2012年3月4日日曜日


韓国併合(一)一進会(つづき)(20120304)

 “その頃、朝鮮鉄道は釜山から京城までで、我が軍が満洲へ兵を送るのに必要な京城から新義州までの鉄道はまだ敷設されていなかった。韓国政府が非協力的であったため、わが軍は甚だ困窮したが、この時一進会が鉄道敷設に立ち上がったのである。また武器弾薬を北方へ輸送するため、一進会は北進隊を組織して日本軍に協力した。これらがいずれも多大の困難と犠牲を伴う事業であったことは言う迄もない。因みに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会委員は黄海道、平安道、平安北道を合わせて十五万人に上った。又北鮮から満洲へ軍需品を運搬するために動員された会員は十一万五千人であった。戦争の危険、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨て身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と友情あってこそ、はじめて可能だったのである。(大東国男「李容九の生涯」)(中村粲「大東亜戦争への道」再引)ただしかし、一進会の唱えたのは日韓合邦であり、あくまでも日本による韓国併合では無かったことに多くの史家は注意を向けようとはしなかった。それは合邦などおよそ世界に例のないことであり、そもそも日本の保護国となった韓国が日本と対等な資格をもって合併することを、可能にする現実的な条件などある訳もなかった、という認識からのものだと思う。(呉善花「韓国併合への道」)
 
それは例えれば、「乙女心の叶わぬ夢の物語」の様な肝心のところははっきりさせないロマンチックなものであった。”
 
“戦後より今に至る迄排日の、反日、抗日の立場を心に抱く人達は、当時東学党の人たちが韓国の自主独立を願いその為には親日路線をとって日本の協力を得て目的を達成することを願ったことを知って頂きたいと思う。韓国では金玉均を売国の国賊として激しく非難して来たが、最近は彼の目指した親日的開化主義が理解され、一転して真の愛国者であったと認められようとしているそうであるが、江華島事件以来の歴史を見るとき、韓国の真の独立には日本の協力、指導が不可欠なものであった事が判るであろう。”

ボタンの掛け違いのようなことが起きていた。宋秉畯とともに一進会を組織した李容九は「合邦」を本気で考えていた。一つの国に二人の皇帝などあり得ない。しかし李容九は韓国の真の独立のため日本軍に積極的に協力し、先ずは日本と韓国が一つの国になることを考えていた。彼は日本の力により大アジアを建設しようと考えていた。(以下、再び“”で引用する。)

“李容九ら一進会は、合邦後には満洲に移住し、きたるべき日韓満蒙による満洲独立国家を建設して欧米の侵略に対抗するアジアの拠点を築こうというプランをもっていた。あくまで大アジア主義の理想へ向かおうとしていたのである。
しかしながら、合併直後に一進会は他の団体とともに解散を命じられ、彼らの主張は日本政府に全く相手にされることがなかった。李容九らは併合に至るまでの間、日本政府が対等な日韓合邦を推進するものと、本当に信じていたのだろうか。少なくとも疑いを持った形跡が殆どないことには驚かざるを得ない。(呉善花『韓国併合への道』)”


日露戦争にいたる前、シナ人暴徒義和団による虐殺事件があった。日本公使館書紀生・杉山彬は殺され、遺体は切断され、心臓をえぐり出された。

清国 西太后が義民とみなして咎めなかった義和団事変が起きると、ロシア軍は満洲侵入に先立って6千人の清国民を非常にむごたらしいやり方で殺害した(「江東六四虐殺事件」あるいは「黒竜江上の悲劇」)。

これは“戦後北方領土から日本人を強制追放して、この地のロシア化を進めてきたソ連の厚顔無恥と相通じるものがあり、歴史に現れるロシア民族の心性は、帝政から社会主義に移行しても不変であることを示している。(中村粲『大東亜戦争への道』)”

再びプーチンのロシアになりそうなロシアはわが北方領土における実効支配を強化し、四島返還を拒んでいる。

ロシアの侵略を防いで東アジアの独立と安定を目指した一進会と日本であったが、ボタンの掛け違いや伊藤博文に対する韓国人の誤解などがあった、元々あった韓国人の反日・親清(中国)感情をさらに悪化させ、今日のような排日・反日・抗日の感情に発展してしまった。
                                  (続く)