2012年3月20日火曜日


韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(つづき)(20120321)


岩間 弘 著『大東亜解放戦争』から“”で引用。

“この様にして朝鮮と清の事大主義は遠く漢の時代(前一九五年)から、即ち約二千年も以前から続いているのであるが、ここに述べられている様に、李朝になってから益々密接な宗属関係が確立された。

この様に宗属関係が紀元前から更に李王朝になって五百年も続いた時、李朝は明や清の属国として庇護されて来たので国防という事を殆ど考える必要がなくなって行ったと思われる。

国防意識が無くなった時独立国としての意識も当然希薄になって行ったのであろう。その証拠に、第三次日朝協約を結び、純宗皇帝が「詔書」により軍隊を解散した時は僅かに王宮及び首都を守る軍隊が、それもあまり訓練されていない軍隊が約一万人居たのである、これでは国を守ることが出来る筈はない。

国防意識がないという事は国の為に働くという意識も無くなり、人生の目的が自分の立身出世、金儲けに明け暮れ、社会秩序が非常に乱れ、皇帝を取り巻く宮廷もまた腐敗政権であった。

事大主義は強いと思う方へ顔色を窺(うかが)い、ぺこぺこ頭を下げることであり、清についたり、日本についたり、ロシアについたりしたのである。これでは自国に対する誇りを持てなくなり、民心が乱れるのは当然である。

自主独立、それは何よりも外国の力を排除し、自分の力で立つ事である。それには敵が脅迫したり攻めて来たりしても撥ね返し、撃退する力のある軍隊がなければならない。

だから明治三十一年露館播遷より還御した後、折角高宗国王が国号を「大韓帝国」と改め、自らも「国王」を「皇帝」と改め、十月十二日には皇帝即位式を盛大に行い、内外に宣言したのであったが、結局は名称と形式が変わっただけで何も変わらず、尻切れ蜻蛉(とんぼ)に終わって了ったのであった。何故だろうか。

それは事大主義、宋属関係が二千年、李朝になってからでも五百年も続いた為に、自主独立とはどういう事か、どうすれば自主独立国家になれるかという事が全然判らなかったからではないかと思われる。

こう書いて来ると、何だか今の日本に重ね合うような気がして、真に寒心に耐えない思いがする。”

中国の李鵬首相は1995年オーストラリアで、「日本は二十年後には無い」と言ったそうである。毛沢東は、確か、「日本は65年間立ち上がれない」というようなことを言ったと記憶している。
230万人の戦死者を出し、2,525名の20代前後の若い命が航空特攻で失われ、絨毯爆撃を受け、2個の原子爆弾を落とされて一挙に何十万人という市民の命が奪われた末、日本はアメリカに屈した。その結果戦後68か月間、日本はアメリカの占領下に置かれた。
その後も日本はアメリカの強大な軍事力に守られながら今日まで来た。日本の状況は、韓国を併合するまでの大韓帝国(日本が日清戦争で韓国を独立させるまでは李氏朝鮮国)と似ている部分がかなりある。日本人よ、目覚めよ!

韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(20120320)

 金完燮氏『親日派のための弁明』について『大東亜解放戦争』著者・岩間 氏はこう書いている。以下、“”で引用。

 “さて、ここで私は何故に韓国が、併合せざるを得なくなるような情けない国なったかという、本当の原因を考えてみたいと思う。

 それは、今迄も中国を宗主国とする宗属関係と事大主義にあったと言われていることは、私もその通りであると思っているが、私はそれをもう少し突っ込んで宗属事大主義がどうして何故韓国をここまで情けない国にしたのかを考えて見たいと思うのである。

 韓国の歴史を辿れば遠く、紀元前一九五年頃、漢の時代、燕に仕えていた満という人物が徒党千人余りを率いて朝鮮に行き、そこに国を開いた。それが衛氏朝鮮の始まりである。

 後漢代の『潜夫論』からは衛満として登場する。衛満は朝鮮に定着した後、遼東太守との間で漢の外臣となることを約したとある。外臣とは帝国の外において皇帝の臣下となるもので、漢と諸国とが君臣関係で結ばれることになる。実に紀元前から漢との間に宗主宗属関係があったのである。

 歴史は降って李王朝に移ることにする。李王朝の始祖李成桂(廟号太祖(テジョ))は武人で功績を揚げたが、一三九二年七月高麗の高官による都評議使司の決定を得て恭譲王からの禅譲という形式を整えて、王位に即いた(在位一三九二――九八)。そして直ちに永年の慣例に倣って明に使節を送り国王交替の承認を求めた。この時の国号は高麗を踏襲し、肩書も「権知高麗国事」といういわば仮の国王であった。

 この年の冬、明が国号の改定を問題にしたので、太祖政権は「朝鮮」と「和寧」の二つを候補として明に打診、明は「朝鮮」を由緒あるものとして勧め一三九三年朝鮮という国号が決まった。

 一三九五年に都を開城(ケソン)から漢城(ハンソン)(現ソウル)に定めた。しかし、大租は相変わらず「権知国事」のままであり、明から正式に誥命(こうめい)(辞令書)との印章の伝達を受け、正式に朝鮮国王に任命されたのは 一四〇一年第三代の太宗のとき恵帝建文帝によってであった。靖難(せいなん)の変で即位した成祖永楽帝も国際環境の安定を望み、一四〇三年には誥命と印章を伝達した。

 この正式の任命で、王氏高麗から李氏朝鮮へという易姓革命(えきせいかくめい)が、名分のうえでも成就するとともに、朝鮮は以後、中国(明、清)を中心とする当時の東アジアの国際秩序である宗属関係の中に組み込まれた。

 朝鮮は君臣関係を結んだ宗主国に朝貢して正朔(せいさく)を奉じ(歴、年号の使用)、朕、詔、陛下、太子、後宮、京師、上奏など皇帝にかかわる用語を使用しないといった事大(じだい)の礼をとることで、善隣友好関係の維持をはかった。(武田幸男編『朝鮮史』山川出版社)

 ここで明治八年の江華島事件の発生の原因は遠く一四〇三年の第三代太宗の時代に遡ることが判るのである。” (続く)

2012年3月19日月曜日


韓国併合(七)韓国人金完燮氏の『親日派のための弁明』(つづき)(20120319)

 “この本の丁度日露戦争から韓国併合を書いている時、韓国人の金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』が草思社から発売になった。早速買ったが、私はこれを読んでしまうと金氏の考えが入るかもしれないと思い、しばらく読まずにそのままにしていた。そして韓国併合の原稿を書き終えたところでこの本を読ませて頂いた。

そこには金完燮氏が韓国内から激しく非難されるであろう事を大胆かつ率直に書いて居られる事に驚いた。もっともこの本は韓国内では発売禁止になったそうである。そしてその勇気に心から敬意を表するものである。そして私が、韓国に対して考えている事及び私が書いた事が殆ど同じ内容であった事を嬉しく思った。

しかしその中で特に注目したのは日本語版への序文の中で、「ところで韓国人にはなぜ反日感情が強いのでしょう。……つまり、こんにちの日韓関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです」というところです。面白い見方であると思った。そしてこの本の主張する核心が序文に書いてあった。即ち、

「私たちは歪曲された教育によって、韓日保護条約(一九〇五年)と韓国併合(一九一〇年が強圧によって締結されたものであると信じているが、事実は全くちがう。日本と合併することだけが、朝鮮の文明開化と近代化を達成できる唯一最善の道であった点については、当時朝鮮の志ある改革勢力のあいだに暗黙の合意があったと思われる。

この大韓帝国内部の強力な世論にしたがい、日本が合法的な手続きを経て統治権を摂取したとみるのが妥当ではないだろうか。

そのもっとも有力な証拠が一九〇四年に結成された【一進会(イルチンフェ)】である。この団体が我が国の歴史上初の近代的な大衆政治組織であり、【東学(トンハク)】(一八六〇年ごろおこった民間宗教)と【独立教会(トンニプヒヨツペ)】(一八九六年に組織された政治結社)が連携して、朝鮮王朝と旧守勢力を倒し、日本と連携して文明開化という時代の要請、つまり朝鮮革命を成し遂げるために結成された。

しかしこのような事実は韓国社会では徹底して隠蔽(いんぺい)され、韓国政府は一進会について、日本が少数の親日派と糾合して結成した【御用エセ団体】と歪曲して教えている。

「……こんにち韓国で一進会を【親日団体】だと非難し、かれらに危害を加えた反動暴徒を義兵と褒めたたえることは、歴史を逆さまに解釈する過ちといえる」

何と素晴らしい発言であろうか。韓国や中国に謝罪発言を繰り返して来た日本の歴代総理に是非読んでよく考えて頂きたいものである。”

2012年3月18日日曜日

J.Crew, Tsunami, Sea of Japan, and Korean Ethnocentrism

Endangered Japan: Book2: Sex, Lies, and Comfort Women



"Comfort women", promoted by the South Korean governor is foolish acts.
It is not good at all because of South Korean itself.
The act damages Koreans' honor.

「慰安婦」、韓国政府によって促進されている宣伝は愚かな行為である。
それは、韓国人それ自身の為にも全くよくない。
その行為は韓国人の名誉を傷つけるものである。

韓国併合(七)韓国人金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』(20120318)

 韓国にも併合の歴史について正しく認識しようとする動きがあった。ところが、度々言うが、【韓国政府の「国家」】、言うなれば韓国為政者側組織体の「国家」は、自ら存続しようとする意思があって、その「国家」の一組織である反日工作組織VANKを使って盛んに反日プロパガンダを展開し、韓国併合は日本の侵略であるとキャンペーンを行っている。これは韓国の一般「国民」の動きとは別のものである。

 万物が「自存力」を備えているように、いかなる「国家」といえども自ら生き残ろうとする「自存力」を備えている。日本という「国家」でも同様である。ただ、日本の場合、「国家」と「国民」の間には一体感がある。日本国は天皇を家長あるいは宗家としているような「日本一家」の「国家」である。そこが田の「国家」とは違う。

 そのような日本の力を弱めたくて「反日工作」を含むあらゆる手段を講じて行動しているのが【中国共産党「王朝」の「国家」】や【韓国政府の「国家」】である。それは中国や韓国の「国民」一般の本当の気持ちとは別のものである。日本はそのような「反日工作」組織に対抗する組織を立ち上げ、対処すべきである。

明治維新後、日本も韓国も今の中国の「国家」や韓国の「国家」のように「生き残る」ため必死であった。白人諸国をアジア侵略から駆逐しなければ生き残れないと思った。日本は「生き残る」戦いに敗れたが、結果的に白人諸国をアジア侵略から駆逐することができた。今、再び必死にならないと今度は今の中国の「国家」や韓国の「国家」に侵略されるだろう。現にその兆候が表れている。日本は呑気に構えているべきではないのである。
引き続き岩間 弘著『大東亜解放戦争』(創栄出版)から“”で引用する。

“この本の丁度日露戦争から韓国併合を書いている時、韓国人の金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』が草思社から発売になった。早速買ったが、私はこれを読んでしまうと金氏の考えが入るかもしれないと思い、しばらく読まずにそのままにしていた。そして韓国併合の原稿を書き終えたところでこの本を読ませて頂いた。

そこには金完燮氏が韓国内から激しく非難されるであろう事を大胆かつ率直に書いて居られる事に驚いた。もっともこの本は韓国内では発売禁止になったそうである。そしてその勇気に心から敬意を表するものである。そして私が、韓国に対して考えている事及び私が書いた事が殆ど同じ内容であった事を嬉しく思った。

しかしその中で特に注目したのは日本語版への序文の中で、「ところで韓国人にはなぜ反日感情が強いのでしょう。……つまり、こんにちの日韓関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです」というところです。面白い見方であると思った。そしてこの本の主張する核心が序文に書いてあった。即ち、

「私たちは歪曲された教育によって、韓日保護条約(一九〇五年)と韓国併合(一九一〇年が強圧によって締結されたものであると信じているが、事実は全くちがう。”(続く)

2012年3月17日土曜日


韓国併合 韓国皇帝の勅諭(つづき)(20120317)

 日本は決して朝鮮半島を侵略したのではない。このことを全ての日本人は明確に認識する必要がある。

その上で、国民を政府に結びつける手段として反日・抗日のプロパガンダを推進している中国や韓国・北朝鮮の為政者側の組織、(私はこれを‘中国共産党「王朝」の「国家」’、‘韓国政府の「国家」’、‘北朝鮮金王朝の「国家」’と定義する)に対して、日本国は強い手段で対抗し、一方で中国や韓国・北朝鮮の国民とは十分な意思疎通を図るような方策を講じなければならない。

要は、彼の国々の「国家」と「国民」とを分別して対処することである。これらの国々でも人民は自分の国のことを「わが国」というがそれは為政者側の組織、彼らの言う「国家」によって指導された結果そういうのであって、日本のように「国家」と「国民」との間に一体感がないのでる。引き続き『大東亜解放戦争』から“”で引用する。

 “前にも述べたがアメリカ人で韓国の外交顧問であったスチーブンスが明治四十一年三月サンフランシスコで記者会見し、第三者の公正な目で見て、「韓国の王室と人民に独立の資格はなく、日本に統治させなければロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」と言ったのである。
 この為彼は暗殺されたが、純宗の苦悩と悲しみも全く同じ考えから出たもので、考えに考え抜いて日本との併合を条約によって決めたのであり、侵略でも植民地でも無かったのである。

 若し日本が日清、日露戦争を行わず、韓国併合も行わなかったならばスチーブンスの言った如く一〇〇パーセントロシアの侵略を受け、植民地或いは衛星国となって朝鮮半島全部が今の北朝鮮のような国になっていたであろう。

 私は少なくとも韓国の人達がこの事に目覚めて(北朝鮮は金正日の独裁主義国家であるから言っても届く筈ないから別にして)日本の韓国併合は最善の道であった知ったならば、反日・抗日どころか逆に良かったのだと感謝してくれてもよいのではないかとさえ思っている。” (続く)

2012年3月16日金曜日


中国軍幹部が衝撃発言!日本の領土“尖閣”を武力で強奪(20120316(特別))

 関連動画「羅援少将:尖閣諸島を演習地区に設定(2012-03-07)」参照。

 中国共産党「王朝」の「国家」は、自らの組織の「自存」のため、中国「国民」をその「国家」に惹きつける必要に迫られているようである。

そのためか、最近、中国の準海軍的公船が我が国の尖閣列島周辺で領海侵犯もしながら挑発的行動に出ている。

中国共産党「王朝」の「国家」は、尖閣列島で武力的紛争を起こし、わが国が「領土問題」としているものを「外交問題」に格上げすることを狙っている。

その行動は、中国共産党「王朝」の「国家」が「永久不変の意思」として記述されている「中国共産党綱領」に基づいているものでると考えられる。

野田政権は、総力を挙げて、わが国の防衛と外交に重点をシフトすべきである。油断大敵、かつての帝政ロシアのように鷹揚に構えていては、「生き残る」「自存」のため必死な中国共産党「王朝」の「国家」に負けるだろう。取り返しのつかないことになるだろう。
 
以下は、ジャーナリスト・仲村覚氏投稿【夕刊フジ掲載】の記事の一部である。
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中国がまた、沖縄・尖閣諸島に対する野心をあらわにした。中国人民解放軍のシンクタンク、軍事科学院世界軍事研究部元副部長で、中国軍事科学学会常務理事・副秘書長の羅援少将が今月初め、テレビ番組で尖閣諸島の中国領有を主張したうえで、尖閣周辺で「軍事演習を行う必要がある」と断言したのだ。武力による尖閣強奪の示唆。民主党政権に領土を守る覚悟はあるのか。

 衝撃の発言は、6日、深●(=土へんに川)衛星テレビの「軍事情勢生中継室」という番組のインタビューで披露された。

 羅少将はまず、「釣魚島(尖閣諸島の中国名)が、われらの島礁であるからには主権を行使する」と宣言。さらに、「われらの軍用機、軍艦は適切なタイミングで魚釣島附近へ到着する必要がある」「日本がもし釣魚島に強行上陸をするなら中国は強行軍事手段を採ることができる」と続け、「釣魚島附近で軍事演習を行う必要がある」と語ったのだ。

 この発言は、動画投稿サイト「ユーチューブ」などでも確認できる。

 政権交代以来、民主党政権は領土に関して、中国やロシア、韓国に押され続けてきたが、2日、日本の排他的経済水域(EEZ)の基点でありながら名称がなかった39の離島に付けた名称を公表した。やっと、日本の主権を示した。

 これに対し、中国政府は翌3日、尖閣諸島の周辺を含む71の島に命名したことを公表。羅少将の発言は、さらに踏み込んだ強硬措置といえる。

 尖閣周辺での軍事演習にまで言及する中国に、日本はどう対処すべきか。

 沖縄・南西諸島地域の領空を守る航空自衛隊南西航空混成団司令を務めた佐藤守・元空将は「北京五輪(08年)以降、中国は『尖閣諸島を手に入れる』という方針に変わった。私は、羅少将と国際会議でやり合ったことがあるが、中国の本音を代弁している」といい、こう続ける。

 「今年、中国と台湾の漁民が大挙して尖閣に上陸する計画がある。『漁民に偽装した軍人を、中国海軍をバックに上陸させる』という情報もある。羅少将の発言は、日本政府がどう反応するか様子を見ているのだろう。野田佳彦首相は毅然として『自国領土を守る』という姿勢を見せなければならない。在日中国大使を呼びつけて断固抗議すべき。そのうえで、海上自衛隊に『万全の備えをしろ』と指示し、米国との連絡を密にすべきだ」

 日本人は現実を直視すべき時代を迎えている。(ジャーナリスト・仲村覚)

羅援少将:尖閣諸島を演習地区に設定(2012-03-07)


韓国併合 韓国皇帝の勅諭(20120316)

 “「皇帝若(ここ)に曰く朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以降今日に至るまで維新政令に丞図し備試し、未だ曾て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望無し。中夜憂慮善後の策茫然たり。此に任し支離益甚だしければ終局に収拾し能はざるに底(いた)らん。

 寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せしむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廓然として自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依仰したる隣国日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を鞏固(きょうこ)ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。

 惟(ただ)爾(なんじ)大小臣民は国勢と時宜を深察し煩擾(はんじょう)するなく各其業に安んじ、日本帝国の文明の新政に服従し幸福を共受せよ。

    降熙四年八月二十九日     御璽」

 この勅諭は純宗の名前の如き純なる真心が伝わって、「疲弊極処に至り、憂慮善後の策茫然たり」と書かれ純宗の深い悲しみが詠む人の心を打つのである。しかし今や最善の方法は韓国を日本国皇帝(天皇)陛下にお譲りし民生を保全ならしめることである。私は国民のことを忘れたのではない。国民が救われ楽しく生活することを願っている私の心を理解してほしい。と述べておられて涙なくしては読めない勅諭であります。

 戦後、韓国及び北朝鮮の人々は、日本は侵略して植民地にしたと言って今も。反日、抗日を唱えている人が殆ど大多数であるが、併合は最も良い最善の方法であり、これしか方法がなかったのである。”(以上、『大東亜解放戦争』より“”で引用) (続く)

 併合後、日本がどれほど多くの資金を韓国の民生安定のため投入したか、このことについては39日にこのブログでリンクした動画、松木国俊先生の講義で詳しく説明されている。

戦後日本人が刷り込まれた自虐史観も悪かったが、韓国・北朝鮮の人々(在日を含む)も歴史を正しく認識することが重要である。日本を「敵」に仕立て、物語を歴史のように捏造し、反日工作に余念がない韓国政府は、また自ら自国を誇りのない国に導いているとしか思えない。

勿論、併合には負の遺産は非常に大きいものがあったことは確かである。日本が戦争に負けたこと、多くの韓国・北朝鮮人も日本人として戦地に赴き犠牲になったこと、日本人の間に朝鮮人を見下げるような風潮があったことなどは、明治以降の日本の指導者たちが併合時の初心を忘れたため起きたことである。この点は日本人も深く反省しなければならない。

それでも非常に多くの日本人たちは朝鮮人を愛し、朝鮮の文化・文明の向上のため尽力してきたことだけは確かである。

最後の朝鮮国王・李根に嫁いだ日本の皇族・皇族・梨本宮守正王の長女・方子女王は朝鮮王妃となり、戦後は韓国に帰化し、李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児(主に知的障害児・肢体不自由児)教育に取り組んだり、趣味でもあった七宝焼の特技を生かしてソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回って王朝衣装ショーを開催する等して障害児教育のための資金を集めるなどして、日本と韓国の間の懸け橋としての役割を果たされている。

2012年3月15日木曜日


韓国併合(六)安重根の伊藤博文暗殺(つづき)(20120315)

 韓国政府「国家」。‘韓国’とだけ言わず、わざわざ‘韓国政府「国家」’と言うのは、同じ「国家」でも、日本の「国家」と韓国の「国家」が全く違う性格のものであることを、日本国民はあまり意識しないところに今日の日韓の埋めがたい溝の原因になっていると思うからである。

多くの日本人は‘韓流’を、その‘韓国政府「国家」’が日本に対して仕掛けているワナであることを意識せず、ただ面白いから・楽しいからと喜んでいる。そして多くの日本人は、韓国に親しみを感じているが一方の韓国では日本に好感を持っていない人々が圧倒的に多い。それは、‘韓国政府「国家」’が韓国国民をその「国家」に統合させるための策謀により起きている現象である。

 日本には天皇がいて日本の「国家」と「国民」は一体的なものである。ところが韓国ではそうではない。‘韓国政府「国家」’が真剣に努力しない限り、韓国国民は「国家」と一体感を持てない。しかし、明治時代、韓国は日本と同様な性格の「国家」になる絶好のチャンスがあった。にもかかわらず、安重根の間違った行動によりその芽は押し潰された。

 ‘韓国政府「国家」’が日本に対してどういうことを密かに行っているかについて知ることができる動画を次ページに紹介することにして、引き続き『大東亜解放戦争』より“”で引用する。

 “明治四十三年(一九一〇年)八月二十二日皇帝は八か条の合併条約に調印し、八月二十九日、両国で同時に交付された。次に第三条までと第八条を記載する。
第一条   韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を、完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与する。
第二条   日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し、且全韓国を日本帝国に併合する事を承諾す。
第三条   日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下、皇太子殿下竝(ならび)に其の妃及後裔をして、各其地位に応じ相当たる尊称、威厳及名誉を享有せしめ、且之を保持するに十分なる歳費を供給することを約す。
 第八条 本条約は日本国皇帝陛下、及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す。
  右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
             明治四十三年八月二十二日
                   統監 子爵 寺内正毅
             降四年八月二十二日
                   内閣総理大臣 李完用

こうして韓国は日本に併合されたのであるが、韓国の純宗の胸中は如何ばかりであっただろうかと思うのである。
ここに併合を告げる純宗皇帝最後の「勅諭」を原文(日本語訳)で記述する。原文の方が純宗の気持ちが伝わるからである”(以下、明日投稿) 

2012年3月14日水曜日


韓国併合(六)安重根の伊藤博文暗殺(つづき)(20120314)

 引き続き岩間弘著『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。

“「伊藤公遭難について韓国宮中の模様」と題する若林警視総監の報告によれば、大皇帝(高宋)は次のように語っております。

「公はわが国に忠義正義をもって臨み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。実に伊藤はわが国の慈父である。……」(十月二十七日)

「伊藤を失ったことは、わが国と言わず、日本のみならず、東洋の不幸である。日本の天皇は唯一の重臣にして大師の伊藤をなくされた。それなのに伊藤を害した凶徒を出した国の皇太子を、あくまでも輔育する誠意を見せた。山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」(明治天皇が、韓国皇太子の輔育の後任に、岩倉侯爵を命ずる勅語を出された報を聞いて、十月二十八日)(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

伊藤博文としばしば対立した高宗に「……実に伊藤はわが国の慈父である……」と言わしめ、「……山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」の言葉は高宗の真実の言葉であろう。この言葉を今の韓国の金大中大統領も国民もよく考え味わって貰いたいと思う。

また、李容九は伊藤博文暗殺さるの報を聞いて耳を疑い「韓国を滅ぼすのは天か」と長嘆息をした。十一月四日、伊藤公の国葬の日、一進会は「独立館」で追悼会を催した。

伊藤博文が暗殺されると日本国内に韓国併合論が高まり、合併に反対していた曽彌統監は更迭させられ、後任に寺内正毅(てらうちまさたけ)が就任すると一挙に合併に進んだ。”
(続く)

 韓国の純宗皇帝のとき皇太子であった李王根(李根の敬称)は、大韓帝国初代皇帝・高宗の高宗の第七子である。皇宗がハーグ密使事件で皇位を純宗に譲り、純宗の異母弟である李根が大韓帝国皇太子になった。

大韓帝国は日本が韓国を「自主の邦」にするため当時の李王朝と合意の上建てた国家であった。李王朝(李氏朝鮮)は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝であり、高麗の次の王朝である。その高麗王朝は、918年に王建(太祖)が建て、1392年まで続いた王朝で王氏高麗とも呼ぶ。王氏高麗以前も含め、朝鮮半島の各王朝はシナの皇帝の冊封下にあった。そのシナの清朝を滅亡に追い込み、朝鮮をシナの支配から解放して「自主の邦」にしたのは日本であった。

 その「自主の邦」に育て上げるべく命を懸けて努力していたのが伊藤博文であった。その伊藤博文遭難の後、明治天皇の命により岩倉侯爵がその輔育にあたった。

 李王根は日本で、学習院・陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校の教育を受け、帝国陸軍歩兵第59連隊長などを歴任し、陸軍中将になった。日本の皇族・梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚し、純宗薨去後李王家を継承したが、李王家は途絶えた。

 日本人はもとより、韓国・北朝鮮人も在日韓国・北朝鮮人も、大韓帝国成立までの経緯や大韓帝国が韓国併合により消滅後も、李王家が日本で以下に大事にされていたか知るべきである。王家は国民統合の象徴であったのだ。

 今、韓国は、譬は良くないが中学校の生徒会長を選ぶような方法で大統領を選び、その大統領の親族が汚職で摘発されたりしている。韓国の「国家」は、そのよう大統領の行政のための「国家」のようである。もし、韓国に日本の天皇のような国民統合の象徴があれば、韓国の「国家」は日本の「国家」ともっと近い関係になっていたであろう。

2012年3月13日火曜日


韓国併合(六)安重根(あんじゅうこん、アンジュングン)の伊藤博文暗殺(20120313)

 “伊藤博文は日露間に協調路線を築く必要を感じロシアのココーツォフ蔵相とハルピンで会談する為、明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、ハルピン駅に到着した。九時二十五分ココーツォフが整列した人達を紹介した後儀仗兵を閲兵しているとき、伊藤の二メートルの距離まで接近した安重根はピストルを発射、七発中三発が腹部と胸部に命中した。伊藤は「ヤラれた。三つばかり弾が入ったようだ」「何者か、森もやられたか」と問い、やがて言葉が通じず、午前十時に落命(六十八歳)した。衝撃は日本国内を走っただけでなく全世界を驚かせた。十一月四日、日比谷公園で国葬の礼をもって弔われた。

 伊藤博文が暗殺されたことに対する世界の反応は、すべてその死を悼み偉大だった伊藤博文の功績を讃えるものであった。

 安重根が伊藤博文の暗殺を行ったのには次の様な事件があったのだった。

 明治四十一年(一九〇八年)三月彼にとって刺激的な事件が知らされた。韓国の外交顧問であったドーハム・スチーブンスが帰米した時、サンフランシスコで記者会見してつぎのような発言をしたのです。

 「韓国の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚昧(ぐまい)に過ぎる。これでは独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」

 これを三月二十二日の新聞で知ったサンフランシスコ在住の韓国人・張仁煥(チョウジンカン)らは激高して、スチーブンスの所に押しかけたが、彼は発言を撤回しません。翌日スチーブンスはワシントンに出発するため駅に出かけました。そこを狙って張はピストルを連発して射殺しました。それを知った安重根は、スチーブンスは日本の傀儡でしかない。彼を操っているのは、伊藤博文である。伊藤こそ撃つべきだと決意するようになったのです。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

 安重根は、韓国に対する日本国内の強硬派を伊藤統監が抑えて、あくまでも併合に反対し、韓国の保護育成に力を注いでいる事などに対する認識がなく、本人はウラジオストックに住んでいて伝聞に基づいて、日本憎しとのみ考えて、その中心人物を殺害することによって、その怨みを晴らそうとしたのであった。

 彼は検察官の尋問に対して、伊藤博文の十五の犯罪と称するものを列挙しているが、それは全く安重根の誤った認識であり、情報不足、勉強不足によるものであることが、名越二荒之助著「日韓二〇〇〇年の真実」の中に詳しく書かれているが、紙面の都合上省略させて頂くことにする。

 安重根は伊藤博文を韓国侵略の元凶と考え、義兵闘争でゲリラをやるよりも直接射撃による暗殺を敢行したのである。その結果は彼が願っていた事と正反対の韓国併合へと進んでいったのである。伊藤統監暗殺は韓国にとっても非常に深刻であった。” (続く)

2012年3月12日月曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(つづき)(20120312)

 “皇帝は伊藤総監と会い、「ハーグへの密使事件は自分の知らないことである。内閣は退位を要求しているが、それは不当だと忠告してほしい」と懇願しました。それに対して伊藤は、「陛下がいかに弁明されても、証拠はすべて臣(伊藤自身)の手中にある。この事件は欧米も知っていることだからどうすることもできぬ。退位問題は韓国自身のことであって、自分は関与できない」と答えるだけでした。

 十八日、第三回の御前会議が開かれました。その時、宋らは、譲位を勧告しても聞き入れられない時は、一死あるのみ、として何人かの閣僚は拳銃を用意して臨みました。会議が開かれ、各大臣が譲位を勧めても、高宗は、「譲位するくらいなら死んだ方がましだ」と答えるのみです。そこで宋は進み出て声を張りあげました。

 「それではお願いだが、死んでいただきたい。陛下が死なれれば国と王室は生きるであろう。もし陛下が死なれなければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国に何の益にもならない。しかし陛下が死なれれば国家社会は救わる。どうぞ死んで頂きたい」 かくして皇帝はやっと第二子坧(せき)(純宗)に譲位しました。

 皇帝をそこまで追い込んだ宗秉畯のすさまじいばかりの迫力には驚くべきものがあります。彼の執念に似た気迫はどこから出るのでしょうか。(中略)

 彼は金玉均に繋(つな)がり、ほぼ十年間にわたって日本各地を巡歴(じゅんれき)しています。妻は日本人であり、日本を知悉(ちしつ)しています。

 それに東亜の大局を見、どうにもならなくなった韓国の国民生活と宮廷の腐敗を立て直すには、日本に接触して刺激を受け、協力するしかないという燃えるような信念を持っていました。日露戦争にも協力し、李容九を会長とする一進会を組織し(一時、百万人の勢力を自称)死地に身を投ずること十数回、波乱万丈の生涯を貫きました。

 現在の韓国では、宋秉畯は、李完用、李容九等と共に、売国奴の筆頭に挙げられていますが、その動機は憂国の至情に発していることを否定できないのです。これら親日派を売国奴と呼ぶなら、親清、親露路線を歩んだ人々も同じ売国奴でありましょう。それよりも韓国にとって大切なことは、当時国際情勢の厳しさを弁(わきま)えず、事大主義に陥って国論が分裂し、国家としての対応ができなかったのは何故か、その点こそ追及すべきでありましょう。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』

(五)軍隊の解散と義兵闘争

  高宗から純宗へ遂に譲位式が行われた明治四十年(一九〇七年)七月二十日暴動が各地に起った。救国を目的とした民衆の自発的な武力闘争を韓国では義兵と呼ぶ。当日は李完用首相の自宅も焼き打ちされた。しかし伊藤統監は七月二十四日韓国政府との間に第三次日韓協約を結び、行政と司法の分離を定め、続いて純宗皇帝の「詔書」により韓国軍隊が解散させられた。

  当時の韓国軍は軍隊内に両班(ヤンバン)(貴族)制がそのまま生きていて、命令が伝わらず、とても規律ある軍隊ではない状態であったので傭兵制度を廃止して徴兵制度を実施する為に一旦解散を決めたのであった。その当時の韓国軍は一万人であった。その解散させられた軍隊が義兵と合流し、義兵運動は武器と組織を得て各地で激しい抗日運動を展開した。

  資料によれば義兵闘争には韓国軍の実態を知っている旧将校は殆ど加わらず、戦闘行動を知らない民間の儒者や下士官が中心であった。

  彼らは自ら「義兵」と称して日本人警察官や一進会会員を狙い特に一進会会員は断髪していたため狙われ易く、一年間に九百六十六人が虐殺されたと言われている。

  やがて義兵の中には盗賊まがいの行動を起こす集団も出てきて民間で「自警団」が作られる始末で、義兵闘争は約四年間で終息した。武装義兵約十四万、日本軍との衝突回数は二千八百回、死亡した義兵は一万四千名以上に上がったと言われている。” (続く)


2012年3月11日日曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(20120311)

 “明治四十年六月、オランダのハーグで開かれた「万国平和会議」に皇帝は三人の密使を送り保護条約の無効を訴えようとした。しかし保護条約はすでに各国に通知されていたので、ロシア代表の平和会議議長は、韓国に外交権が無いからと密使の出席を拒否した。

この事件は当然日本に知れて、その真意を皇帝に質すと、皇帝は例によって「その様な命令はした覚えはない」と否定した。この事件が報道されると、伊藤の軟弱政策の失敗を衝き一挙に合併すべしとの世論が上がった。さすがの伊藤も自分の真意を裏切る行為に激怒し「日本は韓国に対し宣戦布告する理由がある」とする抗議文を韓国政府に提出した。(以下名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』より)

 それを受けて七月六日より皇帝を迎えて午前会議が開かれました。農商工部大臣宋秉畯(ソウヘイシュン)は勇気を振るって皇帝に詰め寄りました。(この会議の模様は田端元氏の『東亜先覚士伝・中』・韓相一『日韓近代史の空間』等に詳しい。)

 「伊藤総監は決して韓国を奪おうとしているのではない。……彼の欲心といえば、貧弱な我が国を扶けて日本のようにしたいだけである。それに対して陛下は日本の善隣を破るために一億からの金を費やされた(ハーグへの密使派遣を指す)。この巨額の資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった。……これまで陛下が日本の信義に背かれた事十三回、事実が暴露されれば必ず、知らずと言い、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るが如きであった。今や新聞事件(英人トマス・ベッセルが発刊する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する新翰が掲載)を合わせて十五回目の背義に及ぶ。ただ伊藤総監が寛容の心を持って陛下の悔悟を待つ態度をとっているにすぎない。

 今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし統監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるどうか」

 彼はこの様に切々として直言しました。すると皇帝は、
 「それではどうせよと言うのか」
 「およそい二つの方法がある。一つは日本の行幸をして、親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝するか。さもなくば日本との開戦しかない」

 それを聞いて皇帝は激怒し、「お前のような男を重用するのではなかった」と捨台詞(すてぜりふ)を残して奥へ入ってしまいました。

 その後何回か閣議を開き、宋は閣僚に対して、「今回の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍いではないか。退位して謝罪して貰うよりほかはない。陛下と国家とどちらが重要か」と迫りました。

 李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うよりほかはない。それが王室を守る道である」と考え、その旨を皇帝に上奏しましたが、皇帝は聞き入れません。

この御前会議の模様が外部に伝わり、「李内閣は乱臣賊子の団体で、宋秉畯はその巨魁である。彼を斬るべし」という声が起き、首都は騒然となりました。”       (続く)

2012年3月10日土曜日


韓国併合(三)伊藤博文 初代統監の真意(20120310)

 “保護条約が締結されると、伊藤博文が初代の韓国統監となり、翌年の明治三十九年(一九〇六年)三月二日に着任しました。

 彼は明治四十二年六月まで統監の地位にありましたが、指導方針は一貫して韓国を近代的独立国家として育成することにありました。約三年に及ぶ統監時代、施政改善に関する協議会を閣僚との間に持つこと九十七回、皇帝に上言すること二十二回に及びました。

 現在、韓国の教科書は、伊藤博文を「韓国侵略の元凶であり、大陸侵略の推進者」と書き、千円札に博文の肖像画が登場した時には、韓国から抗議の声があがったことがあります。しかし彼は韓国を併合することには反対であり、彼の政策は、日本国内では「韓国本位にものを考え過ぎる」として不評を買った程です。彼は統監としてどんな態度で臨んだのか。明治四十年五月二十八日、統監府の課長以上の幹部(日本人)に対して次のように訓辞しています。

 「苟(いやしく)も数千年の歴史と文明とを有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論(当時の日本国内の韓国併合論のこと)に賛成せず、またわが陛下の御思召(おぼしめし)も決してそうではない」

 また同年の五月三十日には、李完用内閣に対して、次のように叱咤しています。

 「凡(およ)そ国家は自ら独立するの要素なくして単に他国のみによりて立ち得るものに非ず。今日の如くして進まむか、夫れ韓国を滅するものは他国に非ずして韓国自身ならむ乎。故に諸君は反復裏表なく専心一意韓国の為に謀らざるべからず。自分は諸君を助け、韓国をして自立せしめ得る様尽力しつつあり、然るに韓人は日露戦争の如き大激戦を目撃するも尚覚醒せざるは何事ぞや」

 「日本は朝鮮の独立を望み、彼の条約(保護条約のこと)を締結せり。故に韓国を強いて独立国なりと言わしめたるは日本なり。……日清の役(えき)にて韓国は清国の羈絆(きはん)(束縛)を脱したり。ロシアの、手を韓国に伸ばすや、之を拒まず、韓国の独立を謀る者は却って之を嫌悪し、遂に日本をして韓国のために露国と干戈相見るのやむなきに至らしめたり。故に今日外交権を日本の掌中に収めるは当然なり。何となれば之を依然として韓国の手に存せんか、韓国はいつまでも列国の競走場となり……それ韓国を滅するは他国にあらず、内外の形勢を察知せず、無謀軽挙を事とする韓人なり」

 ここに明治以来我が国が韓国に対して採ってきた政策の基本があります。…(中略)…
 にも拘わらず、それより三年後の明治四十三年(一九一〇年)、日本は韓国を併合してしまいした。何がそうさせたのか。ここに日韓領国にとって大きな教訓が秘められています。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』より。…(中略)…

 韓国は…(中略)…伊藤博文は韓国が自主独立国になることを願って真剣に指導していることをよく理解して、日韓が友好国になることを願うなら反日を煽る言動は止めて貰いたいものである。”                          (続く)

2012年3月9日金曜日

朝鮮に投じた日本の血税63兆円:資源を奪ったなど・①松木国俊AJER2012.3.1(3)

収奪されたのは日本人だった:大局から見た日韓併合②松木国俊AJER2012.3.8(2)


韓国併合(二)日韓保護条約の締結(20120309)

 「韓国併合(一)一進会(つづき)(20120307)」続編。当時の韓国には①「国家」は憲法に定めるところにより運営される、②「国家」は国民の代表者による議決に基づき運営される、③「国家」の運営には権力を掌握している個人または集団の意思が反映される、の三つのうち①と②はなく、③のみであった。

 今60歳代前後の人たちの中には「ロシアの南下を防ぐにあたり日韓両軍で対処すればよかった」という趣旨のことを口にする人がいるが、その人たちは明らかに自虐史観で洗脳されている人たちである。アメリカの戦後政策によりマインドコントロールされている人たちである。

以下再び『大東亜解放戦争』から“”で引用する。
“この条約を締結するために特命全権大使として明治の元勲伊藤博文が任命されました。彼は明治天皇の親書を持って、明治三十八年十一月四日韓国に出かけました。

 親書の一部には、

 (貴国は不幸にして国防を未だ備(そな)わらず、自衛の基礎未だ固からず、為に従来往々にして東亜全局の平和を確保するに足らざりしは、朕の遺憾とする所なり。故に去歳両国間に協約を訂し、以て貴国防衛の責務を帝国に担任するに至れり。今や幸いに平和は克復せられたりと雖も、之を恒久に維持し、将来事件を起こさない為、両帝国間の結合を一層鞏固ならしむること極めて緊要なりとす。)とあります。

 伊藤博文は明治天皇の意を体して、韓国皇帝に最初四時間に亘って誠意をもって陳奏しました。

当時の韓国には皇帝の任命する内閣はありましたが、議会がなく、いわば皇帝の専制国家でした。しかし韓国国内には保護条約に反対する不穏な空気があり、日本軍は王宮前の街路で武力による示威運動を行い、条約を締結するよう圧力を加えました。

伊藤全権は閣僚を個々に説得し、十一月二十七日には皇帝の加わった御前会議が開かれました。御前会議では、日本側の提案を拒絶する線が打ち出されました。頑強に反対するのは首相の韓圭せつ(かんけいせつ、‘せつ’咼の上に‘ト’ が付いた文字。)です。伊藤全権は首相を説得し、全閣僚の出席を求め、一人一人の意見を求めました。

閣僚の五人は「一応協約を締結することによって韓国の国体を護持し、力を蓄えるよりほかない」として賛成しましたが、首相他二名は反対に回りました。全権は最終的に皇帝の意思を尊重し、「韓国ノ富強ノ実ヲ認ムルニ到ル迄」約定する旨を書き入れ、遂にまとめました。

その経過は「朝鮮の保護と併合」(大正五年、朝鮮総督府)という当時の極秘資料の中にまとめられていますが、これを読めば伊藤博文の外交的凄腕に、さすが明治の元勲だけある、と感嘆させられます。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』(名越先生の筆跡、語調をそのまま引用させていただきました)”                (続く)

2012年3月8日木曜日


自省(20120308)

つらつら思うに、自分はこれまでずっと生かされてきたし、未だ生かされているということを実感している。自分の生かされ方にはすでにこの世にはいない両親を初め、祖父母・妻の祖父母が関わっている。そして現世においては妻、恩師、友人らが関わっていることを実感している。

何故自分はこのように生かされているのか、その理由を自分は分かっている。この世において自分が果たすべき役割をまだ完全には果たし終えていないことも自覚している。

統計的な平均寿命まで自分が生きるとして、自分の余命は幾らであろうか。そう何十年もあるわけではない。いいところ10年前後というところであろう。

そう考えると、私は自分が果たすべき役割を第一優先にして日々の時間を費やすべきである。

自分の場合、それは遠い先祖からの期待に全てこたえることであることは明確に分かっている。既にその期待の大部分は、無明・無意識のうちにこたえることができている。残っているのは自分の家系のことを書き記す幾つかの書き物を完成させることである。そしてそれをわが「家」の文化として継承されるようにしておくことである。

自分の部屋に飾ってある自分の生母の写真や自分を中心に左右3人づつ並んだ従兄弟たちの写真を見ながら、今、その思いを改めて強くしているところである。

2012年3月7日水曜日


韓国併合(一)一進会(つづき)(20120307)

 そもそも「国家」というのはどのように運営されるのであろうか。思いつくままに挙げてみると以下のとおりである。
    「国家」は憲法に定めるところにより運営される
    「国家」は国民の代表者による議決に基づき運営される
    「国家」の運営には、権力を掌握している個人または集団の意思が反映される

 20世紀初頭の韓国は上記①も②もなく、③によって運営されていた。伊藤博文は当時の韓国という「国家」が①及び②によって運営されるように渾身の努力をしていた。
因みに中国の場合は形式的には①及び②により運営されているように見えるが、実態は中国共産党が自ら定めた「中国共産党綱領」「日本解放工作綱領」などによって運営されていると見なければならない。

第二次日韓協約(日韓保護条約)の締結により初代韓国統監となった伊藤博文は日本人に対し「数千年の歴史と文明を持つ韓国民に対し、併合などという暴論に支配されてはならない」と訓辞し、韓国の閣僚に対しては「韓国を滅ぼす者は他国ではなく韓国自身である。日露戦争のような大激戦を目にしてまだ、内外の形勢を察知せず、覚醒しないとは何事であるか」と叱っている。

 以下『大東亜解放戦争』(岩間 著、創栄出版)より“”で引用する。
“(二)日韓保護条約の締結
約一年半に亘る日露戦争は日本の勝利に終わったが、ロシア軍は南満州の西部から撤退したものの、豆満江方面の韓露国境地帯や鴨緑江流域は変化なく、それに韓国の宮廷や官僚はもちろん、国民の間にも親露傾向が根強かった。いつまたロシアの勢力が浸透し韓国が便乗するか判らない。そうなると何の為に国運を懸けて日露戦争をやったか意味がなくなってしまう。

この為日本の世論は韓国併合を強く期待し、政府内では「この際併合すべし」という積極派と「当面保護国として独立国家となるよう育成しよう」という消極派に分かれていた。

日露講和のポーツマス会議を終えた小村にルーズベルトは「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ、それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策となるべしと言った。また、ランズダウンの如きは「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。またロシアもポーツマス条約で「露西亜帝国政府は日本政府が韓国に於いて政治上軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有することを承認」していた。

此の様な状況の下、明治三十八年(一九〇五年)十一月「第二次日韓協約」が調印され、韓国の外交権は日本の掌握するところとなった。この「日韓保護条約」は別名「乙巳(いつし)条約」とも言われる。

保護条約の交渉で高宗は伊藤博文に対して国家としての形式と体面を残して欲しいとの希望を繰り返し哀訴したと言われるがその胸中たるやまことに憐れむべきものがある。(中村粲『大東亜戦争への道』)”                      (続く)

2012年3月6日火曜日


「憎しみ・闘争」と「信頼・分かち合い」(20120306)

 「韓国併合(一)一進会(つづき)」まで筆がなかなか進まない。韓国を愛した伊藤博文が何故暗殺されたのか、この後再び『大東亜解放戦争』を引用しながら考えることにしたい。先ずは、人類が獲得した「分かち合い」の行為を妨げているものについて考えてみたい。

 日本には靖国神社内の記念館、広島の戦艦大和記念館、知覧の記念館などがあるが、中国にあるように史実を曲げてまで「日本軍が残虐であった」とか、韓国になるように伊藤博文を暗殺した安重根が英雄であったとか、従軍慰安婦像もそうであるが、他国に対する憎しみを煽るような展示物はない。

アメリカには「パールハーバーを忘れるな」という合言葉を強調するような記念館があり、日本には「ノーモアヒロシマ」という記念館がある。アメリカの記念館は言ってみれば日本への憎しみを忘れさせないようにするようなものであり、日本のものは「人類は決してこのような原爆を使用してはならない」という願いを込めたものである。

 さて、人類は約1万年まえ自然の穀物の中から栽培に適したものを試行錯誤の繰り返しで作り出すことができた。それを契機に縄張りを挟んで他の部族との対立が始まった。しかし一方で対立を避け、「分かち合う」ことの大切さも身に付けてきた。研究結果、人類は「分かち合う」ことに大きな喜びを感じる気持ちが非常に強いということが分かっている。

 国境を隔てて対立しあう日本と中国・韓国・北朝鮮であるが、皆同じ人類である。文化や歴史や言語や人々の種類が異なっていても同じ人類である。個々の国民同士になれば「分かち合う」気持ちが表面に出てくる筈である。それを妨げているのが「国家」である。

 日本の場合天皇が人々中心にあり、古来天皇は日本民族の族長のような、家長のような、宗家のような存在であった。『日本書紀』などの歴史書を読めば、天皇が奈良時代以前の昔から如何に人々の幸せや国の安定を願ってきたかということが分かる。例えば譲り合いの末に即位され、その善政が後年の模範にされた仁徳天皇(在位313214- 39927日)は、家々から炊事の煙が上がっていないことを愁い、煙が上がってきたことを喜ばれた。江戸時代の詩人・歴史家であった頼山陽はそのことをこう詩に書いている。

     炊煙起
煙未浮。 天皇愁 煙已起。 天皇喜
漏屋敝衣富赤子 子富父貧無此理
八洲縷々百萬煙 簇擁皇統長接天

 さてこのような日本は、中国や韓国・北朝鮮の「国家」とどう向き合えばよいだろうか?その答えは、先ずそれらの国々「国家」と「国民」を分けて向き合うことである。お互い国民同士は貿易・観光・文化等の各分野でよく交流しあえば、両国民の間で「信頼感」が増え、自ずと平和が生み出されることであろう。

一方、「国家」自体も一つの組織体として生き残ってゆくために、とかく他の「国家」と衝突しがちである。その衝突を未然に防ぎ、もし衝突が起きた場合に対処するため「国家」は軍隊を持つ。

日本を取り巻く東アジアの現状では、鳩山元首相・小沢一郎氏や自民党の谷垣総裁・加藤紘一氏ら理想主義者が考えるような国家戦略では日本の平和と独立を守りとおすことは絶対できない。こういう世代の政治家たちには、次期選挙で是非第一線から退いてもらわねばならぬ。

2012年3月5日月曜日


「いったいどこの国の新聞なのだろうか」(20120305)

下記3月3日付の朝日新聞社説にある文言、
「拉致行為や北朝鮮の体制に責任のない生徒たちに、責めを負わせてはなるまい」、「歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ」、「なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない」
こういった文言は、朝日新聞による巧妙な世論誘導である。
もし、下に引用した記事の太字下線の部分(もともと太線下線なし)に、次のような文言が書き加えられていたらならそうは思わないが・・。
「しかし、高校無償化を朝鮮学校にあてはめるにあたっては、こうしたことが確実に実現されたことが確認されることが前提必須の条件である。生徒たちのことを思うならば、親たちは日本に住んでいながら母国・北朝鮮指導部の下部組織の組織員のような行動を慎み、速やかに日本国政府の方針どおりに教育内容を改めるべきである」と。

朝日新聞にはそういった姿勢が全くなく、日本人の特性である「思いやり」精神を利用して巧みに世論を誘導しようとしているようにしか見えない。まことに遺憾である。

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朝鮮学校―無償化の結論だすとき

 卒業式の季節になった。だが文部科学省には、年度内に解決すべき課題が残っている。

 高校無償化を朝鮮学校にあてはめる判断だ。「厳正に審査」がずっと続いている。生徒や親をどこまで待たせるのか。

 他の外国人学校生や日本の公私立高生は、2年前から無償化の恩恵を受けている。普通の家庭で年12万円弱になる。

 その財源にと、特定扶養控除の一部が減らされた。この負担は朝鮮学校生の家庭にも等しく課されている。

 民主党が衆院選マニフェストに掲げた高校無償化について、民主、自民、公明の3党が効果を検証する協議を始めることになった。検証するのは制度全体である。朝鮮学校を外し続ける事情にはならない。

 立法の目的として説明された「すべての意志ある若者が教育を受けられるよう」をあてはめれば、認めるのが自然だ。

 無償化は日本人拉致問題で軟化したメッセージを送ることになる、と反対する声がある。

 だが拉致行為や北朝鮮の体制に責任のない生徒たちに、責めを負わせてはなるまい。

 民主党政権は「教育に外交上の問題をからめない」と確認している。そうであるならば、政治の思惑によって、少数派であり、多感な年代である生徒たちを疎外するべきではない。

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と結びついた学校のあり方にも疑念の声がある。文科省はそうした点にも踏み込み、調査を続けてきた。

 その間の議論を通じ、学校側は開かれた教育への姿勢を示しつつある。教科書の記述も改める動きが出てきた。父母の間にも、祖国の「3代世襲」に違和感を持つ人はいる。教室に肖像画を掲げることも考え直す時期だろう。そして、自国の負の部分も教えるべきだ。

 多様な学びの場の一つとして認めた上で、自主的改善を見守る。そんな関係を築けばよい。

 歴史を思えば、私たちは在日の人たちとその社会をもっと知る努力をすべきだ。

 韓流ドラマの翻訳を支えるのは民族の言葉を学んだ在日だ。年末の全国高校ラグビーには、大阪朝鮮高校がホームタウンの代表として3年連続で出た。彼らは北朝鮮だけを背負っているわけではない。生まれ育った国と祖国の間で悩み、揺れながら生きる若者がいる。

 なぜ自分たちがハンディを負わされるのか――。政治の動きに巻き込まれ、生徒たちは苦しんできた。アウェーの寒風をいつまでも浴びせてはならない。


2012年3月4日日曜日


韓国併合(一)一進会(つづき)(20120304)

 “その頃、朝鮮鉄道は釜山から京城までで、我が軍が満洲へ兵を送るのに必要な京城から新義州までの鉄道はまだ敷設されていなかった。韓国政府が非協力的であったため、わが軍は甚だ困窮したが、この時一進会が鉄道敷設に立ち上がったのである。また武器弾薬を北方へ輸送するため、一進会は北進隊を組織して日本軍に協力した。これらがいずれも多大の困難と犠牲を伴う事業であったことは言う迄もない。因みに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会委員は黄海道、平安道、平安北道を合わせて十五万人に上った。又北鮮から満洲へ軍需品を運搬するために動員された会員は十一万五千人であった。戦争の危険、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨て身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と友情あってこそ、はじめて可能だったのである。(大東国男「李容九の生涯」)(中村粲「大東亜戦争への道」再引)ただしかし、一進会の唱えたのは日韓合邦であり、あくまでも日本による韓国併合では無かったことに多くの史家は注意を向けようとはしなかった。それは合邦などおよそ世界に例のないことであり、そもそも日本の保護国となった韓国が日本と対等な資格をもって合併することを、可能にする現実的な条件などある訳もなかった、という認識からのものだと思う。(呉善花「韓国併合への道」)
 
それは例えれば、「乙女心の叶わぬ夢の物語」の様な肝心のところははっきりさせないロマンチックなものであった。”
 
“戦後より今に至る迄排日の、反日、抗日の立場を心に抱く人達は、当時東学党の人たちが韓国の自主独立を願いその為には親日路線をとって日本の協力を得て目的を達成することを願ったことを知って頂きたいと思う。韓国では金玉均を売国の国賊として激しく非難して来たが、最近は彼の目指した親日的開化主義が理解され、一転して真の愛国者であったと認められようとしているそうであるが、江華島事件以来の歴史を見るとき、韓国の真の独立には日本の協力、指導が不可欠なものであった事が判るであろう。”

ボタンの掛け違いのようなことが起きていた。宋秉畯とともに一進会を組織した李容九は「合邦」を本気で考えていた。一つの国に二人の皇帝などあり得ない。しかし李容九は韓国の真の独立のため日本軍に積極的に協力し、先ずは日本と韓国が一つの国になることを考えていた。彼は日本の力により大アジアを建設しようと考えていた。(以下、再び“”で引用する。)

“李容九ら一進会は、合邦後には満洲に移住し、きたるべき日韓満蒙による満洲独立国家を建設して欧米の侵略に対抗するアジアの拠点を築こうというプランをもっていた。あくまで大アジア主義の理想へ向かおうとしていたのである。
しかしながら、合併直後に一進会は他の団体とともに解散を命じられ、彼らの主張は日本政府に全く相手にされることがなかった。李容九らは併合に至るまでの間、日本政府が対等な日韓合邦を推進するものと、本当に信じていたのだろうか。少なくとも疑いを持った形跡が殆どないことには驚かざるを得ない。(呉善花『韓国併合への道』)”


日露戦争にいたる前、シナ人暴徒義和団による虐殺事件があった。日本公使館書紀生・杉山彬は殺され、遺体は切断され、心臓をえぐり出された。

清国 西太后が義民とみなして咎めなかった義和団事変が起きると、ロシア軍は満洲侵入に先立って6千人の清国民を非常にむごたらしいやり方で殺害した(「江東六四虐殺事件」あるいは「黒竜江上の悲劇」)。

これは“戦後北方領土から日本人を強制追放して、この地のロシア化を進めてきたソ連の厚顔無恥と相通じるものがあり、歴史に現れるロシア民族の心性は、帝政から社会主義に移行しても不変であることを示している。(中村粲『大東亜戦争への道』)”

再びプーチンのロシアになりそうなロシアはわが北方領土における実効支配を強化し、四島返還を拒んでいる。

ロシアの侵略を防いで東アジアの独立と安定を目指した一進会と日本であったが、ボタンの掛け違いや伊藤博文に対する韓国人の誤解などがあった、元々あった韓国人の反日・親清(中国)感情をさらに悪化させ、今日のような排日・反日・抗日の感情に発展してしまった。
                                  (続く)

2012年3月3日土曜日


韓国併合(一)一進会(20120303)

 表題は『大東亜解放戦争』(岩間 著、創栄出版)上巻193ページに出ている項目名である。中国が何故反日的行動に出ているかについて、それは個々の中国人民の意思によるものではなく、中国の「国家」を形成している中国共産党の意思によるものであること、そしてそれは中国共産党の「生き残り」即ち「自存」の行動であること、万物・社会組織は、それ自体で「自存」力を持っていることを改めて強調した上で、次に何故韓国や北朝鮮も反日的であるのかをこの本を引用しながら明らかにすることを試みる。

 日韓歴史認識の共同作業でこのことが研究されたかどうかは知らない。しかし、韓国側は克日の精神で自国の正しい歴史を認めたがらず、自国に都合の悪いことは全部歪曲された歴史であると主張し、史実でないことを「物語」化しようとしたらしい。

一進会の存在すら否定しているのではないかと思う。「一進会の唱えたのは日韓邦であり、あくまでも日本による韓国併合では無かったことに多くの史家は注意を向けようとはしなかった。それは合邦など世界に例のないことであり、そもそも日本の保護国となった韓国が日本との対等の資格をもって合併することを、可能にする現実的な条件などある訳も無かった」(呉善花「韓国併合への道」)

上記呉善花「韓国併合への道」はこの本に引用されている部分である。この本に以下のように書かれている。合邦が何故合併に至ったのか、何故あれほど韓国のことを思い、韓国併合に反対し続けた伊藤博文は、なぜ誤解され暗殺されたのか、この本によく説明されている。(以下、“”で引用する。)
 
“今迄見て来た歴史の様に、清との宗属関係、事大主義を断ち切り朝鮮が真に独立国になる為には、日本に学び日本の力を借りたいとする親日的な急進改革派の金玉均のクーデターがあり、穏健開化派の金弘集政権があったのである。
 
そしてその思想に共鳴する東学党があった。その東学党の党員として活躍していた李容九(イ・オング)や宋秉畯(ソン・ビョンジュン)らは、明治三十七年(一九〇四年)一進会を組織して日露戦争では日本軍に献身的な協力をしたのである。

 その会員は自称百万と称されているが、併合時の統監府の資料では約十四万と報告されている。最盛期で二十万から二十数万はあったのではないかという推測もあるが十四万としても当時の韓国では他に比較するもののない最大の勢力だったことになる。当時の人口千三百万、一韓握りの「親日的反動分子」の動きとして済ます訳にはいかないのである。(呉善花『国併合への道』)

 一進会は明治三十七年(一九〇四年)八月十八日に結成され、会長には元東学党の幹部だった李容九が推された。一進会の五大綱領は、(一)韓国皇室の尊栄 (二)人民の生命財産の安固 (三)施政の改善 (四)財政・軍政の整理 (五)日本軍への集積的協力であった。

 李容九は、日露戦争をロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止して、アジアを復興することこそ朝鮮の運命を開く道と考えたのである。一般には排日的空気の濃厚な当時の朝鮮でこのように対日協力を声明し実践することは多大の困難を伴うものであったが、一進会は敢えて親日へ踏み切ったのであった。”
 
                                    (続く)

2012年3月2日金曜日


南京事件について(20120302)

以下は、mixi投稿記事からの引用である。(“”で引用)
我々は歴史的事実をきちんと認識し、中国に対してきちんとものを言わなければならない。

中国では、「国家」と「国民(人民)」とは、日本のように一体的ではない。国民が同じように「わが国」と言う場合でも、意味が違う。日本の場合の「わが国」とは、万世一系の天皇を「家長」または「日本人の家々の宗家」のように思うことができる国のことである。

中国では「国家」と「国民(人民)」の間の一体感が薄いから、中国の「国家」は国の外に「敵」をつくり、その「敵」にむけて中国の「国民(人民)」の気持ちを向かわせなければならない。日本は中国にとって格好の「外敵」である。だから、中国は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(日本では誰が言いだしたのか知らぬが、自虐的に「南京大虐殺記念館」と呼ばれている)」を最大限に活用して盛んにプロパガンダを行っているのである。日本人はそれに騙されてはならぬ、政治家はきちんとした歴史認識を持ってもらわねばならぬと思うのである。その意味で河村名古屋市長は大変立派である。

“「南京大虐殺」など、東京裁判においても立証されず、近年の支那による様々な工作は検証され論破されている。にもかかわらず真実をねじ曲げ、お詫びとか詭弁で取り繕うとする今までの政府の行為は、看過することが出来なかった。

 ところで表題だが、実際の「南京事件」というのをご存じだろうか。まず最初は1913年に袁世凱配下の張勲の軍隊が、南京で在留日本人3名を殺害し、居留民の家屋が略奪された事件である。

 次は一般的に言われている事件の10年前、19273月、蒋介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍が南京を占領した際、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件である。

 二番目の事件は中国共産党が煽動して発生させたが、日本領事館警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられており、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受け、領事夫人も陵辱されるという事態となった。

 問題となっている「南京大虐殺」とは、東京裁判にても認定されてはいなかったにもかかわらず、東京裁判後20年も経ってから、朝日新聞にて本多勝一記者のルポ『中国の旅』が連載されてからはじまった。

 様々な「南京大虐殺」に関する検証本が出版されている。多くの書籍を読んでみると、検証を進めれば進めるほど「南京大虐殺」が、疑問だらけの嘘であることが暴かれている。これは中国という国家レベルでの捏造事件なのではないか。

 しかし、海外ではこの中国のプロパガンダをまともに信じている人が多い。日本はこのような捏造された非難に対し、きちんと反論しなくてはならないし、決して安易に謝罪するようなことがあってはならない。”

2012年3月1日木曜日


油断大敵(20120301)

 中国や韓国や北朝鮮の「国家」と日本の「国家」とは、「国家と国民の一体感」という点において本質的に違う。日本の「国家」と「国民」との間の一体感は、日本に天皇がいるからである。

 巷に出ている本に、大変恐れ多いことに、「(中国の)最終目標は天皇処刑」というショッキングなことが書かれている本を見かけた。中国が「国家」として生き残るためには、目の上のたんこぶとして天皇がいる。日本に天皇がいるかぎり日本は滅びることはない、と中国の「国家」は考えているに違いない。

 中国の「国家」とは、いうなれば中国共産党王朝のようなものである。中国人が「わが国」という国は、中国共産党王朝によって支配されている国である。中国のある地方都市で民主的な選挙が行われたということが話題になるような国が中国である。

 その中国の「国家」が中国の「国民(人民)」を統率するためには、「外敵」が必要である。その「外敵」として手ごわい相手は日本にほかならない。中国共産党のある幹部が「十年以内に日本を核攻撃する」と言ったことがYouTubeの動画で広まった。

何故中国共産党の幹部がそのようなことをわざわざ言わなければならなかったのか。最近頻発している中国の準海軍(中国国家海洋局)の船が日本の排他的経済水域内深くに入り込んでまで、海上保安庁が行っている海洋調査に文句を言うのはなぜなのか。最近になって「第一列島線」を表に持ち出したのは何故か。尖閣を中国の領土であると宣言し、隙あれば占有しようとしているのは何故か。あの漁船衝突事件を何故意図的に起こしたのか。わざわざ「南京事件」を捏造し、実際に起きていないことをさも実際に起きていたかのように展示してある「南京大虐殺記念館(日本での呼称)」は何故撤去せず、一層利用しようとしているのか。これらのことは全て、日本を「外敵」として中国の人民をその「王朝」に惹きつけておこうという意図がその「王朝」にあるということを示している。

 その「王朝」はあらゆる策略・方策を駆使して日本を弱体化しようとしているに違いない。スパイ・暴力・なりすまし・陰謀で日本の政府機関や企業などの内部に潜り込もうとしているに違いない。既にそういうことが実際に起きているかもしれない。日本の公安当局はそういう疑いの目をもって調査していることを期待したい。油断は大敵である。
 
 ところで日本の天皇の存在が気に入らないのは韓国とて同じだろう。皇室を「王室」と呼ばせたいと思っているだろう。韓国の王室は途絶えてしまったが、王の血統の子孫が何処かにいるかもしれない。もし韓国が王を復活させたとしたら、韓国の「国家」と「国民」の間の一体感が増すかもしれない。そうなると今までのように従軍慰安婦や竹島の問題が先鋭化することがなかったかもしれない。これはあくまで仮定の話であるが。
 
 それにしても、明治政府は初め朝鮮に「大韓帝国」と「皇帝」を立てた。しかし当時の朝鮮の事情により、その皇帝自ら日韓併合を、三度にわたる条約で認めた。もしその皇帝が代々現在まで存続していたなら、日本と韓国の関係はここまで悪くなることはなかったに違いない。