2011年2月17日木曜日

武士道(続)(20110217)

 新渡戸稲造は「名誉」について、「名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった」と言い、「およそ侮辱に対して人はただちに憤慨し、死をもって報いた。ところが一方で名誉は、たとえそれが虚名や世間一般の阿諛(あゆ)にすぎないようなものまでも、この世の中で‘最高の善’として称賛された」と言っている。

ここで言われる‘最高の善’の「善」は、「すぐれたこと、このましいこと、たくみなこと」という意味(広辞苑)であって、「正しいこと、道徳的にかなったこと、よいこと」という意味(同上)ではないと思う。だから新渡戸稲造は「もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた」と言い、「寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人はごく稀であった」と言っている。

「武士道」における「名誉」とは、「人に笑われないようにする」「体面を汚さないようにする」「恥ずかしいことはしない」という意味が大きい。それゆえ、武士は「名誉」をかちとるため、新渡戸稲造が言うように「苦痛と試練に耐えるために」必要なことであったのである。このことは、「武士」でなくても人間誰でも同じである。名誉欲は、性欲、食欲、知識欲など普通の人間が持っている各種欲望の一つである。

昔「武士」には、その地位と特権ゆえに「名誉」が重んじられた。今の時代の「武士」である政治家、国家公務員、地方公務員、自衛官、警察官、海上保安官、消防官、税関検査官、国公立学校や私立小中高校・大学の教師などにはそれなりの地位と特権が与えられ、それなりの「名誉」が重んじられていると思うが、今の時代のこれらの人びと、今の時代の「武士」たちは、もしかして自分たち以外の一般大衆にたいして何かおもねってはいないだろうか? 別の言い方をすれば、一般大衆に「すり寄りすぎて」いないだろうか? 

今の時代の「武士」たちは、それなりの衿恃をもって、それぞれの「名誉」を重んじ、言動を制御して欲しいと思う。小沢氏は自分の側近が3名も起訴された。国会においてその不始末を説明しようともしなかった。そのうえ、インターネットができる人たちだけに向かってしゃべりまくっている。彼に「武士」としての「衿恃」があるとは思えない。鳩山元首相も「真意が伝わっていない」と弁解しているが、「普天間の海兵隊が‘抑止力’と言ったのは‘方便’であった」と言った。彼に「武士」としての「衿恃」があるだろうか?

今こそ心ある今の時代の「武士」たちは目覚め、この日本の未来のために、次の世代の人たちによい贈り物をするために立ち上がり、しっかり働いて頂きたいと願う。

2011年2月16日水曜日

武士道(続)(20110216)

 「武士道と商人道とは何が違うか」。このサブタイトルで新渡戸稲造は言う。「封建時代の日本の商人は仲間内で道徳律をもっていた。またそういうものがなくては、たとえ未熟な発達の程度であれ、株仲間、相場、裏判、手形、為替などのような基本的な商業制度を発達させることはできなかった。しかし、彼らの職業以外の人びととの関係においては、商人たちはその身分に与えられた世評どおりの接し方をした」と。

 ところが「正直がカネになる」、「‘正直’は‘名誉’や‘誠’につながる考え方である」ということであることを「武士」たちが理解し体得していたなら、「武士」たちの「誠」の観念は違ったものになったのではないかと新渡戸稲造は考えたようである。新渡戸稲造は「実際のところ、正直の観念は名誉と分かちがたく混合している。‘正直’のラテン語とドイツ語の語源は、‘名誉’と一致する」と言っている。正直であるということは名誉につながるのである。

 トヨタは、ブレーキ問題で社長自らアメリカ議会の公聴会に出席し、誠意ある態度で問題の解決に努力した。結局トヨタ車には一切の欠陥がなかったことが判明した。アメリカ運輸省は去る8日、プリウスなどのトヨタ車で意図しない急加速が発生した問題に対して「電子制御系に欠陥はなかった」という結論を明らかにし、運輸長官自ら自分の娘にトヨタ車を購入するように勧めたという。トヨタは名誉を回復することができたのである。

信用を得るまでには長い年月の地道な、誠実な努力の積み重ねが必要であるが、信用を失うのはたった一つの不誠実や、不正直な言動によることは間違いない。今の「武士」である政治家たちは、このことをしっかり胸に刻んで、日々努力してもらわねばならぬ。

幕末の地下浪人(先祖が郷士の株を売ったため元下級武士の身分であったが浪人となった者)・岩崎弥太郎が大成功を収めて、今の三菱財閥の基礎を築くことができたのは、岩崎弥太郎が商人道と武士道の両方の精神を持っていたからだと思う。
 
  実際、現在世界で活躍している日本の企業は、自然に武士道の「仁」「礼」「智」「信」の精神を実践しているようである。武士道の「義」と「勇」の部分は、国際関係の中で政府との調整、協同が必要である。「武士」の心である「刀」は、個々の「武士」たちにとっては権力や権限であるが、国家として見た場合、それは「軍事力」「警察力」「海上保安警備力」「消防力」などに他ならない。「武士道」は間違いなく日本再生の道である。
 
  元海上保安官・一色正春氏が初めて公の場で発言した。その会場には東京都知事・石原慎太郎氏も顔を見せていて、一色氏に「国民を代表して、敬意と感謝の気持ちを伝えたい」という趣旨の挨拶をした。尖閣諸島の中国漁船衝突問題で、当時の政府に「武士道」の精神は全く無かった! このことは真剣に反省して貰わなければならぬ。

2011年2月15日火曜日

武士道(続)(20110215)

 第七章「誠」――なぜ「武士に二言はない」のか――。「真のサムライは「誠」に高い敬意を払う」。新渡戸稲造は、そのように言っている。

 「武士」の立場にあった元総理は、「Trust me(私を信じてくれ)」と言って、二言になることを恥じ、総理の座から降りた。今、「武士」の立場にある菅総理も、「二言」に苦しんでいる。この日本国の経営のため、菅政権は国会で来年度予算案を何とか通して、関連法案の一部も何とか通して、国民との約束において「二言」無きようにするため、改めて国民に信を問うしかないだろう。

 新渡戸稲造の『武士道』という本に、「武士の言葉は重みをもっているとされていたので、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行された。むしろ証文は武士の体面にかかわるものと考えられていた。‘二言’つまり二枚舌のために死をもって罪を償った武士の壮絶な物語が数多く語られた。‘誓うなかれ’というキリストの明らかな教えを絶えまなく破っている大方のキリスト教徒とちがって、真のサムライは誠に対して非常に高い敬意を払っていた。そのため、誓いをすることをみずからの名誉を傷つけるものと考えていた」と書かれている。

 民主党のマニフェストには、ともかく政権を取る目的のため、実現困難、または不可能、または実施することが必ずしも国民のため、日本国のためにならぬことが書かれている。マニフェストは選挙民に対する公の約束である。約束した以上、何としてでも約束を果たそうとするのは、「武士」的である。しかし、民主党は、その「約束」をしたとき、「誠」の精神があっただろうか? 「とにかく政権をとればよい、言い換えれば‘とにかく儲ければよい’」というような「商人根性」があったのではないか?

 日本国民は、この2年間で非常に良い経験をした。経験は最良の学習である。今、野党の自民党、公明党などは民主党の失敗の経験から学び、旧弊から脱出しなければ日本国民にとって不幸である。

 政治家や官僚や「官」とつく職名の公務員などは、今の時代の「武士」である。「武士」は新しい「武士道精神」を持たなければならない。新しい「武士道精神は何か」、昔の武士たちが思索しながら「武士道精神」を身につけていったように、今の時代の「武士」は、先ず、新渡戸稲造の『武士道』から学び始め、思索を進めて行ったらよいと思う。

 イタリア人のザッケローニ監督が「武士道について学びたい」と言っているのに、日本人自身が「武士道」につて表面的なことだけしか知らなのは情けない。少なくとも、今の時代の「武士」の立場にある者は、「武士道」精神について真剣に学んで欲しいと思う。
 今の時代の「武士」たちが、「武士道」精神を身につけるようになれば、「武」の重要性も体得的に理解することができ、ロシアも中国も日本を軽く見下すような態度を取ることは出来なくなるだろう。『武士道』にこそ日本再生の道があるのだ!

2011年2月14日月曜日

武士道(続)(20110214)

 東京発信の「ギャル」が一つの文化として世界中に広がりつつある。遠くはイスラム教の中東の国にも「ギャル」が出現した。シンガポールのある街角は、まるで東京の渋谷、原宿のような雰囲気で、若い女性たちが「ギャル」になることに憧れ、そこに集まって来ている。店には東京で売られている「ギャル」向けの衣装やアクセサリーや化粧品などが、まるで渋谷や原宿の店のような雰囲気で店頭に並べられている。日本のアパレルメーカーは、シンガポールを拠点にして中国などに「ギャル」文化の進出を図ろうとしている。

 「ギャル」は「創られる」ものである。「盛る」と言うらしいが、化粧品や付けまつげなどで「盛って」顔を創る。「盛られた」顔は別人のように美しく、可愛くなる。衣装、アクセサリーなどを芸術的センスで選び、身につけ、ごく普通の娘さんがスターのように変身する。最近の日本の「ギャル」は、「大人」の雰囲気を漂わせるようになったらしい。化粧や付けかつげやなどについて、非常に高度な専門的知識と技術を見つけた日本の女性が、世界の「ギャル」たちから尊敬されている。「日本に行きたい」「日本語を学びたい」という若者・女性が沢山いる。日本は彼らの憧れの国である。

 さて、「ギャル」と「武士道」と何の関係があるのかと、疑問を持たれるかもしれない。新渡戸稲造の『武士道』第六章「礼」にこう書いてある。サブタイトルは「人とともに喜び、人とともに泣けるか」である。そして彼は言う。「礼とは他人に対する思いやりを表現すること」であると。また、こうも言っている。「私は、流行でさえ、単に虚しい気まぐれだとは考えていない。それとは逆に、流行とは美を求める人間の心の絶えまない探究そのものであるとみなしている」と。

 日本の若者たちは、「他者への思いやり」を表現している音楽、歌、それも日本人のアーティストが作詞・作曲した音楽・歌に非常に共感し、外出時は最新のプレーヤーを携行してそれを聴いている。漫画『ワンピース』もそうであるが、日本の若者たちが共感しているものは、「武士道」など日本の古い、しかし伝統的な価値観とは一見無縁のようであるが、実はそうではないのである。

 今、この国を動かしているオジサンたちは、日本の古い、しかし伝統的な価値観を非常に重要なものであると意識もせず、一方で、若者たちの上記のような文化にも深い関心、あるいは共鳴がないのではないだろうか? 漫画好きオジサン・麻生元総理は、国費をかけてアニメ文化発信の拠点を建設しようとしたが、政権が変わり、それは「ハコモノ」として斬り捨てられてしまった。

 私は日本の若者の文化の中にも、日本の古い、しかし伝統的な精神があると考えている。新渡戸稲造の言葉を借りれば、「人とともに喜び、人とともに泣ける」という武士道の「」の根本の精神が、若者の文化の中にあると思う。だから、東京が元祖である「ギャル」や「J-POPや、「アニメ」が、若者の間に人気を呼び、世界に広まっているのである。

2011年2月13日日曜日

武士道(続)(20110213)

 新渡戸稲造は、当時の日本が日本の文化について欧米先進国から見下されていたことを意識してか、武士道の精神についてイギリスやドイツなどの学者・知識人の名前を出し、その言を引用して武士道について説明をしている。新渡戸稲造は、著書『武士道』第五章「仁」―人の上に立つ条件とは何か―の項で、シェイクスピアとかフリードリッヒ大王を引き合いに出し、「仁」について次のように書いている。

 「プロシア王・フリードリッヒ大王(1712-1778)は‘朕は国家の第一の召使いである’と言ったが、あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、出羽米沢藩主・上杉鷹山(1751-1822)は正に同一の宣言をしていたのだ。‘国家人民の立てたる君にして、君に立てたる国家人民には之無候’と。封建君主は自分の家臣に対しては相互的な義務を負っているとは考えなかった。しかしながら祖先や天に対しては高い責任をもっていた。」

 新渡戸稲造はまた、東西の名を残した人物、例えばアダム・スミス(1723-1790)、熊谷次郎直実(?-1208)、滝沢馬琴(1767-1848)、白河楽翁(1758-1829)、ケルナ―(1791-1813)らを引き合いに出し、「戦いの恐怖の真只中で他者への哀れみの心に貢献したのは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対するたしなみがそれをなした。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重する謙虚、慇懃(いんぎん)さが礼の根源である。」と書いている。「仁」の心は「礼」の根源となるのである。

 新渡戸稲造は、「簡潔で、警句的な要素を盛りこみやすい日本の詩の形式は、素朴な感情を即興的にうたいあげることに特に適している。どのような教育程度の人であっても、和歌俳諧をものにすることができ、かつその愛好者たり得るのである。合戦の場に赴く武士が立ちどまり、腰から矢立をとりだして歌を詠むことは稀なことではなかった。」と言う。

 先の大戦で戦地に赴く兵士が所持することが奨励されていたものは『万葉集』であったという。作家・阿川弘之氏は広島高等学校時代に使っていた昭和13年刊行の『万葉集』を戦地に持って行ったという。

 戦後理工系大学が重要視され、政治家にも理工系大学出身者が多い。高等学校でも日本の歴史や文化に関する教育が重要視されない状況であるので、本来ならば少なくとも3年以上は教養課程で学び、日本人として必要な日本の歴史や文化について良く学ぶ時間が必要であるが、現状はそうなっていない。菅総理が「許し難き暴挙」と言ってロシアの感情的反発を招いてしまったのは残念である。日本は教育のあり方を見直す必要があると思う。
 

2011年2月12日土曜日

武士道(続)(20110212)

 台湾に純日本式の旅館「加賀屋」がオープンして数カ月を経た。接客係の従業員は殆ど台湾人である。彼女らは和服を着こなし、日本の「おもてなし」の心と日本式の接客マナーについて徹底的に教育・訓練を受けた。宿泊客は台湾人が圧倒的に多いという。

 この「おもてなし」の文化は、茶の湯「茶道」に発する。しかし、茶の湯が武士の間に広まる前に、茶の湯の文化の素地はすでに400年間続いた平安時代に出来あがっていた。もっとさかのぼれば万葉集の時代にその素地の元がある。

万葉集に収められている歌には作者が経験していた日常の状態が、例えば妻の死などによって崩れ、その非日常の状態にある自分の思いを歌にしたものがある。抒情といっても単なる抒情ではない。センチメンタルな歌と言えばそれまでであるが、其処には日本人独自の感じ方が見事に表現されている。たとえば、巻二、207の柿本人麻呂の歌では、人麻呂が旅先で妻の死を知らされ、どうしてよいか自分の感情の整理がつかず、「ひとりだに似てし行かねば すべをなみ妹(いも)が名呼びて 袖ぞ振りつる」と詠っている。

また、巻二、148の倭大后(やまとのおおきさき)の歌では、「青旗の 木幡(こはた)の上を 通ふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも」と「大君(天智天皇)の魂が抜けだして山(木幡山)の上を漂っていることが目に見える」と詠っている。これは正に非日常的である。

古来、日本人は自然の風景の中に「非日常的な空間と時間」を意識してきた。「茶湯」や「生け花」の文化はその典型である。日本人の「おもてなしの心」は、その文化の中で日本独自なものとして発展してきた。

 「武士道」とその「おもてなし」の心とは、どのような関係があるだろうか? 新渡戸稲造の本にはそのとについて何も書かれていない。しかし、私は「武士道」と「おもてなしの心」の間には深い関係があると思っている。

「おもてなしの心」の根本には「一期一会」の精神があると思う。二度と巡って来ないその一瞬を大切にする心は、武士が「勇」をもって死するときに発揮される。切腹の作法も、切腹の介錯の作法も、煎じつめれば「おもてなしの心」に通じるものがあると思う。切腹ではなく斬首の刑に処される武士も、歌を作って後世に伝えることは許されている。武士として後世に名を恥じるようなことをしてはならないし、させてはならないのである。それは、死に行く武士への「おもてなしの心」でなくて何だろう? 

もし、そのような切腹の瞬間において、「装束」「場」「作法」などに見られるある種の「厳かな美しさ」を伴う「儀式」が伴わなければ、検視役の武士もその場にいる精神的苦痛に耐えられないであろう。切腹する武士も、後世に名誉を遺すことができず人生を嘆き悲しむことになるだろう。そういう意味で、私は「武士道」と「おもてなしの心」の間には、深い関係があると思うのである。

2011年2月11日金曜日

武士道(続)(20110211)

 One Piece(ワンピース)という漫画が爆発的人気を呼んでいるそうである。その漫画で語られているのは、古き良き時代の日本の「絆」「助け合い」「義理」「人情」「正義」「勇気」などの精神であるということである。

 この漫画には、登場する人たちはお互い非常に強い絆で結ばれており、絆で結ばれた人たちの間ではお互い他者のために自己を犠牲にすることを厭わない、主人公は非力ながら果敢に「悪」に立ち向かってゆき、堅い絆で結ばれた仲間がこれを助ける、兄が弟を助けるために自ら犠牲になる、いったようなドラマが描かれているようである。

この漫画を研究したある学者は、今の日本の社会で「空気を読む」 ということがかえって人間関係を希薄にしているのだという。その場の「空気を読む」という言葉は、「その場で自分の行動をどうするかということを判断し、実際にその判断に基づいて行動する」という意味を含んでいる。それは愛他的ではなく利己的な行動である。

 この漫画の下敷きになっているのは、黒澤明監督の『七人の侍』などで表現される日本人の精神である。「義」の為に、「絆」の為に自分の命を犠牲にすることを厭わない精神である。それこそは正しく「武士道精神」である。

 今の日本の社会では孤独な主婦が多いという。空気を読んで「助けて」と声を出せず、独り悩んでいる主婦たち、自分は社会に無縁な存在であると思い込んでいる主婦たちが多いという。そのような主婦たちだけではなく、不景気で職を失った男性たちや、就職できずにいる学卒者たちも多いが、彼らは皆、自分が社会との絆がない、或いは薄いと思っているようである。漫画『ワンピース』はそのような社会を反映していて、孤独に悩むそれらの人々の共感を得ているのであろう。

 一世代、二世代上の人たちも、そのような主婦たち、男性たち、学卒者たちをそっと見やるだけで、自分の方から積極的に声をかけようとしない。この国の社会は、人間関係が薄れてしまっているように見える。

 幸福は向こうからは決してやって来ない。幸福はごく身近なところにある。自分自身がそれに気がついていないだけである。戦場で任務遂行のため身の危険も顧みず、或いは必ず死ぬことが判っていながら行動する兵士が不幸であろうか? 幕末に斬首や切腹の刑で死んだ尊王攘夷の志士・吉田松陰や武市半平太は不幸であっただろうか?

 空気を読む政治家には志など全くない。『ワンピース』が流行る社会現象は、この日本の精神が行き詰っている証拠である。日本人は、特に「武士」と同じような「役割」を担って報酬を与えられる人たちは、戦前まで営々と日本人が築いてきた精神を改めて見直し、良いものはすべて取り入れるということが必要である。三島由紀夫はそのことを訴えて、武士の作法に則り、見事切腹を果たしたのである。それを三島由紀夫の美学であるという人がいるが、それは断じて彼の美学ではないのである。

2011年2月10日木曜日

武士道(続)(20110210)

 テレビで『史上最大の作戦』という題の映画を放送していた。この映画はナチスドイツをせん滅するため、アイゼンハワーを総指揮官に米英仏連合軍300万人が、フランス海岸への上陸作戦と空挺部隊によるフランス本土降下作戦を敢行した史実を描いている。
 
 この映画には、その作戦に従事した兵士たちは自分の死を覚悟し、果敢に戦った様子が描かれている。皆「武士道」にあるような「義」のため、「勇」を鼓舞して戦った。彼らにはどのような「義」があり、彼らの「勇」とは何であっただろうか? 顧みてわが日本軍の「義」と「勇」は何であっただろうか? この点をよく考え、整理しておかないと、日本は何かのきっかけで「義」もなく命を軽んじるようなことを起こしかねないだろう。
 
 そもそも「正義の道理」といっても、その「正義」にはその立場の違いによりいろいろな「正義」があると思う。ナチスドイツはユダヤ人をこの地上から抹殺しようとした。その作業に加担したドイツ人たちは、その行為が「正しい」と信じていた。ナチスドイツはかつての神聖ローマ帝国のように、ヨーロッパ全体をドイツ帝国にしようとした。

そこには、自己中心的な優越の観念があった。ゲルマン民族は他民族を「優秀な」ドイツ民族の支配下に置くことは正しいと信じ込んでいた。しかし冷静に考えてみると、それは野生の動物たちと同じような行動である。動物たちは自らの生存と種の存続のため、「快」を求め、「不快」を避けて行動する。自らの生存と種の存続に必要な生活圏を「縄張り」して確保しようとし、自分の「縄張り」に侵入しようとするものを威嚇し、侵入してきたものと争う。争うときは普段敵対するオスたちが団結する。これとよく似ている。

片や日本は、アジアから白人を追い出し、自らが盟主となって大東亜共栄圏を作ろうとした。その端緒は豊臣秀吉の時代にあった。スペイン(当時スペイン王の支配下にあったポルトガルを含む)は、キリスト教の宣教という一見高尚な目的をかかげながらその裏でアジアを植民地にしていった。豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵させたのは、明(当時の中国)とその柵封方支配下にあった朝鮮に対するスペイン・ポルトガルの浸食を食い止めようとしたためであった。当時、一部の日本人が彼らの奴隷になっていた史実がある。

近代、アジアは白人国家の餌食になっていたことは確かである。アジアから欧米勢力を駆逐しようとした日本は戦争に負けはした。しかし、明治維新後の日本がロシアや欧米と戦ったことがきっかけで、アジア諸国は独立を果たし欧米の支配から脱することができた。日本は、明治以来の国家目標を達成することができたのである。

日本の「義」とナチスドイツの「義」は、その人道精神において根本的に違う。ナチスドイツ軍の兵士たちと日本軍の兵士たちは、「義」のため自分の命を投げ出して戦うという「勇」は同じであっても、その「義」の内容が根本的に異なっている。

日本軍の「義」が究極的に天皇への忠誠心にあるというのは一方的な見方である。日本は自存とアジア諸国を欧米支配から解放しようとする「正義の道理」があったのである。日本はアジアを自国の植民地にしてゆこうというような野心は全くなかったのである。

2011年2月9日水曜日

武士道(続)(20110209)
 
 昨日は「北方領土の日」であった。北方領土でNHKのロシア人スタッフが北方領土に住む15千人ぐらい(詳細な数字は失念)のロシア人の取材をした。ごつい一人の口ひげをはやした庶民のロシア人は「北方領土はロシア領である」と半ば怒り顔で話していた。

 戦後既に65年を過ぎ、北方領土に住むロシア人たちも2世、3世の時代になろうとしている。北方領土から彼らを追い出すことは、人道に反する。「人類皆兄弟姉妹」だと思えば、彼らが北方領土で安心して暮らしたいと思う気持ちはわかる。一方、終戦後、当時のソ連軍によって、強盗のようなやり方で北方領土を奪われた我々日本人の気持は決して収まることはない。双方の気持ちが満たされるように北方領土の問題を解決する道はないものかと思う。そのような道はきっとある筈である。

 ここで、北方領土の問題に関して「義」と「勇」について考えてみたい。北方領土からロシア人を追い出すことは「義」ではない。また追い出すために暴力をふるうことも「勇」ではない。「人類皆兄弟姉妹」という「仁」の心に、この問題解決の道があると思う。

 昨日、菅総理は「(メドベージェフロシア大統領が)北方領土を訪問したことは許し難い暴挙である」と言った。この発言は、一国の首長に対する「礼」を欠いている。また「智」の片鱗も見られない。悲しいかな、菅総理自身もそうであるが、菅総理のブレーンにも、対抗政党にも、北方領土を取り戻す戦略や戦術があるとは誰にも見受けられない。

 対抗する自民党や公明党などにしかりした「志」があり、「智」があるかと言えば、これもまた大いに疑問である。まして既成政党離れした愛知県や名古屋市や大阪府などの「指導者」にそのような「志」や「智」があるとは思えない。

 最良の方策は、現在の政権の主要メンバーやブレーンやスタッフが、「武書道精神」について学び、教養を高めて、「其処」から出発することである。過ぎ去ったことを重箱の隅をほじくり返し、非難し合うような馬鹿なことに一顧もせず、「其処」から再出発することである。「其処」は常に向上してゆくべき「点」である。これこそが「知行合一」である。

2011年2月8日火曜日

武士道(続)(20110208)

 私の手元に一冊の本がある。以前このブログで引用したことがある『図説・特攻』(太平洋戦争研究会編、森山康平著、河出書房新社)という本である。この本の結びに著者は「日本軍将兵とそれをささえる日本国民は、アジアから米英の勢力を駆逐するためだけに戦っていたのではなく、‘心の米英撃滅’のために、‘利己的唯物的米英観念’(九軍神を讃える際の海軍報道官の表現)撃滅のためにも戦っていたのである」と書いている。

 今、この日本は、北は北海道から南は沖縄、その先の台湾、さらにその先のフィリッピンに至る「列島線」、それはアメリカの強大な軍事力が及ぶ、ある意味ではアメリカの「縄張り」の中にあって、平和を享受している。米英は日本の敵であったが、今や味方である。

武士道精神の一要素「知行合一」の精神のもと、日本は日本古来の精神観念を保ちながらも、米英の合理的精神を学びとり、世界に冠たる経済大国・科学技術が非常に進んだ国になった。もともと日本と欧米は価値観を共有できる部分が多かったのである。

それに引き換え、日本と大陸側諸国と昔から価値観の共有は困難である。藤原仲麻呂が宰相の地位にあったとき、一時期日本は唐の様式・制度を取り入れたことがあったが、仲麻呂の失脚とともにすぐ元に戻された。

戦後アメリカは日本人の精神を徹底的に改造しようと非常な努力をし、東条英機元首相などを無理やりナチスドイツ並みの戦争犯罪人に仕立て処刑した。しかし日本は633教育制度とかPTAとか政治制度など、日本人が取り入れた方が良いと考えたものだけを取り入れただけであった。ゼロ戦や戦艦大和を建造した日本は、一時期打ちひしがれたが蘇り、今や欧米の、特にアメリカの良きパートナーになった。

特攻隊員の犠牲は決して無駄ではなかった。私は、その本を読み、閉じるとき、思わずその本を自分の額に近づけ黙とうした。その本を読むたびに胸に迫りくるものがある。彼らは、「」のため「」をもって死んで行ったのである。

銃後の女性たちも健気であった。戦闘機を作る工場で働く若い女性たちや出撃する特攻機を見送る女性たちの写真をみるとき、私はあの頃一億国民総動員して戦ったことに思いをはせ、感動する。今の日本があるのは、皆あの方たちのお陰である。

新渡戸稲造は著書『武士道』(「知的生き方文庫」三笠書房)に、徳川御三家の一つ・水戸藩主・水戸光圀の言葉「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退(しりぞ)いて忠節に成ることもあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」を引用し、「武士道の教えるところは、死に値しないことのために死ぬことは‘犬死’とされた」と言っている。

正しくそのとおりである。私も含め小学校のとき戦後教育を受けたものの中には、特攻隊員が「犬死」だと言う人がいる。彼らは日本人の心を失った人たちである。特攻隊員は自爆テロリストとは全く違う。特攻隊員は「正義の道理」の為散っていった方々である。

2011年2月7日月曜日

武士道(続)(20110207)

 一つの国のことについて、「人」「指導者」という言葉よりも「支配者」という言葉に共感を覚えるかもしれない。ここでいう「人」とは、志のない人たち、自虐的な人たち、そのくせもし自分たちが国の指導者の階層に属したら、途端に頭が高くなる人たちのことである。そのような人たちは、自分の理想や希望が叶えられていないとき、自己主張をし、徒党を組んで、自分たちが「支配者」と思っている人たちを引きずり降ろそうとする。

 どんな国でも「指導者」階層は必要である。ここで最も大事なことは、その「指導者」階層の人たちが、「武士」のような心構えをもち、態度や行動が「武士」のようであるかどうかと言うことである。上述の「人」たちは、そのような心構えもなく、そのような態度や行動もない人たちである。

 ここで私がいう「武士」はかつての武士とは違う。かつての武士に求められた「義」や「勇」などの精神は、今の時代に合う「義」や「勇」である。そのことを考えてみたい。

われわれは「指導者」と「支配者」を峻別しなければならない。この国で「支配者」は全く必要ない。この国で、もしある人たちが「指導者」階層に入ろうとする場合は、その階層の「役割」をきちんと果たすことができるような「準備」ができていなければならない。ここでいう「準備」とは、「指導者」の「役割」を担う人たちの資質や教育や訓練について一定の基準を満たしていることである。「友は類を以って集まる」というが、そのような「準備」なしでは、「烏合の衆」しか集まらず「指導者」しての体をなし得ない。

この日本では、誰でもかつての武士階級のような「指導者」(或いは上述の「人」たちが言う「支配者」)になることができる。日本人であるならば、誰にも新しく定義される「武士」になる門戸は開かれている。政治家や行政職員や自衛官(私は‘軍人’と呼びたい)や警察官や海上保安官や消防官、税関職員や農林水産・建設などの現業職員などは、今の日本の「武士」たちである。

ひとたび選ばれてそのような「武士」になったならば、その人は新しい「武士道」精神をもって、この国の「指導者」階層の人として、ロール・プレイングで与えられた「役割」を演じるように、「指導者」階層の人としての「役割」を自覚し、その「役割」をきちんと果たしてもらわなければならない。

新しい「武士道」精神とは何か、その‘新しい「武士道」精神’でいう「義」や「勇」とはなにか、考えてみたい。2000以上続いている天皇の王朝、そして「武士道」は、われわれ日本人の宝であると私は思う。この宝を「知行一致」の精神で大切に守り、次世代に引き継ぐことが、われわれの共通的「役割」である。テレビドラマ『篤姫』の篤姫が自分の「役割」をしっかり自覚し、行動したように、「役割」を自覚していない「人」は、ここで定義する「武士」ではない。彼らは私利私欲の輩、烏合の衆の一人一人である。敢えて固有名詞は挙げないが、政治家にそのような人たちは沢山いる。

2011年2月6日日曜日

武士道(続)(20110206)

 熱心なキリスト教徒(クエーカー教徒)であった新渡戸稲造は、「義」の観念を、以下のとおり「ある高名な武士・林子平」と「他の武士・真木和泉守」及び孟子の言を引き合いに出して説明している。

 江戸中期の経世家・林子平(17381793 )は、「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」と述べた。

また江戸末期の真木和泉守(18131864)は、「士の重んじることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つこと得ず。されば人は才能ありても学問ありても世に立つことを得ず。節義あれば武骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」と言った。

また、武家の子弟が学んだ孟子(紀元前372~紀元前289)は、「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。

新渡戸稲造は、「義理」は「疑いも無く義務である」と言い、義務がわずらわしく感ぜられるときには「正義の道理」が私たちの怠惰を防ぐためにのりこんでくる、と言う。そして、「義理」は、「人間がつくりあげた慣習の前にしばしば自然な情愛が席を譲らなければならぬような社会で生まれるものである」が、もしそれが「正義の道理」からはるか別のところへ持ち運ばれてしまった場合は、もはやそれは義理ではなく、「驚くべき言葉の誤用である」という。

私は、武士の「義」は時代が変わっても変わらぬ観念であるが、「義理」の観念は時代が変われば変わると思う。たとえば、戦前、老親をどんなことがあっても子供が看ることは「義理」を果たすことであったが、今は、介護保険制度や医療保険制度などで子供だけではなく、社会全体で看るようになった。たとえば幼い時から親子の情愛が薄い関係であった場合、子供が老親に世間体に恥じない程度に看ている場合は、戦前ほど「義理」について責め立てられることなくなっているだろう。

しかし私は、時代が変わっても今の時代に昔の武士と同じ立場、すなわち政治家や官僚や軍人などは、林子平や真木和泉守が言っているような「義」「節義」の観念をしっかりと持って欲しいと思う。そうでなくては、この国が外国から軽く見られてしまうと思う。

私は、この日本が、象徴天皇を崇敬し、今の時代の「武士」たちが、しっかりとした「義」の観念を持っている国ならば、日本は世界から尊敬され続ける国となると確信している。

2011年2月5日土曜日

武士道(続)(20110205)

 新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、武士道の基本原理を「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」「切腹」「刀」「妻女」「大和魂」の各面から説明している。「義」は「武士道の光輝く最高の支柱」であるとし、自分の「義」に関する解釈について、「義の観念は誤っているかもしれない。狭きにすぎるかもしれない」とも言っている。

 日本は、「大政奉還」により、封建時代と決別した。戦前まで「家長制度」や華族、士族などの家柄の呼称は残っていたが、「士農工商」の四民は平等となり、それ以下の階層の人たちも新しい平民、「新平民」とされた。たとえ華族や士族の出であっても実力のない者は、社会的に相応の扱いしか受けることができなかった。昨日のこのブログの記事に書いた竹田恒泰氏の本に書かれているように、「封建制度」という価値は、時間の流れの中で新しい価値観により淘汰された。

 新渡戸稲造は『武士道』の中で天皇についてあまり触れていない。しかし。天皇は時間の流れの中で2000年以上の昔から、日本国民の間で大きな価値を占め続けて今日に至っている。サッカーのザッケローネ監督が「武士道」について学びたいと言っているが、彼には「武士道」とともに「天皇」についても学んでもらいたいと思う。なぜなら、「武士道」精神には、天皇への崇敬の精神が無意識のうちに包み込まれているからである。

尊王攘夷派の吉田松陰は、斬首の刑に処せられる前に「吾(われ)今国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り。」と詠い、「志半ばで処刑されても天皇や父母にそむくことは少しもない」と心情を述べている。また同じ尊王攘夷派の武市半平太は切腹の刑に処せられる前に、「花は清香(せいこう)に依って愛せられ、人は仁義を以って栄(さか)ゆ。幽囚(ゆうしゅう)何ぞ恥ずべけんや。只(ただ)赤心(せきしん)の明らかなる有り。」と詠い、「自分の行いには嘘・偽りは全くない。それは天皇や藩主への忠義の心によるものである」と述べている。

武士は封建制度の社会秩序を維持するという「役割」とともに、士分としての名誉と誇りを守ることが求められた。「義」はそのため必要な、重要な精神要素であった。「義」の為に自らの命を投げ出すことは当然のことであった。大東亜解放戦争中、特攻隊の兵士たちも「義」のために自分の命を捨てたのである。

 封建制度が無くなっても、政治家、官僚、軍人、教師らがあらたな「武士」としてその「役割」を担った。「武士」の精神要素の一つ「義」は形を変えて残った。戦争に勝ったアメリカは日本人の精神構造の徹底的破壊を目論んだが、それはアメリカの誤りであった。アメリカとの同盟関係を結び、今日まで維持してきた日本は、「義」の精神を新しい形で大切にしてゆかなければ、この国はいずれ滅びてしまうだろう。

 尖閣ビデオを漏出させて退職した元海上保安官一色正春氏は、その名字からして源氏の末裔だろうと思うが、彼は正しく「義」のため、昔で言えば切腹の刑の形で、自身を国の為捧げたのである。

2011年2月4日金曜日

武士道(続)(20110204)

 新渡戸稲造『武士道』によれば、武士道の基本原理について、フランスの学者、ド・ラ・マズリエールが16世紀の日本について、「インドや中国においてさえ、人間は主として精力や知能によって差異があるとされている。日本ではそれらの差異とともに、性格の独自性においても差異があるとされているようである。いまや個性はすぐれた種族や、発展した文明の特徴である。もしわれわれがニーチェの好んで用いる表現によるならば、‘アジアでは人間の性状を語ることはその平原を語ることである。日本ではヨーロッパと同様に、人間の性質はとりわけ、その山岳によって代表される’といえるだろう」と語っていることを引用している。

 古事記を読めばわかるとおり、日本人は古代の昔からヨーロッパ人同様個性的であった。ヨーロッパの中世のような暗黒的な社会は日本にはなかったが、ヨーロッパでルネッサンスがあった同じ時期に、日本では茶の湯、絵画、芸能、文芸などが花開いた。そしてヨーロッパよりも早く近世に入った。江戸時代は近世である。

 何故日本はそのようにあるのか。日本には万世一系の天皇がましまして、平安時代には摂関政治の形で天皇は国家の中心にあられ、既に象徴的存在となられた。日本には昔から八百万の神々がいて人びとの信仰の対象となっている。日本には神道と仏教がごく普遍的なものとして人びとの暮らしと密着している。私はそれら諸々の事が、日本がそのような国であることの非常に大きな要素であると思う。

 そのような日本の社会で秩序を保つ役割を担ったのが武士たちであった。人びとを支配者階層と被支配者階層に分けるならば武士は支配者階層に属するが、その身分は必ずしも100%世襲的、固定的ではなかった。「封建時代」という言葉の響きは、何か暗いイメージを与える。しかし実際は暗いものではない。「士農工商」という区分は一見上下関係のようであるが必ずしもそのとおりではない。日本の社会ではそれぞれの「役割」ということが最も重視されていた。「士農工商」は日本の社会を秩序づけるための「役割」にすぎない。日本の「士農工商」の区分は、インドのようなカースト制とは全く異質である。

 日本の社会の中で「武士」は「支配者」という「役割」を担っていた。その「役割」を果たすため、「武士」は社会の中で高い地位を与えられていた。高い地位を与えられているゆえに、「武士」は「役割」を果たす上で「義」を最も重要に考え、行動しなければならなかった。「武士」は日本の社会の中の「役割」の一つであったのである。しかし「士農工商」の各「役割」は、必ずしも100%世襲・固定的というわけではなかった。

 旧皇族・竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏が書いた本『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(PHP研究所発行)という本に、「日本は建国から現在までの二千年以上、一つの王朝を保ってきた。無価値なものは時間の流れの中で淘汰され、ほんとうに価値があるものが守られる」とある。

「義」は現在の日本の社会で価値を失っただろうか?このことについて考えてみたい。

2011年2月3日木曜日

武士道(続)(20110203)

 日本人は、知識を行動に移し、知識の足りない部分は新しい知識を学んで自分のものにしてきた。幕末、ペリー来航時、英語を日本語に訳すことができた素養は、蘭学(オランダ語の文献による学問)にあった。先ずオランダ語と英語の違いを調べ、漢語を日本語に読み下すときの似たような手法で英語の文法を知った。ペリー来航時、英会話は出来なかったが、英語で書かれた公文書を日本語に翻訳することはできた。会話は、英語からオランダ語に訳したものを聞いて、その逆もして、幕末の役人はペリーと意思疎通ができた。

このような実践的な勉学の方法は、日本人が古来、自然のうちに身につけていたものである。江戸時代朱子学や陽明学が入ってきたが、日本人のそのような実践的勉学の態度が、新渡戸稲造が言うように「王陽明を(日本人のそのような実践的な勉学の態度を説明する)その最大の解説者として見出した」にすぎないのである。(カッコ内は私見)

日本ではウナギの稚魚を育てて成魚にして市場に出している。成魚から卵子と精子を取り出して卵から稚魚を人工で育てる試みをしているが、なかなかうまくゆかない。そこで、日本の調査研究の船は稚魚を追って、ついにマリアナ海域でウナギの卵を発見することに成功した。その方法は成長過程の稚魚を探し求め、5mm、3mm、1mmと徐々により小さいウナギの稚魚を探し続け、1mmの稚魚を見つけたのちその海域付近で6年もかけて卵を探し求め、ついにそれを発見したのである。船上でDNAを調べた結果、それがウナギの卵であることを突き止めた。その中心の学者、お名前は失念したが40年かけた研究の成果が実ったのだ。今後はその卵がどのような環境条件で稚魚になるのか突き止め、その環境を人工的に作って、日本得意の工場で生産される野菜のように、将来、工場でウナギが生産されるようになるだろう。特殊な膜を通じて海水から飲料水を製造することなど、日本の実用的な技術は世界でトップである。人工えらも日本の技術で効率の良いものが開発されている。実用の学、実践の学の発達は、日本人の生まれ持ったDNAと無関係ではない。

武士道の精神は、日本人の間で忘れられてしまっているが、日本人は無意識のうちにその精神を発現させている。中国では隋・唐から宋、元、明と王朝が変わった時、新王朝の体制強化のため新たな学問・朱子学、陽明学が利用された。今、中国は共産党綱領が体制の維持のためだけではなく、日本工作のため利用されている。

一方、日本では万世一系の天皇のもと、実践的な学問が発達した。武士道精神の中心には天皇への崇敬がある。日本人は、今改めて自分たちの精神構造を顧みる必要がある。

日本との戦争に勝ったアメリカは、日本人の精神構造を徹底的に変えようと試みたが、それは所詮無駄なことであった。一時期、「戦前の日本は悪いことをした」と思い込まされていた人びとは、徐々に第一線から退きつつある。

今後の日本人は、もっと賢く、昨日の記事に書いた「縄張り」を「維持しよう」とする側と、それを「浸食しよう」とする側とを見据え、決して中途半端な行動はしないようにしなければならない。今、正に日本人には「武士道」の精神が必要なのである。

2011年2月2日水曜日

武士道(続)(20110202)

 孟子は孔子やソクラテスよりおよそ100年後、紀元前372年~289年の人である。孟子はアリストテレスより10年ほど遅く生まれ、30年ほど遅く没している。

 武家の子弟はソクラテスのことは勿論知っていたわけではないが、新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、昨日の記事に書いたように「知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテス的教義は、‘知行合一’をたゆまず繰り返し説いた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである」と言っている。つまり、江戸時代の日本人は西洋から遠く離れたこの島国にいながら、西欧人と同じような思考パターンを持っていたのである。『武士道』精神の中に、このような西欧人的思考パターンがあったことを、我々日本人は改めて思い致す必要がある。

 幕末から明治初期にかけての短い期間に、日本は西欧列強に伍する実力を持ち、未開の、と言えば語弊があるかもしれないが、朝鮮や清(当時の中国)を導き、これらの国々が西欧・ロシアの列強の餌食になるのを食い止めたのである。それは、そのようにしないと、この日本が特に南下を企むロシアに侵略される危険があったからである。

朝鮮や清国から多くの留学生たちが日本に近代化を学びに来ている。これらの国々は、日本を憎みつつも、特に朝鮮は日本のお陰で2000年間の中国の王朝による支配から脱することができ、鉄道・電気通信などのインフラが整備され、政治制度や教育制度が整備されたのである。日本は、先ず東アジアを、はっきり言えば白人の支配から解放したのである。

日本は国際連盟で「人種差別撤廃」の提議をし、議決させた。連盟脱退後日本は無謀にも戦線を拡大し、結果的に東南アジア諸国は欧米の植民地から解放された。日本は300万人以上の犠牲者を出し、戦争に敗れはしたが、結局は大東亜の解放という目的は達成した。

そのようなことが出来たのは、この日本で、武家の教養である「知行合一」の精神が、ただ単に武家の人びとだけではなく、百姓・町人に至る広範囲に広がっていたからである。

日本は、アメリカにとって危険な国であった。戦争が始まる前、アメリカのルーズベルト大統領は、はっきりそのように言った。日本が強くなれば、アメリカが「縄張り」として考えていた(今でもそう考えている)日本列島から台湾、フィリピンに至る「列島線」が脅かされる。そこで、アメリカは日本に罠を仕掛け、後に「Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)」の合言葉を作った。少数の自国民を犠牲にして、多数のために富を勝ち取る。「アラモを忘れるな!」「メイン号を忘れるな!」と同じパターンである。

日本は原爆を2個も投下され、何10万人という人が一瞬のうちに死んだだけではなく、非常に多くの人々が思い後遺症で苦しんでいる。それでも日本は、‘西側’の主要な一員となることにより、今日の繁栄を築きあげることができた。それは、意識の上では忘れられてしまっているが、「武士道精神」と無関係ではないと思う。

2011年2月1日火曜日

武士道(続)(20110201)

 サッカーのアジア大会で日本が優勝した。延長戦の末、小柄だが動きの速い。運動量が抜群に多い長友のパスを受けて、李が華麗なボレーシュートを決めて日本は競り勝った。 李は在日4世であったが2006年に日本に帰化した人である。

 西暦663年、日本が百済を救おうと総勢41千人と船およそ800艘の軍勢を朝鮮半島に送り込んだが、白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。その後百済から非常に多くの人々が日本に引き揚げて来て、日本に帰化し、日本の発展のため貢献した。そのことを頼山陽という江戸時代の学者・詩人は、「唐(中国)とわれ(日本)とどちらが得しただろうか、海を渡って来た人びとは天皇に仕え、日本の発展に尽くしてくれたのだ」という詩『百済を復す』を作っている。(ブログ「吟詠」http://takaban.seesaa.net/ ご参照。)

 李も同様である。日本人になれば、元の国籍など全く関係がない。名前を日本人のような苗字に変えなくても、今の時代の人々はそのまま素直に受け入れている。まして、今後幾世紀も経れば、先祖が何処の国の人であろうと全く無関係、皆同じ母親から生まれた兄弟・姉妹、すなわち‘同胞’である。日本人らしい日本人になってしまうのである。

 日本チームを率いたイタリア人のザッケローニ監督は、日本の文化と武士道を学びたいと言っている。今時の日本人は武士道に興味を示さないが、外国人は武士道に興味を示している。われわれ日本人は、今改めて武士道について知る必要がある。

 かつて武家の子弟は、藩校などで中国の古典・四書五経を学んだ。さらに私塾で宋や明の時代の学問も学んだ。宋や明の時代の学問とは朱子学や陽明学のことである。

 新渡戸稲造は「武士道は知識のための知識を軽視した。知識は本来、目的ではなく、知恵を得る手段である。」「知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテス的教義は、‘知行合一’をたゆまず繰り返し説いた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである」と言っている。

 かつて日本の指導層の人たちは、今の時代のような科学的知識は持っていなかったが、きちんとした志操をもっていた。その志操は、神道、仏教、中国の古典、宋や明時代の思想を学んで武士の心の中に形成されたものである。今日の政治は、「烏合の衆の政治」になっている。これは、今の政治家たちに昔の武士のような志操がないからである。

 ザッケローニ監督が「武士道について学びたい」と言っていることを、我々日本人は「ほう!」と感心するのではなく、自らを省みて深刻に受け止めなければならないと思う。

2011年1月31日月曜日

武士道(続)(20110131)

 新渡戸稲造は言う。「(武士道の)道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と、治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認に過ぎない。」と。

 この日本列島に住みついた人々が、農耕生活を送っている間に自然にわき出た「自然を崇拝したい、祖先を崇拝したい」という感情の行きつくところが、後に孔子が述べた上記の五つの倫理的関係と同じなのである。「天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在」であり、「天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人」であると新渡戸稲造が言うとおり、天皇は孔子が述べた五つの倫理的な関係の中である。それは、われわれ日本人が無意識に認めていることなのである。

 毎年正月には天皇陛下初め皇族方が一般国民の参賀を受けられ、天皇陛下からお言葉を頂いて感激する。そのような儀式がある国は世界中どこを探しても無い。天皇は日本国民統合の象徴であり、聖なる存在であるのである。

 新渡戸稲造は、「孔子についで孟子が武士道に大きな権威を及ぼした。彼の力のこもった、ときにははなはだしく人民民主主義的な理論は、思いやりのある性質をもった人びとにはことのほか好まれた。」「この先達の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していた」と、武士は、孔子の教えだけでなく、孟子の教えも大切に思っていたと言う。

 武家の子弟が学んだ藩校などで教えられていた中国の四書五経の「四書」とは「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称である。孔子が「仁」(礼に基づく自己抑制と他者への思いやり)を理想の道徳とし、「孝悌」(父母に孝行を尽くし、よく兄に仕えて従順であること)と「忠恕」(忠実で同情心が深いこと)をその理想を達成する根拠としたのに対して、孟子は、人間の「性善説」を根拠に置き、「仁」「義」「礼」「智」の徳を発揮することを説いた。「義」とは、ものごとの道理、人間の行うべきすじみちのことである。

 今の日本では、「仁」「義」「礼」「智」「信」という五つの語は、見向きもされない。これらの五つの語は、日本人が古くから自然に実践していたことを、中国からこれらの言葉(漢語)を学んで日本の社会の中に体系づけていたものであるにもかかわらずである。日本人はこのことを忘れてしまっている。これは大変残念なことである。

戦前までは、日本人は『教育勅語』により、これら五つの語を具体的に実践してきた。それは決して間違っていたことではなかった。そのことをわれわれ日本人は、気づかねばならないと思う。

その上で、これら「仁義礼智信」のない国家に対しては、「武」をもって対処しなければならない。「戦争を防止する唯一・最良の手段は、戦争の準備を怠らないこと」である。

2011年1月30日日曜日

武士道(続)(20110130)

 新渡戸稲造は「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。サムライの倣岸な性格に忍耐心が付け加えられたのである。」、「人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意思が宿る至聖のところとして崇拝する。神社の霊廟には礼拝の対象物や器具が著しくとぼしく、本殿にかかげてある装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものである。」、「参拝のため社殿の前に立つとき、輝く鏡の面におのれ自身の姿を見るのである。」と言う。

 学問的に考えると物事は批判的にとらえなければならないのであろうが、私は学もないので新渡戸稲造の見解を素直に受け入れる。素直でないと物事の本質は見えないと信じている。だから、「サムライの忠誠心や忍耐心の根源が神道にある」という新渡戸稲造の見解を「そうであろう」とそのまま受け取る。

 神道には他の宗教にあるような「教典」はない。神道は「神典」と称する「古事記」「日本書紀」「続日本紀」「万葉集」「風土記」などが神道における信仰の対象や儀式や共有など根拠となっている。古来日本人の地縁血縁結縁の社会の秩序を守る手段として神道が重んじられてきたのである。それは戦争に負けても廃ることなく続き、未来も続くであろう。

神官や巫女、神殿における伝統的な儀式が、参拝者に俗世界と聖世界の別を自覚させる。日本人は武士に限らず一般庶民も、日本古来の伝統・儀式の中に「世俗」に汚れた「自己」を置くことによって、自己の魂を清浄にするという文化を大切に守ってきた。日本人は、神社に参拝することにより、一時的にせよ俗世界から離れ、聖なる世界にわが身を置いて、無意識的に「忍耐心」が必要であると自覚する習慣が自然にできているのである。自然とともに自然に生きる日本人には、キリスト教にあるような「原罪」などのロジックは必要ない。新渡戸稲造は自身熱心なクリスチャンでありながら、そのことを指摘している。

 他国には絶対存在しない「神道」の文化で育った父親に「恥になるようなことはするな、死ななければならないときは潔く死ね」と言われ、ヨーロッパ戦線で戦った日系二世たちは「ゴーフォーブローク!(Go for broke!)」と叫んで過酷な戦場の状況に耐え、「バンザイ」攻撃をかけ、死んでいった。硫黄島の日本軍兵士たちも同様であった。特攻隊員も同様であった。片道の燃料で沖縄に向かった戦艦大和の乗組員も同様であった。

 日本列島から台湾、フィリピンにいたる「列島線」の北に位置する日本は、自分たちの文化や歴史をきちんと自覚することによって、未来も「東方の光」で有り続けるだろう。

2011年1月29日土曜日

武士道(続)(20110129)

 新渡戸稲造は「第二章武士道の源をさぐる」でこう言っている。

 「まず仏教からはじめよう。仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。

 ある一流の剣術の師匠・柳生宗矩は、一人の弟子が自分の技の極意を習い覚えてしまったと見るや、‘私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならぬ’と言った。禅とはジャーナDhyānaを日本語に音訳したものである。

 禅は‘沈思黙考により、言語表現の範囲を超えた思考の領域へ到達しようとする人間の探究心を意味する’のだ。その方法は黙想であり、私が理解している限りにおいて、そのめざすところは森羅万象の背後に横たわっている原理であり、できうれば‘絶対’そのものを悟り、そしてこの‘絶対’と、己自身を調和させることである。」

 私は、人は大宇宙の原理について学問的な理解が深まれば、人はこの大宇宙を一つの生命体と考えるようになり、大宇宙の生命的活動に逆らうことなく、大宇宙と一個の人間である己とを合わせて一つに為し、己が前世から来世に至る一筋の光の中にあるような感覚になれるのではないかと思っている。

 分子生物学は、人やあらゆる動植物が同根であることを明らかにした。現代物理学は、この宇宙が「無」の一点から生じたことを明らかにした。人工衛星で打ち上げ、宇宙に置かれたハッブル望遠鏡は、その一点から生じて5億年経った132億年前の星雲を発見した。

 考古学や遺伝学は、現在の人類がアフリカの大地で誕生し、12万年前に現在の中東地域を経て比較的短い期間に地球全体の各地に拡散していったことを明らかにした。

 私は、人がこのような科学の成果を学び、大自然と自己が合一の観念を持つようになれば、そしてそれに加えて仏教の教学について知識を深めるならば、人は今、自分が生きているこの時を、どのように過ごすべきであるかということに思考が及ぶようになるに違いないと思っている。

2011年1月28日金曜日

武士道(続)(20110128)

この日本列島に初め縄文人と呼ばれる人々が、北方、西方、南方から渡ってきた。その後渡来系弥生人が朝鮮半島を通じて渡ってきて縄文人と共生し、混血し、今の我々日本人になった。西方の文化伝搬の終着点、シルクロードの終着点がこの日本である。日本列島はいろいろなルーツを持つ人々がやって来た終着地である。文化・文明の伝搬の終着地でもある。終着地であるゆえに、われわれ日本人は混血を重ね、遺伝学的に優れたものを受け継いで後世に伝えてきた。万世一系の天皇は日本人の中心である。

先の大戦で、アメリカ陸軍日系人部隊、第442連隊の兵士たちはヨーロッパ戦線において、武士道の精神で戦った。今日アメリカの日系人たちがアメリカ社会で名誉ある地位を勝ち得ているのは、その兵士たちの尊い犠牲のお陰である。遠くブラジルの大地に渡った人たちも武士道の精神で新天地を開拓し、成功し、ブラジルで今日の名誉ある地位を勝ち得ている。先のワールドカップで田中マルクス闘莉王選手は、仲間の選手たちに「大和魂で戦おう」と呼びかけた。大和魂は武士道の重要な精神の一つである。

 新渡戸稲造は、「武士道は‘騎士道の規律’である。字義どおりには武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味している。武士道は一言でいえば、‘武士階級の‘高い身分に伴う義務’である」と言っている。

 新渡戸稲造は、武士道が日本独特なものであることを、仏教と神道の面、および中国の孔子の教えの面から説明している。

仏教については、遣唐使たちが中国で学び日本に持ち帰った仏教、中国の僧が来日して日本で広めた仏教は、中国や朝鮮では衰退したが日本においては大きく発展した。日本で発展した仏教は、日本仏教伝道協会などの活動を通じて世界中に広められつつある。

 神道は日本古来のものである。天皇家の祖先が祀られている伊勢神宮がその中心である。

一方、中国古代の孔子の教え・論語は武士階級の子弟が学ぶ藩校などで教えられていた。その「四書五経」といわれる漢籍書物の読み下し、つまり漢文を訓読し、日本語の語順で読み下すこと、そしてその朗読という形で教えられていた。神道、仏教、中国の四書五経が武士の教養の根源であったことは間違いない。

 日本の青少年が、今改めて、昔の武家の子弟が学んだことを大雑把でも良いから学んでみる、それも神道の祝詞、仏教の経典、四書五経の漢籍書物の読み下しを朗読という形式で学ぶと、きっとよい効果が現れるのではないかとは思う。そうすれば、それを指導する側も、指導される側も、それぞれ各自の中に、なにかすがすがしい力が湧いてくるのではないだろうか。以下は、論語の最初の一節である。

 子日、學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。
 子曰く學びて時に之を習う、亦説ばしからずや。朋遠方より來る有り、亦楽しからずや。
  (しのたまわくまなびてときにこれをならう、またよろこばしからずや。ともえんぽうよりきたるあり、またたのしからずや。)

2011年1月27日木曜日

武士道(続)(20110127)

 新渡戸稲造は、「第一章武士道とは何か」の中で、初めにこう述べている。「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。」「武士道をはぐくみ、育てた、社会的条件が消え失せて久しい。かつては実在し、現在の瞬間に消失してしまっている。はるか彼方の星のように、武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけている。」

 そう、その通りである!武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけているのである。われわれ日本人がそのことに気づこうと気づくまいと、である。

 人は、「武士道は武士だけのものではないか、われわれ百姓・町人の子孫には関係ない」と言うだろう。だが待ってほしい。我々日本人の殆どすべての人々は、誰でも多かれ少なかれ武士の血が混じっている。勿論、遠い先祖を辿れば、天皇や豪族の血も混じっている。日本人は皆、「同胞(はらから)」である。つまり、血を分けた兄弟・姉妹なのである。そのことは後に説明する。

明治天皇は、日清戦争が起きようとするときこう詠まれた。この明治天皇御製の短歌を、昭和天皇は昭和16年(1941年)96日の御前会議の最後に詠まれ、重臣たちに戦争を回避するよう求められた。

よもの(四方)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など(何故)波風の たちさわぐ(立ち騒ぐ)らむ

天皇陛下は、人類は皆兄弟姉妹であると考えておられたのである。戦前まで日本人の精神の支えとなった『教育勅語』の一節に「博愛衆ニ及ホシ」という語がある。

天皇陛下は皇居において定日定刻に、宮中三殿に並ぶ神嘉殿前庭の屋根だけの東屋風の簡素な建物の下で皇室の祖先神が祭られている伊勢神宮に遥拝し、国の安泰と国民の幸福、農作物の豊作などを祈り四方拝を行っておられる。祈りは年30回に及ぶという。天皇陛下は日本国の安泰と日本国民の幸福を祈って下さっているのである。

2011年1月26日水曜日

武士道(20110126)

 新渡戸稲造(文久288日(186291日)-昭和8年(1933年)1015日)の『武士道』(三笠書房「知的生き方文庫」、奈良本辰也訳・解説)を読む。私は4、5年前この本を買って書棚にしまい込んだままにしていた。本というものは買いたいとき買っておくと、後に読みたくなったとき読むと一層楽しく読めるものである。重要なことは、買った本を書架の中でカテゴリー別に分けて保管しておくことである。今後暫く、この本に書かれていることを引用しながら、このブログの記事を書くことにする。

 新渡戸稲造は、「第一版への序文」の中で「私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は学校で受けたものではなかった」「私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であった」と書いている。

 当時欧米では、今でも欧米ではそのような学校が多いと思うが、学校ではキリスト教の教えに関する教育が行われていた。宗教教育である。日本では宗教系の私立学校以外、そのような教育は行われていない。日本では武士道の精神が人の倫(みち)の基本にあった。しかし戦後の日本では武士道の精神は完全に失われてしまっている。

 日本には武士道というものがあった。武士道とは何か、なぜそれが失われてしまったのか、武士道の精神を取り戻さなければならないのではないか、などということについて、今後暫く私の考え方を書き続けてゆこうと思う。

2011年1月25日火曜日

エネルギーの向きを変える(20110125)

 124時間は誰にも同じである。太陽はそのエネルギーを受け取る側の態度・行動次第で、万物に分け隔てなく恵みを与え続けている。万物の一つであるこの老人の身体の様子も時間の経過とともに変わって行っている。

 老人は今、ある一つの役目、それも自分で勝手に決めた役目であるが、それが終わったと思っている。これからは、このブログの記事を書くエネルギーを別のところに向け変えようと思う。それは、「自分が知らないことを知る」ということに対してである。

 年老いて知力の衰えは自覚するが、それにしても将来大科学者になるかもしれない数学好きな高校生は、人類がまだ解き明かしていない未知の分野に挑んでゆくだろう。老人は彼らの足元にも及ばない幼稚さである。

 今さらそんなことに挑んで何になるのかということは考えないことにする。もう世間のことに関心を持つことを止めて、高校生以下の基礎のレベルから勉強を始め、生きている間にどこまで到達できるかわからないが、宇宙理論を理解できるようになろうと思う。

 先日買い求めたNewtonGraphic Science Magazine『宇宙はどうやって誕生したか』を読んでいると、これまで科学者たちが明らかにしたことについてもっとよく知りたいと思うようになった。それは今年74歳になる老人の新たな趣味である。もしかしたら、これは老人の潜在的欲求の現われかもしれない。

 老人は余生をなるべく世事から遠ざかって過ごしたいと願望している。そのため年賀状を出す枚数も極力減らすようにした。「筆まめ」というソフトのデータには来年から年賀状を出さない相手についてチェックマークを入れてある。これまでもそうしてきたが、これからはさらに的を絞って、年に幾つかの会合には顔を出すが、それ以外は地域社会のことも含めて一切かかわらないことにしようと思う。時間は限られているのだから、なるべく的を絞って、そこにエネルギーを集中させたいと思う。つまり老人はこれから一層孤高の変人になろうとしている。老人は宮本武蔵の生き方に共鳴するものがある。

 老人は放送大学から送られてきた平成23年度第1学期の「授業科目案内」のページをめくっている。自然系の科目の中に宇宙理論に関係する科目が幾つかあるので、その中から先ず基礎的な科目一つを選ぼうと思う。

 人はいつこの世から去るかわからない。老人の竹馬の友は、ある日突然愛する奥さんを亡くした。その喪失感は想像するに余りある。老人は老妻と二人暮らしで、二人でかなり密度の濃い日々を送っているが、それがいつ崩れるか予測はできない。人生はそんなものなので、愚かなこと、不必要なこと、無駄なことにエネルギーを費やすのは馬鹿げている。老人は坐禅をしない代わりに、基礎の基礎から宇宙理論を学ぼうと思っている。これにはお金も殆どかからない。時間だけがかかる。

 そういうわけで今後は世の中のことは成り行きに任せ、怒ったり、嘆いたり、憂えたりしないことにする。老人の『吟詠』ブログには毎日沢山の方の訪問があるが、そこに書いた「日本という国ついて」と題する記事で世事との関わりは終わりとする。今後は純粋に詩吟に関することだけにする。このブログ記事も一日一言の短文にしようと思う。

2011年1月24日月曜日

老楽 (20110124)

 西行の作詞に『至善』というのがある。その詩文は、前にもこのブログで書いたことがある。(記事:20091210日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)
  晴れに非ず 雨に非ず 睡蓮の天
  山に非ず 林に非ず 在家の仙
一日を一生として 興究(きょうきわま)りなし
老楽は唯至善を行うにあり

というものである。

 結句の「老楽は唯至善を行うにあり」という意味は、「老人の楽しみは、唯一つ、自分が最も善いと信じることを行うことであり、自分はその楽しみの中にあるのである」ということである。男は、この詩のように「一日を一生」として日々を送るように、なるべく心がけているつもりである。

 男の「老楽」の一つは、吟詠のブログである。昨日(22日)、男が主宰する詩吟のサークルで今年から正式に講師になって頂くことになったある女流吟詠家の吟詠をそのブログに載せることにした。そのためそのブログのコンテンツに若干の変更を加えた。

 男が主宰している詩吟のサークルは発足してもう10年になる。ある方のご協力を得てその会を発足させることができたのであるが、何事も継続しているうちに‘進化’がある。男は一昨年3月、吟詠のブログを立ち上げて以来、そのブログに毎月少なくとも1回、自分の吟詠を公開してきている。公開を始めてもう2年近くになる。

 自分の吟詠をインターネット上に公開するのであるから、初めのうちは気が引けた。しかし続けているうちに自分の吟詠の内容も段々良くなってきたように思う。そして吟詠のブログとこのブログをリンクさせるなどして、自分の世界が大きく広がった。

 何事もそうであろうと思うが、真の楽しみは‘創造’の中にある。この‘創造’がないものは結局楽しみにはならないものである。この齢になって若い人に負けないぐらい、いや、その辺の若い人が叶わぬぐらい、男はインターネットで自分の世界を‘創造的’に広げてきていると思う。教育者の子である男は、インターネットを通じて多少なりとも教育的なことをし、「至善」を行っているつもりである。これが男の最も大きな「老楽」である。ときどき「これは」と思う記事については、男はそれをプリントして孫たちに送って読んでもらっている。

 女房も明後日とその次の日、放送大学の単位認定試験を受ける。そのため一生懸命勉強している。男は女房が復習しているビデオを時々一緒に見ることがある。女房が勉強している『都市と防災』『都市災害とコミュニティ』などは一緒に見ていて楽しく、生活上ためになる内容である。男はキッチンボーイ(皿洗い)などして女房が勉強に集中できるようにいろいろ協力している。これも「至善」である。女房も「至善」を実行している。

 「老楽はただ至善を行うことにある」とは、正に至言である。そのような「老楽」ができることを有難く思う。大変幸せに思う。「老楽」のために金はたいしてかからない。金をかけても決して真の「老楽」が得られるものではないのである。