2011年1月23日日曜日

日本とはどういう国か(20110123)

 マスコミは中国の胡錦濤国家主席のアメリカ訪問を大きく報じている。胡錦濤国家主席はアメリカで国賓並みの扱いを受け、赤い絨毯の上を歩きバイデン副大統領から出迎えを受けた。赤い絨毯、国賓並みの待遇は中国側が強く要求したことであった。

しかし、そしてそれはアメリカからボーイング社の航空機200機など総額450億ドル(約37000億円)の買い物の見返りであった。中国はノーベル平和賞受賞者・民主活動家・劉暁波氏の釈放を認めないなど、人権問題は中国国内の統治上の考え方によるものとし、台湾やチベット問題は中国の「革新的利益」であるとし、いずれも一歩も譲らない姿勢を貫いた。そればかりではなく、13億人の巨大市場をカードに外国企業に技術開示の圧力をかけている。「他国に脅威を与えない」と言いながら実際は不透明な軍事拡張を加速している。平気で他国民を騙し、騙される方が悪いと考えている。中国に信義や正義はない。

中国は、国内向けには不都合なことは一切報道させていない。中国の歴代皇帝は前皇帝を倒して皇帝になっている。倒した以上、前皇帝の事績を否定しなければならない。共産党中国の歴代指導者は自分が退任したあと不利な扱いを受けないように実績作りが必要である。そういう意味で今回の胡錦濤国家主席の訪米は成功した。オバマ大統領も「背に腹は代えられず」自国民を食べさせるため巨大な中国市場にすり寄った。しかしクリントン国務長官は「(アメリカと中国の)G2はありえない」と断言した。

日本人はマスコミの報道に左右されてはならない。自分たちの祖国日本がどういう国なのか、今一度省みる必要がある。日本の歴史を良く学びなおす必要がある。
中国では唐、北宋、南宋、元、明、清と、皇帝はその都度代わり、元の皇帝はモンゴル人、清の皇帝は満州人であった。一方、日本では神武天皇以来万世一系である。

794年から1192年まで400年近くも続いた平安時代、その後武家が政治の主導権を握り、政治の主導権を巡って争った時代を除き、1603年から幕末の1867年まで250年あまり平和だった江戸時代、そして日本列島から台湾、フィリッピンに至る列島線がアメリカの縄張りである戦後の平和な今の時代、そのような平和な日本は世界に類例がない。

平安時代に摂政関白による政治形態がとられたこともあって、天皇は日本国統治の象徴となり、「君臨すれども統治せず」という存在になった。武家が政治の実権を握ってからは、天皇は武家諸侯に叙位叙勲を与え、国の平安と万民の幸せを祈るお立場となられた。

日本は何百年間も平和が続いた国、象徴的な天皇を頂く国、天皇家が日本中の各家の宗家のような存在である国、戦前まで一度も外国に征服されたことが無かった国、侵略されたり、植民地になったりした経験が全くない国、そのような国は世界中どこを探しても見当たらない。日本は「東方の光」の国、「日出る」の国、瑞穂の国、八百万の神々のまします国、仏教の教えをよく研究し、自分のものにして、仏教がよく根付いている国である。

日本国歌『君が代』の「君」は天皇のことではなく、国民一人一人のことである。天皇は古来「大君(おおきみ)」と呼ばれてきた。日章旗には他国にない古い歴史的背景がある。

江戸時代には行政単位でなくなったが、名目上の国司が置かれた66の国が日本と言う国の中にあった。歴史的に見た統治形態としては、日本は中国よりも欧米に近い国である。

2011年1月22日土曜日

‘凛’として在ること(20110122)

 昨日の記事の続きであるが、人はいくら齢をとって落葉の枯れ木のようになっても、‘凛’としてそこに在ることはできる。要は日ごろの心掛けと、鍛練次第である。たとえば道を歩くとき、背筋を伸ばし、顎を引き、しゃんとした姿勢で、ごく自然な形で、しかも行進曲に合わせて歩いているように歩くならば、その姿は‘凛’として見える。特に冬の寒い外気の中でもそのように歩くならば、その姿は‘凛’として見える。

 男の足腰はまだしっかりしていて、片足立ちで立っている方の膝を曲げることや、一方の足を前に差し出して伸ばしたまま、長く片足立ちができる。大腰筋が弱いとそのような運動はできない。出来てもすぐ崩れてしまうだろう。

 男の中学時代の同級生である女性は、最近転倒して胸椎を痛めてしまって、ご主人の介護のこともあって大変苦労したということである。若い時はつまずいても転ばず、姿勢を保つことができるが、大腰筋が弱ってくると先ず足が高く上がらず、ちょっとしたことで躓いて転んでしまうものである。

 従い‘凛’とするには常日ごろの心掛けと鍛錬が重要なのである。日ごろの心掛けとしてはただ単に自分の肉体的な要素についてのみ心がけるのではなく、特に精神的な要素について十分すぎるぐらい十分心がける必要がある。つまり自分の精神を高めるような修行が必要である。民放のテレビの娯楽番組ばかり見ているようでは駄目である。しかし、一般の人々はそのような修行には縁遠い。

 昔の武士は腰に刀を差し、常に学問をし、礼儀作法を心得、‘凛’としていた。皆が皆、武士はそうであったわけではないが、商人や百姓のように腰を曲げ、上にへつらうような態度は見せなかった。いつでも死ぬ覚悟があった。

 男の生母は33歳の時乳がんで他界した。今際の時、当時9歳であった男に自らの身をもって‘凛’として在る姿を示した。「お兄ちゃん起こしておくれ」「東に向けておくれ」「仏壇からお線香をとってきておくれ」「お父さんをよんできておくれ」といい、線香に火を付け、東方、多分宮城に向かって両手を合わせた。当時9歳であった男が急いで裏山に走り、松葉かきに行っていた父を呼んできたとき、母は既にこと切れていた。

 そのときのことを思い出しながら、歩いて15分ぐらいのところにある大型複合商業施設の書店に行った。買い求めたのは三省堂の『全訳漢字海』という辞書と、Newtonの『宇宙はどうやって誕生したか』というグラフィック科学雑誌である。『全訳漢字海』は日本語力が乏しいと自覚しているため、何か良いものはないか探していて目にとまったものである。科学雑誌の方は、「あの世」のことに関する哲学的思索の参考にするため買った。

 ちょっと寒気を感じながら‘凛’として歩き、昼前家に帰り着いた。するとすぐ田舎に住んでいる竹馬の友の一人から電話があった。「うちの奥さんが死んだ」という。男は一瞬「えっ」と絶句した。葬儀は家族だけで済ませたという。17日に竹馬の友同士で山登りをした。その時、もう一人の友が「奥さんも一緒にゆきませんか」と誘ったという。そのとき奥さんは元気な様子だったという。翌日自宅の廊下で倒れていたという。田舎の同級生たちも在京の同級生たちも皆驚いている。在京組は香典をまとめて送ることにした。

2011年1月21日金曜日

時に思う(20110121)

 今日(20日)もよいお天気である。男は女房と一緒にバスに乗って新横浜駅ビル内の高島屋まで買い物に行った。田舎の親戚の一周忌にご仏前とは別に菓子折りを一つ送るためと、男の田舎の友達にお返しの贈り物をするためである。友達には結局、銀座鈴屋の甘納豆にした。御歳暮に贈ったものと全く同じものである。

その御歳暮は結局独り暮らしの年老いた近所の方々が正月休みの間それぞれ子供の家に行ったため余ってしまい、包み紙が「御歳暮」になっているため「御年賀」に変えるわけにもゆかずこちらに持ち帰り、老妻と二人でお茶の友に食べてしまったが・・。

お昼になったので外食しようかとも考えたが、いなりずしなどそれぞれ注文して持ち帰ることにした。高島屋の八百屋には美味しそうな新鮮な野菜や果物が並べられている。有名な氷見の寒ブリも売っている。それらを買ってちょっと荷物が多かったがまたバスに乗り、家に帰った。そして老夫婦二人だけでゆっくり寛いでいなりずしや巻きずしを食べた。

家の近くのスーパーは安いものがたくさん売られている。安くても品物がよいものがある。「おいしい牛乳」とか「ブルガリアヨーグルト」「甘塩さけ切り身」などは安いが品物は良い。値段が安く、表示に「糖度13%」と書かれている愛媛みかんを一袋買ってみたが、甘さは砂糖のようで果実の甘さはなく、ちっとも美味しくないことが何度もあったので、そこではみかんは買わないことにした。家から歩いて15分ぐらいのところに大小幾つかのスーパーがあるので、それぞれ特徴がある安くても品物が良いものを買うようにしている。高島屋のものは少し値段が高いが、品物は文句なしに良い。

スーパーの近くで‘ヒューマン’である男が「ヒューマン・ウオッチング」をする。男たちは皆「オス」、女たちは皆「メス」に見える。齢の行った小汚い太めの「オス」たちは、マウンテンゴリラのオスのようなイメージを与える。齢の行った「メス」たちは、「オス」たちを恐れながらも群れの中で安心を得ているように見える。

それに比べ小綺麗な若い男女や子供たちは「オス」でも「メス」でもなく、そのような動物の範疇に遠い存在のように見える。なぜ齢の行った男女が「オス」や「メス」に見えるのか、男は自分のことを棚に上げて考えてみた。

実際に童貞であるか処女であるかは別として二十歳前後の男女や、思春期の少年少女や子供たちは、人生はまだこれから成長してゆくのであり、これから実社会で揉まれることになるのである。一方、結婚し、子供を持ち、社会で揉まれてゆくうちに徐々に新鮮味が薄れ、5060歳ともなれば徐々に清潔味が薄れてゆく。7080の爺さん、婆さんともなれば、老臭も増え、動きも鈍くなり、齢若い「動物」のような美しさも無くなってくる。

それでもお寺で仏教の修行に励んでいる人たちや、白衣を着ている医療関係者たちや、軍服姿のミリタリーマンたちなどは、よい表現の言葉が浮かばないが、年齢に関係なく「凛」としている。「凛」とは「きりりと身の引き締まるさま」のことである。彼らに共通的なイメージは「知性」「気品」「教養」などである。

してみると、男が「オス」とか「メス」に見える「ヒューマン」は、そういう特徴が薄い人たちなのであろう。男は自分の最期のときまで「凛」してありたいと思っている。

2011年1月20日木曜日

正法眼蔵(20110120)

 男は、岩波文庫の本であるが20年ほど前に『正法眼蔵』を購入していて、殆ど目を通さぬまま書棚に収めたままにしていた。それを今晩(19日)取り出して読み始めた。この齢になってようやくその本を本気で読んでみようという気になった。遅いと言えば遅い。しかし、世の中にはそのような本には目もくれぬ人々が非常に多いことであろう。だから、この齢になってやっとそのような本に目覚めたとしても、まあ許されよう。

 本の表紙に『正法眼蔵』は「道元(12001253年)の主著で、和文を主にし、時に漢文を交えて自己の宗教体験を述べ、坐禅によって到達する正法の悟りをあらゆる方面から説いた」とある。坐禅しなければ、決して悟りは得られないのだろう。男はまだまだ色気がたっぷりあり、坐禅などはしたくないと思っている。おそらく死ぬまで坐禅に浸りきることはないだろうと思う。

 しかし、夢窓疎石(国師)は『修学』と題する詩で「一日の学問 千載の宝 百年の富貴 一朝の塵 一書の恩徳 万玉に勝る 一言の教訓 重きこと千金」と詠っておられる。昨日、鎌倉の瑞泉寺を訪れたが、本堂の裏の庭は夢窓国師が造ったものであるという。それは昭和45年、遺跡の発掘により復元されている。

 瑞泉寺はウィキペディアによれば「鎌倉幕府の重臣であった二階堂道蘊が嘉暦2年(1327年)、夢窓疎石を開山として創建した寺で、当初は瑞泉院と号した。足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方の足利基氏は夢窓疎石に帰依して当寺を中興し、寺号を瑞泉寺と改めた」とある。その夢窓疎石は一書である『正法眼蔵』を読んで、その時には既にこの世にはいない道元禅師に帰依したに違いない。

 男はもうこの齢になって仏教の修行をしようとは思わないが、せめて道元が著した本(一書)を読み、いずれ訪れる自分の最期の日まで読み続けようと思う。「道元→夢窓国師→自分」という思想的流れを感じたいと思う。自分がそのように感じながら何れの日かあの世にゆけるならば、本当に幸せなことであるに違いない。

 瑞泉寺の梅はその枝頭に十分春の気配が漲っていた。宋代の詩人・戴益(たいえき)が「尽日春を尋ねても春は見えないが、春は枝頭にあって既に十分である」と詠っているとおり、幸せは目の前に、最も身近なところにあるものである。古の人が行ったような学問をしなければ、真の幸せに気づくことはできないのである。
 
 その『正法眼蔵』で道元禅師は「辦道話(べんどうわ)」と題して「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(むい)の妙術あり。これたゞ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。この三昧を遊化(ゆけ)するに、端坐参禅を正門(しょうもん)とせり。」と、最初から坐禅以外に悟りの道はない、と説いておられる。

 男は今のところその気は全くないが、これからの余生のある時期に、なにかきっかけがあれば一定期間坐禅修行・修学の体験をしてみようとは思っている。

2011年1月19日水曜日

鎌倉に遊ぶ (20110119)

 今日(18日、日曜日)、一点雲もない快晴、風も全く感じられない好天気。女房が週間天気予報をチェックしていて「今日」と決めていたこの日、二人で鎌倉に遊んだ。鎌倉には我が家から1時間ほどで行ける。それぞれデジカメを携行して鎌倉八幡宮の「神苑ぼたん園」にぼたんを観に行くことが主目的である。一昨年も其処に行ったことがあった。

 鎌倉に着いて小町通りにちょっと入ったところで右側に路地がある。そこを通って八幡宮参道の通りに出る。平日ということもあって観光客はそう多くない。「若宮通り」という参道は両側に桜の並木が八幡宮の境内の入り口までずっと続いているので、3月の終わりごろになれば桜花のトンネルのようになる。そのころは観光客で非常に混雑する。

 今日は観光客で混雑してはいないが、それでも人通りは少なくはない。11時過ぎであるが混雑しないうちに早めに昼食ととっておこうと思い、参道の入り口の鳥居の近くでまた小町通りに向かう路地に入る。釜あげうどんとか、しらすごはんなどの定食のメニューがあちこちに表示されている。値段は定食で1000円ぐらいが多い。

路地に入ってすぐ右に折れる路地に入ったところに手ごろな店を見つけた。店の前でメニューを眺めていると、店の中から店主らしい女性が出てきて「どうぞお入り下さい」と言うので入った。小さな店であるが雰囲気は悪くはない。まだ客は少なく席は空いている。
   
二人は「○○御膳」というものを注文した。しらすご飯、温うどん、おもち二つと季節の野菜の天ぷら、惣菜、つけもの、デザートにわらびもちの7品で1000円である。美味しかった。温うどんや天ぷらのつゆに加える具には鎌倉特産の細ネギが使われている。これは甘みがあって美味しかったので、男は箸で摘みあげ一つも残さず全部食べた。

 腹ごしらえが終わって目的のぼたん園に行く。ぼたん園の入場料は一人500円。入場者はそう多くないが、皆美しいぼたんの花を愛で、写真を撮っている。男も女房もそれぞれ好き好きに沢山写真を撮った。撮った写真は家でテレビに映して鑑賞し、批評し合う。

  園内に「三笠宮殿下御手植え」のぼたんがあった。ぼたんは4、5月ごろ咲くものもあるが、殿下御手植えのぼたんはそのころ頃花を付けるものであろう。花の写真を撮り終わったころ、男は女房に「俺の写真を撮ってくれ」と言った。すると女房は「わたし、花の写真を撮りにきたのよ」と文句を言う。男は「俺の葬式用の写真だ」と言って、何枚か撮ってもらった。「今日、ここに来た記念だ」と言って説得し、男はぼたんの花をバックにした女房の写真を何枚か撮っておいた。

ぼたんを鑑賞したあと、八幡宮に詣で、孫娘の大学合格の祈願をして瑞泉寺に向かった。瑞泉寺への道の途中に有名な学校がある。親たちはわが子をその学校に通わせたいと願望し、おそらく列車やバスを利用させてまで通わせている親も多いに違いないと思う。男と女房は「‘孟母三遷の教え’というものがある。しかし124時間しかないのにわが子に往復3時間もかけさせて通わせるのは馬鹿げている。」「子供は良い親や良い大人たちが周りにいればよく育つ。有名校に通わせることが必ずしも良い結果を得るとは限らない。」などと語り合いながら、その学校のそばを通る。瑞泉寺に遊び、平家池の傍の店で一休みし、小町通りで遊び、公民館の脇の大功寺にちょっと立ち寄って、夕刻家路についた。

2011年1月18日火曜日

パクス・ヤポニカ (20110118)

 17日(月曜日)の読売新聞朝刊に上記タイトルの記事が出ている。『宗教と国家』と題して宗教思想家・山折哲雄氏が寄稿しているものである。

 山折氏は「日本は平安時代の350年間と江戸時代の250年間、政権の屋骨台はゆらぐことがなかった。このような平和な状態をヨーロッパや中国やインドの歴史では見られない。しかも、日本は1000年以上にもわたって異民族による征服や支配を全く経験していない。こんな国は世界中どこを探してもみつけることができない。日本には国家と宗教の調和がとれた関係があり神仏共存の多神教的システムがあり、象徴天皇制の独自の統治システムがある。象徴天皇の原型はすでに平安時代の摂関政治のなかで形作られている。」と言う。

 われわれ日本人はこのことを誇りに思わなければならないと思う。日本の天皇は神代の昔から万世一系であり、日本の各家の宗家のような存在である。天皇陛下は天下万民の幸せを祈って下さっている。そのようなことは世界中どこを探しても無い。

 一部の学者が日本の歴史を故意に歪め、本を書いて出版し、人心を惑わしている。女性天皇を認める動きをし、小泉元総理大臣の時、危うくその動きに沿った決定が為されそうになったことがある。日本人であるならば、そのような動きに決して騙されてはならない。

 北海道の北端から沖縄の南端にいたる長い日本列島から、フィリッピンの島々に至る長い列島線を、①欧米側の縄張りとして考えるのか、②中国・朝鮮・ロシア側の縄張りとして考えるのか、③或いは日本独自の完全中立的なものとして考えるのか、我々日本人はしっかりとした考え方を持っていなければならない。
 現在の諸状況で、③の日本独自の完全中立的なものは、最も望ましいのかもしれないが、現実的に実現不可能なことである。日本は古来、中国や朝鮮から、取捨選択しながらいろいろ学んできたが、この小さな国の中に、かつて66もの国があり、お互い切磋琢磨しあってきた日本は、諸国家集合体であった。その点かつての日本の中の国々は、ローマ帝国の中の諸国家、アメリカ合衆国の中の州と似ている。中世、ルネッサンス、産業革命という歴史も似ている。文化・言語が違っていても、日本は、中国・朝鮮・ロシア大陸よりも、感覚的に欧米諸国に親しみ易い。

 深層心理学でいう‘セルフ’を国家のレベルで考えれば、日本人の‘セルフ’は正に、代々男系で繋いできた万世一系の天皇制、白地に赤の日の丸の旗、「君が代」という国家である。ちなみに「君が代」の「君」は天皇のことではない。天皇は古来「大君(おおきみ)」とよばれてきた。「君が代」の「君」は我々一人ひとりの国民のことである。

 北海道や沖縄で日教組は反国家的な活動をしていると聞く。彼らは、上述学者・先生方に騙され、洗脳された連中である。

 日本もアメリカのような国家情報機関(CIA)を組織し、彼ら反国家的な連中の活動を監視しなければならない。さもないと、上述‘縄張り’は隙をつかれて荒らされるだろう。昨年9月、愚かな総理が現れて、日本はめちゃめちゃになりかけた。そのお陰で、日本国国民は目が覚め、今、ようやく本来あるべき姿に戻りつつある。今の大人たちは、我々の児孫に、しっかりとした日本を引き継ぐという、非常に重大な責任がある。

2011年1月17日月曜日

2次菅内閣始動()(20110117)

 今日(16日)のNHKの日曜討論を聞いて老人は安心した。各新大臣は、この国の危機的状況を救うため、きっとしっかりやってくれることだろう。菅直人首相の‘自動車教習所通い’、‘仮免許’の時代のことを人はとやかく言うが、誰でも人生の過程でいろいろ経験して、その言動は変化してゆくものである。人の性格は変わらないが、言動は変わる。経験や修行や学問を通じて変わる。以前のことを取り上げて折角真面目に、真剣に、誠実に国の為に尽くして行こうとしている人たちを批判し、その人たちの‘足を引っ張る’のは卑しい根性である。自民党の若手、石原幹事長も‘政局’のため‘大義’を見失っては、必ず後悔することになるだろう。

 変わらないのは旧守的一部の古い政治家たちである。彼らの物事の判断や言動は、私利私欲から発するとしか思えない。市井の人たちは老人のようにものを言わなくても、政治家たちの人となりを見抜いているのだ。侮ってはいけない。

 ある人は「‘清濁併せのむ’度量が必要である」と、老人のような、ある意味では潔癖すぎる、正義感を持ちすぎる人に忠告を与える。ご忠告は有難いがこの国難の時、商人のような根性では乗り切れない。商人にははっきり言えば国境など無用である。自分が儲かりさえすれば良いのである。

 マスコミは人々の注目を集めるため、‘有名な’識者をテレビに登場させ、意見を言わせ、何某かの報酬をその人に払う。一般の視聴者はその‘有名な’識者の‘ご意見’に踊らされる。マスコミもその‘有名な’識者も一般の視聴者を躍らせて儲けている。そこに正義などない。あるのは商人根性だけである。

 今日の討論会では外務大臣や防衛大臣らは出席していなかったから、外交・防衛・安全保障に関することは討論の対象外であった。外交・防衛・安全保障は国の最も大事なことである。これに携わる政治家や官僚たちは歴史をよく勉強し、これらの事に携わってきた有能な官僚たちの知識・経験を最大限に活かして、日本海へ、太平洋へと勢力圏の拡大を狙うロシアや中国の意思を抑制して行かなければならない。

 今朝の読売新聞で中国が北朝鮮の日本海側の都市・羅先に中国軍を駐留させたという記事が出ていた。名目は中国が投資した羅先の港湾施設の警備や中国人の保護が目的であるという。朝鮮半島の状況は明治初期の頃に似てきた。663年の白村江の状況に似てきた。

 確かに日本はアメリカから原爆を2個投下され、アメリカに屈した。現在の状況は幕末のころから一貫して変わりないアメリカの戦略に沿っている。アメリカにとって日本列島からフィリピン諸島にいたるラインは、アメリカ国家の‘縄張り’だろう。日本がアメリカの強力な同盟国である限り、アメリカは日本を自ら血を流してでも守ろうとするだろう。

 日本は歴史的に考えてみると政治の形は古来、欧米的である。言語や文化が異なっていても、日本は中国やロシアや朝鮮半島という大陸よりも、いろいろな面で欧米的である。日本が今後生き残って行く道は、欧米とより親密になる以外にはない。

 日本は欧米諸国の仲間として、上述‘縄張り’の最前線に位置し、大陸側と対峙しながらも友好関係を築き、‘東方の光’を照らし続けることが世界中から求められているのだ。

2011年1月16日日曜日

2次菅内閣始動(20110116)

 マスコミが何と評そうと、党内不満一派が何と言おうと、自民党はじめ野党が何と言おうと、菅総理は‘捨て身’でこの国難を乗りきろうという強い意志を示しているように、老人には見える。老人がブログ「外交と防衛(終り)(20110108)」に書いたとおり、菅総理は本免許を得て‘志’を明確にし、西郷南州のように‘自ら安きを謀らず’国の為に尽し、しかる後は天命に従おうと考えているように見える。衆議院の解散もあり得るだろう。

与謝野経済財政・社会保障・税制改革担当大臣は、老人の見るところ、国の為にわが身を捨てる覚悟であるように見える。世間にどんなに揶揄されようと藤井官房副長官は‘若殿’枝野官房長官を補佐する役目をしっかりと果たすことだろう。江田法務大臣は菅総理の‘叔父’として各‘武将’をまとめ、‘将軍’菅総理を側面から支えるだろう。中野国家公安委員長・公務員改革/拉致問題担当大臣は国家公安の要としてしっかりやるだろう。

読売新聞編集手帳では「異例ずくめの布陣は窮余の一策ならぬ、四策、五策と映る」と批判的であり、一部の論者も世間に迎合的な論評をしているが、老人はそうは見ていない。菅総理には『西郷南洲翁遺訓』にあるように、「命もいらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にし、国家の大事業は成し得られぬなり。」という気持ちで、是非頑張っていただきたいと思っている。腰の氷刀を抜かなければならないとき、対峙する相手の刃の下にこそ、己の生きる道があると思う。

 仙谷氏、馬渕氏の‘切腹’は当然である。国の為、自らの信念に基づき行動し、潔く‘切腹’した海上保安官・一色正春氏は、その行動の時点で仙谷氏が主導する国の方針に敢えて逆らっていたのである。仙谷氏もその当時の状況から最善の決定をしたのである。馬渕氏は自分の意思に反することであっても立場上最善の決定をしたのである。皆国の為を思い、それぞれ行動したのである。であるがゆえに、仙谷氏も馬渕氏も時期を待って‘切腹’しなければならない立場にあったのである。

 そのことについて老人はブログ「戦争回避の最善の方法(20101222)」、「ひ弱な国(20101224)」、「国の為内閣を改造せよ(20101225)」に書いている。岡崎氏は国家公安委員長という国の重要な職にありながら、テロ情報漏えいなど国の安全の根幹を揺るがす事件が起きたときの対処も不適切で、‘流罪’は当然である。

 政府は最近になって外務省顧問団を復活させるなど、過去の過ちの是正し、防衛体制の再編成、有事対処を念頭に置いた日米同盟強化、武器三原則の見直し、前原外務大臣、北沢防衛大臣らの積極的外交に舵を切った。老人がこれまで1年以上も憂え続けてきたことが霧消しつつある。真に喜ばしいことである。‘武士道’が蘇ったように見える。

 小沢氏は政界から去ってもらわなければならぬ。もう彼の時代ではない。石川議員は事情聴取の際、検察に嘘を言って密かに録音していた。4億円について、彼は検察に誘導されて答えたと彼は主張しはじめた。自ら墓穴を掘るようなものである。‘何処からか’得た金は、たとえ‘自分自身のために使わず政治家を志す者のために使った’としても、世間は‘それは自分のシンパを増やすためだっただろ?’としか見ない。つまり私利私欲のためではないかとしか見ない。世間は小沢氏の盟友・鳩山氏にも冷たい視線を送っている。

2011年1月15日土曜日

他人事と自分のこと(20110115)

 さるお方から以前『ジョンソン博士語録』(発行:パレード)という本を頂いていた。老人はその本を時々読んでいるが、昨日胃・大腸内視鏡検査に行くとき電車の中で読もうと思い、その本を持って行った。

 車中隣の席で50代ぐらいの男性が自分の服の胸のポケットから何やら取り出して広げて目を通している。男はちょっと気になって視線を左にやり、ちらっと盗み見した。彼が見ている紙の上に「資格者のIDとパスワード」と書いてあり、名前とそれらしい情報が一覧表になっている。男は、彼はどんな仕事をしているのだろうか、インターネットの時代、男もIDとパスワードの保全には十分注意して管理しているが、彼が見ている情報はインターネット上で盗んだものではないだろうか、などと気になった。しかし、気にはなったが無関心を装っていた。彼は長い時間その一覧表を見ていた。一覧表には黄色のマーキングをした部分が何箇所かあるようであった。そのうち彼はそのペーパーを自分の胸のポケットにしまい込んだ。男に関心を持たせるため、彼はわざと長い時間その一覧表を見つめていたのではないかと思ったりした。いずれにしても彼は怪しい男である。

 その本に次の一文がある。“ No, Sir, every man will dispute with great good humour upon a subject in which he is not interested. I will dispute very calmly upon the probability of another man’s son being hanged; but if a man zealously enforces the probability that my own son will be hanged, I shall certainly not be in a very good humour with him,  「・・・いや、君、誰でも関心のない問題については大いにユーモアをこめて議論するだろう。私は他人の息子が絞首刑にされる可能性については非常に冷静に論争するだろう。しかしもし私の息子が絞首刑にされる可能性を人が熱心に主張するならば私は間違いなくその人とユーモアを交えて議論はできない。」”

 死刑制度について検討されている。新たに「終身刑」を設けて、裁判員裁判でもし裁判員全会一致の死刑判決でない場合、その「終身刑」を適用するということが提案されているようである。

 中国では、麻薬密輸の罪で日本人が4人が死刑に処せられたことは記憶に新しい。つい最近、70歳の日本人と20歳の日本人がそれぞれ別の裁判所で、それぞれ2年間の執行猶予付きの死刑を言い渡されている。執行猶予期間中服役態度が良ければ、死刑から無期限懲役に軽減される道もあるという。

 ジョンソン博士は「他人事は大いにユーモアをもって議論するが、自分のこととなるとそうは行かない」ことを指摘している。

 日本人は大陸の北方、西方、南方、中央アジアを含む各地からこの列島にやってきたが、ミトコンドリアで辿ると、日本人は結局16人の母親に辿りつくという。つまり日本人は皆同胞である。同胞の中に悪い奴がいて同じ同胞を殺害し、金品を奪う。

悪い奴を絞首刑にするか終身監獄につないでおかないと、この社会の秩序は保たれない。麻薬組織でも、恫喝国家でもそれら集団組織を抑制しないと、全体の秩序は保たれない。

2011年1月14日金曜日

内視鏡検査(20110114)

  男は今日(13)2年ぶりに大腸と胃の内視鏡検査を受けた。横行結腸にまたポリープが見つかり切除してもらった。最初に横行結腸にポリープが見つかったのは2005年の4月である。それはその年の8月に安孫子にある東葛辻仲病院に1泊入院して切除してもらっていた。そのときのポリープの大きさは5mmで横行結腸の終わりに近い方に出来ていた。2年後の20078月、再びその病院で検査を受けたらまたポリープが見つかり、すぐ切除してもらった。ポリープの大きさは2mmで、今度は横行結腸の始まりに近い部位に出来ていた。2年後の200912月、またその病院で検査を受けたら、その時は横行結腸の終わりに近い部位に4mmのポリープが出来ていたのでまた切除してもらった。そして今回は同病院の系列の辻仲柏クリニックで検査を受けたら、今度は横行結構が始まる部位のすぐ近くに3mmのポリープが出来ていた。先生はポリープはがん化するおそれがあるので切除した方が良いと言うので、その場で切除してもらった。

胃の方は検査の都度、慢性胃炎があるということ所見であった。今回は大腸同様、食道、胃の方も内視鏡の映像を見せてもらいながらその状況を見せてもらうことができた。これまではモニターが一つしかなかったため、食道・胃の検査の様子は見せてもらうことができなかったが、今回はモニターが左右にあり、医師も患者も映像を見ることができた。

慢性胃炎は胃粘膜の収縮で判る。2009年の検査のとき、びらん性胃炎とういう所見で念のため胃壁の一部を摘み取って病理検査をしてもらったが異常はなかった。今回は収縮だけでびらんは無かったようである。

男はこれまでの内視鏡検査結果の説明書を頂いている。説明書には撮影した写真も挿入されている。患者は自分の大腸や胃の状態をその写真を見て知ることができる。胃カメラでは食道についても異常の有無を知ることができる。

高齢になると食道、胃、腸、大動脈などに異常が生じ易くなる。人間も生物として精巧な機械である。機械は定期的に検査をしてその状況を把握し、何か不具合が見つかれば適切に修理しなければならない。胃と大腸の内視鏡検査、超音波検査による大動脈瘤の発生の有無の確認、血液や尿による循環器系の検査など患者も若干の医学的知識をもっていて自分の身体の状況を定期的に把握することが重要である。男は先月定期健康診断時に血管の状態についても検査を受けた。結果は血管の詰まりは無かったが血管が堅くなっていて88歳の年齢相当であるという所見であった。これは生活習慣を改めればすぐ若返るはずである。2年前年齢相応だったものが急に88歳に老けてしまうということはないと思う。

男の横行結腸にはポリープが出来やすいようである。食事の内容や食事の仕方などに気をつけなければならないと思う。このところ腸内ガスが発生しやく、熟睡時間に持続に問題が起きるようになっている。これは腸内細菌の劣化によるものだろう。NHKの「ためしてがってん」という番組で静岡県の掛川茶がビフィズ菌を増やし免疫を高める効果があり、掛川茶と同じものは自宅でも簡単に作れることが紹介されていた。ポリープ切除の傷が治ったら、早速その茶を作ってよく飲むようにしようと思う。作り方は至極簡単で、茶をすりつぶし、熱湯を注ぐだけである。そうると掛川深蒸し茶のような美味い茶が出来る。

2011年1月13日木曜日

ウォーキング (20110113)

 今日(12日)天気予報では午後3時ごろから風が強くなるが、午前中は穏やかな晴天であるという。そこで今日は午前中にウォーキングをすることした。昨日は旧農家の建物と敷地が市の公園になっている当たりを回ったが、今日は川の周りを歩くことにした。

 歩いていると前方から何か頭の上を飾っている人がこちらに向かって歩いて来ている。遠くではアメリカインディアンの羽飾りのようであったが近づいてくるとそれは何か別のもののようである。女房が「凧を担いでいるみたいだ」と言う。いよいよ近づくとそれは凧ではなく、60歳代ぐらいの男性がかぶっている帽子の後ろに縛り付けた看板であった。

 その看板には画用紙に赤色や青色のマジックペンで「女性は怖いです」と書かれている。男と女房はその男性がすれ違ったあと頬が緩んだ。「何かあったんだね」と男が言うと女房は「きっとそうだわ」と言う。それにしてもおかしな人もいるものだと思った。女房は「男の人はやさしいが、女は意地が悪い人が多い」と言う。その男性は付き合っていた女性かもしくはかみさんに、何かとんでもないことをされたのだろうか?

 昨日は7000歩ほど歩いたが、今日はちょっと距離が長い。女性は右脳が発達しているので花や小鳥や小動物などいろいろなものがよく目に付く。男性は一般的に左脳が発達しているので、路上に子犬の糞が置き去りにされているのを見ると、そのようなマナーの悪い人に憤慨したり、歩くことによる運動量のことを考えたりする。それでも男はなるべくいろいろなものに努めて関心を持つように心がけている。猫が川岸の枯れ草のところにいるのを見かけると「ミヤーオゥ、ミヤーオゥ」と猫の鳴き声を真似して、その猫の関心を引き寄せようとしたり、橋を渡るとき川鵜が向こう方から泳いでやってくる様子を暫く観察したりする。「泳ぐのが結構早いね」と女房が言う。男はその川鵜の足が水の中で前後にしきりに動く様子を想像して、心の中で可笑しがっている。

 今日は小春日和のような暖かさだった。このなるべく自然な状態にしてある川の周りのウォーキングはとても心がなごむ。一般的に「ウォーターフロント」と言われるところは風景が良い。川の周りを歩いている人々は皆景色を楽しんでいると思う。勿論寒い朝など出勤でそこを通るサラリーマンなどはそんな心の余裕はないと思うが・・。

 男と女房がこうしてウォーキングを楽しんでいる間、このような年金暮らしの年寄りを現役世代の人たちは一生懸命支えてくれている。有難いことである。堤防の補強工事の現場を通る。作業員たちが一生懸命働いている。自分たちも現役のころは年寄り世代の人たちを支えていたのであるが、こうして穏やかな日々を送っていると一層有難く思う。

 折角時間があるのだからその時間を有効に活かさなければならない。男の机の前にはTOEICなど英語のレッスンの本やCDがある。放送大学生なら有名な映画の一部を切り取って教材にした実践英語の授業を、インターネットを通じて受講することもできる。やる気さえあれば英語能力を付けることはできる。

 BSで観光名所松島をフランスから来た人に紹介している番組があった。女房は「お父さんは英語ができるのだからもっと英語を勉強して、ボランティアで観光客のガイドをしたらどう?」と言う。すこし頑張ってみようかなと男は思う。男も何か役に立つだろう。

2011年1月12日水曜日

インターネットのセキュリティ (20110112)

 男が常用しているパソコンはSONYVAIOである。メモリを買ってきて増設したので動作が速い。ところがこれまでずっと「管理者」のアカウントで使ってきた。それで何の問題もないと思っていた。しかし、セキュリティを守るためには別のアカウントを設定し、パスワードでログインし、各種作業を行うほうが良いことを知った。

 男は昨年の秋以降3年契約でノートン360を使っている。これは重要なデータをウエッブ上に保存することができる機能もある。容量は2GBまでであるがこれに保存しておけば、万一のときデータの復元ができるので安心である。

 このノートンから「管理者アカウントでは外に対してもオープンなところがあるので別の標準ユーザーアカウントを作ってそのアカウントで諸作業をしたほうが安全である」旨、アドバイスがあった。そこで男は別のアカウントを作り、そこに管理者アカウントで作っていたデータを移した。それはデータの保存のためこのパソコンに別のハードディスクを常時つないでいて、データを作成するたびにそのハードディスクにも保存していたので、そこから簡単に移すことができた。

 このブログはWordを使って書いているが、以前Wordで書いているとき文字を入力するたびその文字を書くべき所に書かれずよく飛んでいたことがあった。そういう時は外部で書いている内容をモニターされていたのではないかと男は疑っている。

 使っていたノートパソコン(Dell)の操作についてメーカーのカスタマーサービスにアドバイスをもらったことがあった。そのとき、中国の大連にあるメーカー系列の事務所から日本語が流ちょうな中国人の女性がアドバイスをしてくれて操作がうまくいったことがあった。そのとき試しにリモートで操作手順を実行してもらったことがあった。大連からリモートで男のパソコンを操作しているとき、ポインターが不規則な動きをした。Wordで入力中の文字が飛ぶときの感じはそれに似ていた。

 男は新しいアカウントで作業中、以前ハードディスクに保存していたデータの一部がすっかり抜き取られていたらしいと疑うことが起きていたことを見つけた。幸い、データはMODVD-Rにも同じものを保存していたので、ハードディスク内に復元することができた。ハードディスク内のデータの欠損(抜き取られた?)は男の操作ミスでそうなったのかもしれないが、どうも怪しい。

 記憶媒体に折角記憶していても、30年ほどで劣化のため復元できなくなるということである。パソコン内蔵のハードディスクが壊れることもある。実は男は以前Dellのノート型パソコンを使っていたが、そのパソコンのハードディスクが壊れて一部のデータを失ったことがあった。そこで記憶保存は二重三重にしておくことが是非必要である。男はブログへの投稿記事を作成の都度そのように保存することを習慣にしている。だから、データの欠損は信じられない。ノートン360でウエッブ上にバックアップ保存も行っているので安心度は向上した。ブラウザもFireFoxに変更した。これも経験して学んだことである。

 インターネットは非常に便利なツールである。これを使いこなせば自分の能力が飛躍的に拡大する。しかし、その一方で、自己責任でセキュリティを高める工夫が必要である。

2011年1月11日火曜日

贈り物を頂く(20110111)

田舎から横浜のこの家に帰ってきたら贈り物が届けられていた。それは男が田舎に帰っている間に男の中学時代の級友のある女性から贈られてきたみかん・デコポンとポンカンである。この種のみかんは値段が高いので普段口にすることは少ない。女房は思いがけない贈りものに喜んだ。

その級友とは昨年同級会があったとき会っているのであるが、それ以前の1、2年前にも老人の竹馬の友が誘ってくれて会っている。そのこともあって同級会の後、男から手紙を出していた。彼女はそれに返事を書いていなかったお詫びということで美味しいみかんを贈ってくれたのである。思いがけぬことであったので嬉しかった。それでも頂きっ放しというわけにはゆかぬ。折を見て何か小さなものをお返ししようと思う。

男より5歳も年長のある友人からもお菓子を届けられた。このところカロリーを摂り過ぎないようにしなければならないが、食事の後の一口に格好の菓子である。1、2個食べたからとてカロリーの摂り過ぎにはならないだろう。

田舎に帰ったときお歳暮を配る先の近所の方が年末・正月休みの間、それぞれ娘さんや息子さんのところに行っているので余り、それも持ち帰ったのでわが家にはその銀座鈴屋の花紋様甘納豆が2箱もある。包み紙の中が「お歳暮」となっているので今更「お年賀」にもできない。これは玄関先など寒冷なところにおいておけば腐敗することもないだろう。

そういう甘いもの沢山の状況のところに、今度は長男の嫁から「とらやの羊羹」2本入りの菓子箱が贈られてきた。これは贈りものにしても普段買ってまでして食べることはない。とらやの羊羹は特別で、誰でもこれを贈られると喜ぶ。それを今度は男と女房が頂いて喜んでいる。これは長期間保存できるので全ての甘いものが切れた後に頂くことにする。

毎年のことであるが、男と女房は長男から多額の「お年玉」を頂いている。息子たちはそれぞれのやり方で親に恩返しをしてくれている。真に有難いことである。息子たちはそれぞれ社会人になる前、尿から買ってもらったある物を今でも大切に保管している。それらは女房がパートタイムで働いているとき買ってあげたものである。

無私の真心の愛情は通じる。無私と真心の深い愛情と、間違ったことは必ず正すという厳しさの二つが人を正しく導くものである。幸い子供たちは立派に成長し、立派な社会人になり、愛情に包まれた暖かい良い家庭を築いている。それぞれの子供、男と女房の孫たちはやがて成人し、そう遠くない個々に将来巣立ってゆくだろう。

人生の最大の事業は、良い子孫を遺すことである。動物たちは本能的にそのことを行っている。人間は大脳が発達しているため余計なことを考え、行動してしまう。例え自分によい子孫を遺す機会が無い場合でも、他者に良い子孫を遺させる手助けをすることはできる。人生において何の役にも立たず、その上悪事を働く者は、決して幸せにはなれない。

人は親により、教師により、人生の師となる人が書いた書物により、人生において何か正しい役に立つことができるようになる。自分の不満の原因を他に求める人は、眼の前の宝に気が付かない。先日男は女房と散歩したとき、梅の花が咲いている枝を見つけた。花がまだ咲いていない枝の先にも、「春は枝頭にあって既に十分」感じられる。

2011年1月10日月曜日

人生とは(20110110)

 男は孫娘と孫息子に本当に久しぶり、特に孫息子には1年半ぶりに会うことができた。二男とその嫁は、男と女房は老母の介護のため盆休みと正月休みの間九州の田舎に帰っているので孫たちに会うことが少ないことを悩んでいた。そこで二男は今回は特に貸料が一日28000円もする大型のキャンピングカーを借りて、家族で大阪から九州の田舎までゆっくり旅を楽しみながらやってくることにしていた。このキャンピングカーは車内の設備がそれなりに良くできている。暖房用の電力は別のエンジンを回し、そこから供給されるように作られている。だから大雪になってもエンジンが回っているかぎり車内は暖かい。

ところがこの大雪である。結局予報で小康状態になるスポットを狙って元日10時過ぎに大阪に向かって出発しなければならなかった。出発はしたものの、小倉の手前でキャンピングカー内で一泊しなければならないような状況であった。それでも二男一家4人プラス犬1匹なんとか下関まで辿りつくことができて、そこで一泊した。翌日、呉で戦艦大和ミュージアムや呉に停泊中の潜水艦など見て尾道で一泊し、ようやく自分の家に帰り着いた。道中、孫娘や嫁が通信係となって携帯電話やメールで道中の状況を連絡して来た。

二男も投宿先のキャンピングカー内から無線LANで老人宛てにメールを送ってきた。男が若かった頃、マイカーの助手席の前に短波帯10ワットのアマチュア無線機を装着し、小学4年生だった二男を助手席に乗せて、連れて野外でアマチュア無線を楽しんだことがあった。二男はその時のことを思い出しメールにそのことを書いて来た。親が子供にしたことを、子供がまたその子供にして見せる。松尾芭蕉ではないが「人生とは子が親になり、またその子が親になることである」と、男は二男の結婚式のときその趣旨のスピーチをしたことを思い出した。あれからすでに15年経つ。人生は長いようで短い。

大晦日に男も手伝って庭先でちょっと大きめの雪だるまを二つ作った。今年春4歳になる孫息子は雪だるまの顔に石ころで目と鼻と口を作り大喜びであった。居間で孫息子は男の背中によじ登り、男の首に馬乗りになった。男が孫息子の足首を握ると孫息子は仰向けになって畳の上に両手をつき、多少難しい動作ができたことを喜び何度も何度も同じことをしたがった。その様子を二男は写真に収めた。

撮った写真は安物のプリンターで印刷して渡してあったがPicasa3でウエブアルバムに入れ、二男にメールでそのURLを知らせた。二男はキャンピングカー内でそのアルバムを見ることができた。孫娘も孫息子も将来いい齢になった頃、そのころ男は既にこの世に居ないだろうが、ウエブアルバムで自分の子供時代のことを良く知ることになるだろう。

男と女房には女の子供がいないこともあって、嫁たちを実の娘のように思っている。特に老人は嫁たちを愛しく思っている。だから息子たちに対するのと同様、嫁たちの名前は最初から敬称略の呼び捨てである。そうして年月が経ち、成長とともに絆が一層深まり、一つの家族になった。その陰には老妻の人柄、賢さが大いに影響している。勿論嫁たちもとても人柄が良い。それぞれ二人の出会いは偶然的であるが、実は眼に見えないところでお互い引き合うものがあったから一緒になったのである。それは必然的であったのである。それまで二人の息子たちは、それぞれ何人かわが家に交際相手の女性を連れて来ていた。

2011年1月9日日曜日

今年の正月は大雪だった(20110109)


  昨年の暮れに二男一家は大型のキャンピングカーで男の九州の家に帰って来た。大阪を出て途中2泊して、大晦日に帰って来る予定であったが気象庁の天気予報で大雪になることが分かり、一日早く帰ってきた。家に着いた頃から雪が降り始めた。土地の人たちは一様に例年にない大雪だと言う。キャンピングカーは道路から少し下がった玄関前に停めたので、雪かきしないと車を出すときスリップして危険である。そこで翌朝から毎朝雪かきをしなければならなかった。二男が雪に備えたグッズを買うため、男が作業用に買って使っていた膝まである長いゴム靴を履いて近くのホームセンターに行ったが、雪かき用のスコップは既に売り切れていて、やむなくステンレス製の平スコップを買って来た。

  一家は仏間を寝室にして貰うよう、男は早くから準備していた。田舎の家は元来断熱を全く考慮せず造られている。それでも襖を閉め、エアコンをかければ室内は暖かくなる。廊下の外側はアルミサッシの引き戸とガラス窓、内側は障子であるから外気に対して多少断熱効果はある。エアコンは電気店の顔なじみの女性係員が勧めてくれたダイキンが製造したものである。それは暖房を重視して設計されたものであり、加湿機能も付いている。加湿のための加水は全く不要である。この製品はなかなか良い。二男一家4人はそれぞれ敷布団を二枚重ねにし、床下からの冷気を防ぐようにして休んで貰った。

  以前、田舎では葬式や法事など何かあると親類がやって来て、仏間で飲食し、夜、其処や続きの部屋で泊る。ちょっとした家では大概そういう準備はしてある。しかし、最近は飲食は外の店ですまし、宿泊は近くのホテルなどに用意するようになっている。車社会になってからは行事が終われば飲酒していない者が運転してそれぞれ自分の家に帰るようになっている。昔は葬式も結婚式も家でその家で行っていたが、今では葬祭場やホテルなどを利用するようになって来ている。

 男の亡父が生きていた頃、亡父は町の自治委員をしていたが、委員会は自宅で行っていた。そのため家には沢山の食器類などを備えていた。自宅で会議や宴会を行えば、人間関係は一層親密になる。今の時代、そのような繋がりは希薄になっている。それでもこの田舎の町では戦前のような‘隣組’がある。

    しかし組の中での人間関係は薄く、以前隣の組のある人の葬式に男が老母(男の継母であり女房の実母)の代わりに参ったとき、その組の人は誰も行かなかったらしいということをその組の人から聞いた。結局向こう三軒両隣、よくお付き合いしている間柄でなければ、田舎の町でもお互い助け合うことは無くなっているのである。

    男と女房は老母のことがあって、近所の人には帰るたびに手土産をもって挨拶に行き、盆にはお中元を贈り、暮にはお歳暮を贈って、老妻は近所の人と電話でよく会話を交わし合っている。今回老母が世話になっている二つの福祉施設にも二男に送って貰ってお歳暮を届けた。一つはホームヘルパーを派遣してくれている施設、もう一つはデイサービスを行ってくれている施設である。何れも男性の職員が一人だけ事務所に勤務していた。

  老母と同じ組の親しくしている人たちはそれぞれ高齢であり、今年の正月はそれぞれ娘や息子の家に行って過ごしている。もう戻って来ているかもしれないが・・。

2011年1月8日土曜日

外交と防衛(終り)(20110108)


菅総理は‘本免許’を得てから、「志」を明確にし、西郷南洲のごとく「自ら安きを謀ろうとせず」この日本の為、身を捧げようとしているように見える。片や、鳩山前総理は相変わらず「友愛」を口にし、「民主党の団結の為大きな度量が必要」と言い、小沢氏にエールを送っている。それは自分の政治的立場を守ろうとする「私利私欲」であるように、老人には見える。その小沢氏は先のAPECで「中国の胡錦濤国家主席の招きに応じて胡主席と会った」と、自らインターネット番組で発言したことを、勘違いだったと訂正した。老人は昨年2月25日のこのブログ(タイトル『国の為、内閣を改造せよ』)で「馬鹿げた情報である」と書いたが、そのとおりだった。

年末年始の期間『外交と防衛』と題して、『大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に書かれていることを引用し、参考にしながらある種の思考過程としてこの記事を書いてきた。辿りついた結論は、日本国家として、日本の外交・防衛のリーダーになる人たちを養成する国家機関が必要である、ということである。リーダーになる人たちは国の外交と防衛について、外務省の‘何とかスクール’出の官僚や、外部の識者などに頼って政治を行うのではなく、自らの「志」で政治を行うことができるような資質を有していなければならないと老人は思う。何故なら、国家の意思や戦略は始終一貫したものでなければならないからである。

    その基本は、日本はアメリカや西欧諸国と価値観を共有し、またインドやベトナム、東南アジア諸国と緊密な友好関係を築き、それを維持することである。そして韓国とは歴史認識を共有できるよう、粘り強く努力することである。その上で中国、ロシア、北朝鮮とおつきあいをする。これを人間関係で言えば、親友、友達、客という関係である。日本にとってアメリカや西欧諸国は「親友」、韓国、インド、ベトナム、東南アジアは「友達」、中国やロシアや北朝鮮は「客」である。「客」が将来「友達」になり、「友達」が「親友」になることは望ましいが、そのよう関係になる時はずっと先のことであろう。21世紀中は無理かもしれない。日本人はそのように割り切って考えるべきである。


   日本のリーダーたちが、国の為命を捧げた人々の御霊が祀られている靖国神社に公式参拝することに、何の躊躇も要らない。国会で東京裁判は誤っていたと議決すればよいのだ。


  最後に前掲の本の記事のごく一部を引用してこのタイトルの記事の投稿を終える。

 東京裁判の前提となる「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいて・・(中略)・・日本軍の仕業に見せかけたものだという・・(中略)・・コミンテルンのソヴィエト共産党は、相手を貶めるためには全くのウソを平気で言い、しかも真実の如く宣伝するのは彼らの常套手段である。・・(中略)・・中国が言う盧溝橋事件の最初の一発は日本軍よりの一発であるとは全くのウソであり、それは中国共産党の教本にも誇らしく書かれている如く、毛沢東の命令で劉少奇の指揮によって撃ったものであった。また南京大虐殺も後から作った謀略デマであるのに、日本も世界もすっかり騙されていたのである。・・(後略)・・」。  日本人よ、眼を醒ませ! (終り)

2011年1月7日金曜日

外交と防衛(続き)(20110107)


 勝手に李承晩ラインを引いて、その内側に強引に日本の領土竹島を入れ、独島と称し、日本海を‘東海’と称し、国際的に承認させようとする韓国は、歴史認識を誤り、日本を誤解している。このことを日本はことあるごとに主張すべきである。その上で日本は韓国とより積極的に友好親善関係を深めて行くべきである。主張すべきことは主張し続ける、この態度が今の日本にとって大変重要である。

 中国はもっと性質が悪い。日本に対して悪意で歴史を捏造し、中国人民に対して共産党政権への求心力を高めようとしている。ロシアは日本の北方領土は「日本との戦争で勝ちとったものである」とロシア国民に説明している。「自国の領土に大統領や政府の高官が訪れるのは誰も非難することはできない」と、尤もらしいことを公然と主張している。

 近代の歴史、特に明治時代の日本を取巻く外交や軍事の歴史を、特に政治家や中央官庁の官僚は徹底的に勉強すべきである。歴史を知らずにこれらの国々に対峙することは大変危険である。外務省には通称‘チャイナスクール’とか‘ロシアスクール’があるらしいが、歴史の学習は付け焼刃では何の役にも立たないので、将来日本の指導者になるような政治家や官僚には、国家としてなにか特別な教育機関で体系的な歴史教育を施すという、何か特別な仕組みが是非必要である。

 そしてそのような特別な仕組みで歴史教育を受けた人々が‘シビリアンコントロール’の役割を担い、これらの‘特殊な’国々との「外交の手段としての軍事」を統制し、日本国として始終一貫した方針で臨むことが重要である。‘○○諮問委員会’とか‘外部の有識者’とかに国の最も重要なことを、決して任せてはならない。

 このような確固不動・強靭強烈な外交姿勢でこれらの国々に対峙する一方で、相互理解を深めるためあらゆる施策を総動員し、政府・民間・個人のあらゆるチャネルでこれらの国々との交流・友好・親善を深める、そのような態度がこれからの日本には必要である。

 前掲の本で著者・岩間 弘氏は、韓国人に最も嫌われている伊藤博文が、本当は韓国に最も良いことをし、誤解されて暗殺されたことや、日本を憎悪していた李承晩が「日本の憲兵によって爪を抜かれた」としたのは誤りであることを具体的に説明している。

  当時の大韓帝国政府は自らの失策と無力のため、李承晩も加わっている独立教会により攻撃されていた。韓国政府は「皇国協会」というテロ団を作り、この独立教会を排除する陰謀を進めた。独立教会が大集会をもって政府を糾弾しとき、政府は独立教会を弾圧し、解散命令を出し、独立教会の幹部全員を逮捕した。当時の幹部の一人であった李承晩も拷問を受け、爪を抜かれた。それを彼は「日本の憲兵隊によって爪を抜かれた」と言った。

  岩間 弘氏が著した『大東亜解放戦争』は分厚い本で、上下2巻のものである。その中で岩間氏は、現在の韓国で、往時の李氏朝鮮や大朝鮮国や大韓帝国当時、朝鮮の近代化に貢献した人々が国賊扱いにされていることを指摘している。つまり、歴史を歪曲している。その結果、北朝鮮、韓国の人々は日本に対する反感を植え付けられている。片や、日本人も東京裁判の結果、戦前までの「日本は侵略国家であった、アジアの国々に対して悪いことをした」という自虐史観を植え付けられた。どちらも両国民にとって不幸なことである。

2011年1月6日木曜日

外交と防衛(続き)(20110106)

 日朝条約が成立し、大朝鮮国は開国・開化の道を歩むことになった。後年、清国も同様であったが、大朝鮮国は日本の近代化を学ぶことになった。大朝鮮国から大規模な視察団や多数の留学生が日本に派遣された。清国も多数の留学生を日本に送り込んだ。現在中国や韓国で常用されている学術用語など多くの用語は日本で造られた用語である。

 幕末の日本同様、大朝鮮国内にも国論が分かれ抗争が起きた。大朝鮮国内では従前通りあくまで清国(当時の中国)との宗属関係を守ろうとする復古派、斬新的に開化を進めてゆこうとする穏健派と、新しい文明を積極的に取り入れ、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする急進派の三つのグループが争った。急進派は独立党、開化党とも言われた。

 そのような状況下、大朝鮮国で反乱が起き、軍事訓練を担当していた日本の堀本少尉が殺害されたり、日本公使館を襲撃されたりした反乱が起きた。そして事態鎮静のためとして清国に北洋艦隊・兵員4000名が仁川港に到着した。これに対抗して日本からも清国との衝突を覚悟の上で軍艦3隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1500名を仁川港に送り込んだ。

    日本と清国間の交渉結果、朝鮮は日本に損害賠償金を払うこと、日本に謝罪団を送ることなどの条約が締結された。しかし清国は朝鮮の高宗国王の要請に便乗し、4000人の兵隊を漢城に駐留させ、漢城を制圧した。これは今から1350年前の663年に、日本が百済救援に向かった白村江の戦いで当時の唐軍が漢城を制圧していたのと同じ状況である。

    清国の朝鮮に対する宗主権が強化され、朝鮮国内で清国兵士による乱暴狼藉が頻繁に発生した。前掲「独立党」は日本の支援を得てクーデターを起こし、新政権が樹立された。その政権の政策は国王の稟議を経て発表された。しかし新政権は3日間で崩壊した。復古派が清国軍を引き入れたからである。この時清軍により日本の磯崎大尉が殺害された。

    この後、日本と朝鮮の間で「漢城条約」(日本の全権大使・井上薫)、日本と清国の間で「天津条約」(日本の全権大使・伊藤博文)が結ばれた。

 「漢城条約」では朝鮮から日本への謝罪、賠償金の支払いなど、「天津条約」では日清両国軍の漢城からの撤退、両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しないこと、将来朝鮮に重大な変乱が発生した場合、日清両国もしくは一国が出兵する時は、互いにその旨を通告して、事が収まれば直ちに撤兵することの3項目が定められた。

    この第3項目目で日清戦争が起きた。復古派のトップ、李王朝の高宗もその妃で穏健開化派の閔妃も、朝鮮に対する日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第に親ロシア政策を打ち出すようになった。大朝鮮国の王や王妃がロシアに保護を求める秘密協定を結ぼうとする動きがあり、これを察知した清は仁川に北洋艦隊を派遣してそれを阻止した。

    朝鮮とロシアの秘密協定の動きが起こると1885年(明治18年)4月、英国東洋艦隊はロシア極東艦隊の通路を遮断するため突如として朝鮮半島南方沖海上の巨文島を占領した。

    このような動きの中、儒教・仏教・道教を一本化した「東学」を提唱するグループの軍が出現した。朝鮮の政府はこれを鎮圧するのに清国軍を引き入れた。清は日本との条約に従い日本に通告してきたが、その文の中に「属邦保護」という語があった。

2011年1月5日水曜日

外交と防衛(続き)(20110105)


前掲の『大東亜解放戦争』に明治維新後の日本と朝鮮の外交のことが書かれている。これを読むと日本が粘り強い交渉の末樹立させた大韓帝国が、それ以前何世紀もの間、清(当時の中国)の柵法体制下に慣れきっていたため独立国家としての自立はできず、日韓併合に至らざるを得なかった事情がわかる。また後年韓国初代大統領となった李承晩が日本を誤解していた事情も分かる。以下、その本に書かれていることを引用しながらこれを書く。

明治維新政府は朝鮮に対し、新政府の樹立を通告するため明治元年(1868年)12月19日、日本使節対馬藩家老樋口鉄四郎一行が釜山港に入港した。しかし大院君政権下の李朝は日本の使節が持参した国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に署名、印章ともにこれまでのものと異なっていることであった。李朝の言い分は「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味するものである。朝鮮王は中国皇帝の臣下であるというものであった。

    当時、朝鮮はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスそれぞれが朝鮮に武力攻撃を加えたとき、犠牲者を出しながらも相手側にも犠牲者を出させ、欧米・ロシア列強の侵攻を排撃し、自信をつけていた。しかし、日本は朝鮮の開国にこだわった。その理由は朝鮮がいつまでも開国を拒否したならば、欧米やロシアなどによっていずれ侵略されると思っていた。それは既に清国を含むアジア諸国が欧米列強の侵略を受けて植民地になっているところが多いのを見ても明らかであったからである。もし朝鮮も欧米列強の植民地になったら、日本としても重大なことになると思ったから、日本は朝鮮の開国にこだわったのである。

    前掲の本には日本、清国(当時の中国)、李氏朝鮮の三者の関係、李氏朝鮮から大韓帝国に政治体制が変わってゆく状況など非常に詳しい歴史が書かれている。それを読むと日本は、なかなか開国に踏み切らない李氏朝鮮を開国に向かわせるため、かつてペリー艦隊が徳川幕府に対して行った同じような手法を李氏朝鮮に対して行っていたことが分かる。

    それは軍艦・雲揚を江華島 に派遣したことである。ここで後に江華島事件と言われる小規模の戦闘が行われ、この戦闘で李朝側の戦死者35名、捕虜16名、日本側は戦死1名、負傷1名だけという犠牲者を出している。

    朝鮮側は雲揚に対して江華島砲台から激しく砲撃したが、その弾丸は雲揚には届かず、逆に応戦した雲揚からの艦砲射撃で草芝鎮台は甚大な被害を受けた。雲揚は草芝鎮台の南にある永宗島の永宗鎮台に陸戦隊を上陸させ、そこを占領し、大砲38門などの兵器を捕獲して長崎に帰着した。

    この事件を転機として対朝鮮問題は解決の方向に向かった。日本は「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。日本は参議・陸軍中将黒田清隆が全権大使となり、兵員乗組員総勢800名乗せた艦隊が江華島に上陸した。「大日本」の「大」など紆余曲折を経たのち日朝修好条約批准書に「大朝鮮国王之宝」という玉璽(ぎょくじ)が捺印され、大日本国天皇の批准が行われ、条約は成立した。しかし条文中の「自主の邦」の理解が日朝双方で異なっていた。日本の理解は大朝鮮国が清国の柵法下でなくなるということであったが、朝鮮はその言葉を日朝対等の意味であると理解していた。

2011年1月4日火曜日

外交と防衛(続き)(20110104)


1847年 (弘化四年)ロシア皇帝ニコライ1世はアヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されて、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方侵出政策を行わせた。

1853年 (嘉永六年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府は国書を正式に受け取り、翌年回答することを約束し、とりあえず日本を去らせた。

その直後、ロシア使節プーチャーチンも長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。

1854年 (安政元年)日米和親条約締結。この条約はアメリカに一方的に最恵国待遇を与える不平等な条約であった。

ペリーに次いでロシアのプーチャーチンも再び来日し、下田で日露和親条約を締結した。この条約では下田、函館のほか長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉以南を日本領、得撫(ウルップ)島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地とし、境界を決めないことにした

ついでイギリス、オランダとも同じ内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に休止符を打って開国することになった。

1858年 (安政五年)日米修好通商条約締結。大老井伊直助は孝明天皇の勅許なしに独断でこの条約を結んだ。

1860年 (万延元年)安政の大獄。

この年、第二次アヘン戦争といわれるアロー号事件で清国(当時の中国)はイギリス、フランスに敗北し、北京条約が成立したが、ロシアはその仲介に入り、その北京条約の成立を口実に、その見返りとして露清北京条約を結び、ウスリー江以東の沿海州をロシア領とすることに成功した。そしてウラジオストック港を建設し、極東・太平洋方面への侵出の拠点とした。「ウラジオストック」とは「東方支配」を意味する言葉である。

1861年 (万延ニ年)対馬がロシア艦隊に占領されたが、幕府はイギリスに頼んで半年後ロシア艦隊を退去させた。

1867年 ロシアはアメリカにアラスカを売却した。価格は720万ドルであった。

1871年 (明治四年)日清修好条規締結。これは日本が外国と結んだ最初の対等な条約で、相互に開港し、相互に領事裁判権を認め合っていた。

1873年 (明治六年)ロシアはニコライエフスク鎮守府をウラジオストックに移した。

1875年 (明治八年)樺太・千島交換条約調印。ロシアによる南樺太への進出が始まるにつれて、日露両国人雑居の地であった樺太(現在のサハリン)全島はロシアに譲り、その代償として千島全島を日本領と定めた。

1876年 (明治九年)当時アメリカとの所属問題が未解決のまま残されていた小笠原諸島についても、アメリカ政府はそれが日本領であることを正式に認めた。
 
以上が幕末から明治初期にいたる日本の歴史であり、ロシアが日本海を経て太平洋に侵出しようとする明確な意思を証明する歴史である。また中国が西欧・ロシア列強の餌食となった歴史である。アメリカの現在に至る明確な意思を推察することができる歴史である。

2011年1月3日月曜日

外交と防衛(続き)(20110103)


  ロシア・アメリカを含む列強の日本を巡る年表をここに書き留めておく。これはロシアを中心とした列強の日本及び清(当時の中国)、清の始祖の出身地・満州及び清の柵法体制下の朝鮮に関係する事項である。(記事は前掲『大東亜解放戦争』より引用)

1706年 ピョートル1世(大帝)のとき,ベーリング海峡を発見。アラスカはロシアの領有地となる。

1727年 ピョートル2世は清の雍正帝(ようせいてい)の時、キャフタ条約を結び、アルダン川よりアルタイト山脈に至るモンゴル方面での国境線を取りきめた。

1792年 (寛政五年)ロシア皇帝エカチェリーナの使節ラスクマンが根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光大夫らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は長崎に行けば入港許可証を与えるとの信牌を与えた。

1796年 (寛政八年)イギリス人ブロートンが蝦夷地室蘭に来航し、近海の海図を作成するという事件が起きた。

1798年 (寛政十年)幕府は近藤重三や最上徳内らに千島(得撫(ウルップ)島まで)を探査させた。

1799年 (寛政十一年)東蝦夷地を直轄地とした。

1802年 (享和二年)函館奉行を設けた。

1804年 (文化元年)ロシア使節レザノフがラスクマンが持ち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商を求めた。幕府は拒否した。

1806年 (文化三年)その年から翌年にかけてロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃した事件(フヴォストフ事件)が起こり、特に択捉守備兵が敗走したことから日本国内は騒然とした雰囲気になった。

1807年 (文化四年)幕府は松前、蝦夷地をすべて直轄とし、松前奉行を置いた。

1808年 (文化五年)幕府は樺太も直轄にしたが、その周囲すら不詳のため、間宮林蔵らに探査を命じた。間宮は樺太が島であることを確認し、沿海州と樺太の間を間宮海峡と名付けた。間宮は対岸の沿海州に渡り、清国の役所があるデレンまで足を踏み入れた。

1811年 (文化八年国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローニンを、彼が密かに国後を探査・測量した件で逮捕し、函館、ついで松前に計2年3ヵ月監禁した。

1812年 (文化九年)ロシア側も報復として択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を捕えた。

1813年  (文化十年) ロシア側は「ロシア軍艦による蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく。出先の軍人が行ったものである」という文書を日本側に提出し、ゴローニンは釈放された。

1840年 アヘン戦争が起きた。イギリスによるアジア侵略が始まった。

1846年 (弘化三年)アメリカ東インド洋艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。清国との貿易の船舶や捕鯨船の寄港地として開国を求め、国交と通商を要求してきたが、幕府はこれを拒否した。

2011年1月2日日曜日

『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(6)(20120102)

 “而(しか)して今申したような天・天命・命運等は固定的・静止的でなく、変化極まりないものである。この変化極まりないという意味が即ち易であります。

 その出処については略しますが、易とは「変わる」という字であります。だから易は変わらざる、予定された関係を意味する宿命(宿はとどまる)等を研究するものでは決してないのであります。易は運命を研究する。だからそれは変化を探るもの、創造変化、限りなきその実体を研究するものである。決して宿命を尋ねるものでなく、むしろ宿命を運命にする。固定的なものを動的なものにする。これが易であります。だから易(カワル)という文字を当嵌(あては)める。

 しかし易(か)わると意識することはその作用の中のどこかに、易わらざるものがあるからである。だから易は変化を表すと同時に変化の中にあるところの不変、因果の関係、その法則即ち数を表す。その意味で易は変易(へんえき)であると同時に不易(ふえき)を探るものである。

 而して我々にとってこの万物、世界ほど、無限の創造であり変化であるという直接自明のことはない。その意味ではこの造化のハタラキは最も簡単・明瞭・簡易である。だからヤスシという意味もある。

これを易の三義という。

そしてそういう易の変化に基づいて不易の数を研究して、我々の認識や自覚の上の誤謬を正す。その意味でオサメルという意味を持つ。これが易の第四義である。

かくの如く、宇宙人生の創造変化のハタラキに即して、その中にある不変の法則、因果の関係をたどって、これをよく認識、把握することにより、我々の誤謬をオサメ、タダシテ、これによって、本当に、我々の生命を延ばして行くことが出来る。だからノビル、ノバスという意味もある。その意味では、易に五義ありということになる。”(以上『安岡正篤 易経講座』より引用。)

物事の構造には表裏、上下、左右、正負、陰陽など二面性がある。物事の動きには静動、緩急、拡大縮小など二面性がある。もの後の性質にも幸不幸、運不運、寒暖などの二面性がある。その二面性のいずれの側にも真実がある。易はそういった二面性を把握してその中に存在する法則を総合的に研究しながら真理を見出すものではないだろうか。

今に生きる我々日本人は、先人達が研究し見出してきた真理の恩恵を受けている。その恩恵に気付くことがなく一生を送るというのは大変残念なことであると思う。今に生きる我々日本人は、先人に真似、先人の教えや精神をよく学なければならないと思う。

日本人が2000年かけて吸収消化して来た仏教は、「あの世」や「前世」を認める意味において宗教であるが、それ以外の教義は正しく「人間の学」である。「あの世」や「前世」の存在の有無は別として、「あの世」や「前世」が「現世」と「縁」続きであることは間違いない。「体内遺伝子」であるDNAと「体外遺伝子」である文化などはその「縁」である。

この「縁」は不思議である。起きた「幸運」なことは偶然ではなく必然であったと思い、見えざるものを畏れ、その見えざるものに素直に感謝する人には「幸運」なことが連続して起きる。まるでそれはその人が神通力をもっていて自在に天地を動かしているかのようである。謙虚、素直、誠実であることは幸運をもたらす。

その人に起きた「不幸」でも見方を変えればその人にとって「幸運」に変わる。ただ、その二面性に気付かなければ「不幸」はいつまで経っても「不幸」である。
易はそういったことを教えるものではないだろうか?筮竹の卦も解釈次第だということではないだろうか?                           (続く)
『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(6)(20120102)
 “而(しか)して今申したような天・天命・命運等は固定的・静止的でなく、変化極まりないものである。この変化極まりないという意味が即ち易であります。

 その出処については略しますが、易とは「変わる」という字であります。だから易は変わらざる、予定された関係を意味する宿命(宿はとどまる)等を研究するものでは決してないのであります。易は運命を研究する。だからそれは変化を探るもの、創造変化、限りなきその実体を研究するものである。決して宿命を尋ねるものでなく、むしろ宿命を運命にする。固定的なものを動的なものにする。これが易であります。だから易(カワル)という文字を当嵌(あては)める。

 しかし易(か)わると意識することはその作用の中のどこかに、易わらざるものがあるからである。だから易は変化を表すと同時に変化の中にあるところの不変、因果の関係、その法則即ち数を表す。その意味で易は変易(へんえき)であると同時に不易(ふえき)を探るものである。

 而して我々にとってこの万物、世界ほど、無限の創造であり変化であるという直接自明のことはない。その意味ではこの造化のハタラキは最も簡単・明瞭・簡易である。だからヤスシという意味もある。

これを易の三義という。

そしてそういう易の変化に基づいて不易の数を研究して、我々の認識や自覚の上の誤謬を正す。その意味でオサメルという意味を持つ。これが易の第四義である。

かくの如く、宇宙人生の創造変化のハタラキに即して、その中にある不変の法則、因果の関係をたどって、これをよく認識、把握することにより、我々の誤謬をオサメ、タダシテ、これによって、本当に、我々の生命を延ばして行くことが出来る。だからノビル、ノバスという意味もある。その意味では、易に五義ありということになる。”(以上『安岡正篤 易経講座』より引用。)

物事の構造には表裏、上下、左右、正負、陰陽など二面性がある。物事の動きには静動、緩急、拡大縮小など二面性がある。もの後の性質にも幸不幸、運不運、寒暖などの二面性がある。その二面性のいずれの側にも真実がある。易はそういった二面性を把握してその中に存在する法則を総合的に研究しながら真理を見出すものではないだろうか。

今に生きる我々日本人は、先人達が研究し見出してきた真理の恩恵を受けている。その恩恵に気付くことがなく一生を送るというのは大変残念なことであると思う。今に生きる我々日本人は、先人に真似、先人の教えや精神をよく学なければならないと思う。

日本人が2000年かけて吸収消化して来た仏教は、「あの世」や「前世」を認める意味において宗教であるが、それ以外の教義は正しく「人間の学」である。「あの世」や「前世」の存在の有無は別として、「あの世」や「前世」が「現世」と「縁」続きであることは間違いない。「体内遺伝子」であるDNAと「体外遺伝子」である文化などはその「縁」である。

この「縁」は不思議である。起きた「幸運」なことは偶然ではなく必然であったと思い、見えざるものを畏れ、その見えざるものに素直に感謝する人には「幸運」なことが連続して起きる。まるでそれはその人が神通力をもっていて自在に天地を動かしているかのようである。謙虚、素直、誠実であることは幸運をもたらす。

その人に起きた「不幸」でも見方を変えればその人にとって「幸運」に変わる。ただ、その二面性に気付かなければ「不幸」はいつまで経っても「不幸」である。
易はそういったことを教えるものではないだろうか?筮竹の卦も解釈次第だということではないだろうか?                           (続く)
外交と防衛(続き)(20110102)


    明治維新前、欧米・ロシア列強諸国は先を争ってアジアを侵略し、植民地化しており、座視していれば日本も白人たちの国々の餌食になりかねない状況であった。日本は国の政治の権限を天皇陛下に奉還し、非常に短い期間でそれら列強に伍する力を付け、逆に植民地化を阻止し、解放する戦いに挑んだ。そしてその戦いには非常に多くの犠牲者を出して1945年8月15日、最終的に降参した。降参したが、「アジアの国々の植民地化の阻止、植民地からの解放」の目的は達成した。

    1919年2月、国際連盟規約委員会において大日本帝国全権大使・牧野伸顕氏は国際連盟の規約に人種的差別撤廃の条項を入れるように提案した。国際会議において人種的差別を明確に主張したのは日本が初めてであった。しかし、この提案は多くの植民地を有するイギリスや白豪主義をとるオーストラリアなどから猛反対された。紆余曲折を経たのち修正案は16票中11票の賛成があり、日本の提案は採択される寸前まできた。しかし、議長国アメリカが「全会一致すべきせる」と主張して結局日本の提案は実現しなかった。

    そのような歴史的事実が示すように日本はアジアの国々が国際社会において平等に扱われるよう努力し、結局310万人の戦死・戦没者を出してアメリカとの戦争には敗れ、アメリカを中心とし、中国やロシアなども参加した「戦勝国」に降参した。しかし戦争の目的は達成した。その目的とは「アジア諸国を植民地から解放する」という目的であった。

     しかし東京裁判において、日本は「侵略国家」という「烙印」を押され、日本人は委縮してしまった。陰謀や不法な侵略により東京裁判で日本を「侵略国家」にすることに成功した中国やロシアは、その時点を出発点として太平洋の防波堤のような日本を弱体化し、太平洋をアメリカの海から、中国やロシアの海にしようとする意思を実行する遠大な行動を開始した。ロシアは不法に日本の北方領土を占拠し、実効支配し、決して手放そうとはしない。中国は隙あれば太平洋に進出しようと実行動に出始めた。韓国さえも我が国固有の領土である竹島をしっかり押さえ、対馬をも支配しようと考えている。

    日本は植民地を解放したという目的を達成したが、日本国民はそれが「侵略」であったと「思い込まされ」た。それは日本をずっと将来に渡ってアメリカの傘下に置いておこうというアメリカの戦略的意思を実行する戦術でもあったと老人は思う。吉田元首相は日本が戦争に負けたことが必ずしも悪いことばかりではなかったと言ったと言う。アメリカに降参した結果、今日の日本がある。

    日本一国の力では中国やロシアや「朝鮮」には対抗できない。例え日本が核兵器を持ったとしてもアメリカとの連帯なしには、大陸からの圧力に日本は抗し得ないだろう。日本は未来永劫アメリカや西欧という日本と価値観を共有し得る。しかし、中国やロシアや「朝鮮」とは今後何世紀経っても価値観の共有はできないであろう。勿論、これらの国々との間の貿易は盛んになり、一衣帯水状況は深化するだろう。人民同士のレベルでは友好関係は一層深まるだろう。しかし、性格の合わない人同士は親友にはなれないように、日本はこれらの国々とは親友になれない。そのことを日本国民は自覚すべきである。「友好の海」はあるだろうが、決して「友愛の海」は有り得ないのだ。

2011年1月1日土曜日

『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(5)(20120101)

“そしてこの命(めい)とは絶対的のハタラキであるが、人間に与えられたところの知性という機能を以てこれを研究すると、その中の種々の素質や種々の関係、原因、結果というような関係、そういう複雑なものが含まれている。

天の中、命(めい)の中に含まれているその内容、その内容の関係、成立関係、こういうものを数(すう)と申します。普通には単なるカズと思いますが、カズは数(すう)の一部分に過ぎないので、数(すう)本来はもっと種々な厳粛な深い意味を持っています。

したがって、我々が幾歳まで生きたかという生命の数(カズ)は極めて他愛のないことであります。命数(めいすう)という時には、我々の絶対的な人生の営みの中にある複雑微妙な内容や因果関係等をさす。また、天命(てんめい)、天数(てんすう)ともいう。

そしてそれを考察すればするほど複雑微妙であります。とんでもない原因から思い掛けない結果を生じたり、貴族富豪に生れて誰もが予測も出来ないような過程を経て、劇的な悲惨な生活に沈淪(ちんりん)(注:沈淪は「おちぶれること」という意))したり、人生は実に多種多様であります。この常識を無視した、どちらかといえば悲劇的な成り行きといったようなものを数奇(すうき)というのであります。

だから因果関係、因果律等は当然数(すう)の中に入るのであります。そういう宇宙人生の作用、営みというものは変化して已まぬもので、決して静止的・固定的ではない。その意味で運(うん)という。

即ち天(てん)は、造化はダイナミックなもの、変化極まりないものであるから運(うん)という。・・(後略)”

天皇は古来神道を護持して来られ今上天皇も宮中で神道の祭祀を行っておられる。天皇は神武天皇以来万世一系男系の血統だけではなく、御霊統でもある。日本が日本であるということはそういうことである。戦後ある進歩的文化人によるGHQへの告げ口によって、衆参両院で教育勅語を廃止する議決を余儀なくされ、日本の精神文化・伝統文化という「対外的遺伝子」は大きく傷ついた。今直ちにこれを修復させないと、日本は日本でなくなってしまうだろう。民主党や公明党などが推進する外国人参政権とか、民主党のように党代表選で外国人の投票を認めるとか、そういった動きは日本の存続にとって大変危険である。 

人間でもDNAのほか生まれてこのかた身についたものがある。生まれてこのかた身に付いたものは、いうなれば「体外遺伝子」のようなものである。結婚して子供ができればDNAとともにその「体外遺伝子」が子供に伝わる。人間の集合の「国」のレベルでもそれは同じである。日本人の生来の情報、それは「体内遺伝子」であるDNAに基づくもののほか、「体外遺伝子」が作用する。

北朝鮮がどうなるかわからない状況、中国が膨張している状況は日本という国にとって危険な状況である。日本の「体外遺伝子」が戦後大きく傷ついてしまっている状況では、日本はもたない。数年後に日本が存続できるのか亡国の道を歩むのか、今その瀬戸際にあるのである。日本人よ目覚めよ!これは自ら余命10年前後と思っている一老人のつぶやきである。                               (続き)
『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(5)(20120101)

“そしてこの命(めい)とは絶対的のハタラキであるが、人間に与えられたところの知性という機能を以てこれを研究すると、その中の種々の素質や種々の関係、原因、結果というような関係、そういう複雑なものが含まれている。

 天の中、命(めい)の中に含まれているその内容、その内容の関係、成立関係、こういうものを数(すう)と申します。普通には単なるカズと思いますが、カズは数(すう)の一部分に過ぎないので、数(すう)本来はもっと種々な厳粛な深い意味を持っています。

 したがって、我々が幾歳まで生きたかという生命の数(カズ)は極めて他愛のないことであります。命数(めいすう)という時には、我々の絶対的な人生の営みの中にある複雑微妙な内容や因果関係等をさす。また、天命(てんめい)、天数(てんすう)ともいう。
 そしてそれを考察すればするほど複雑微妙であります。とんでもない原因から思い掛けない結果を生じたり、貴族富豪に生れて誰もが予測も出来ないような過程を経て、劇的な悲惨な生活に沈淪(ちんりん)(注:淪は「おちぶれること」という意))したり、人生は実に多種多様であります。この常識を無視した、どちらかといえば悲劇的な成り行きといったようなものを数奇(すうき)というのであります。

 だから因果関係、因果律等は当然数(すう)の中に入るのであります。そういう宇宙人生の作用、営みというものは変化して已まぬもので、決して静止的・固定的ではない。その意味で運(うん)という。

 即ち天(てん)は、造化はダイナミックなもの、変化極まりないものであるから運(うん)という。・・(後略)

 天皇は古来神道を護持して来られ今上天皇も宮中で神道の祭祀を行っておられる。天皇は神武天皇以来万世一系男系の血統だけではなく、御霊統でもある。日本が日本であるということはそういうことである。戦後ある進歩的文化人によるGHQへの告げ口によって、衆参両院で教育勅語を廃止する議決を余儀なくされ、日本の精神文化・伝統文化という「対外的遺伝子」は大きく傷ついた。今直ちにこれを修復させないと、日本は日本でなくなってしまうだろう。民主党や公明党などが推進する外国人参政権とか、民主党のように党代表選で外国人の投票を認めるとか、そういった動きは日本の存続にとって大変危険である。 

 人間でもDNAのほか生まれてこのかた身についたものがある。生まれてこのかた身に付いたものは、いうなれば「体外遺伝子」のようなものである。結婚して子供ができればDNAとともにその「体外遺伝子」が子供に伝わる。人間の集合の「国」のレベルでもそれは同じである。日本人の生来の情報、それは「体内遺伝子」であるDNAに基づくもののほか、「体外遺伝子」が作用する。

 北朝鮮がどうなるかわからない状況、中国が膨張している状況は日本という国にとって危険な状況である。日本の「体外遺伝子」が戦後大きく傷ついてしまっている状況では、日本はもたない。数年後に日本が存続できるのか亡国の道を歩むのか、今その瀬戸際にあるのである。日本人よ目覚めよ!これは自ら余命10年前後と思っている一老人のつぶやきである。                               (続き)