2011年1月24日月曜日

老楽 (20110124)

 西行の作詞に『至善』というのがある。その詩文は、前にもこのブログで書いたことがある。(記事:20091210日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)
  晴れに非ず 雨に非ず 睡蓮の天
  山に非ず 林に非ず 在家の仙
一日を一生として 興究(きょうきわま)りなし
老楽は唯至善を行うにあり

というものである。

 結句の「老楽は唯至善を行うにあり」という意味は、「老人の楽しみは、唯一つ、自分が最も善いと信じることを行うことであり、自分はその楽しみの中にあるのである」ということである。男は、この詩のように「一日を一生」として日々を送るように、なるべく心がけているつもりである。

 男の「老楽」の一つは、吟詠のブログである。昨日(22日)、男が主宰する詩吟のサークルで今年から正式に講師になって頂くことになったある女流吟詠家の吟詠をそのブログに載せることにした。そのためそのブログのコンテンツに若干の変更を加えた。

 男が主宰している詩吟のサークルは発足してもう10年になる。ある方のご協力を得てその会を発足させることができたのであるが、何事も継続しているうちに‘進化’がある。男は一昨年3月、吟詠のブログを立ち上げて以来、そのブログに毎月少なくとも1回、自分の吟詠を公開してきている。公開を始めてもう2年近くになる。

 自分の吟詠をインターネット上に公開するのであるから、初めのうちは気が引けた。しかし続けているうちに自分の吟詠の内容も段々良くなってきたように思う。そして吟詠のブログとこのブログをリンクさせるなどして、自分の世界が大きく広がった。

 何事もそうであろうと思うが、真の楽しみは‘創造’の中にある。この‘創造’がないものは結局楽しみにはならないものである。この齢になって若い人に負けないぐらい、いや、その辺の若い人が叶わぬぐらい、男はインターネットで自分の世界を‘創造的’に広げてきていると思う。教育者の子である男は、インターネットを通じて多少なりとも教育的なことをし、「至善」を行っているつもりである。これが男の最も大きな「老楽」である。ときどき「これは」と思う記事については、男はそれをプリントして孫たちに送って読んでもらっている。

 女房も明後日とその次の日、放送大学の単位認定試験を受ける。そのため一生懸命勉強している。男は女房が復習しているビデオを時々一緒に見ることがある。女房が勉強している『都市と防災』『都市災害とコミュニティ』などは一緒に見ていて楽しく、生活上ためになる内容である。男はキッチンボーイ(皿洗い)などして女房が勉強に集中できるようにいろいろ協力している。これも「至善」である。女房も「至善」を実行している。

 「老楽はただ至善を行うことにある」とは、正に至言である。そのような「老楽」ができることを有難く思う。大変幸せに思う。「老楽」のために金はたいしてかからない。金をかけても決して真の「老楽」が得られるものではないのである。