2011年1月11日火曜日

贈り物を頂く(20110111)

田舎から横浜のこの家に帰ってきたら贈り物が届けられていた。それは男が田舎に帰っている間に男の中学時代の級友のある女性から贈られてきたみかん・デコポンとポンカンである。この種のみかんは値段が高いので普段口にすることは少ない。女房は思いがけない贈りものに喜んだ。

その級友とは昨年同級会があったとき会っているのであるが、それ以前の1、2年前にも老人の竹馬の友が誘ってくれて会っている。そのこともあって同級会の後、男から手紙を出していた。彼女はそれに返事を書いていなかったお詫びということで美味しいみかんを贈ってくれたのである。思いがけぬことであったので嬉しかった。それでも頂きっ放しというわけにはゆかぬ。折を見て何か小さなものをお返ししようと思う。

男より5歳も年長のある友人からもお菓子を届けられた。このところカロリーを摂り過ぎないようにしなければならないが、食事の後の一口に格好の菓子である。1、2個食べたからとてカロリーの摂り過ぎにはならないだろう。

田舎に帰ったときお歳暮を配る先の近所の方が年末・正月休みの間、それぞれ娘さんや息子さんのところに行っているので余り、それも持ち帰ったのでわが家にはその銀座鈴屋の花紋様甘納豆が2箱もある。包み紙の中が「お歳暮」となっているので今更「お年賀」にもできない。これは玄関先など寒冷なところにおいておけば腐敗することもないだろう。

そういう甘いもの沢山の状況のところに、今度は長男の嫁から「とらやの羊羹」2本入りの菓子箱が贈られてきた。これは贈りものにしても普段買ってまでして食べることはない。とらやの羊羹は特別で、誰でもこれを贈られると喜ぶ。それを今度は男と女房が頂いて喜んでいる。これは長期間保存できるので全ての甘いものが切れた後に頂くことにする。

毎年のことであるが、男と女房は長男から多額の「お年玉」を頂いている。息子たちはそれぞれのやり方で親に恩返しをしてくれている。真に有難いことである。息子たちはそれぞれ社会人になる前、尿から買ってもらったある物を今でも大切に保管している。それらは女房がパートタイムで働いているとき買ってあげたものである。

無私の真心の愛情は通じる。無私と真心の深い愛情と、間違ったことは必ず正すという厳しさの二つが人を正しく導くものである。幸い子供たちは立派に成長し、立派な社会人になり、愛情に包まれた暖かい良い家庭を築いている。それぞれの子供、男と女房の孫たちはやがて成人し、そう遠くない個々に将来巣立ってゆくだろう。

人生の最大の事業は、良い子孫を遺すことである。動物たちは本能的にそのことを行っている。人間は大脳が発達しているため余計なことを考え、行動してしまう。例え自分によい子孫を遺す機会が無い場合でも、他者に良い子孫を遺させる手助けをすることはできる。人生において何の役にも立たず、その上悪事を働く者は、決して幸せにはなれない。

人は親により、教師により、人生の師となる人が書いた書物により、人生において何か正しい役に立つことができるようになる。自分の不満の原因を他に求める人は、眼の前の宝に気が付かない。先日男は女房と散歩したとき、梅の花が咲いている枝を見つけた。花がまだ咲いていない枝の先にも、「春は枝頭にあって既に十分」感じられる。