2011年1月21日金曜日

時に思う(20110121)

 今日(20日)もよいお天気である。男は女房と一緒にバスに乗って新横浜駅ビル内の高島屋まで買い物に行った。田舎の親戚の一周忌にご仏前とは別に菓子折りを一つ送るためと、男の田舎の友達にお返しの贈り物をするためである。友達には結局、銀座鈴屋の甘納豆にした。御歳暮に贈ったものと全く同じものである。

その御歳暮は結局独り暮らしの年老いた近所の方々が正月休みの間それぞれ子供の家に行ったため余ってしまい、包み紙が「御歳暮」になっているため「御年賀」に変えるわけにもゆかずこちらに持ち帰り、老妻と二人でお茶の友に食べてしまったが・・。

お昼になったので外食しようかとも考えたが、いなりずしなどそれぞれ注文して持ち帰ることにした。高島屋の八百屋には美味しそうな新鮮な野菜や果物が並べられている。有名な氷見の寒ブリも売っている。それらを買ってちょっと荷物が多かったがまたバスに乗り、家に帰った。そして老夫婦二人だけでゆっくり寛いでいなりずしや巻きずしを食べた。

家の近くのスーパーは安いものがたくさん売られている。安くても品物がよいものがある。「おいしい牛乳」とか「ブルガリアヨーグルト」「甘塩さけ切り身」などは安いが品物は良い。値段が安く、表示に「糖度13%」と書かれている愛媛みかんを一袋買ってみたが、甘さは砂糖のようで果実の甘さはなく、ちっとも美味しくないことが何度もあったので、そこではみかんは買わないことにした。家から歩いて15分ぐらいのところに大小幾つかのスーパーがあるので、それぞれ特徴がある安くても品物が良いものを買うようにしている。高島屋のものは少し値段が高いが、品物は文句なしに良い。

スーパーの近くで‘ヒューマン’である男が「ヒューマン・ウオッチング」をする。男たちは皆「オス」、女たちは皆「メス」に見える。齢の行った小汚い太めの「オス」たちは、マウンテンゴリラのオスのようなイメージを与える。齢の行った「メス」たちは、「オス」たちを恐れながらも群れの中で安心を得ているように見える。

それに比べ小綺麗な若い男女や子供たちは「オス」でも「メス」でもなく、そのような動物の範疇に遠い存在のように見える。なぜ齢の行った男女が「オス」や「メス」に見えるのか、男は自分のことを棚に上げて考えてみた。

実際に童貞であるか処女であるかは別として二十歳前後の男女や、思春期の少年少女や子供たちは、人生はまだこれから成長してゆくのであり、これから実社会で揉まれることになるのである。一方、結婚し、子供を持ち、社会で揉まれてゆくうちに徐々に新鮮味が薄れ、5060歳ともなれば徐々に清潔味が薄れてゆく。7080の爺さん、婆さんともなれば、老臭も増え、動きも鈍くなり、齢若い「動物」のような美しさも無くなってくる。

それでもお寺で仏教の修行に励んでいる人たちや、白衣を着ている医療関係者たちや、軍服姿のミリタリーマンたちなどは、よい表現の言葉が浮かばないが、年齢に関係なく「凛」としている。「凛」とは「きりりと身の引き締まるさま」のことである。彼らに共通的なイメージは「知性」「気品」「教養」などである。

してみると、男が「オス」とか「メス」に見える「ヒューマン」は、そういう特徴が薄い人たちなのであろう。男は自分の最期のときまで「凛」してありたいと思っている。