2011年1月30日日曜日

武士道(続)(20110130)

 新渡戸稲造は「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。サムライの倣岸な性格に忍耐心が付け加えられたのである。」、「人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意思が宿る至聖のところとして崇拝する。神社の霊廟には礼拝の対象物や器具が著しくとぼしく、本殿にかかげてある装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものである。」、「参拝のため社殿の前に立つとき、輝く鏡の面におのれ自身の姿を見るのである。」と言う。

 学問的に考えると物事は批判的にとらえなければならないのであろうが、私は学もないので新渡戸稲造の見解を素直に受け入れる。素直でないと物事の本質は見えないと信じている。だから、「サムライの忠誠心や忍耐心の根源が神道にある」という新渡戸稲造の見解を「そうであろう」とそのまま受け取る。

 神道には他の宗教にあるような「教典」はない。神道は「神典」と称する「古事記」「日本書紀」「続日本紀」「万葉集」「風土記」などが神道における信仰の対象や儀式や共有など根拠となっている。古来日本人の地縁血縁結縁の社会の秩序を守る手段として神道が重んじられてきたのである。それは戦争に負けても廃ることなく続き、未来も続くであろう。

神官や巫女、神殿における伝統的な儀式が、参拝者に俗世界と聖世界の別を自覚させる。日本人は武士に限らず一般庶民も、日本古来の伝統・儀式の中に「世俗」に汚れた「自己」を置くことによって、自己の魂を清浄にするという文化を大切に守ってきた。日本人は、神社に参拝することにより、一時的にせよ俗世界から離れ、聖なる世界にわが身を置いて、無意識的に「忍耐心」が必要であると自覚する習慣が自然にできているのである。自然とともに自然に生きる日本人には、キリスト教にあるような「原罪」などのロジックは必要ない。新渡戸稲造は自身熱心なクリスチャンでありながら、そのことを指摘している。

 他国には絶対存在しない「神道」の文化で育った父親に「恥になるようなことはするな、死ななければならないときは潔く死ね」と言われ、ヨーロッパ戦線で戦った日系二世たちは「ゴーフォーブローク!(Go for broke!)」と叫んで過酷な戦場の状況に耐え、「バンザイ」攻撃をかけ、死んでいった。硫黄島の日本軍兵士たちも同様であった。特攻隊員も同様であった。片道の燃料で沖縄に向かった戦艦大和の乗組員も同様であった。

 日本列島から台湾、フィリピンにいたる「列島線」の北に位置する日本は、自分たちの文化や歴史をきちんと自覚することによって、未来も「東方の光」で有り続けるだろう。

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