2011年2月5日土曜日

武士道(続)(20110205)

 新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、武士道の基本原理を「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」「切腹」「刀」「妻女」「大和魂」の各面から説明している。「義」は「武士道の光輝く最高の支柱」であるとし、自分の「義」に関する解釈について、「義の観念は誤っているかもしれない。狭きにすぎるかもしれない」とも言っている。

 日本は、「大政奉還」により、封建時代と決別した。戦前まで「家長制度」や華族、士族などの家柄の呼称は残っていたが、「士農工商」の四民は平等となり、それ以下の階層の人たちも新しい平民、「新平民」とされた。たとえ華族や士族の出であっても実力のない者は、社会的に相応の扱いしか受けることができなかった。昨日のこのブログの記事に書いた竹田恒泰氏の本に書かれているように、「封建制度」という価値は、時間の流れの中で新しい価値観により淘汰された。

 新渡戸稲造は『武士道』の中で天皇についてあまり触れていない。しかし。天皇は時間の流れの中で2000年以上の昔から、日本国民の間で大きな価値を占め続けて今日に至っている。サッカーのザッケローネ監督が「武士道」について学びたいと言っているが、彼には「武士道」とともに「天皇」についても学んでもらいたいと思う。なぜなら、「武士道」精神には、天皇への崇敬の精神が無意識のうちに包み込まれているからである。

尊王攘夷派の吉田松陰は、斬首の刑に処せられる前に「吾(われ)今国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り。」と詠い、「志半ばで処刑されても天皇や父母にそむくことは少しもない」と心情を述べている。また同じ尊王攘夷派の武市半平太は切腹の刑に処せられる前に、「花は清香(せいこう)に依って愛せられ、人は仁義を以って栄(さか)ゆ。幽囚(ゆうしゅう)何ぞ恥ずべけんや。只(ただ)赤心(せきしん)の明らかなる有り。」と詠い、「自分の行いには嘘・偽りは全くない。それは天皇や藩主への忠義の心によるものである」と述べている。

武士は封建制度の社会秩序を維持するという「役割」とともに、士分としての名誉と誇りを守ることが求められた。「義」はそのため必要な、重要な精神要素であった。「義」の為に自らの命を投げ出すことは当然のことであった。大東亜解放戦争中、特攻隊の兵士たちも「義」のために自分の命を捨てたのである。

 封建制度が無くなっても、政治家、官僚、軍人、教師らがあらたな「武士」としてその「役割」を担った。「武士」の精神要素の一つ「義」は形を変えて残った。戦争に勝ったアメリカは日本人の精神構造の徹底的破壊を目論んだが、それはアメリカの誤りであった。アメリカとの同盟関係を結び、今日まで維持してきた日本は、「義」の精神を新しい形で大切にしてゆかなければ、この国はいずれ滅びてしまうだろう。

 尖閣ビデオを漏出させて退職した元海上保安官一色正春氏は、その名字からして源氏の末裔だろうと思うが、彼は正しく「義」のため、昔で言えば切腹の刑の形で、自身を国の為捧げたのである。