2011年2月17日木曜日

武士道(続)(20110217)

 新渡戸稲造は「名誉」について、「名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった」と言い、「およそ侮辱に対して人はただちに憤慨し、死をもって報いた。ところが一方で名誉は、たとえそれが虚名や世間一般の阿諛(あゆ)にすぎないようなものまでも、この世の中で‘最高の善’として称賛された」と言っている。

ここで言われる‘最高の善’の「善」は、「すぐれたこと、このましいこと、たくみなこと」という意味(広辞苑)であって、「正しいこと、道徳的にかなったこと、よいこと」という意味(同上)ではないと思う。だから新渡戸稲造は「もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた」と言い、「寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人はごく稀であった」と言っている。

「武士道」における「名誉」とは、「人に笑われないようにする」「体面を汚さないようにする」「恥ずかしいことはしない」という意味が大きい。それゆえ、武士は「名誉」をかちとるため、新渡戸稲造が言うように「苦痛と試練に耐えるために」必要なことであったのである。このことは、「武士」でなくても人間誰でも同じである。名誉欲は、性欲、食欲、知識欲など普通の人間が持っている各種欲望の一つである。

昔「武士」には、その地位と特権ゆえに「名誉」が重んじられた。今の時代の「武士」である政治家、国家公務員、地方公務員、自衛官、警察官、海上保安官、消防官、税関検査官、国公立学校や私立小中高校・大学の教師などにはそれなりの地位と特権が与えられ、それなりの「名誉」が重んじられていると思うが、今の時代のこれらの人びと、今の時代の「武士」たちは、もしかして自分たち以外の一般大衆にたいして何かおもねってはいないだろうか? 別の言い方をすれば、一般大衆に「すり寄りすぎて」いないだろうか? 

今の時代の「武士」たちは、それなりの衿恃をもって、それぞれの「名誉」を重んじ、言動を制御して欲しいと思う。小沢氏は自分の側近が3名も起訴された。国会においてその不始末を説明しようともしなかった。そのうえ、インターネットができる人たちだけに向かってしゃべりまくっている。彼に「武士」としての「衿恃」があるとは思えない。鳩山元首相も「真意が伝わっていない」と弁解しているが、「普天間の海兵隊が‘抑止力’と言ったのは‘方便’であった」と言った。彼に「武士」としての「衿恃」があるだろうか?

今こそ心ある今の時代の「武士」たちは目覚め、この日本の未来のために、次の世代の人たちによい贈り物をするために立ち上がり、しっかり働いて頂きたいと願う。

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