2011年2月7日月曜日

武士道(続)(20110207)

 一つの国のことについて、「人」「指導者」という言葉よりも「支配者」という言葉に共感を覚えるかもしれない。ここでいう「人」とは、志のない人たち、自虐的な人たち、そのくせもし自分たちが国の指導者の階層に属したら、途端に頭が高くなる人たちのことである。そのような人たちは、自分の理想や希望が叶えられていないとき、自己主張をし、徒党を組んで、自分たちが「支配者」と思っている人たちを引きずり降ろそうとする。

 どんな国でも「指導者」階層は必要である。ここで最も大事なことは、その「指導者」階層の人たちが、「武士」のような心構えをもち、態度や行動が「武士」のようであるかどうかと言うことである。上述の「人」たちは、そのような心構えもなく、そのような態度や行動もない人たちである。

 ここで私がいう「武士」はかつての武士とは違う。かつての武士に求められた「義」や「勇」などの精神は、今の時代に合う「義」や「勇」である。そのことを考えてみたい。

われわれは「指導者」と「支配者」を峻別しなければならない。この国で「支配者」は全く必要ない。この国で、もしある人たちが「指導者」階層に入ろうとする場合は、その階層の「役割」をきちんと果たすことができるような「準備」ができていなければならない。ここでいう「準備」とは、「指導者」の「役割」を担う人たちの資質や教育や訓練について一定の基準を満たしていることである。「友は類を以って集まる」というが、そのような「準備」なしでは、「烏合の衆」しか集まらず「指導者」しての体をなし得ない。

この日本では、誰でもかつての武士階級のような「指導者」(或いは上述の「人」たちが言う「支配者」)になることができる。日本人であるならば、誰にも新しく定義される「武士」になる門戸は開かれている。政治家や行政職員や自衛官(私は‘軍人’と呼びたい)や警察官や海上保安官や消防官、税関職員や農林水産・建設などの現業職員などは、今の日本の「武士」たちである。

ひとたび選ばれてそのような「武士」になったならば、その人は新しい「武士道」精神をもって、この国の「指導者」階層の人として、ロール・プレイングで与えられた「役割」を演じるように、「指導者」階層の人としての「役割」を自覚し、その「役割」をきちんと果たしてもらわなければならない。

新しい「武士道」精神とは何か、その‘新しい「武士道」精神’でいう「義」や「勇」とはなにか、考えてみたい。2000以上続いている天皇の王朝、そして「武士道」は、われわれ日本人の宝であると私は思う。この宝を「知行一致」の精神で大切に守り、次世代に引き継ぐことが、われわれの共通的「役割」である。テレビドラマ『篤姫』の篤姫が自分の「役割」をしっかり自覚し、行動したように、「役割」を自覚していない「人」は、ここで定義する「武士」ではない。彼らは私利私欲の輩、烏合の衆の一人一人である。敢えて固有名詞は挙げないが、政治家にそのような人たちは沢山いる。

0 件のコメント: