2011年3月15日火曜日

艱難を知らぬほど不幸はなし(20110315)

 表題の言葉は、ある本に出ているマケドニア王の言葉だそうである。マケドニアは紀元前7世紀にギリシャにあった王国である。紀元前808年から紀元前168年まで続いた国である。有名なアレキサンダー大王は紀元前336 - 紀元前323年在位しており、エジプトのファラオも兼ねた人物で、アレクサンドロス三世と言われる。彼の演説の中に「艱難」という言葉が出てくるが、表題のような表現はない。多分、後世の人が彼の言葉を修飾して表題のようにしたのかもしれない。

 武士道の「武勇」は洋の東西を問わず、歴史の古新は問わず、武器をもって戦う役目を負っている人たちに必要な徳目である。今の時代、その徳目が求められる人びとは、軍や警察などの組織にいる人たちである。日本では自衛官、警察官、海上保安官などがそれに相当する。自衛官の宣誓には、「強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」という一文がある。警察官、海上保安官などにも「宣誓」はあるが、自衛官のような「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め」という文言はない。

 いま、自衛隊は東日本巨大地震被害者救援のため、日夜労苦を惜しまず活動している一方で、全国のレーダー基地や迎撃ミサイル基地や戦闘航空団基地や護衛艦・潜水艦・対潜哨戒機基地などでは、24時間体制で我が国の防衛に従事している隊員もいる。災害救助・救援活動は勿論非常に重要なことであるが、国の防衛も決しておろそかにしてはならない。

2011年3月14日月曜日

今の時代の「武士」(20110314)

 一昨日午後起きた東日巨大地震は、未曾有の大災害を引き起こした。福島原子力発電所も大きな被害を受け、放射能被曝者も出ている。大槌町では、町長、役場職員以下、地震対応策会議中大津波に飲み込まれ、行方不明になっている。南三陸町では、1万人以上と連絡が取れない状態である。日本は、史上かつてない国難に直面している。

 これまで「武士道」について勉強しながらこのブログに投稿してきたが、この危機に臨み、今の時代の「武士」たちが、本当によくやってくれていると思う。うれしくなった。
 「日本人は、皆、家族である。天皇は、日本中の家々の宗家である。」と思う。未曾有の国難に直面しても乱れず、冷静に、統制のとれた行動をし、お互い助けあい、励まし合う。このような国は、世界中どこを探してもないだろうと思う。

 新渡戸稲造が言うように、「(武士道)の武勇や文徳の教訓は解体」されたが、「その光と栄誉」は、未だに失われていず、武士道は日本人の間に「象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれた後、人生を豊かにする芳香を運んで」きていると思う。

2011年3月13日日曜日

武士道(終わり)(20110313)

東日本大地震で亡くなられた方々が1万人を超えそうである。被災者の数も数10万人を超えそうである。未曾有の大災害が起きた。その哀しみ・苦しみを分かち合いたい。
  「武士道」というタイトルで、今年126日以来今日(2011311日)まで毎日、新渡戸稲造著、奈良本辰也訳・解説、三笠書房「知的生き方文庫」の『武士道』を読みながら、このブログの記事を書いてきた。これは、自分自身の勉強であった。そして、辿りついた結論は、著者自身が言うように、“(武士道)の武勇や文徳の教訓は解体”されたが、“その光と栄誉”は、未だに失われていず、サッカーのザッケローニ監督が武士道に関心を持っているように、日本人の間に、“(武士道は)象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれた後、人生を豊かにする芳香を運んで”きている、ということである。

 問題は、今の時代、昔の「武士」の「役割」を担っている人びとの中には、そのことに気づかず、過ちを犯しているということである。その最たるものは、次世代の日本人の教育を担う教師たちの一部に、彼らが所属する日教組の幹部の思想の影響を受けて、教育の現場で日本の国旗や国歌に敬意を表さず、純粋無垢の子供たちに間違った思想を植え付けようとしていることである。これは絶対に許されることではない!

 この教師たちが教育委員会から処罰されたことを不服として裁判に訴え、昨日、東京高等裁判所が1審の東京地裁の判決を変更し、「(国歌斉唱の際の不起立は)正しい教育を行いたいなどとする信念に基づくもので、式典の進行が阻害されたとは言えない」という判断で、原告の一人を除いて処分を取り消した。但し、賠償請求は棄却した。

 教師らには、何を基準に「正しい教育を行いたい」という信念があったのか?子供たちに国旗に対して敬意を表さないということが、正しい教育なのか?国旗は、日本国の象徴ではないのか?彼らは、独善的な考え方で、国旗の由来は日本国民の意にそぐわないものが勝手に決められたとでも言いたいのか?東京高裁の判断は誠に遺憾である。

 小中高校教師も裁判官も、昔の「武士」と同じ「役割」を担っているのである。彼らが昔の「武士」と同じ徳目を重要視していないから、そのような結果になったのである。都はただちに上告し、最高裁の判断を仰ぐべきである。

 新渡戸稲造は、『武士道』解題によれば、1898年(明治31年)、彼が37歳の時、アメリカに滞在中に英文で書いたものであるという。原題は“Bushido The Soul of Japan”というものである。新渡戸稲造自身、武家の出身で、南部藩士・新渡戸十次郎の三男であった。一方、訳・解説者の奈良本辰也氏は“私の生家は、武士と名のつく家ではない。しかし、それでも外国で私の受けた道徳教育などについて語れ、と言われたら、武士道の教えのようなものを話しだすかもしれない。”とその本の中で語っている。ちなみに、奈良本辰也氏は、1913年山口県生まれで、京都大学文学部国史専攻卒業された方である。言うなれば、氏は、今の時代の「武士」である。

 今の時代、それぞれの人びとの出自は一切関係ない。先祖がどうであろうと、また、かつて外国籍であろうと全く関係ない。誰でも、今の時代の「武士」になることができる。「武士道」に代わる、例えば「人士道」のようなものが是非確立されなければならないと思う。

2011年3月12日土曜日

武士道(続)(20110312)

 新渡戸稲造は英語で書いた著書(訳・解説:奈良本辰也、三笠書房)『武士道』を、最後は、一片の詩、クエーカー教徒・Whittier, John Greenleaf の作“Snow-Bound”の最後の四節を引用して締めくくっている。その前に、幾つかの重要なことを言っている。それは次の言葉である。

“武士道の余命はあといくばくもないかのようである。その予兆となる、かんばしくない兆候が大気中に瀰漫(びまん)しはじめている。いや、徴候のみならず、あなどりがたい諸勢力が武士道をおびやかすべく動きはじめている。”

 “めざましいデモクラシーの滔々(とうとう)たる流れは、それだけで武士道の残滓(ざんし)をのみこんでしまうに十分な勢いをもっている。民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権集団をも認めない。だが武士道はじつのところ知性と文化を十分貯えた権力を独占しした人びとによって組織された特権集団の精神であった。”

 “武士道は一つの独立した道徳の掟として消滅するかもしれない。しかしその力はこの地上から消え去ることはない。”

 “その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。しかしその光と栄誉はその廃墟(はいきょ)を超えて蘇生するにちがいない。”

 今の時代、「武士道」という言葉で、上記「その光と栄誉」を蘇らせることはできない。しかし、今の時代にふさわしい言葉を探さねばならない。「人士」という言葉は、教育や地位のある人を意味する。ならば「人士道」はどうであろうか?

 政治家、官僚、公務員、裁判官、大学教授、小中高校教師、自衛官などそれぞれの法律に基づき「官」が付く職にある人びとなどは「人士」である。民主主義が発達した今の時代、これらの人びとは、昔の「武士」の役割を担っている。これらの人びとは、バッジとか階級章とか肩書などで、それぞれ相応の身分があり、人びとの間で一定の尊敬を受けている。そのように考えれば、武士のため武士道があったように、「人士」のため「人士道」があってもよい。いや、それがあるべきである。

 武士道には、一つの独立した道徳の掟があった。同様に、これら「人士」のため、世間とは少し違う道徳の掟があってしかるべきである。それが無いからおかしなことが起きる。たとえば、東京都の公務員である一部の教師が、卒業式などのとき国歌斉唱をしなかったり、国旗掲揚時に起立しなかったりしたことは、「信教の自由」というだけで処罰されないという東京高裁の判決が出た。東京高裁の裁判官は、それら教師たちは自らの思想信条を守るため行動したから、都教委の処罰は不当であったと判決した。それは正しいのか?

 民主党の土肥隆一衆議院議員が韓国で「竹島は日本の領土との認識は変わりはないが、日韓双方の主張があり、韓国の主張にも納得できる部分がある」ので、「竹島は日本の領土であると主張しない」という日韓両国国会議員共同宣言の文書に署名したという。当然のことながら彼は非難され、責任をとって政倫審会長などの職を辞した。これなども「人士道」がないため起きた事件である。「人士道」は今後築いてゆくべきことである。

2011年3月11日金曜日

武士道(続)(20110311)

 武士道は、士農工商の身分の最上位にある士族の精神を形成していた非常に強力な道徳の体系であった。それは、士族の家庭で受け継がれ、士族の社会の中で維持され、士族の子弟が藩校や私塾で教えられていた精神的な徳目によって形作られていたものであった。

武士道の衰退について、新渡戸稲造は次のように言っている。“功利主義や唯物論者の損得勘定の哲学は、魂を半分しかない屁理屈屋が好むところである。功利主義や唯物論に対抗できる他の唯一の道徳体系は、キリスト教である。キリスト教とくらべるならば、今、武士道は「わずかに燃えている灯芯」のようなものである、と正直にいわざるをえない。”(新渡戸稲造『武士道』、奈良本辰也訳・解説、三笠書房「知的生き方文庫」)――と。

その「わずかに燃えている灯芯」のような武士道は、昭和20年(1945年)8月、日本が戦争に敗れた時点でほぼ完全に廃れてしまった。それまでは、小学生の時から覚えさせられた『教育勅語』が、キリスト教の『聖書』やイスラム教の『コーラン』のような働きをして、武士道の徳目が日本人の精神の中に維持されていた。

武士道は宗教ではない。宗教ではないから聖書やコーランなどの教典はない。宗教が国体の維持に利用されている国々では、宗派間の争いが絶えないが、我が国ではそのような争いはない。聖徳太子の昔から「和を以って尊しと為す」であった我が国では、武士道がキリスト教圏やイスラム教圏の国々の宗教の代わりをしたと言える。

『教育勅語』を読むと、「忠」「孝」「億兆心を一(いつ)に」「美」「国体の精華」「父母に孝に」「兄弟(けいてい)に友(ゆう)に」「夫婦相和し」「朋友相信じ」「恭倹己を持(じ)し」「博愛衆に及ぼし」「学を修め」「業を習い」「智能を啓発」「徳器を成就(じょうじゅ)し」「進んで公益を広め」「国憲を重んじ」「国法に遵(したが)い」「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」「爾(なんじ)祖先の遺風を顕彰」など、武士道の徳目を表す語が並んでいる。

明治維新後、士農工商の身分差は完全に撤廃された。士農工商の下に置かれた身分の人たちの中からも国会議員になり、要職に就いた方も多数出るようになった。戦前までは、『教育勅語』が、昔の「士」分の役割を担っている人びとの精神を一定の水準に保つ役割を果たしていたが、今の時代、そのようなものはない。あるのは常識的な倫理観だけである。

今の時代、昔の「武士」の役割を担っている人びとは、どのような人びとであろうか?それは、国会議員や、官僚や、地方議会議員や、地方自治体の職員や、末尾に「官」が付く職業の人びとなどでないのか?これらの人びとは昔の「武士」の役割を担っているが、そのような人びとの倫理観は「常識的なもの」で良いとして、個々人の資質に委ねるだけで良いのだろうか?昔の「武士道」のようなものは全く不要であろうか?『教育勅語』の復活は必要なのではないだろうか?

思想や信教の自由が保障されているわが国で、『教育勅語』の復活は議論の俎上にも上がらないであろう。それならば、心ある人たちが、それら昔の「武士」の役割を担っている人びとに、武士道に対する関心を持ってもらうように行動を起こすしかないだろう。

2011年3月10日木曜日

武士道(続)(20110310)

 NHKの「アインシュタインの眼」という番組で、3匹の飼い犬の行動を観察した映像が紹介されていた。3匹の犬は、母親犬とその息子犬、及びその妹犬である。飼い主が彼らの傍にいるときは、飼い主が文句なしに彼らのリーダーである。ところが、飼い主が外出し、家にはその3匹の犬以外誰もいない状況になると、3匹のうちどれかがリーダーになることが動物の掟である。カメラで観察していると、血のつながったその3匹が争っている。しかし実際は争っているのではなく、じゃれあっているのでもなく、噛みつくにしても深く噛むことはない。彼らは順位を決めるための行動をしていたのである。

 人間の世界ではどうであろうか?人間の社会でもリーダーを決めるが、その決め方にはいろいろある。血を流し合って決める場合もあるし、世襲で決める場合もあるし、民主的な手続きで決める場合もある。

 人間の集団、それも国家の単位ではどうであろうか?例えば中国、ロシア、北朝鮮など国家の単位ではどうであろうか? かれらは、動物の本性のように、日本より上位に立ち、日本を下位に置きたがっている状況に似ていないだろうか?

 昨日、東シナ海で行動中の海上自衛隊の護衛艦に中国のヘリコプターが70mまで接近し、護衛艦の写真を撮ったという。大変危険な行為であるため、政府を通じて中国に抗議したという。もし、わが護衛艦が、「危険防止のためこれ以上接近するな」と警告して威嚇射撃をしたらどういうことになっただろうか?

 人民同士のレベルでは、日中両国ともお互い頬笑みを交わし合い、同じ人間同士として、心を通じあうことをごく自然に行っている。しかし、国家同士であると上述の3匹の犬の行動と大差ないようなことをする。わが方は謙虚な態度で、礼儀正しく対応しているが、中国側は無礼で、傲慢で、謙虚さは全く見受けられない。

 新渡戸稲造の『武士道』には、当然のことながらこのような国家同士のことについては全く触れていない。わが護衛艦は日本の為、法令に基づき行動している。中国のヘリコプターも中国の為、法令に基づき行動している。その行動において、わが護衛艦は「武士道」の精神をもって行動している。中国のヘリコプターは、一党独裁の中国共産党の綱領など、彼らの行動の基になる精神的なもので行動している。その行動は、『歴史通11月号20101』(ワック出版)に前衆議院議員西村眞梧氏が寄稿している以下の記事によれば、「琉球復国運動基本綱領」と「琉球臨時憲法」に準拠していると考えられる。

“中国は沖縄を「琉球」と呼び、中国共産党は2007年に「琉球復国運動基本綱領」というものをつくり、そこに「琉球人民は日本の琉球群島に対する植民地統治を認めない」などと書いている。さらに「琉球臨時憲法」というものまで掲げ、その第4条には「琉球共和国は、奄美州、沖縄州、八重山州の三つの主要な州からなる」と書いている。”

わが方が、「武士道」精神に則り、謙虚に、礼儀正しく行動していても相手には通じない。最後の手段としてわれわれは「腰の氷刀」を抜くしかないだろう。

2011年3月9日水曜日

武士道(続)(20110309)

新渡戸稲造『武士道』に、“ヘンリー・ノーマン氏は、極東事情を研究視察して、日本が他の東洋の専制国家と異なる唯一の点は「人類がかつて考えだしたことの中で、もっとも厳しく、高尚で、かつ厳密な名誉の掟が、国民の間に支配的な影響力をもつ」ことであると断言した。・・(中略)・・東洋の諸制度や人民を詳しく観察したタウンゼントは書いている。「私たちは日々、ヨーロッパがいかにして日本に影響を及ぼしたか、を教えられている。しかし、日本の島々の中での変化はまったく自発的なものであったことを忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではなく、日本みずからがヨーロッパの文事・武備の制度や方法を学んだのだ。”と書いている。

 古来、日本は中国に学んだとき、当時の中国の良い部分だけを学んできた。科挙の制度、宦官の制度、辮髪、辮髪 纏足などは取り入れなかった。その理由は、日本では、中国のように元はモンゴル、清は満州(女真)というように異民族が皇帝になるような支配層の総入れ替えはなかったし、異民族を征服して使役するというようなことも無かったし、宮廷や貴族の家では、女性が侍して重要な役割を果たしていたことなどから、それらの制度を必要としなかったからである。但し、明治になって、日本は中国の科挙の制度を参考にして、高等文官試験(現在の国家公務員一種試験の原型)制度を施行している。

武士道の精神には、神道や仏教に加えて、古代中国の賢人・孔子や孟子の教えである「仁」「義」「礼」「智」「誠」の五つの倫理の精神が深く反映されている。「義」は「正義の道理」である。天に誓って最も正しい道理である。

ちなみに、Wikipediaによれば、“赤穂浪士のひとり、武林隆重は孟子の子孫であると伝わる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に明の従軍医であった孟二寛が日本に連行され、武林氏を名乗ったものである。隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省杭州武林に生まれ、医学を学んで育った。日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の姓をとって「渡辺治庵」と改名する。その間に生まれた子が隆重の父の渡辺式重である。式重には男子が二人あり、兄の渡辺尹隆が渡辺家を継いだが、兄・尹隆は後に武林隆重の功績により、広島藩浅野本家に召抱えられ、「武林勘助尹隆」と改名し、武林の家名を広島藩に残した。”という。このことは、武士道にまつわる不思議な因縁である。

 また、鎌倉時代に中国の南宋王朝時代に朱熹によって再構築された新たな儒学体系を導入して、日本で藤原惺窩(ふじわらのせいか)(15611619)によって「朱子学」として体系化された学問体系における「君臣」「父子」「夫婦」「長幼」「朋友」という五倫、そして江戸時代、中国の明王朝時代に王陽明(王守仁とも呼ばれる)によって提唱された実践的な儒学体系を導入して、中江藤樹によって広められた「知行合一」の実践哲学・陽明学が、武士道精神の根幹を成している。

 武士道の精神には、上述のような背景があり、中国の思想が深く関わっていたのである。

2011年3月8日火曜日

武士道(続)(20110308)

 吉田松陰は、刑死前、次の歌をしたためた。

   かくすればかくなるもとと知りながら やむにやまれぬ大和魂
   身はたとひ武蔵の野辺に朽(くち)ぬとも 留(とどめ)置(おか)まし大和魂

 大和魂は、細長い島国、少ない平野、多い河川、そのような地形の中で発達した農耕・採集・漁業、春夏秋冬、万世一系の皇統、神道、仏教など大陸諸国とは異なる日本独自の諸状況の中で自然に生じた日本独自の精神である。この精神は、哲学的・論理的な体系を持っていない。それゆえに、この大和魂の本義は、「武士」が居なくなり、武士道が重んじられなくなると次第に色あせたものになってしまった。

 明治維新は、“武士道以外に道徳的教訓をまったく知ることのない”(新渡戸稲造著・奈良本辰也訳・三笠書房『武士道』172ページ)「武士」たちによって成し遂げられた。明治時代の日本人の精神には、「武士」やその子孫たちの影響が強く残っていた。しかし、大正になり昭和になり、戦争に敗れてこの国が異民族に征服されてしまった時点で、武士道は完全に過去のものとなってしまった。

 しかし、時代が変わり自由民主主義精神のもとで国家公務員や地方公務員になることができた人びと、選挙で選ばれて国会議員や地方議会議員になった人びと、公職の末尾に‘官’が付く職務に就いている人びと、公務員である教職員、法律に基づき承認された教育機関に雇用されている教職員などは、今の時代の「武士」である。これら今の時代の「武士」たちの道徳的規範となる、今の時代にふさわしい新しい精神、「(新)大和魂」が、哲学的・論理的な体系として作り上げられるべきである。(新)大和魂の復活が必要である。

 日本のように八百万の神々がましまし、仏教が日常の暮らしの中に根付いている国では、かつて「武士道」があったような、何か力強い道徳的な規範を蘇らせる必要がある。キリスト教やイスラム教などのように一神教の国では、それなりの道徳的な規範がその国の人びとの精神構造の基礎にある。

一神教は、他の宗教や宗派に対して寛容ではない。それが、世界の平和の障害になっている。逆に、いまの日本には「武士道」が完全に廃れ、それに代わるべき日本の精神は構築されていない。それが、将来、世界の秩序を乱す原因を作ることになるかもしれない。

 その一つの現象は既に起きている。それは、鳩山元首相が全く「武士」らしくない言動をしたために起きている日米・日露・日中の外交問題である。また小沢氏にまつわる「金と政治」の問題である。また、一部の地方自治体の首長たちが、国全体のことよりも地方のことばかりに目をむけ、己が勢力の拡大を図っていることなどである。いずれも「謙虚の欠如」「力への依存」など、人類共通の「他を差別したい」という本性に根ざしている。

 この国の精神の状況を憂い、いろいろ発言している方々は多い。しかし、それらの方々の発言は、それぞれの‘点’での発言でしかない。それらの発言が、この国を正しく導く精神、「(新)大和魂」を蘇らせるような、何かの仕掛けが必要ではないかと思う。

2011年3月7日月曜日

武士道(続)(20110307)

 “武士道の徳目は私たち日本人一般の道徳水準よりもはるかに抜きんでている。”

 “民主主義は、大成の指導者をはぐくみ、貴族制度は人民の中に君主制にふさわしい精神を注入する。”

 “どのような社会的身分や特権も、道徳の影響が広まる力には対抗できない。”

 “天のあらゆる恵み深い贈り物はサムライを通じてもたらされた。”

 “社会的存在としては、武士は一般庶民に対して超越的な地位にあった。けれども彼らは道徳の規範を定め、みずからその模範を示すことによって民衆を導いた。”

 “サムライは民族全体の「美しき理想」となった。「花は桜木、人は武士」と歌われた俗謡は津々浦々にいきわたった。”

 “武士道は当初、「エリート」の栄光として登場した。だがやがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、「大和魂」、すなわち日本人の魂は、究めるところこの島国の民族精神を表すにいたった。”

“本居宣長は、
  しきしまの やまと心を 人とはば
        朝日ににほふ 山さくらばな
 と詠んで日本人の純粋無垢の心情を示す言葉として表した。”

新渡戸稲造は『武士道』第15章「大和魂」で、以上の言葉を述べている。桜が日本人の心を表す象徴であることを説明している。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜は、明治の終わりごろ、アメリカのタフト大統領夫人の希望により、当時の東京市長・尾崎行雄がプレゼントしたものである。送られた桜の苗木は東京の荒川の五色桜を穂木にして、台木は大阪の伊丹市の北部荻野小学校校区、植木の産地東野村で育てられたという。この桜は日本とアメリカ両国友好のシンボルとして、80年以上の歳月を経て今もなお多くの人々に親しまれているという。両国の人民同士の交流は親しく行われていたが、政府間の友好的な交流は失敗した。その原因は何だっただろうか?当時のアメリカの指導者層は、「大和魂」で代表される日本人の心情に対する理解ができていなかったのではないだろうか?世界に類を見ない「万世一系の天皇制」「武士」「武士道」など日本独自の文化や伝統や統治制度について、理解ができていなかったのではないだろうか?

昨日、「大和魂は決して攻撃精神と同じではない」と書いたのは、今の時代の日本人、特に若者に、大和魂が十分理解されず、誤解されているように思ったからである。「武士道」をキーワードにインターネットで検索してみても、新渡戸稲造の『武士道』について解釈し、考えを述べているようなサイトを見つけ出すことは出来なかった。

戦後、日本人の精神構造は、アングロサクソン、白人、プロテスタント派のキリスト教を信じるアメリカの指導者層によって、徹底的に破壊されようとし、事実、大部分を破壊されてしまった。今こそ、我々は我々の古い価値観を再評価すべき時である。

2011年3月6日日曜日

武士道(続)(20110306)

 新渡戸稲造『武士道』(奈良本辰也 訳・解説 三笠書房「知的生き方文庫」)第15章は、「大和魂」であり、「いかにして日本人の心となったか」という小題が付いている。

 そもそも武士道の精神は何か、ということについて新渡戸稲造は、武士道の源泉が仏教と神道、孔子や孟子の教え、陽明学などにあると言う。

私は、日本が今後何世紀、何十世紀にわたり輝き続けるためには、日本人は「武士道」の精神を大切にしなければならないと確信している。そのためには、昔の「武士」が担っていた「役割」を、今の時代、どういう人たちが担っているのかということを知ること、そしてそのような人たちにそれを「自覚」してもらうことが重要であると思っている。

日本の社会は、封建時代であっても支配層と被支配層との間の関係には断絶はなかった。支配層は被支配層に深く関わっていた。士農工商の身分差は、インドのカースト制と違い、社会的な「役割」の差であった。「農工商」の身分から「士」の身分に上がり、その士分の中で重要な地位についた人もいたし、逆に許可を得て「士」の身分から「農工商」の身分に移った人もいた。藩という行政単位の経営がうまくゆかず、民が貧乏にあえぐ状況のときは、領主も民の苦労を分かち合った。戦時中の天皇もそうであられた。

その精神は遠い昔、第16代仁徳天皇(313399)が民を思う御心に見られる。『古事記』によれば、“ここに高山に登りて、四方の國を見たまひて詔りたまひしく、「國の中に烟(けぶり)發(た)たず。國皆貧窮(まづ)し。故、今より三年(みとせ)に至るまで、悉に人民(たみ)の課(みつぎ)、役(えだち)を除(ゆる)せ。」とのりたまひき。ここをもちて大殿破(や)れ壊(こぼ)れて、悉に雨漏れども、都(かつ)て脩(をさ)め理(つく)ることなく、棫(うつわもの)をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる處(ところ)に遷り避けましき。後に國の中を見たまへば、國に烟(けぶり)満てり。故、人民(たみ)富めりと爲(おも)ほして、馬はと課(みつぎ)、役(えだち)を科(おほ)せたまひき。ここをもちて、百姓(おほみたから)榮えて、役使(えだち)に苦しまざりき。”とある。

今の時代の「武士」の上位にある者は、人民が選んだ国会議員である。その中で、その国会議員によって選ばれた内閣総理大臣以下の閣僚など政権を担当する方々がそれに相当する。古代では、天皇を頂点に朝廷が当時の政権を担当していた。この国の困難な状況を克服し、人民を栄えさせる役目を今の政権が担当している。

何時の時代でも、この日本では「武士道」の精神があれば、栄え続けるであろう。その「武士道」の精神は、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」の五つの倫理がその根幹にある。「義」は「正義の道理」である。天に誓って最も正しい道理である。

この五つの倫理と、仏教と神道、陽明学的思考が、古来我々日本人、とりわけ「武士」の精神を形作ってきた。それは、「大和魂」という語で表現される精神である。その精神には「名誉」「忠義」「克己」などの要素も含まれる。「大和魂=攻撃精神」では絶対ない

2011年3月5日土曜日

武士道(続)(20110305)

今の時代、女性が社会において活躍することは大いに望まれていることである。しかし、その一方で、女性の本来あるべき姿が軽んぜられ、相対的に男性がその気質、振る舞いにおいて中性化、あるいは女性化するとなるとこれまた大いに疑問である。

最も望ましいのは、社会で活躍したい女性のために十分にその願望を叶えてやれるような社会の構造や環境である。具体的には、有能な高学歴の女性を企業が採用するとき、本人の希望、あるいは心の深奥の願望に一切配慮することなく、ただ企業側の論理、男性の論理だけで、例えば「女性は‘秘書職’、男性は‘総合職’」と決めてかかるような風潮があるとすれば、それは改められなければならない。

さらに、社会として最も考慮するべきことは、社会で活躍したい女性が子供を産んでも、そのハンディがなく十分活躍することができるような環境を整備することである。例えば職場に隣接した場所に保育所があるとか、産児休暇をとっても昇進や基本給には影響がないとか、実際に子供を産んで育てている若い女性たちの希望・心の深奥の願望を引き出して、女性が満足するような環境を、国をあげて整備することである。

昔は、「男は男らしく、女は女らしく」ということが強調されていた。しかし、今の時代は多様性がより多く強調されている。それは非常に良いことである。しかし、我々は「多様性」と「無秩序」とをよく切り分けて考えなければならない。「多様性」の根底には、何時の時代でも変わらない普遍的な真理があるのである。

新渡戸稲造は、『武士道』(奈良本辰也 訳・解説、三笠書房)の中で、豊臣政権末期の武将・木村村重の妻が自害前書いた手紙の文を引用し、こう書いている。ちなみに、A級戦犯として処刑された元内閣総理大臣・外務大臣・広田弘毅の妻は、自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えて自害し、夫に先立ち他界している。

“女性が夫、家、そして家族のために、わが生命を引き渡すようなことは、男が主君と国のために身を棄てることと同様に、みずからの意志にもとづくものであって、かつ名誉あることとされた。自己否定――これなくしては女性の人生の謎を解く鍵は見あたらない。それは、男性の忠義同様に女性が家を治めることの基調であった。女性が男性の奴隷でなかったことは、その夫が封建君主の奴隷ではなかったことと同じである。妻たちが果たした役目は「内助」の功として認められた。妻女たちは奉公の上り階段に立っている。彼女は夫のために自己を棄て、夫はそれによって主君のために自己を棄て、最後に主君は天に従うことができるというわけである。”

“武士道はそれ自体の基準をもっていた。それは二項方程式であった。つまり、女性の価値を戦場と家庭の、双方で測ろうとしたのだ。戦場においては、女性はまったく重んじられることがなかった。だが家庭においては完全であった。・・(中略)・・妻、あるいは母としては、女性は最高の尊敬と深い愛情を受けていた。

いつの時代でも、夫と妻、父と母、それぞれの「役割」の自覚は、非常に重要である。

2011年3月4日金曜日

武士道(続)(20110304)

NHKで津田塾大学の前身・女子英学塾を創設した津田梅子のことが紹介されていた。梅子(幼名・うめ)は、旧幕臣・東京府士族・津田仙・初子夫妻の次女である。うめの父・仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となった縁で、黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させた。その時、梅子は明治4(1871)、岩倉使節団に随行して渡米した。女子留学生5人のうち、梅子は最年少の満6歳であった。

 梅子は11年間の留学生活を終え、17歳のとき帰国している。そのとき、日本語を殆ど話せない状態であった。梅子は帰国後日本語を真剣に学び、女子教育のため自分自身の学校を創設することを志しアメリカに再留学している。そして帰国後、華族・平民の別がない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めた。それが女子英学塾である。梅子が教育し、卒業させた女性たちは総数800人にも及ぶ。卒業生たちは全国各地に赴任し、日本の女子教育に多大な貢献をした。当時、教育は女性が社会に進出できる唯一の分野であった。

明治時代、満6歳の愛娘をたった一人にさせてアメリカ人の家庭に預け、教育した梅子の両親は大変立派である。サムライの家庭、その気風を受け継いだ梅子、この日本の近代化はそのような人びとによって成し遂げられたのである。

戦後、「武士道精神」は全く「失わされて」しまった。しかし、この日本の再生の為には、日本人はその「武士道精神」を改めて学ぶ必要がある。そして今の時代に合うように改めて、「新武士道精神」のようなものを確立させる必要がある。日本はアメリカに征服されて、日本人の精神構造が徹底的に破壊されるような状況が続いた。そのことを嘆いた人は、市ヶ谷で「武士」の役割を演じて自らを「切腹の刑」に処した三島由紀夫である。

昔の「武士」階級が担っていた「役割」を、今の時代、国会議員や地方議会議員、国家公務員や地方公務員、「官」の名がつく職にある人びと、軍人(今はまだこの呼称はない)、法律に基づき青少年の教育・訓練に従事している各機関の職員などが担っている。上述の「新武士道精神」は、このような人びとのバックグラウンドとなるような精神である。

石原慎太郎氏がこの国の総理大臣になってくれないかと思う。既成政党には期待が持てない。さりとて「減税」とか「地方分権」とか、そういった国政レベルからちょっと離れたことだけを訴える政党も、一般大衆の人気取りに走っているとしか思えない。この国は危うい状況にある。NHKで紹介されているが、地方には、その自治体の議員たちが少ない報酬で昔の「武士」らしい「役割」を担って、しっかり働いている小さな町や村がある。

読売新聞に、中国の戦闘機が尖閣諸島に接近し、航空自衛隊(「国防空軍」と呼ばれるべきである!)の戦闘機がスクランブルをかけたことが出ていた。その地域での中国空軍機に対するスクランブルは、昨年50回ほどあったようである。あまりにも多すぎる!

一般大衆が関心のないところで、今の時代の「武士」たちはしっかり働いている。スクランブルは実弾を装備して行われている。命がけである。お粗末なのは、一部の国会議員や地方自治体の議会議員、公務員たちである。一部の有識者と呼ばれる人たちである。

2011年3月3日木曜日

武士道(続)(20110303)

 武士道が求めた女性像は、今の時代と全くかけ離れたものであった。昔の男は「強かった」が、今の男は「男らしくない」。「草食系」とか「肉食系」という言葉がはやっている。そういう中で、今の時代の日本の女性たちは、「戦国武将」に憧れている。見たところ、政治の世界でも女性たちの方がしっかりしている。女性が社会に政治や経済や科学や技術の世界に進出し、大いに活躍することが、この国を発展させることは間違いない。

 「子ども手当」など集票目的のバラマキのアイデアに飛びつき、マニフェストに書かせた張本人は誰であったか?彼は、表向き「国の為」、その実は「‘私’の為」得策となることを推し進めることに執着した。今、必要なのは、「子どもを国全体で育てる」ということよりも、女性たちが社会で活躍しながら「自分で子供を育てる」ことができる環境を「国が整備する」ことである。「‘私’の為」「子ども手当」をマニフェストに書かせた張本人は、一般大衆を惑わせた。しかし、一般大衆は経験して学習した。もう彼には惑わされることはない。もう彼は過去の人である。彼に忠誠を尽くしている側近は哀れである。

 さて、新渡戸稲造は『武士道』第14章で「武士道が求めた女性の理想像」について書いている。今の時代の女性に、吉田松陰や坂本龍馬を産み育てた母親のような部分が求められている。「男らしくない男」「草食系の男」ばかり目立つ社会には、未来の明るい展望はない。そのことに気づいている女性たちもきっと多いに違いない。と、私は信じる。

 新渡戸稲造は「家庭的であれ、そして女傑であれ」という小題でこう書いている。

“人類の半数を占める女性は、ときには矛盾(パラドックス)の典型と呼ばれる。というのは、女性の心の直感的な働きは、男性の「算数的理解力」をはるかに超えているからである。「神秘的」あるいは「不可知」を意味する「妙」という漢字は、「若い」という意味の「少」と、「女」という二つの漢字が組み合わされている。というのは女性の身体の美しさと、繊細な発想は、男性の粗雑な心理的理解力では説明できないからである。しかしながら、武士道で説く女性の理想像には神秘性がきわめてとぼしく、外見的な矛盾があるにすぎない。”

“武士道は本来、男性のためにつくられた教えである。したがって武士道が女性について重んじた徳目も女性的なものからかけ離れていたのはむしろ当然であった。”

“武士道は、同じく「自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっと強く、かつ勇敢である男性にもけっして負けない英雄的な武勇を示した」女性を讃えた。したがって若い娘たちは、感情を抑制し、神経を鍛え、武器、特に長い柄の「薙刀(なぎなた)」と呼ばれる武器を繰り、不慮の争いに対して自己の身体を守るように訓練された。”

“少女たちは成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その懐剣はときには彼女たちを襲う者の胸に、また場合によっては彼女自身の胸に突き付けられるものであった。実際には後者の場合が多かった。”

私は今の時代の「武士」の役割を担う女性たちには、そのような部分を求めたいと思う。

2011年3月2日水曜日

武士道(続)(20110302)

 徳川幕府末期、欧米列強諸国がアジアを侵食し、我が国の安全が脅かされ、国運が傾きつつある時、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛らの働きにより、我が国は内戦に至ることなく政権は朝廷に奉還され、「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」(明治元年に天皇が発布した『五ヵ条の御誓文』の第一)のお言葉のとおり、武家による政治体制から新しい政府による民主的な政治体制に移行した。

 坂本龍馬は日本人同士が戦って血を流し合うような事態になることは絶対に避けようと努力した。しかしそのような内戦によってひと儲けし、あわよくばこの日本を支配しようと意図する外国の勢力の動きもあって凶刃に倒れた。龍馬は、勝海舟及び西郷隆盛の両者と日本国のあるべき形について同じ志を抱いていた。

江戸幕府の実権を委ねられていた勝海舟と、武力をもって江戸幕府を倒すという選択肢を残しながらも錦の御旗を掲げる薩長軍の参謀として、軍を江戸城に接近させた西郷隆盛の両英雄は、江戸を戦火の海にしてしまうことは望まなかった。明治元年(1868)411日、両英雄は高輪の薩摩藩邸で会見し、江戸城を無血明け渡しに導いた。

『武士道』第13章「刀」――なぜ武士の魂なのか、という箇所で、新渡戸稲造は「刀は忠誠と名誉の象徴」「武人の究極の理想は平和」「負けるが勝ち」「血を見ない勝利こそ最善の勝利」と、武士道精神の本質が何であるかということについて強調している。武力はやむにやまれず最後の手段としてこれを用いる。それが最善であると言っている。事実、西郷隆盛や、勝海舟や坂本龍馬の生きざまは、全くそのとおりであった。

日本は、昭和208月、史上初めて外国人に征服された。そこに至る根本原因は、日本の自衛にあった。自衛のため戦い、泥沼にはまり、蟻地獄のような事態に陥り、もがけばもがくほど深みにはまってしまった。そのことは大いに反省しなければならぬ。


しかし、日本は自衛のため武力を行使したが、外国を植民地にしようなどという野望は全くなかった。秀吉の朝鮮出兵もスペイン・ポルトガルによるキリスト教を利用したアジア侵食を防ぐためであった。

中国がモンゴル人の皇帝による元王朝、漢人がその王朝の官僚であったとき、我が国は2度も大軍をもって攻め込まれている。元軍は、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人(朝鮮人)などで構成されていた。高麗はモンゴルの服属王国であった。時の執権・北絛時宗は鎌倉武士団と九州の武士団を指揮し、台風と言う天佑もあってこれを防ぐことできた。

今でも共産党一党独裁の「王朝」のような中国の官僚は、明、清の時代でもそうであったように大中華思想の凝り固まっており、日本を見下した(がって)いる。平気で沖縄・奄美は中国の領土であると言い、あの手この手で我が国から知的財産を奪い、盗もうとしている。表の柔和な表情とは裏腹に、腹の底では日本を陥れる策略を練っている。朝鮮半島、特に北朝鮮はその中国の大中華思想のもと、人びとの心の深奥では小中華思想に染まっている。支配者層と被支配者層の段差が大きい政治体制はいつまで続くことか?

人民のレベルでは、お互い心通わせ合うものがあるが、政治のレベルでは日本に敵対している。そのことを今の時代の「武士」は心しておくことが重要である。

2011年3月1日火曜日

武士道(続)(20110301)

 海舟は後に独特の江戸庶民的語り口で懐旧談を語ったが、その中で次のように語っている。「私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したことはないよ。みんな逃がして、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎(尊皇攘夷志士、熊本藩士、佐久間象山を襲撃した)が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。南瓜(かぼちゃ)でも茄子(なす)でも、あなたは取ってお上んなさるだろう。あいつらはそんなものです』と言った。それはヒドイ奴だったよ。しかし河上は殺されたよ。私が殺さなかったのは、無辜(むこ)を殺さなかった故かもしれんよ。刀でもひどく丈夫に結(ゆわ)えて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。ナニ蚤(のみ)や虱(しらみ)だと思へばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒(かゆ)いだけだ、命に関わりはしないよ」(『海舟座談』)。これが、艱難(かんなん)と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。

  以上は、新渡戸稲造『武士道』の一節である。新渡戸稲造は、「武人の究極の理想は平和である」と言い、「武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。」と言い、幕末の血なまぐさい出来事がごく普通であった時代、歴史上きわめて不穏な時代を乗り越えた人物、殆どのことを彼一人で決定しうる権限を委ねられていた人物・勝海舟の言葉を紹介している。

 228日付の読売新聞朝刊に、「中国の反日 明・清代に源」と題して、京都府立大准教授・岡本隆司氏著『中国「反日」の源流』(講談社選書メチエ)について紹介されている。その記事の中に「著書によれば、日本は支配者と被支配者の距離が近く、よくも悪くも役人が農民らに深く関わる社会だった。これに対し、明・清代の中国は両者の距離が遠く、為政者は人民が納税さえすれば生きるも死ぬも勝手とつき放す」とある。さらに、著者は「国家と社会の遊離が残る中国では、統合の理念として『愛国反日』が利用される。残念ながら、反日デモはまた起こるだろう」と悲観的である、とある。

 一般大衆はメディアを通じて、日本の一般大衆は、日本人も中国人も同じであると思い、中国の行動に反感を持つ一方で、ある種の親近感を抱いているようである。影響力が強いメディア、NHKも同様、では偏向思想をもっている一部のディレクターが、そういう一般大衆の「洗脳」に余念がないように見受けられる。「洗脳」の主眼は、「自虐史観」を覚めさせないようにすることである。彼らの目標は天皇制の廃止、日米の離反、反戦思想の増幅である。彼らは理想主義者であると言えば聞こえは良いが、オカルト的に言えば怨霊に捕われており、好意的に言うなれば何か社会的なトラウマを持っている人たちである。

 今の日本に必要な人たちは、勝海舟のような「武士」の「役割」を担う人たちである。一般大衆に深く関わりながらも国の大事に心血を注ぎ、平成の開国を進めながらも「日出る処」の国の昔から放ち続けて来た「東方の光」を守ろうと考える保守的な人たちである

2011年2月28日月曜日

武士道(続)(20110228)

 新渡戸稲造『武士道』第13章は「刀」について、第14章は「女性」について述べられている。一読して思ったことは、近年の幼稚な大人のことである。大学入学式・卒業式に親が出席し、親が甘やかすから20歳をとっくに過ぎて30歳、40歳になっていても親の家に同居したがる子供のことである。これらはおかしな社会現象である。

 今ではどうだか判らないが、30年ぐらい前のアメリカでは、子供が18歳になってハイスクールを卒業するとき、男子はタキシード、女子はドレスに身をまとい、ダンスパーティに出席するという、大人になるためのある種の通過儀礼があった。また、父親は18歳の息子にボストンバッグを一つ与え、家から追い出した。今の日本で、自分の子供を厳しく、しかし深い愛情をもって教え導き、育て、自立させてゆこうという親が圧倒的多数であると言えるだろうか? 遠隔地の大学や専門学校に、自分の子供を下宿または寮生活をさせて通わせている親が、子供の要求に応じて自動車まで買い与えている親がいる。働きのない者にマイカーなど与え贅沢をさせる親ばかがいる。彼らは今その結果に苦しんでいる。

 新渡戸稲造のその本に書かれているが、武士の息子は数えの5歳になったらサムライの正装をして碁盤の上に立ち、それまでもてあそんでいた玩具の短刀の代わりに本物の刀を腰に差すという儀式があった。その儀式以降、その男子は屋敷の外に出かけるときは、その刀を腰に差していた。

勿論、外出時にはその男子に誰かがつき従って(付き添って)いた。そして、その男子が15歳になったら元服し、独りだちの行動が許されると、彼はいまやどんな時にも役にたちうる鋭利な武器を所持することに誇りを感じる。危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感を抱かせるのである。

昔、「刀」は「武士」としての忠誠と名誉の象徴であった。今の時代の「武士」の「役割」を担っている人びと、これまで再三言ってきた国会議員や地方議会議員、官僚、末尾に「官」がつく公務員、英語で自衛官のことをself defense official などと言わずsoldierまたはmilitary man というと思うが、そういった人びとの忠誠や名誉の象徴として、「刀」に代わるものは何だろうか? バッジや手帳、警察官なら腰のピストル、制服、制服の胸などにつける 徽章・階級章・勲章などがそれらに相当するのだろうと思う。

昔、武家の男の子なら5歳のときと15歳のとき、それぞれある種の通過儀礼があった。今の時代、それに代わるものは何だろうか? 近年の成人式には、以前のような厳粛さはなくなり、半ば何かのショーのようになっている。公的な通過儀礼がきちんと制度化されていないから、大人になりきれない大人が増え、いつまでも親にかかる無能な子供ができてしまうのである。

民主党は、「最小不幸を実現」しようという。それは今の時代の大衆に迎合した発想である。それよりは社会教育を充実させて親たちを再教育するシステムを作った方が良い。今の時代の「武士道」を確立するところに日本の再生の道があると確信する。

2011年2月27日日曜日

武士道(続)(20110227)

 新渡戸稲造は「知的生き方文庫」『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)の中で、「切腹」についてもう一つの例をあげている。ここにその全文を引用する。

「左近と内記という、それぞれ24歳と17歳になる兄弟が父の仇を討つべく、家康を襲おうとした。しかし無念にも家康の陣屋に突入する前に捕らわれてしまった。家康は彼の命を狙った若者たちの勇敢さを讃え、彼らに名誉ある死を与えるように命じた。

 この刑の宣告は、兄弟の一族すべての男子に命ぜられたので、二人の若者の末弟であるわずか八歳の八麿も同じ運命であることをいいわたされた。そしてこの三名は処刑が行われることになっている寺へ引き立てられていった。その場に立ち会った医者がその一部始終を日記に残している。そこには次のような情景が書かれている。

 「最期の時を迎え、三人が一列に着席したとき、左近は末なる弟に向かい、『八麿よりまず腹を切られい。切損じなきよう見届けてくれよう』といった。幼い弟は答えて、いまだ『切腹』を見たことがないので、兄たちの作法を見て、その後につづきたい、と申し述べた。二人の兄は涙ながら微笑んで『よくぞ申した。それでこそわれらが父の子なるぞ』といった。そこで二人の間に末弟八麿を座らせ、左近は自分の腹の左側に短刀を突き刺していった。

 『見よや八麿、会得せしか。あまり深く掻くべからず。仰向けに倒れるがゆえに。前に俯伏(うつぶ)せ、膝を崩すべからず』

 内記も同様に腹に刃を突き刺しながらいった。『目を刮(かつ)と開けよや。さもなくば女の死顔に似たるぞ。切先(きっさき)が腸(はらわた)に触るとも、力たわむとも、勇を鼓して引きまわせ』と。八麿は二人の兄を交互に見た。二人とも果てると、八麿は静かに上体を露わにして、両側から教えられた範に従って従容として死に就いた」

 「武士道における生きる勇気と死ぬ勇気」というサブタイトルで、新渡戸稲造は言う。もっとも悲しむべきことは、名誉にも「計算」がつきまとっていたことである。
真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋いこがれることは卑怯と同義であった。 
あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教えであった。それは孟子が教えたとおりのことであった。「天の将(まさ)に大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ず先(ま)ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓やし、その身を空乏し、行い其の為(な)すところに払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)わざるところを曾益(ぞうえき)せしむる所以なり」(「告子章句」下一七五)
真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。そのためには死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしているものを避けるための死は、卑怯きわまりない。

 戦艦大和の最後の片道燃料の出撃、硫黄島の玉砕などについて、それを命じた側の海軍軍令部や大本営に勤めていた参謀たちは、武士道精神に照らしてどうであったか?

2011年2月26日土曜日

武士道(続)(20110226)

 再度、丁重な辞儀を繰り返した後、善三郎は次のように口上を述べた。その声には痛ましい告白をする人から予想される程度の感情の高ぶりと躊躇が表れてはいたが、その顔色や物腰には少しもそのような様子が見受けられなかった。

 ‘拙者はただ一人、無分別にも誤って神戸において外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度(ふたたび)撃ちかけしめ候。拙者今、その罪を負いて切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存じおり候’

 再度の一礼ののち、善三郎は裃(かみしも)を帯のあたりまで脱ぎさげ、上半身を露(あら)わにした。慣例どおり。注意深く彼はその袖を膝の下へ敷きこみ、後方へ倒れないようにした。身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされていたからである。

 善三郎はおもむろに、しっかりした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。ひととき彼はそれをさもいとおしい物であるかのようにながめた。最期のときのために、彼はしばらくの間、考えを集中しているかのように見えた。

 そして、善三郎はその短刀で左の腹下を強く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切りあげた。このすさまじい苦痛にみちた動作を行う間中、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を傾け、首を差し出した。そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが、声はなかった。

 その瞬間、それまで善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大もらさず見つめていた‘介錯’が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

 一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。太刀の一撃でたちまち首と胴体は切り離れた。

 堂内寂として声なく、ただわれわれの面前にあるもはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。一瞬前まで勇者として礼儀正しい偉丈夫はかくも無残に変わり果てたのだ。それは見るも恐ろしい光景であった。

 ‘介錯’は低く一礼し、あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引下きさがった。血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、おごそかにもち去られた。

 それから‘ミカド’の政府の検視役二人は座を立ち、外国の検視役の座っているところへ近づき、滝善三郎の死の処分が滞りなく遂行されたことをあらためられたい、と申し述べた。
 儀式は終わり、われわれは寺を後にした。」
滝善三郎辞世(同上の本、注より引用)
  幾(き)のふみし 夢は今更引きかへて 神戸が宇良に 名をやあけなむ
今の時代の「武士」の役割を担う海上保安官であった一色正春氏は、国の為尖閣ビデオを公開し、国家公務員としての罪に服し、「退官」という今の時代の「切腹」をしたのである。

2011年2月25日金曜日

武士道(続)(20110225)

 新渡戸稲造『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)より、Mitford Tales of Old Japan”「切腹」部分全文引用。Mitfordは、下記七人の外国人検視役の一人であった。

「われわれ(七人の外国使節団)は、日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招じ入れられた。ここで切腹の儀式が行われることになっているのである。その儀式はまことに堂々としていて、忘れ得ぬ光景であった。

本堂の屋根は高く、黒ずんだ柱で支えられていた。天井からは仏教寺院特有の巨大な金色の灯篭や、飾りがたくさん垂れ下がっていた。正面の一段高く仏壇の前には、床から三、四寸高くなっている座が設けられている。そこには美しい新畳が敷かれ、赤い毛氈(もうせん)がのべられていた。等間隔にならんでいる丈の高い燭台はほの暗く、神秘的な光を放っていた。それはここで行われることの進行を見守るには十分な明るさであった。七人の日本人検視役が切腹の座に向かって右側に、七人の外国人検視役は左側に着席した。そのほかには誰もこの場所に居合わせる者はいなかった。

心落ち着かない数分が過ぎ、やがてたくましい32歳になる偉丈夫、滝善三郎(備前岡山藩士。同藩家老日置忠尚の乗った輿(こし)が神戸の外国人居留地を通過した際に起きた事件で、外国の圧力に屈した新政府から家老は謹慎、家老の警備責任者であった善三郎は自刃を命じられた。辞世は後に記す。)が、静々と本堂に歩を運んできた。

彼はこの儀式のために麻の裃(かみしも)に身を包んでいた。彼は一人の‘介錯’人と金糸の縫いとりのついた陣羽織を着た三人の役人をつき従えていた。‘介錯’という言葉は英語のexcutioner(処刑人)とは同義語ではない、ということをまずことわっておかなければならない。その役目は立派な身分がある者が行う。たいていは切腹する者の一族か、友人によって行われる。

この両者の関係は、犠牲者と処刑人という関係ではない。むしろ主役と脇役という関係である。今回の‘介錯’は滝善三郎の弟子の一人であった。彼は剣の達人だということで朋輩から選ばれたのであった。

やがて‘介錯’を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役のほうへ進み出た。二人は検視役に向かって丁重に辞儀をして、ついで外国人検視役のほうに近づいて、同様に一段と丁重な挨拶をした。どちらの検視役もおごそかな答礼でこたえた。

そこで、この咎人(とがにん)はゆっくり威風あたりを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇にニ度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈の上に正座した。‘介錯’は彼の左側にうずくまった。三人の付添いの役人のうち、一人が神仏に献げるときに用いる台――三宝をもって前に進み出た。その三宝には白紙で包まれた‘脇差し’がのせられている。‘脇差し’とは日本の短刀、もしくは匕首(あいくち)のことである。長さはおよそ九寸五分、切っ先と刃はカミソリのように鋭い。役人はこの三宝を咎人に手渡し、一礼した。善三郎は三宝を両手で頭の高さまで捧げ、うやうやしく受けとって、自分の前に置いた。(続く)

2011年2月24日木曜日

武士道(続)(20110224)

 新渡戸稲造は『武士道』第11章を「克己の理想とは、日本人の表現方法によれば、心の安らかさを保つことである。・・(中略)・・克己は次の章で考察する二つの制度、すなわち自殺と仇討の制度のうち、前者においてその極致が達せられ、かつもっともよくあらわれている」という言葉で締めくくっている。

 近年、我が国においては自殺者が毎年3万人以上いる。人口比でみる自殺率はアメリカの2倍で、世界でトップクラスという不名誉な数字である。政府も自殺防止のためいろいろ手を打っているが、成果は上がっていない。

 さて、その次の章・第12章は「切腹」というタイトルで、「生きる勇気、死ぬ勇気」というサブタイトルがついている。新渡戸稲造はソクラテスや、シェイクスピアの「悲劇」に登場するブルータスなど古代ギリシャ・ローマ時代の人物などを引き合いに出して、自殺と切腹の違いを強調し、「今や、読者の皆さんには、切腹が単なる自殺の一手段ではない、ということを理解していただけたであろう。切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった。中世に発明された切腹とは、武士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった」と言っている。

 三島由紀夫は、自ら「武士」を演じ、日本人の精神の復興を願い、陸上自衛隊東部方面総監室で、益田総監の前で武士の作法に則り切腹した。介錯をした人が三島の首を一刀のもと離すことができず、益田総監から叱声があったらしい。

 彼が遺した檄文の一節に「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を汚してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった」とある。我が国は、未だ彼が嘆いたような状況にある!

 新渡戸稲造は、切腹の実例を長い文章で紹介している。その部分を、明日以降全文引用しようと思う。その趣旨は、カミカゼ特別攻撃が多くの無実の人々を道連れにするテロリストの自爆攻撃、特に9.11テロとは全く同列でないということを、一日本人として世界に訴えたいし、日本は先の戦争に敗れてアメリカの良いところは吸収したが、日本人の心の深奥において決してアメリカナイズされてはいなかったことを主張したかったし、「日本は(アメリカによって)変わったのだから、イラクも変わる」というようなことを、かつてアメリカの某氏が日本との比較において言ったことに反発しているからである。

その一方で、我々日本人自身も目覚めなければならないと、たかが一無名の個人としてではあるが、叫びたいからである。特に一部の「政局」好き、「自己勢力拡大志向」の政治家たちには憤りを感じている。彼らは公言とは裏腹に、真に国のことを考えて行動してはいない。そういう諸々の動機で新渡戸稲造の全文を、明日以降引用するのである。 

2011年2月23日水曜日

武士道(続)(20110223)

 新渡戸稲造『武士道』第11章「人に勝ち、己に克つために」には、「武士(サムライ)」の心得とともに、日本人の表情、笑いの奥に隠された心情についても書かれている。冒頭、「サムライは、感情を顔に出すべからず」というサブタイトルで「武士道においては不平不満を並べ立てない不屈の勇気を訓練することが行われていた。そして他方では礼の訓練があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の愉快や平穏をかき乱すことがないように求めていた」と書かれている。

 新渡戸稲造は「(日清戦争で)ある連隊が出征するとき、連隊長や兵士たちに別れを告げるべく大勢の人が駅頭に集まってきた。そのとき、一人のアメリカ人が、さぞや別れの情景は騒々しいものだろうと予想していて、そこに見物に出かけてきた。・・(中略)・・だが、アメリカ人は期待はずれにがっかりしてしまった。その理由は、発車の合図の汽笛が鳴り、列車が動きはじめると、数千の人びとが静かに脱帽し、うやうやしく頭を垂れて別れの挨拶をしたからである。ハンカチは振られず、言葉も発せられなかった。注意深く耳を澄ましていた人だけが、数人の押し殺したようなすすり泣きの声をようやく聞けたという有様であった。」と、日本人の感情表現の有り様を説明している。

 先日横浜そごうの前で展示されていた一枚の写真を見た。それは、滑走路上を滑走している特攻機に搭乗しているわが息子を見送っている一人の父親の後ろ姿の写真であった。その父親は、これから死に行くわが息子を見送りながら、心中とどめなく悲しくもあり、その一方で「国の為しっかりやれ、みっともないことはするな」と願っていたに違いない。

 アメリカのダニエル・イノウエ上院議員は、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦い、非常に多くの戦死者を出しながらも「アメリカ史上最強の陸軍」と称賛された日系442連隊の勇士であった。彼自身、戦闘で自分の右腕を失っている。彼が出征するとき、一世の父親は、「いいか、何をしようとも、決して家族と、お前の祖国アメリカに不名誉をもたらすようなことはしないように。この国は私たちによくしてくれた。だから、死ななければならないのなら、名誉ある死を遂げるように」(『歴史通』2010 11月号引用)と言ったという。

 今の時代、日本人のアメリカナイズされたものの考え方や行動について、良い面は沢山あると思う。しかし、日本人は日本人である。感情の表現の仕方は変わっても、その中身まで変えてはならないと思う。日本人は、「武士道精神」を今の時代に合った形でものの考え方や行動の中心に据えることが、今求められているのである。

 上述引用本に『日韓がタブーにする半島の歴史』と題して、室谷克己氏が寄稿している。その冒頭に「民主党の幹事長だった小沢一郎氏が200912月に韓国を訪問したさいに、当地の大学で講演し、‘天皇家の出自は朝鮮半島南部、今の韓国だ’といって喝采を浴びた」とある。桓武天皇のご生母の出自が朝鮮半島であったことは間違いないが、神武天皇以来男系一系である皇統の出自が朝鮮半島にあるという小沢氏の見識には、心ある日本国民誰もが大きな憤りを覚えるであろう。彼には「武士道精神」のかけらも感じられない。

2011年2月22日火曜日

武士道(続)(20110222)

 国会討論をちょっと視聴した。自民党の平沢議員が、民主党の参議院議員比例区代表で当選した某議員が、JR総連出身で革マル派某氏の運転手であったことについて質問し、枝野幹事長や北沢防衛大臣や中野国家委員長や与謝野特命担当大臣が答弁していた。この種の質問・答弁は昨年11月にも行われている。

 政治家を目指す者は、いろいろなバックグラウンドによる支援を頼みにせざるを得ない。ただ、政治家を目指す目的が、反国家的、反社会的な活動を行うことであってはならない。公安調査庁は、法務省の外局としてそのような活動に対して目を光らせていると信じるが、果たして十分機能しているのだろうか?

国会議員の定数削減のことについてはあまり関心が持たれず、公務員の2割削減のことが大きく取り上げられている。国家公務員は、必要なところに必要な人数、十分訓練されて配置されなければならない。国民の安心・安全にかかわる部署・組織に従事している公務員を、一律に削減するというのであれば、それは非常に大きな問題がある。

 新渡戸稲造の『武士道』に面白いことが書かれている。それは、「父親はその威厳を犠牲にして、子を抱くことはできなかった。夫はその妻に口づけをすることはできなかった。私室ではともかく、人前ではなしえなかったのである。ある機知に富んだ青年は‘アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをして、私室で打つ。しかし日本人の夫は人前で妻を打って、私室では口づけをする’といった。この比喩の中にはいくらかの真実があるかもしれない」という部分である。

 今の時代、列車を待つホームや、混み合った列車内でキスをしている若者を見かける。周りの人びとは、内心‘みっともない’と思いながらそれを見て見ぬふりをしている。今の時代の日本人は、「恥」の観念が昔と変わってきている。

 国会中継を見ていると、一部の政治家たちは品のない野次や怒声を飛ばし、卑しい仕草や表情を見せている。テレビカメラが入ると、彼らは選挙区向けにパフォーマンスをしているのだろうか? 彼らは、国の事よりも何よりも、議員バッジを付け続けることのほうが大事なのである。国会議員という職業を失いたくないのである。パフォーマンスを「恥」と思っていないのである。

そのように、国会議員であることを職業としているような連中のために国家予算を浪費することは非常に馬鹿げている。同じことは地方議会でも言える。「職業議員」を一掃しなければ、この国の未来は危うい。愛知県や名古屋市や阿久根市で来ていることは、人びとの声なき声の現われである。国民は既成政党に嫌気がさしてきている。

人びとは「恥」を「恥」と意識できる国会議員、地方議員を、心の深奥で求めている。人びとは、今の時代にふさわしい「武士」の「役割」を担う人びとを求めている。それは、無意識的な願望である。名古屋市長・愛知県知事のコンビは、ピエロのように見えるが、そのコンビを実現させたのは、人びとのそのような無意識の現われである。

2011年2月21日月曜日

武士道(続)(20110221)

 民主党のマニフェストの内容は、誰が見ても初めて政権を取ろうとするための営業的な宣伝文句であったことは明白である。その宣伝文句を作った中心人物は何方であったか? その宣伝文句を作るとき、多分小市民的な、人生経験の少ない、物事を大局的に思考することが苦手の方々(女性議員も多かろう)の意見が、反映されていたに違いない。

 しかし、実際に政権をとってみると世の中はそう思うようには行かなかった。子供手当について考えてみると、「国家として子供の教育にもっと予算をかけなければならない」さらには「働きたい母親が働きやすいような環境にしなければならない」ということについて、誰も異論はない。そのことを達成すべき「目的」とすると、次に考えるべきことは、先ず、目的達成のための「方針」と「実施要領」を定めることである。

 その「方針」と「実施要領」は、「財政規律を守ること」及び「予算の最も能率的使用を行うこと」をコモンセンス的な「理念」として、記述されなければならない。その上で、「目的」達成のための「手段」が決定されなければならない。「目的」に対して「手段」が大きければ、それは「無駄」であり、「目的」に対して「手段」が小さければ「無理」が生じる。「目的」と「手段」が均衡してこそ、最も能率的になる。

 然るに、民主党は深く考えもせず、いきなり「手段」を掲げた。一般の大衆は、その「手段」に大きな期待を寄せた。そのようなやり方は、上述のように営業的な宣伝文句を並べ立てて、国民の関心を惹きつけるやり方である。其処には「武士道」の精神はなく、「商人根性」が有るのみである。そのようなことを主導した張本人は何方であったか?
 商人根性を持つものが政治に携わると、決して良いことはない。損得勘定をする人間に国家の命運を委ねてはならない。今こそ必要な政治家は、吉田松陰のように、「国の為に死ぬ」人間である。「武士道」の精神を持った人間である。

 ここに幕末、松下村塾で多くの志士たちを育成した吉田松陰が最期のとき、松陰自ら詠んだ辞世の歌と、処刑される7日前に詠じて郷里に送った詩を記す。松陰は取り調べに対して、自ら「(自分は)死罪に相当する」と述べ、満29歳の若さで小塚原で処刑されている。何とかして取り調べを逃れようとする某政治家の根性とは雲泥の差である。
 
辞世

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん

   吾今爲國死 死不負君親
   悠々天地事 鑑照在明神
 
  吾(われ)今 国の為に死す 死して君親に負(そむ)かず
 悠々たり天地の事 鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り

2011年2月20日日曜日

武士道(続)(20110220)

 人びとは、理財(財貨を有利に運用すること)の道に長けた者に憧憬と羨望と、そして軽蔑の目を向ける。数を頼みにしたい政治家は、なんとしてでも理財の道に長け、金銭の力によって自分の配下の数を増やそうと努力する。そのため有能な秘書を雇い、利用できる人物を身近に置こうとする。秘書は、自分が死んでも主人を守り通すことが要求されている。利用できる人物として選ぶ対象は、‘利用する’ため外国人であっても構わない。彼にとって、一応‘国益’を口にするが、本心は、そんなことはどうでもよい。その外国人の‘秘書’(一応‘秘書’という名目であるが、実際は自分の意のままになる‘使用人’)に、たとえ国益を損じるようなことであっても、ある‘仕事’を任せる。彼は、とにかく自分の勢力を増やすことが最大の目標である。

 そのような政治家の出現を嘆いて、新渡戸稲造は『武士道』でこう言っている。「惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか」と。明治維新は西郷隆盛が自作の詩『天意を識(し)る』で詠じたように、「貧しい家で生まれ育った英傑の士(国難のとき国の為尽くす忠義のサムライ)は、多くの苦難を乗り越えて、叙勲されるに相応しい業績を上げることができる(貧居生傑士、勲業顯多難)」のである。

 新渡戸稲造は「わが武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的な職業とくらべて卑賤なものとみなしつづけてきた。このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である」と言っている。

 新渡戸稲造は「頭脳の訓練は今日では主として数学の勉強によって助けられている。だが当時は文学の解釈や道義的な議論をたたかわすことによってなされた」と言う。武士を育成する藩校等で使用されていた教材に『論語』がある。新渡戸稲造はその『論語』の一節「学んで思わざればすなわち罔(くら)し、思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」を引用して、当時の武士の子弟には、実践的な目的をもって教育が行われていたと言う。孔子の言葉のその部分は、『論語』巻一為政第二にあり、「子曰、學而不思則罔、思而不學則殆」とある。今度、東京都知事に立候補する渡邊美樹氏は、『論語』を愛読しているという。誠に素晴らしいことである。上述の政治家の精神を養った師は誰だっただろうか?

 日本では藩校、私塾、寺小屋など、公私の教育機関が発達していた。遠く聖武天皇(701-756)の御代には、奈良に東大寺と言う「総合大学」の役割を担う寺が置かれ、各地方に国分寺と国分尼寺という「高等学校」や「専門学校」のような役割も担う寺が置かれた。各地方から集まって来たおよそ1000人の人たちが、東大寺で言語学・論理学・仏教諸学のみならず工学・建築学・医学・薬学など理工系の学問を学んだ後、各地に散って人びとを教育していた。(『世界に開け華厳の花』森本公誠著、春秋社より引用)

 この国の未来は、今の時代の「武士」たちに「目覚めて」もらわないと非常に危うい!

2011年2月19日土曜日

武士道(続)(20110219)

 政治家は何か悪いことをする人たちだ、と小学校の子供たちが思っている。ある小学校でそういう子供たちの意識を改めさせようと、課外授業が行われた。子供たちに、それぞれ自分たちの身近にある問題を見つけさせ、それを解決するためのグループを結成させ、そのグループに‘党名’をつけさせ、自分たちが見つけた問題の解決のため、子供たちの‘○○党’としての活動を行わせた。その試みは成功だったようである。しかし、政治家に対する子供たちのマイナスのイメージや不信感はなかなか消えないだろう。

政治とカネの問題を引きずっている人たちは、現政権の崩壊または解散を念頭において活動を活発化させている。彼らは「国の為」という大義名分を掲げている。しかし、実際は「自分たちの利益の為」である。子供たちはまだその言葉を使うほど成長していないが、それは紛れもなく「私利私欲の為」である。

皇極4(645)、後の天智天皇、中大兄皇子は、「私利私欲の為」権力を行使していた蘇我入鹿を宮廷で討った。入鹿の父・蝦夷は自殺し、蘇我本宗家は滅亡した。当時、蘇我本宗家の長であった蝦夷は城廓のような屋敷を作り、その城廓内の自分の家を「上の宮門(みかど)」と名付け、入鹿の家を「谷の宮門」と名付け、宮廷内で権力をふるっていた。政治家の私利私欲を許すと、似たようなことが今の時代に起きるかもしれない。

既にある政治家が140人もの配下(全員国会議員)を引き連れ、某国の‘皇帝’に拝謁し、天皇に‘次期皇帝’に挨拶して頂こうと画策し、‘強い言葉’をマスメディアで流し、陛下は時の政府に求められるまま、その‘次期皇帝’に会われ、挨拶されたことがあった。そのことに怒った心ある今の時代の「武士」は、決して少なくはなかった。

新渡戸稲造は『武士道』第十章で、「武士は何を学び、どう己を磨いたか」「行動するサムライが追求した‘品性’とは何か」というサブタイトルを付けて、人が「武士」としてどのように育てられたか説明している。

 彼は「武士の訓育にあたって第一に必要とされたのは、その品性を高めることであった。そして明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされた。」「知能が優秀であることは勿論重んじられた。だが知性を意味するときに用いられる‘知’という漢字は、第一に叡智を意味し、知識は従属的な地位を与えられるにすぎなかった。」「武士道の訓育においては、その教科とされるものは主として剣術、弓術、‘柔術’もしくは‘やわら’、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、そして歴史によって構成されていることは、驚くにあたらないだろう。」「武士道は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。」と言っている。知能が高い宇宙人を「武士」にしてはいけなかったのだ。

 今の時代の「武士」、政治家として成長された菅総理は、損得勘定を一切せず「国の為」だけに行動すればよい。ご自分の考える新たなマニフェストの骨子を作り、過去のご自身の言動のうち誤っていたことについては率直に詫び、衆議院を解散して国民に信を問えばよい。そうすれば、「最大多数の最大幸福」への道が自ずと開かれるであろう。

2011年2月18日金曜日

武士道(続)(20110218)

 「人は何のために死ねるか」「日本人の忠義とはいったい何か」というサブタイトルで、新渡戸稲造は「忠義」について論じている。もともと『武士道』は欧米人に対し、日本の精神を紹介するため英語で執筆されているので、欧米人が理解しやすいように欧米の著名な人物とその言葉や聖書の言葉を引用して論じている。

 結論から言うと、新渡戸稲造は「武士道では個人よりも国を重んじる」とし、「西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対してそれぞれ個別の利害を認めている。したがって人が他に対して負っている義務は著しく軽減している。しかし武士道においては、一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする」と断じ、「サムライの真の‘忠義’」について、シェイクスピアの悲劇『リア王』の作中の人物・ケント公がリア王を諌めたように、ある事柄に関して、家臣であるあるサムライが誠意をこめ、真心をもって主君を諌めるとき、「もしそのことが容れられないときは、そのサムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。生命はここに主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。サムライのすべての教育や訓練はこのことにもとづいて行われたのである」と言っている。

 この日本という国は、神代の昔から天皇を中心に一家をなすような国である。「天皇」「白地に赤い日の丸の国旗」「‘君が世’の国歌」は、日本人の心の深奥にあるものであって、それは日本人の「自分自身(セルフ)」そのものである。はるか昔この国に海を越えて渡って来た帰化人を先祖に持つ人びとも、皆、同胞(はらから、同じ母から生まれた子供)である。125年、1夫婦の子供2人の条件で指数計算をすると、1000年後1兆人となる。皆血が混じり合い、誰一人として純粋な血の者はいない。

50代・桓武天皇は白壁王(後の第49代・光仁天皇)の第一皇子であるが、ご生母の出自は身分の低い帰化系氏族の出である。桓武天皇の御代、主に朝鮮半島からの渡って来た多くの帰化人が天皇から氏姓を賜っている。

 最高裁で争われることになるが、「思想・信教の自由」の権利を掲げて国旗・国歌に敬意を表せず、子供たちに偏向教育をしている教職員は、法に基づき処罰されて当然である。彼らは、この日本の国で様々な恩恵を受けているにも関わらず反国家的な行動をしている。権利ばかりを主張し、義務を果たそうとしない。そもそも、「君が代」の「君」は天皇のことではない。天皇は古来「大君(おおきみ)」と呼ばれてきた。「君が代」の「君」は、この国の民一人ひとりのことである。

 今の時代の「武士」の役割を担っている人たちの中に不見識な連中がいる。日本国籍を有している者は、誰でも今の時代の「武士」になることができるのである。「武士道」について知れば知るほど、日本国籍を有しない者に「武士」の役割を担わせ、見返りの「権限」や「特権」を与えようとすることは絶対に間違っていると思う。