2011年3月9日水曜日

武士道(続)(20110309)

新渡戸稲造『武士道』に、“ヘンリー・ノーマン氏は、極東事情を研究視察して、日本が他の東洋の専制国家と異なる唯一の点は「人類がかつて考えだしたことの中で、もっとも厳しく、高尚で、かつ厳密な名誉の掟が、国民の間に支配的な影響力をもつ」ことであると断言した。・・(中略)・・東洋の諸制度や人民を詳しく観察したタウンゼントは書いている。「私たちは日々、ヨーロッパがいかにして日本に影響を及ぼしたか、を教えられている。しかし、日本の島々の中での変化はまったく自発的なものであったことを忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではなく、日本みずからがヨーロッパの文事・武備の制度や方法を学んだのだ。”と書いている。

 古来、日本は中国に学んだとき、当時の中国の良い部分だけを学んできた。科挙の制度、宦官の制度、辮髪、辮髪 纏足などは取り入れなかった。その理由は、日本では、中国のように元はモンゴル、清は満州(女真)というように異民族が皇帝になるような支配層の総入れ替えはなかったし、異民族を征服して使役するというようなことも無かったし、宮廷や貴族の家では、女性が侍して重要な役割を果たしていたことなどから、それらの制度を必要としなかったからである。但し、明治になって、日本は中国の科挙の制度を参考にして、高等文官試験(現在の国家公務員一種試験の原型)制度を施行している。

武士道の精神には、神道や仏教に加えて、古代中国の賢人・孔子や孟子の教えである「仁」「義」「礼」「智」「誠」の五つの倫理の精神が深く反映されている。「義」は「正義の道理」である。天に誓って最も正しい道理である。

ちなみに、Wikipediaによれば、“赤穂浪士のひとり、武林隆重は孟子の子孫であると伝わる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に明の従軍医であった孟二寛が日本に連行され、武林氏を名乗ったものである。隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省杭州武林に生まれ、医学を学んで育った。日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の姓をとって「渡辺治庵」と改名する。その間に生まれた子が隆重の父の渡辺式重である。式重には男子が二人あり、兄の渡辺尹隆が渡辺家を継いだが、兄・尹隆は後に武林隆重の功績により、広島藩浅野本家に召抱えられ、「武林勘助尹隆」と改名し、武林の家名を広島藩に残した。”という。このことは、武士道にまつわる不思議な因縁である。

 また、鎌倉時代に中国の南宋王朝時代に朱熹によって再構築された新たな儒学体系を導入して、日本で藤原惺窩(ふじわらのせいか)(15611619)によって「朱子学」として体系化された学問体系における「君臣」「父子」「夫婦」「長幼」「朋友」という五倫、そして江戸時代、中国の明王朝時代に王陽明(王守仁とも呼ばれる)によって提唱された実践的な儒学体系を導入して、中江藤樹によって広められた「知行合一」の実践哲学・陽明学が、武士道精神の根幹を成している。

 武士道の精神には、上述のような背景があり、中国の思想が深く関わっていたのである。

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