの風光明媚な土地でピースフルな気持ちになることができている。‘ピースフル(peaceful)’は日本語では完全に表現できないような「穏やかな、平和的な、人々が和やかな、田園的な」イメージである。信輔の友人であるスエーデン系アメリカ人の女性が良く使っていた言葉である。信輔はこの土地から離れることができない継母を大事にして上げなければならないと思っている。

    その母も近頃物忘れがひどくなってきている。信輔は母が汚した衣類を洗濯機に入れる前に粗洗いするため、たらいとゴム手袋を用意した。自分が訪問介護ヘルパーのように他人として一人の老いた女性を介護するという気持ちなると、どんなことでもやれるとう自信と気概を持つことができる。

    信輔自身、会社定年後暫くボランティア団体に所属していた縁で、ホームヘルプサービスを提供しているある女性ばかりの団体に関わるようになり、その団体をNPO法人化し、7年間自ら理事長をし、その間2級ホームヘルパーの資格も得ている。その間実際にホームヘルプ活動をしたことがあるが、そのときの相手は男性であった。今度は自分の継母である。継母も信輔を非常に頼りに思っている。これは信輔の人生の「役割」の一つである。

    この仕事が「役割」であると思うと信輔は何の苦労も感じない。むしろときどき竹馬の友に会ったり、先祖の祭祀のことを考え、準備することが出来たりして楽しいことである。信輔は先祖以下祖父母の墓と父・一臣や生母・ともゑの墓が別々の場所にある状況を自分の代で解決し、信輔の子孫や一族が同じ場所で先祖の祭祀を行うことができるようにしなければならないと考えている。

    信輔のように家系や先祖の祭祀を大事に考える者は近年そう多くはないであろう。まして女性はそのことに余り関心をもたないだろう。昔、女性は‘女’へんに‘家’と書いて嫁と言うように、女性は家を出たら他家に従属する存在であった。今時の女性は男女別姓に賛成する者も少なくない。しかし‘家’は古来日本人にとって大変重要な文化的シンボルである。日本が英米等との戦争に負けた結果、そのような‘家’の秩序を軽んじるようになってしまった。その結果、昨今いろいろな社会問題が生じている。

    天皇家は日本人にとって各家の宗家のような存在である。ともゑが今際の時「東を向けておくれ」と言ったのは意味があった。ともゑは信輔に‘家’の秩序を身を以って示したのである。ともゑには戦争に負けた日本の今日の姿を見とおせたのかもしれない。

    八千代は一臣を支え、自ら育てることは出来なかったが自分の娘・幸代により一臣の孫、つまり信輔の息子たちをわが‘家’にもたらし、わが‘家’に貢献した。そして91歳になり、そう遠くない日に自分の人生を終えようとしている。73歳にもなったとは言え長男である信輔は継母・八千代を良く看なければならないという責任と義務がある。地縁血縁が濃い田舎の地域社会で果たさなければならない義理が、長男・信輔にはあるのである。

2010年10月14日木曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101014)


  八千代が散歩のとき会ったもう一人は、八千代の夫、つまり信輔の父・一臣が就職の世話をした女性だった。

  一臣は定年で校長を辞めた後、中学校を卒業した子供たちを愛知県内のある紡績会社に就職させる世話をしていた。当時田舎の中学校を卒業したばかりの子供たちを都会地の工場に送り込み、自立させるのは大変なことであった。しかし一臣は自分の経験を活かして子供たちに働きながら高等学校に通うことができるようにしてあげたいと考えた。それは一臣が定年後暫くの間、日田林業高校で数学の講師をしていたときに思いついたことであった。一臣の教員免許の教科は「数学」と「理科」であった。

    一臣はその紡績会社が一臣の希望に叶うものであるという確証を得、その会社の現地採用係のような仕事を請け負って玖珠郡内の中学校を回り、就職を希望する子どもたちと面接し、一臣の眼に叶う者を採用して愛知のその会社に送り込んでいた。子供たちは青春の一時期、その会社の社員寮で集団生活をし、働いて収入を得ながら高等学校に通っていた。八千代が会ったのはその中の一人であった。八千代は「あの当時、先生(一臣のこと)には本当にお世話になりました」と礼を申し述べられたと言う。

  八千代は保険の外交員をしていて借金があった一臣のもとに後妻として入った。新たな伴侶を得た一臣は間もなく教職に復帰することができた。それは昭和25年(1950年)9月30日のことであった。但し、教員中途採用の年齢制限があったため、初めの3年間は助教諭という肩書であった。赴任先は玖珠郡内の僻地の小学校であった。

    一臣は八千代と二人の間にできた1歳の子供・亮子の3人は、希望を膨らませて新任地に赴くため又四郎の家を出た。信輔ら一臣の子供3人は又四郎の家に残った。一臣は、自分の安月給ではとても信輔らを一緒に連れて行くことはできなかったし、教育環境としては子供たちが又四郎の家に残る方が格段に良いと考えたからである。信輔らは祖父・又四郎の家で八千代とは1年半ほどしか一緒に暮らしていない。信輔と信直は高校時代まで又四郎の世話になっていた。祖母・シズエが母親代わりをしてくれていた。

  新任地に赴いた一臣と八千代と亮子の家族の暮らしは非常に厳しいものであった。八千代の話によれば、おかずもなくご飯に胡麻塩を振りかけただけの食事の時もあったという。 

    一臣は戦前朝鮮慶尚北道で校長もしていたが、今や若い教諭よりも下の助教諭である。しかし一臣は八千代の内助の功もあってよく頑張り、3年後の昭和28年(1953年)8月1日、晴れて教諭となり、1年半後の昭和30年(1955年)3月1日に校長に補せられている。一臣が47歳になる10日前のことであった。其処に至るまで、大分師範学校の一臣の先輩や同級生らの働きがあったし、妻・八千代の内助の功があったことは言うまでもない。

  一臣は又四郎の長男であったが家督を継ぐことなく、100坪の土地を手に入れ、庭園付きの立派な家を建てた。仏間は親戚が訪れて来ても恥ずかしくない程度に飾り物もして仕上げ、生前に自分の戒名も貰っていて納骨堂内に自分の納骨壇までも準備していた。

2010年10月13日水曜日

小説『母・ともゑ』継母の介護(20101013)


  信輔が湯の平で友達に会って家に戻った翌日、信輔の父・一臣と継母・八千代の間に出来た娘で、信輔にとっては腹違いの妹・亮子が母のことを心配して帰ってきた。亮子自身、夫の実母が入院して寝たきりの生活を送りながら人工透析を受けているため、そちらの方の介護もしている。寝たきりの生活になるまでの間、亮子は義母の介護で大変苦労していた。このたび信輔からの連絡を受け、夫や義母の勧めもあって丁度連休もあるので帰ってきたのである。

  その日はお天気がよく、八千代は退院後の自分の体調回復の為その辺りを散歩したいと思った。午後、いつものように押し車を押して国道に沿った歩道を歩いて行った。八千代はこれまで国道に沿って大分方向に行ったことはなかったが、信輔からある話を聞かされて自分で進んで外出し、そちらの方向に行ったらしい。

    ある話とは、八千代の母・シモが96歳で没する1ヵ月前まで乳母車を押して出掛け、その頃、信輔の妻・幸代と同じほどの年齢であった嫁にはあまり負担をかけていなかったという話である。60歳を過ぎていた信輔が八千代の実家を訪れていたときシモ婆さんは信輔に優しい笑顔を見せながら出かけていた。シモ婆さんは96歳という高齢にもかかわらず婦人会の名誉会長をしていたこともあって、出かければ隣り近所何処でも歓迎されていた。

    八千代がまだ70歳代の頃までは八千代より年上のお仲間が八千代の周囲にはいた。八千代は最年少であったということもあって、当時はお仲間の世話役をしていた。しかし皆既に鬼籍に入ってしまっており、八千代の実母であったシモ婆さんのように出かけて行っては気楽に語り合える相手が八千代の周囲には居なくなっている。居ても足が悪くて簡単には出て来れなくなっている。

    いつもなら八千代は押し車を押し、国道に沿って日田方向に散歩し、スーパーなどの店に入って何か買って帰ってきていたが、そのスーパーも閉店してしまったので初めて反対方向に行ったという。いつもなら30分ほどで戻ってくるのに今度は1時間経っても戻ってこない。信輔が様子を見てこようと出かけるとき丁度亮子が帰ってきた。

    亮子は「お母さんは?お母さん元気なの?」と言う。「お母さんは元気だよ。今押し車を押して散歩に出かけているところだよ。ちょっと様子を見てこようと思う」と信輔が言うと、「私も行くわ」と亮子は自分の荷物を玄関に置いたまま信輔についてきた。信輔は、八千代が今日はいつもと違う方向に行っているだろうと予感していたので、亮子と一緒に大分方向に歩いて行った。すると向こうの方で小さな物がこちらに向かって来ている。「あ、あれはお母さんだよ。押し車を押してこちらに向かって来ている」と信輔が言うと、亮子はそちらをじっと見つめている。亮子は加齢に伴い視力が落ちていて直ぐにはそれが何であるか視認できなかったが、ようやくその小さな物が押し車を押してこちらに向かっている八千代であることが分かった。八千代は今度初めてそちらの方向に出かけて幾人かの人に会い、長話をしていたため帰りが遅くなったのである。その話相手の一人は信輔と幸代が先日初めて会って知己を得ていた新しい民生委員である。信輔と同年輩の婦人である。

2010年10月12日火曜日

小説『母・ともゑ』湯の平温泉(20101012)


  辰ちゃんは「レンズが湯気で湿っているからだ」と言う。信輔はまあこのようにぼやけている写真も悪くないだろうと思って辰ちゃんには「もう一度撮って」とは言わなかった。自分が芳郎君と写っているのがぼやけていてもよい思い出になるだろうと思った。

  湯殿を出るとその渓谷堂本舗のおかみさんが昔田舎で見かけたような綿入りの袢纏を来て椅子に腰かけている。ご主人が「うちのは脳梗塞をやって身体が不自由なんじゃ」と言う。辰ちゃんが「あ、奥さんはうちの家内に似ている!」と言う。そう言えば雰囲気が似ているので信輔も「そうだね。似ている。似ている」という。辰ちゃんはいつも自分の奥さんのことを思っていてまた「どことなく雰囲気が似ている」という。

  話が弾み、渓谷堂本舗の店のほうに足を運ぶ。芳郎君がポケットから煙草を取り出して「これ、いい?」と皆に了解を求める。「どうぞ、どうぞ」と言うと芳郎君は湯殿の方に行き傍のベンチに座ってうまそうに煙草をふかせる。信輔が「10月から煙草も値上げになったね。買い込んだの?」と聞くと、芳郎君は「いや、買い込まなかった、もうそろそろ煙草は止めようと思う」と言う。辰ちゃんがヘビースモーカーの肺臓の写真のことを話す。信輔は「俺のところの長男は医者に通って煙草をやめたよ。会社の方が社内禁煙になったらしい。」と言う。

    渓谷堂本舗の主の商売上手に引き込まれてずっしりしたきんつばの羊羹を買う。1個1000円である。辰ちゃんも買う。芳郎君は町で買えば1300円するという小豆を一袋かった。「明日、洋二郎の誕生日なので赤飯を作ろうと思う」という。売られている小豆は色つやよく大粒で揃っていて品質はなかなか良さそうである。赤飯は奥さんが炊くのであろう。

    渓谷堂本舗のおかみさんは身体は不自由であるが、おだやかな笑顔が信輔の印象に残っている。ご主人の話によれば町までの買い物は息子さんが、このお母さんを乗せて車を運転して連れて行ってくれるのだという。多分大分方面まで買い物に行くのだろう。

  平日のためか、この辺りに2軒あるという食堂は何処も休業である。昼食は辰ちゃんの家がある賀来方向に向かう途中で、何処かに立ち寄って取ることにする。210号線の沿道にラーメン屋を見つけて中に入る。3人とも1杯600円なりのてんこ盛りねぎラーメンを注文する。信輔は塩分の摂取を少なくするため、汁は吸わず具だけ丁寧にすくい上げて食べる。

  途中、鬼が瀬という無人駅に止まる。列車の時刻を見ると20分ほどで1両列車が来る予定である。辰ちゃんらに別れを告げてそのホームで列車の到着を待つ。何処からともなくキンモクセイの香りが漂ってくる。誰もいないホームで山手に向かって白居易の『村夜』という詩を吟じる。真に気持ちが良い。

  やがて列車が来た。この列車は湯布院止まりである。切符は湯の平まで往復買っていたので鬼が瀬から湯の平までの料金を湯布院に降りたとき払った。湯布院で30分ほど特急を待つ。その間駅舎の外にでて町の風景を楽しむ。観光客は左程多くない。お天気は快晴。街中を観光馬車がパカパカひずめの音をさせながら走っている。自動販売機でお茶を買って呑む。湯布院には時々来るが、いつ来てもこの街は良い。信輔は竹馬の友がいる故郷があることを幸せに思う。皆、何れの年にかよぼよぼの爺さんになり、あの世に逝く。